体内にも無限に在る気のエネルギーを活性化させれば、何でもうまくいくし、病気も治る。
ただし、うまくやって儲けようとか、金メダルを取ろうとか、病気を治そうと思って、気が活性化することは無い。
ワクワクしている時は、気が活性化していると言えるかもしれないが、自己本位の理由でワクワクする時は、気は活性化していない。
難病に侵された人が、大笑い出来るようなビデオを見て病気を治したという話も本当のこととは思うが、本当は、笑って想像力を少し取り戻した時に、創造的なことをしたから気が活性化して病気が治ったのである。
巷には、「ワクワクすれば良い」だの「笑えば良い」、「氣を出せば良い」といった、有益で無いし、今の大半の人にとっては、むしろ害になるようなアドヴァイスが多く溢れているように思われるのである。
料理などは、普通、手間隙(手間暇)かけて作ったものは気が溢れている。だが、本当は、作った人の気が活性化している時、周りの人達が影響を受けて、多少、気を活性化させるのである。
ただし、手間隙かけても、気が活性化しないこともある。創造的で無い場合である。創造とは、自己は無になり、人のためになることをしたいと思っている時に起こるのである。
ところで、料理でも、手間もかけずにぱっと作ったものが美味しいということもあり、そんな料理に気が満ちていることもあるが、手抜きの料理で気が出ることはない。そうではなくて、気が活性化している人なら、手間をかけずに作っても上手くいくというだけのことだ。
『モナ・リザ』という絵は、抜群に気が出ている。いや、本当のことを言えば、あの絵から気が出ているのではなく、見ている人が気を活性化させる場合が多いのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、儲けるためでも、何かの見返りを求める訳でもなく、あの絵に何十年も手を加え続けた。ただし、ダ・ヴィンチは、ある時期には、あの絵を無心で描くことで気を活性化させていたが、その気が活性化する感覚だけを求めて描くようになった時期もあった。あの絵にも、多少の改悪はあるかもしれない。いや、見る人が見れば、かなり曇っていることが分かるかもしれない。
作者が気を活性化させながら創った作品は、それを見る者にも気を活性化させる。
絵でも小説でも、詩でも彫刻でも音楽でもだ。
三浦関造さんは、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』を9年かけて翻訳したという。翻訳だけなら、彼なら短期間で出来たであろうが、満足の出来るものにするのに、それほどの時間がかかったのだ。今は、『バガヴァッド・ギーター』もサンスクリット語原典からの訳が多いが、三浦さんのものは英訳からの日本語訳である。しかし、彼は、素晴らしい英訳を選び、他のあらゆる英訳も参考にし、ヨーガそのものも深く研究した。元々の英訳が気に満ちている上に、三浦さんの気も最高に活性化していた。その三浦さんが訳したバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』は、読む者の気を最高に活性化させる。
石ノ森章太郎さんは、『サイボーグ009』の完結編の原稿を書いている時に、すさまじく気が活性化していた。末期の癌に侵され、医者が、「生きているのが奇跡」と言った状態であったが、気が活性化していたので、膨大な原稿を書けたのであり、その原稿は見た目は混沌とし、間違い、欠陥も多かったが、気の塊であった。そして、それを、凄まじい苦難に耐えて完成させた彼の長男の小野寺丈さんの気も活性化していた。あの作品を読むと、単に面白いだの、感動するだのでなく、気が活性化し、超人に変化するのを感じるのである。作品の中でも、サイボーグ戦士達の気もますます活性化し、驚くべきことが起こるのである。これほど優れた作品は無く、現代の聖書と言って良いほどである。
また、福永武彦さんの『現代語訳 古事記』はとても気が活性化させられる。それは、多くの人が、「リズムがある」といった感覚で感じている。お正月の読書にお奨めしたい。彼が、子供向けに書いた『古事記物語』も遜色ないほど素晴らしい。大人が読んでも良いものだ。
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ただし、うまくやって儲けようとか、金メダルを取ろうとか、病気を治そうと思って、気が活性化することは無い。
ワクワクしている時は、気が活性化していると言えるかもしれないが、自己本位の理由でワクワクする時は、気は活性化していない。
難病に侵された人が、大笑い出来るようなビデオを見て病気を治したという話も本当のこととは思うが、本当は、笑って想像力を少し取り戻した時に、創造的なことをしたから気が活性化して病気が治ったのである。
巷には、「ワクワクすれば良い」だの「笑えば良い」、「氣を出せば良い」といった、有益で無いし、今の大半の人にとっては、むしろ害になるようなアドヴァイスが多く溢れているように思われるのである。
料理などは、普通、手間隙(手間暇)かけて作ったものは気が溢れている。だが、本当は、作った人の気が活性化している時、周りの人達が影響を受けて、多少、気を活性化させるのである。
ただし、手間隙かけても、気が活性化しないこともある。創造的で無い場合である。創造とは、自己は無になり、人のためになることをしたいと思っている時に起こるのである。
ところで、料理でも、手間もかけずにぱっと作ったものが美味しいということもあり、そんな料理に気が満ちていることもあるが、手抜きの料理で気が出ることはない。そうではなくて、気が活性化している人なら、手間をかけずに作っても上手くいくというだけのことだ。
『モナ・リザ』という絵は、抜群に気が出ている。いや、本当のことを言えば、あの絵から気が出ているのではなく、見ている人が気を活性化させる場合が多いのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、儲けるためでも、何かの見返りを求める訳でもなく、あの絵に何十年も手を加え続けた。ただし、ダ・ヴィンチは、ある時期には、あの絵を無心で描くことで気を活性化させていたが、その気が活性化する感覚だけを求めて描くようになった時期もあった。あの絵にも、多少の改悪はあるかもしれない。いや、見る人が見れば、かなり曇っていることが分かるかもしれない。
作者が気を活性化させながら創った作品は、それを見る者にも気を活性化させる。
絵でも小説でも、詩でも彫刻でも音楽でもだ。
三浦関造さんは、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』を9年かけて翻訳したという。翻訳だけなら、彼なら短期間で出来たであろうが、満足の出来るものにするのに、それほどの時間がかかったのだ。今は、『バガヴァッド・ギーター』もサンスクリット語原典からの訳が多いが、三浦さんのものは英訳からの日本語訳である。しかし、彼は、素晴らしい英訳を選び、他のあらゆる英訳も参考にし、ヨーガそのものも深く研究した。元々の英訳が気に満ちている上に、三浦さんの気も最高に活性化していた。その三浦さんが訳したバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』は、読む者の気を最高に活性化させる。
石ノ森章太郎さんは、『サイボーグ009』の完結編の原稿を書いている時に、すさまじく気が活性化していた。末期の癌に侵され、医者が、「生きているのが奇跡」と言った状態であったが、気が活性化していたので、膨大な原稿を書けたのであり、その原稿は見た目は混沌とし、間違い、欠陥も多かったが、気の塊であった。そして、それを、凄まじい苦難に耐えて完成させた彼の長男の小野寺丈さんの気も活性化していた。あの作品を読むと、単に面白いだの、感動するだのでなく、気が活性化し、超人に変化するのを感じるのである。作品の中でも、サイボーグ戦士達の気もますます活性化し、驚くべきことが起こるのである。これほど優れた作品は無く、現代の聖書と言って良いほどである。
また、福永武彦さんの『現代語訳 古事記』はとても気が活性化させられる。それは、多くの人が、「リズムがある」といった感覚で感じている。お正月の読書にお奨めしたい。彼が、子供向けに書いた『古事記物語』も遜色ないほど素晴らしい。大人が読んでも良いものだ。
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