ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

般若心経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

つまらないことを気にしない人になるには

同じような人が多いと思うが、私も、子供の時や、ごく若い時(18歳くらいまでだろうか)は、多少、身体の調子が悪かったり、身体のどこかに痛みがあっても、あまり気にせず放っておいた。
それで、気がつかないうちに治ってしまった。
しかし、世の中の人やマスコミは、「身体の異変に気をつけよう。それは大病の予兆かもしれない」などと、不安を感じさせることをよく言うので、私も、知らず知らず、身体の異変に敏感になってしまっていた。
また、大きな病気でも経験していると、身体に違和感を感じたりしたら、「ひょっとしたら、また深刻な病気ではないだろうか?」と不安になり易いものだろう。
そして、心配・不安が大きいほど、身体の不調は長引き、実際は大したことはなかったのに、本当に病気になってしまうこともあるかもしれない。

病気ばかりではない。
人に嫌なことを言われたり、されたり、あるいは、ちょっと嫌な出来事があって、それが気になってしまって、どんどん気分が悪くなり、イライラしたり、元気がなくなってしまうこともあるだろう。
そうなると、さらに気分を悪くさせる嫌な出来事が起こるように感じ、実際に、そうなりかねないのである。

過ぎたことを気に病まず、悪いことが起こるのではないかと不安にならないことが、運に恵まれ、楽しく生きるコツであることは、昔から大勢の賢者達が指摘していると思う。
イエスは、「明日を思い煩うな」「明日の心配をするな」と言い、有名な神道家で屈指の形成外科医であった葉室頼昭氏は、「取り越し苦労(将来への不安)、持ち越し苦労(過去を悔いること)は、神への侮辱」と言った。
天才発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、「クヨクヨしなければ、頭も運も良くなる」と言った。

だが・・・
どうすれば、アニメの一休さんの歌のように(古くて恐縮だが)、「気にしない、気にしない、気にしない」ようになれるのか、具体的なことを示してくれる人が少なく、実際にどうすれば良いかが分からないのだ。
賢い聖者や賢者は、こんなことを、細かく教えてくれない。
教えてくれたとしても、それは、深遠で難しく、手のつけようがないことが多いから困るのである。
黒住宗忠は、「神に全てまかせれば、いつも安らかである」と言い、つまるところ、神様を信用して全てまかせればいいってことなのだし、イエスも、結局はそう教えているのだろうが、現実的に、神様を信じることがなかなか出来ない人も少なくないと思う。

しかし、上で取り上げた中山正和氏は、具体的な方法として、般若心経の呪文を唱えることを、少し、著書で提案されていた。
だが、もっと全面的に勧めて欲しかった。
中山氏は、頭や運を良くする、科学的・論理的な手法を沢山編み出したので、それをメインに教え、般若心経の呪文は、ついでとしたのだろうが、私のような根気のない凡人は、中山氏の「NM法」などが素晴らしいことは感じつつ、もっともっともっと簡単な方法でないと駄目で、つまり、般若心経の呪文の方が良く、実際、それで効果を上げたのだった。

そんなわけで、イエスの言う「明日を思い煩うな」や、ラマナ・マハルシや荘子が言う「賢者は子供のように、過ぎてしまえば忘れる」を実践し、結果、元気になり、運を良くするには、真言を唱えるのが一番であるし、現実的には、それしかないかもしれない。

般若心経の呪文(真言と言って良い)は、私は、昔から、サンスクリット語で唱えていた。
リズム感があって覚えやすいと思う。それは、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。もちろん、普通に唱えられている、中国語版の、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
でも効果は変わらない。
いずれにしても、この呪文(真言)の効果は驚くべきもので、多く唱えれば唱えるほど良いのである。

「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」「南無弥勒菩薩」なども良い。
ところで、私は、昔から愛用していた、阿弥陀如来真言を、中国語版から、サンスクリット語版に変えた。
単に、響きが良いと思ったからで、効果そのものに違いはない。
私は、他の真言も、サンスクリット語で唱えることにした。
阿弥陀如来真言であれば、
中国語「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」
サンスクリット語「オーン、アムリタ、テージェ―、ハラ、フーン」
である。
観世音菩薩真言は、
中国語「オン、アロリキャ、ソワカ」
サンスクリット語「オーン、アーロリク、スヴァーハー」
で、ある。
弥勒菩薩真言は、
中国語「オン、マイタレイヤ、ソワカ」
サンスクリット語「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」
である。
効果自体は、どちらでも同じである。
昨日も書いたが、サムハラ大神の真言「サムハラ」や、「甘露」や「不死不滅」を意味するサンスクリット語「アムリタ」も強力な真言である。

真言を唱えていれば、自然に、取り越し苦労、持ち越し苦労がなくなり、現実の苦労もなくなり、心が安らかになり、健康で運も良くなるのである。
我々は、真言という具体的な武器を持たねばならない。
真言を武器と言うのはどうかと言う人もいるかもしれないが、この悪霊がひしめく世界で、真言は、これを撃つ光線銃と言って良いと思う。
光線銃を撃ちまくるように、真言を唱えるという考え方も良いのではと思う。








地上のことは放っておいて高く飛ぶ

この世界が悪に支配された場所だと感じている人は多いだろう。
そして、そんな人達は、そのこと(この世は悪の世界であること)を昔から感じていたかもしれないが、特に強く感じるようになったのは、割と最近(10年以内)なのではないかと思う。
昔だって、ここは何か間違った世界であり、苦しめられることもあったが、それでも、何とか折り合いを付けていたし、折り合いを付けることが出来たのではないかと思う。
だが、2013年頃から、だんだん耐えるのが難しくなり、昨年あたりに、世界は狂っていると、ようやく目覚めた・・・という感じではないかと思う。

これはどういうことかというと、2012年の末に、世の中の一部で言われていたように、地球はアセンション(次元上昇)を果たし、善い人達は高い世界に行ってしまったが、我々は悪い世界に取り残されてしまったのだ。
落第したから落とされたのかどうかは分からないが、まあ、ほとんどの人がそうなのではないかと思う。
しかし、取り残された我々も、善い人達が消えて、より波動が重くなった世界で、遂に耐え難いものを感じているわけである。
・・・などというと、スピリチュアル(精神世界)系の与太話だと言われるかもしれないが、こんな話を馬鹿にする人達だって、「そうかもしれないなあ」程度には分かるものである。
残された人々が目覚めたきっかけは、繰り返される天災と共に、表に現れた人為的な出来事・・・2020年アメリカ大統領選挙と、それによってあぶり出されたマスコミ等の闇、そして、新型コロナウイルスと、それによってあぶりだされた政府と医療の闇であった。

1994年に、タツノコプロによって、『ガッチャマン'94』という全3話のアニメ作品が作られたが、そのテーマ曲を、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのモーリス・ホワイトとビル・メイヤーズが作った。詩はブロック・ウォルシュが書いた。
その中で、

LET'S FLY HIGH LEAVE THE PAIN YOU KNEW SPINNING BELOW
地上の喧噪は放っておいて高く飛ぼう

と繰り返し歌っている。
まさに、アセンションしようと言っているのだ。

取り残された我々も、最後のチャンスとなる。
どうやって次元上昇するかというと、真言を唱えることによって。
例えば、般若心経には、「呪文を唱えることによって高いところに行ける」と言って、呪文を教えている。
ヨーガの大家の中にも指摘する人がいるが、般若心経全体をあーだこーだと解説するのは愚の骨頂である。
まあ、そんなことを本に書くセンセーが多いのであるが・・・
重要な内容ではあるが、さらりと意訳した以上の表現は不可能だ。
大切なのは、最後の呪文だと、般若心経の中で何度も繰り返し述べている。
般若心経の目的自体が、呪文の勧めと呪文の提供なのである。
それを取り違えて、語句の解説をするのは的外れである。
だから、呪文を繰り返し唱えれば良いのである。
それは、一般に知られる中国語版では、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
で、サンスクリット語版では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
どちらでも効果は変わらない。

他の真言を使っても構わないし、同じことだ。
念仏を唱えれば、極楽浄土に往生出来ると昔から教えられているが、一休さんも指摘した通り、極楽浄土は遠い先にあるのではなく、今ここに作ることが出来る・・・というか、行くことが出来る。
地上のゴタゴタは放っておいて、高い次元に行こう。
残された人々だって、真言を唱えれば、行くことが出来る。
真言以外の方法もあるのかもしれないが、私はよく知らない。
どれか、お気に入りの真言を1つ唱えるか、2つか3つ、あるいは、沢山唱えても構わないが、とにかく、いつも唱えることだ。
何が起こるかは、自分に起きるまでは分からない。








般若心経の呪文でプログラミングをマスターする

プログラミングをプロレベルでマスターしたいという人も多いと思う。
資格なんか持ってるより就職し易いし、今の日本のIT業界はまだ職場環境が良いとは言えないが、社内SEになれば、いい想いが出来るし、営業しなくていいし(笑)。
私は、プログラミングをマスターしてから、いい想いばかりしている。
では、どうやってプログラミングをマスターしたのかというと、そりゃ、一所懸命に勉強したのだが(笑)、考えれば、楽しいことだった。
だが、不遇な状況にいる人に、プログラミングの習得を勧めたことはあるが、ほとんどの人が、渋々勉強した挙句、挫折したように思う。
では、私と彼らとの違いは何かというと、私の頭が良い・・・わけではない(笑)。その明確な証拠がある。
私より明らかに頭が良いのにプログラミングが出来るようにならなかった人がいた半面、言っては悪いが、私より頭が悪いのにプログラミングは上手い人もいるからだ。
そりゃ、高度な分野のプログラミングであれば、絶対的な頭の良さが要求されることもあるが、社内SEレベル、あるいは、小規模な業務システムレベルであれば、小学生に算数が教えられる程度の頭があれば良いと思う。
では、なぜ、私が何の苦労もなくプログラミングをマスター出来たかというと、もちろん、真言を唱えていたからだ。
唱えていた真言は何かというと、はっきり言える。
般若心経の呪文(真言と言って良いと思う)である。
中国語版、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
と、サンスクリット語版、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
を両方唱えたが、サンスクリット語版の方が気に入ったので、そちらを主に唱えた。だが、別にどちらでも同じである。

経緯はこうである。
私は、初めてまともなサラリーマンになった時の仕事は事務員だった(総務とか言っていたが)。
だが、オフィスでの近くの席だった技術課長が、私にプログラミングの勉強を勧めてくれた。
今では、その技術課長に大変に感謝している(ただ、この技術課長は非常に頭が良いのにプログラミングをマスター出来なかった)。
ところが、その時は、無視するわけではないが、聞き流した。
その頃、仏教学者の紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読み、般若心経の呪文には力があると感じた。
そして、決定的だったのが、天才発明家で能力開発のスペシャリストとして知られていた中山正和氏が、著書の中で、般若心経は能力開発の秘法であり、特に、その呪文が良いと書いていたことだった。
中山氏は、この呪文を唱えれば、運が良くなるだけでなく、頭も良くなると、科学的に説明してくれている。
そこで、私は、少なくとも、通勤中は、心の中で「ガテー、ガテー、・・・」となるべくずっと唱えていた。
夜、ベッドに入ってからも唱えていた。
すると、知らないうちに、プログラミングのテキストを次々購入し、自然に、ページを開くようになった。
テキストを読んで、何となく分かるような気がしたら、後は、自宅のパソコンで、テキストの通りにプログラムを打ち込んで動作を試すことを繰り返したが、これをIT業界では「写経」と言い、知っている人は、これこそが最短の学習法と分かっている。

以上、参考になればと思う。








真言の威力実践編

真言について、日本人に馴染み深いものについて、参考までに、私の実践体験を交えて述べる。
真言は、
・阿弥陀如来真言
・観世音菩薩真言
・般若心経の呪文
・弥勒菩薩真言
である。

◆阿弥陀如来真言
法華経よりも古い経典である華厳経(けごんきょう)に、既に、阿弥陀如来の名を唱えることの効能が書かれている。
その経典では、阿弥陀(原語ではアミターバ)の名を唱えよとあるだけである。
奈良時代の伝説の人物である中将姫(ちゅうじょうひめ。747~775)が、阿弥陀経を写経し、念仏を唱えていたと伝えられているが、当時は「南無阿弥陀仏」という念仏はなく、中国語の阿弥陀経に倣い「アミタホトケ」と唱えていたのだろうと想像される。
浄土三部経の中の観無量寿経にも、釈迦は阿弥陀如来を「アミタと呼べ」と言ったと書かれている。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」または「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」であるが、サンスクリットの原語から言えば、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」の方が近い。しかし、いずれで唱えても構わない。
私は、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」で唱えている。
他にも、「南無阿弥陀仏」「アミターバ」と唱えても良いと思われる。
阿弥陀如来は万能の仏と考えて良く、また、いかなる罪も許し救う慈悲深い仏である。
私は、数年のニート生活の後、性格的に最も向かないと思われるセールスマンになったが、中岡俊哉氏の本を見て、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱え始めた。
それほど熱心に唱えていたわけではないが、それなりには唱えた。
すると、皆が親切にしてくれ、仕事を助けてくれたおかげで、私には困難なはずの仕事も苦労なくうまくいき、同時に、二十歳の彼女や、十代の非常に可愛い女の子の友達が次々に出来た。
その後、『歎異抄』を読み、念仏の力も知ったが、念仏もまた真言であり、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と変わらないと思う。

◆観世音菩薩真言
織田隆弘氏の本を読み、観世音菩薩の真言である、「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」の真言を唱えるようになった。
観世音菩薩は、身近に居て救ってくれる、人間の現実問題の面倒を見てくれる菩薩として知られている。
唱えていると、抱えていた問題が自然に消え、何もかもうまくいくようであった。
観世音菩薩は、西洋では、東洋のマリアと呼ばれるほど、慈悲深い存在として知られているが、まさに、そのイメージ通りと感じられる。

◆般若心経の呪文
紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読み、これはもう、般若心経の呪文を唱えるべきと思った。
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
でも、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
でも、いずれでも良い。
私は、紀野氏の本に書かれていたサンスクリット語版を覚え、これを唱えている。
発明家で、能力開発研究家の中山正和氏の本をよく読んでいたが、中山氏も、般若心経を著書でよく薦めておられ、この呪文を唱える意義も書かれていた。
唱えていれば、自然に幸運が舞い込むように思われるし、驚くほど、インスピレーションが湧くことを感じる。

◆弥勒菩薩真言
京都の広隆寺にある、「宝冠弥勒」と呼ばれる「弥勒菩薩半跏思惟像」は、海外のVIPもひそかにお参りに来る霊験あらたかな仏である。
この質素な像が、1951年(昭和26年)、国宝第一号に指定されてからの日本の発展は凄く、日本は予想外の早さで主権を取り戻し(それまではアメリカの占領国であった)、以降、奇跡の復興を遂げた。
五島勉氏の『未来仏ミロクの指は何をさしているか』には、破損したこの「宝冠弥勒」の指を修復した名工が、「南無弥勒仏」と唱えて良いかと尋ねると、弥勒像は、それで良いと答えてくれたという。
弥勒菩薩の真言は「オン、マイタレイヤ、ソワカ」とシンプルで、サンスクリット語で「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」と唱えても良いと思う。
もちろん、「南無弥勒菩薩」という最も知られた真言でも良いし、五島氏の本にある通り「南無弥勒仏」でも良い。
私は、あまり唱えることはないのだが、唱えれば大きな恵があったように思う。

以上、何かの参考になればと思う。








修験道の超人の真言

日本独自の仏教の形に修験道(しゅげんどう)というものがある。
「修験道」とは、「修」、すなわち、「修行」して、「験」を得るのであるが、「験」とは「効験」である。「効験」は、現代的な意味では、「効果、効能」で、平たく言えば、「願望の成就」とか「お恵み」「霊験」、あるいは、「神通力(超能力)の獲得」みたいなものと言って良いと思う。
修験道の修行者を、修験者とか山伏と言う。もっぱら、山で修行することが多いのである。

修験道の開祖は、誉れ高き、役小角(えんのおづぬ。634~701)で、大変な神通力を備えていたと言われている。
役小角について、少しでも書き出すと量が半端でなくなるので、とにかく、凄い人とだけ言っておく。大変な神通力の使い手であったことは間違いないと思う。

修験道でも、重要な修行は、やはり真言である。
ところで、私が真言を唱えるようになったきっかけは、これも、あまりに多才で、肩書きを何と言えば良いか迷うので省略するが、中岡俊哉氏の著書を読んでであった。
それほど熱心ではなかったが、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えているうちに、あり得ない出来事が沢山起こり、良い想いばかりで安楽に人生を生きている。
ところが、この中岡氏が、役小角を大変に崇拝していて、ある意味、目標としていた。
その理由について、中岡氏は、小さい頃から、お経や真言を聞く環境にあったことが、大きく影響したのだろうと、著書で語っておられた。
やはり、真言が重要である。

我々が、修験道の厳しい修行をすることは出来ないが、修行の中でも特に重要なものである真言を唱えることは簡単に出来る。
この真言が極めて大きな効験をもたらすのである。
役小角は、大変な修行をし、膨大な経典を読み覚えていたので、多くの真言を唱えていたはずである。
だが、普通、修験道で使われる真言は、ほぼ般若心経であるらしい。
般若心経全体を唱える場合もあろうが、我々の場合、最後の呪文を唱えると良いと思う。
なぜなら、般若心経の中で、この呪文こそ、最高最上の呪文であると説かれているからだ。
呪文は、中国語の音写版では、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
で、サンスクリット版では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
だ。
私は主に、サンスクリット版の方を唱え、効験の方も十分である。
もちろん、中国語音写版の方でも、効験は全く同じである。

修験道で、もっぱら般若心経が使われる理由は、もちろん、これが優れているからだろうが、現実的には、今と違い、やはり、いろいろな真言の情報を得難いということもあったと思う。
それで言えば、どんな真言でも簡単に入手出来る我々は幸運である。
効果は凄いが秘密にされているといった真言などない。
もちろん、一般公開されない真言、呪文はあるだろうが、我々が知っている真言が、それに劣ることは決してないのである。
どの真言にも、上下、優劣はなく、自分が気に入った真言を唱えると良い。

役小角が66歳の時、計略にはめられ、朝廷から逮捕命令が出されたことがあった。
300人ほどの役人が役小角を捕らえに来たが、役小角は孔雀明王の真言を唱え、役人達は全く手出しが出来なかった。
孔雀明王の真言は、「おん、まゆらきらんてい、そわか」である。
孔雀明王は、元来はインドの女神マハーマーユーリーで、菩薩型の明王であり、観音様のように、衆生を助けてくれるとされている。

修験者の力に関しては、私もいろいろなものを読んだが、仙人や天狗と見まごうような力の持ち主もいたらしく、そもそもが、仙人、導師、天狗の中には修験者もいたのかもしれない。
我々も、好きな真言を唱えることで、その力の一端でも得れば良く、それにより、世の中を悠々と闊歩出来るようになると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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