『西遊記』の登場人物である三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は中国の僧で、若い日に、インドの仏教の経典を手に入れるため、チベットを超えてインドに行こうとしていた。
これは、登山のプロにも過酷なコースで、成功の見込みは薄く、死を覚悟しての挑戦だった。
だが、インドから来た老僧に身をやつし(みすぼらしい恰好をし)ていた観世音菩薩は、三蔵に般若心経の呪文を教え、常にこれを唱えていれば安全であると言った。
三蔵は、言われた通り、この呪文を唱え続け、山賊、猛獣、雪嵐などの苦難をことごとにかわし、ついにインドにたどり着いた。
すると、三蔵の前に、あのインドの老僧が現れ、驚く三蔵に、「私は観自在菩薩である」と告げて消えた。
その後も、三蔵は無事、657部の経典を入手し、インドの言葉も学び、中国に経典を持ち帰ると、翻訳に生涯をかけた。
般若心経の呪文は、ご存じの方も多いと思うが、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
AIアート114
「森の囁き」
Kay
このお話が事実であったとは言い難いが、重要な真実は含んでいる。
三蔵は、この呪文をひたすら唱えることで思考を消したので、不可能に近いことを悠々やり遂げたのである。
もし、そうではなく、頭で考えて山賊や猛獣に怯え、雪嵐を恐れていたら、あっという間に殺されるか転落死していただろう。
思考が消えた人間は、全能の魂が表に現れ、不可能はない。
ただし、思考が消えたフリでは駄目で、三蔵は、本当に絶え間なく呪文を唱えて心を消していた・・・無になっていたのだ。
そして、重要なことは、唱えるのは別に般若心経の呪文でなくても、何でも良かったのだ。
念仏でも、阿弥陀如来真言でも、大日如来真言でも、クリシュナでも、ラーマでも、アジマリカンでも、トホカミエミタメでも。
効果に優劣などあるはずもなく、あるとすれば、続けやすいものが良いというだけである。
般若心経の呪文は、唱え方によってはリズムが良く、没入し易いものである。
このように、呪文でも、真言でも、あるいは、現代のアファーメーションでも、常に唱え、思考、あるいは、心を消せば、誰でも、三蔵のような奇跡を起こすことが出来る。
たとえ三蔵のように、常に唱えることが出来なくても、唱えた数に応じて思考が消え、いくらかの魂の力は発揮出来る。
そして、最も簡単に思考を消す言葉が、いつも言う通り「私は誰か?」で、これを自分に問えば良い。
私は、昔から慣れている阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をよく唱えるが、それで「私は誰か?」と問い易くなっているのである。
これは、登山のプロにも過酷なコースで、成功の見込みは薄く、死を覚悟しての挑戦だった。
だが、インドから来た老僧に身をやつし(みすぼらしい恰好をし)ていた観世音菩薩は、三蔵に般若心経の呪文を教え、常にこれを唱えていれば安全であると言った。
三蔵は、言われた通り、この呪文を唱え続け、山賊、猛獣、雪嵐などの苦難をことごとにかわし、ついにインドにたどり着いた。
すると、三蔵の前に、あのインドの老僧が現れ、驚く三蔵に、「私は観自在菩薩である」と告げて消えた。
その後も、三蔵は無事、657部の経典を入手し、インドの言葉も学び、中国に経典を持ち帰ると、翻訳に生涯をかけた。
般若心経の呪文は、ご存じの方も多いと思うが、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
AIアート114
「森の囁き」
Kay
このお話が事実であったとは言い難いが、重要な真実は含んでいる。
三蔵は、この呪文をひたすら唱えることで思考を消したので、不可能に近いことを悠々やり遂げたのである。
もし、そうではなく、頭で考えて山賊や猛獣に怯え、雪嵐を恐れていたら、あっという間に殺されるか転落死していただろう。
思考が消えた人間は、全能の魂が表に現れ、不可能はない。
ただし、思考が消えたフリでは駄目で、三蔵は、本当に絶え間なく呪文を唱えて心を消していた・・・無になっていたのだ。
そして、重要なことは、唱えるのは別に般若心経の呪文でなくても、何でも良かったのだ。
念仏でも、阿弥陀如来真言でも、大日如来真言でも、クリシュナでも、ラーマでも、アジマリカンでも、トホカミエミタメでも。
効果に優劣などあるはずもなく、あるとすれば、続けやすいものが良いというだけである。
般若心経の呪文は、唱え方によってはリズムが良く、没入し易いものである。
このように、呪文でも、真言でも、あるいは、現代のアファーメーションでも、常に唱え、思考、あるいは、心を消せば、誰でも、三蔵のような奇跡を起こすことが出来る。
たとえ三蔵のように、常に唱えることが出来なくても、唱えた数に応じて思考が消え、いくらかの魂の力は発揮出来る。
そして、最も簡単に思考を消す言葉が、いつも言う通り「私は誰か?」で、これを自分に問えば良い。
私は、昔から慣れている阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をよく唱えるが、それで「私は誰か?」と問い易くなっているのである。