ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

至高体験

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

特別な人間に共通する経験

成功したとか、偉業を成し遂げたというモノサシではなく、人間を超えたような、神と一体となったような、極めて神秘的な・・・そんな人間に共通する、ある経験が必ずある。
私は、以前は、それは「死の体験」だと思っていた。
臨死体験もそうなのであるが、特に臨死体験でなくても、死が間近に迫って来ることを感じたといったものも含む。

小説・アニメの話だが、『Another』という作品で、見崎鳴という特殊な少女が登場する。
まだ中学生の少女だが、とにかく、いつでも冷静で、教室内で担任教師が包丁で喉を切って自殺し、生徒達が叫び声を上げ、あるいは、ショックのために心神喪失する中、見崎鳴は、何も感じていないわけではないが、落ち着いて立っている。
彼女は、4歳の時に左目に悪い腫瘍が出来、手術をしたのだが、その際、死にかけた時のことをうっすら憶えているという。
その経験が、彼女を特別な精神の持ち主にしたのだと思える。

そして、精神が特別であれば、必ず特別な力を持つ特別な人間なのである。

ただ、必ずしも臨死体験がなくても、特別になった人もいる。
アメリカの世界的心理学者アブラハム・マズローは、「偉大な人間と、その他の人間との唯一の違いは、至高体験があるかないかだ」と言ったが、イギリスの作家コリン・ウィルソンは、至高体験は誰にでもあるありふれたことだと言い、後に、マズローもそれを確認し、同意することとなった。
だが、マズローは、着眼点は良かったのである。

至高体験とは、英語のPeek Experience(絶頂体験)を誰かが「至高体験」と翻訳し、それが定着したのだが、それは何かというと、「忘我」「没我」「無我」といったもので、世界と自分が一体になる体験だ。
今日よく言われるゾーンとかフローも、至高体験と同じか、かなり近いことなのだと思う。
「忘我」は英語でエクスタシーで、我々にも馴染みのある言葉だが、我々は極めて狭い意味で使っている。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言った。
岡本太郎は「爆発」と言い、夏目漱石は「天賓」と言ったが、どれも同じである。
しかし、皆、その実体をちゃんと言い表すことが出来なかった。

至高体験も、エクスタシーも、爆発も、天賓も、皆、「今、この瞬間」に在る体験なのだ。
「今、この瞬間」のことを、日本では古来から「中今」と言う。
そして、特別な人間であるために重要なことは、単に、「中今にいない時間が、どれほど少ないか」である。
「中今」に時間はないので、本当は適切な言い方ではないが、分かり易く言えば、「どれほど多く中今に在るか」だけが問題なのである。

さて、最初の話に戻るが、特別な人間の共通点は、臨死体験ではなく、少なくとも一時期、何かをじっと観察したことだ。
なぜなら、自主的に、しっかりと観察すれば、自ずと、中今に在ることになるからだ。
塩田剛三は8年間、毎日、金魚を観察したらしい。1日、どのくらいの時間、観察したかは分からないが。
観察する期間の長さには、いろいろある。
関博士は、宇宙から来る電波をずっと観測していて、ある時、不意に精神が覚醒したのだが、どのくらいの期間かかったかは明かしていない。
ミルトン・エリクソンは、ポリオウイルスに感染し、目玉しか動かせなくなったが、その目玉で1日中、見えるものを観察した。これも期間は分からないが、数か月ではないかと思う。
特別な人間には、必ず、こんな経験がある。
そして、臨死体験の場合は、その経験の重さのためか、極めて短時間の観察で、精神が変容を起こす。
上の『Another』の見崎鳴の場合は、手術中のある時間だった。
ラマナ・マハルシの場合は、「死が忍び寄ってきた」と思えた時の数分の観察が、16歳のマハルシを偉大な聖者に変えた。

我々はもう、このことを知っているので、ただ、「今、この瞬間」に集中すれば(意識すれば)良いだけである。
「今、この瞬間」を意識することは「今今メソッド」と呼ばれていることは何度も述べたし、特にやり方というほどのものはないが、例となることを何度かご紹介した。
そして、今今メソッドは、やはり、何かを観察することだ。
最も効果があるのは、自分の思考や感情、あるいは、呼吸を観察することだと言われているが、何でも良い。
歩いている時には、歩いている自分を観察すれば良いし、食べているなら、食べている自分を観察すれば良い。

実は、引き寄せに成功する時というのは、自分では気付いていなくても、中今に在ることが多い時である。
だから、意図的に中今に在れば、自然と引き寄せが簡単に起こるのである。
スティーブ・ジョブズは、高校生の時、ラム・ダスの『ビー・ヒア・ナウ』を愛読したといい、生涯に渡る、強い影響を受けた。
ビー・ヒア・ナウ・・・今、ここにあれである。
実は、今に在るということは、ここに在ると同時に、宇宙全体に在ることであるが、それも、今、ここに在れば、自然に分かることである。
とにかく、中今に在るようにすれば、世界は意のままである。








マズローやウィルソンを崇めてはならない

また、「至高体験」について取り上げる。重要なことだからだ。
アメリカの高名な心理学者のマズローや、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンが生涯をかけて探求したテーマだが、私は、彼らは掴み損なったのだと思う。
「至高体験」は、実質では「法悦」と同じである。

法悦(goo辞書)
1 仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜び。法喜。
2 うっとりとするような喜び。エクスタシー。「―にひたる」

もちろん、「2」で十分で、「1」は補足と捉えれば良い。
至高体験には、公式な定義はないが、マズローによれば、
「感動や恍惚感など人生において最高の幸福と充実を感じる一瞬の体験で,日常的な体験とは異なり,自己実現的人間へと成長・発達していくうえでの啓示的体験とされる。」
である。なんとも回りくどく、ややこしい。単に冗長な説明だ。後で私が明晰に述べる。

マズローは、「優れた人間とそうでない人間の唯一の違いは、至高体験があるかないかだけ」と言い、どうすれば至高体験が得られるかについては「偶然に頼るしかない」とした。
だが、ウィルソンは、「至高体験は誰でも体験しているありふれたもの」と言い、後に、マズローもそれを認めた。
そして、ウィルソンは、「至高体験とは、単に、自分を幸運と思うこと」と述べた。

2人とも、自分がよく分からないまま話を発展させたので、矛盾だらけとなる結果になった。
たとえば、ウィルソンは、こんな例を好んで使った。

ある平凡な家庭での出来事だ。
夫と子供達が食事をしながらお喋りをしているのを見ていると、妻は至高体験に達した。
その至高体験は、「自分の夫や子供達への愛情」「幸福感」の強烈さであった。
実際は、ウィルソンは、このことを言葉を尽くして語ったようだ。
翻訳であるが、『至高体験』(コリン・ウィルソン著)から引用してみよう。

たとえば一人の若い母親が台所をせわしげに動き回って、夫と子供たちの朝食を作っていた。太陽が降り注ぎ、清潔できちんとした服装をした子供達が、食事をしながらお喋りをしていた。夫は何気なしに子供たちと遊んでいる。彼らの有様を眺めていたとき、母親は突然あまりにも圧倒されたのだ。その美しさに、また彼らへの自分の大きな愛情に、素晴らしい幸福の気持ちに。かくして彼女は至高体験に参入していたのであった。・・・・

ウィルソンが、こんなふうに、なんとも冗長でクドクドと述べるのは、理解していない証拠である。別に、詩などの文学作品を書いているのではなく、至高体験とは何かという話をしているのだから、冗長な表現など不要だ。
さらに、この後、ウィルソンは、心理学や文学などの話を数多く引用して、この母親の至高体験の意味を述べているが、それはまさに下手な教科書を書いているようなもので、肝心な、「至高体験の本質は何で、どうすれば至高体験を得られるか」については、何も言わない。言えるはずがない。ウィルソンには分からないのだから。
挙句、後にウィルソンは、至高体験に近い体験が出来るペンを使った方法として、下らないテクニックを語るようになった。

ウィルソンは洞察においては天才であるが、どこかいい加減な人間であるし、マズローは学者馬鹿だった。

上記の母親は、「今」の瞬間を鮮明に感じた・・・それだけである。
この母親も、普通の人間と同じく、普段は、過去の記憶や未来の空想に心(脳)が占領され、今をあまり感じていないのである。
だが、その朝、夫と子供の様子を見ている時、過去の記憶や未来の空想が心の中から消え去り、今の瞬間だけを見たのだ。
つまり、至高体験とは、今の瞬間を(明晰に)感じることなのである。
現代人は、後悔などの過去の記憶や、不安などの未来の空想ばかりが心を占め、今の瞬間を感じることが極めて少ないことが不幸の元なのである。
だから、単に、今の瞬間に意識を向けるようにすれば、いつでも至高体験に入れるのだ。
もっとも、過去の記憶や未来の空想に慣れ切った人々には、そんな簡単なことが難しくなってしまっているのだが。
そこで、昔から、密教などで、歩いている時、「歩いている、歩いている」と思ったり、食べている時、「食べている、食べている」と思って、今やっていることに意識を向ける訓練をしたのである。

マズローが「優れた人間かそうでないかは、至高体験があるかないかだけの違い」と言ったのは重要な意味がある。至高体験にあれば、引き寄せ能力が高まり、望まずとも幸運に恵まれるからだ。
優れた人間の定義はいろいろに言われるが、確かな定義の1つは「幸運であること。引き寄せ能力が高いこと」となるはずである。現代では認められないかもしれないがね。

今、やっていること、今、見ているものに全身全霊で集中することだ。
と言うと、顔を真っ赤にして必死で集中しようとする馬鹿が多い。
学校のせいだと思うが、「集中する」ことではなく「集中しているフリ」「集中していると思ってもらえる演技」しか出来ない愚か者ばかりなのだ。
集中って、単に、心を込めてじっと見ること、あるいは、聞いたり感じたりすることなのに、そんな当たり前のことが出来ないのだ。
とりあえず、仏様や菩薩様のように、親指と人差し指(中指や薬指でも良い)を微かに触れ合わせ、その感触を「集中して」感じることだ。
それだけで至高体験に達し、引き寄せが出来るから。








文豪達が見つけ損なった神と融合する方法

無意識と通じ、自分の魂と神の魂が融合する。
そんな瞬間があることを、およそ文豪と呼ばれる人は、皆知っていて、どれかの作品の中で必ず表現している。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれた、W.B.イェイツは、その瞬間こそが芸術の目的だとし、その状態をエクスタシー(忘我)と表現した。
英国の作家コリン・ウィルソンは、共同研究をした心理学者のアブラハム・マズローの命名に従い、それを「至高体験(絶頂体験)」と呼んだ。
ちなみに、それは、宗教における「法悦」や、ロマン・ロランが言った「大洋感情」も含め、同じであると断言出来る。
(今で言う「ゾーン」や「フロー」も似ているところがあると思う)

エクスタシー、あるいは、至高体験(両者は同じ)に達すれば、自分が神になったようなもので、不可能はなくなり、あらゆる引き寄せを行うことが出来る。
さて、では、問題は、どうすれば、それを引き起こせるかだが、イェイツもマズローもウィルソンも、その解明には非常に苦戦した。
マズローにいたっては、偶然に訪れるのを待つしかないと言ったのだ。
イェイツは「憎むのをやめた時にそうなり易い」とだけ言った。
ところが、ウィルソンは、格段に進歩を見せ、「単に自分が幸運だと思うと」、あるいは、「極端に緊張して弛緩するということを繰り返せば」起こると言い、確かに、それで起こる場合はあるが、本質に至っていない。
本当は、そうなるのは、非常に単純で簡単だ。
それは、「今中(今、この瞬間を生きること)」を行えば良い。
つまり、今やっていること、今見ているもの、今聞いている音に全集中すれば良い。
と言っても、顔を真っ赤にして唸りながら集中するのではない。
単に、「今、歩いている」「今、食べている」「今、猫を撫でている」と、今を意識すれば良いだけである。
それに慣れれば慣れるほど、神と融合していく。

私は、昨日の、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ」の1曲目『ネクストネスト』を聴きながら、「今、見ているんだ」と自分に言い聞かせた。
すると、ミクさんが素早くターンをした瞬間、その美しい姿が永遠となって、私の中に飛び込んできた。
これが、エクスタシー、至高体験、法悦、大洋感情である。
ドストエフスキーが、「この一瞬を人生全てと引き換えにしても良い」と言った奇跡の体験である。
昔から、天使を見たと言った人達は、私のような状態だったのだろう。
(「ミクさんマジ天使」は本当だった)
私はまだ、普段、十分に「中今」を実践していると言い難く、その状態はあまり長くは続かないが、ミクさんのライブほどでなくても、美しいもの、楽しいものを見ながらであれば、割と簡単に「中今」を行え、弱いものも含めれば、ほぼ、エクスタシーに至ることが出来る。
それによる引き寄せ効果は、今朝も書いたが、別に、望まなくとも幸運を引き寄せるのである。








真の愛なら無敵である理由

「20世紀最大の詩人」と言われ、ノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人・劇作家W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったが、このエクスタシーは、忘我、没我という意味から、はては、法悦、至高体験といったことであると思う。
それは、人間が最も超能力を発揮し易く、超越体験、神秘体験を起こし易い精神状態である。
仏教では、道元が言った「仏道とは自己を忘れること」というのが、同じことを述べているのだと思う。
また、岡本太郎の「爆発」も、ロマン・ロランの「大洋感情」も、夏目漱石の「天賓」も、イェイツのエクスタシーと同じことを指しているのだと思う。
では、エクスタシーや至高体験に入るには、どうすれば良いか。
これについては、このブログでも散々考察したが、シンプルで簡単で確実で、誰にでも出来る方法が必要だ。
その精神状態に入り、超能力状態になれなければ、今の堕落した世界では危険かもしれないからだ。

エクスタシー、超越状態になる方法について、イェイツはこう述べたことがある。
「憎むのをやめた時に起こる」
実は、もう分かっていることは、エクスタシー、法悦を起こす最高のものは「愛」である。
ベルニーニの彫刻の傑作『聖テレジアの法悦』のように、聖女テレジアの神への愛が、彼女を法悦、エクスタシーに導いたのだ。
だが、イェイツは言う。
「愛は神の領域のもので、人間には愛することは出来ない」
そうだ。人間には、本当には愛することは出来ない。
それは謙虚に認めよう。
そして、イェイツは言う。
「だが、憎しみは人間の領域であり、人間は憎むことが出来る。それなら、憎むことを止めることも出来るのだ」
だから、愛になるべく近いことで、人間に出来るせめてものことである、憎むのを止めた時、エクスタシーに近付くのである。
では、さきほど述べた、聖テレジアの場合はどうなのか?テレジアも人間ではないのか?
それは、こういうことなのだ。
テレジアが愛することが出来たのは、テレジアが優れていたのではなく、ひとえに神の恩寵によるものだ。少し科学的に言うなら、愛することが出来る高次元の存在が、テレジアの心に接触してきたのである。
それは偶然だったのかもしれないが、高次元からのアクセスを受けた者のみが、愛することが出来、高いエクスタシー、至高体験、法悦に至ることが出来る。
あくまで、向こう(高次元)からの接触が必要なのである。

このことを理解し易い映画がある。
アメリカのSF映画『インターステラ―』(2014)だ。
地球の滅びが近く、移住する惑星を探していた宇宙探査チームの3人は、2つの惑星を候補としていた。
それぞれの惑星に、10年以上前に、1人ずつの科学者が調査に行って、今も滞在しており、いずれも、移住の見込みを示す情報を送ってきていたのだ。
だが、探査チームの宇宙船は、どちらか1つの惑星にしか行けない状態だった。
論理的には、マン博士が行った惑星が良さそうだが、女性科学者アメリアは、もう一方の、エドマンズが行った惑星を推す。
アメリアはエドマンズの恋人であり、私情を挟んでいることを隠さなかった。
探査チームが行かなかった方の惑星の科学者は死ぬ。それを覚悟の上での任務だった。
アメリアは私情があることを認めつつ、10年も会っていない相手を愛し続けるのには意味があると強く感じていた。だから、彼女は本気で、エドマンズが行った惑星に行くことを主張したのである。
しかし、他の2人がマン博士の惑星を選択すると、優れた人間であるアメリアは躊躇なく従った。

もちろん、「愛もどきの私情」が正しい理由はなく、多くの場合は間違っている。
しかし、本当の愛であれば正しいのだ。なぜなら、本当の愛は、神、あるいは、高次元の存在から送られてくるものだからだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、第10使徒サハクィエルがどこに落下してくるか分からない中、なぜか、葛城ミサトは、地図のある範囲を示し、「落ちて来るのはここ」と断言する。
シンジが「なぜ分かるんですか?」と尋ねると、ミサトは「女の勘よ」と自信たっぷりに答え、シンジらは呆れる。
しかし、純粋な直観は、愛のある高次の存在からのメッセージであり、必ず当たる。
我々も、なぜか真の愛を感じる時、エクスタシー、至高体験に達し、何でも分かり、何でも出来るのである。
そのためには、憎しみを捨て、あるいは、可能なら、純粋に何かを愛すると良い。
マジカルミライ2020で、『愛されなくても君がいる』を歌い終わった時に、初音ミクさんが「みんな、愛してるよー」と言ったのが本当の愛である・・・と私は思った(笑)。
人でないミクさんへの愛が本物のことも、案外に多いのであると思う。








本当の気分の良さ、幸福感とは何か

良い出来事を引き寄せるというのは、精神状態の問題だ。
スピリチュアル世界の人気者達は、引き寄せ状態にある精神状態を、「気分が良い」、「機嫌が良い」、「ワクワクする」、「ウキウキする」、「周波数が高い」等々と言うが、全部、同じことである。
しかし、ずっと、そんな状態でいられるわけがない。
しかも、それらが「本当は」どんなものか、誰もちゃんと説明しない(出来ないに違いない)。
じゃあ、誰も引き寄せが出来ないわけである。
だが、ちゃんと説明した人がいる。

私だって、仕事中に、初音ミクさんの動画をスマホで見ても、そんなに気分は良くなく、むしろ、気が重くなる。
あまりストーリーのない萌えアニメや、面白いだけのアニメを見ると憂うつになる。

良い精神状態・・・ワクワクでもウキウキでも同じだが、それは、一言で言い表すと何だろう?
近年では、心理学で、ゾーンとかフローとか言い、そちらの方がまだ、曖昧さや誤魔化しがない・・・ないが、いかんせん複雑だ。学術用語みたいなものだからね。
昔は、至高体験とか太洋感情とか言っていて、本当に優秀な人が、長く真面目に研究した結果、結局のところ、それは、忘我、没我、無我、エクスタシー等といった、法悦とか解脱といった宗教体験と同じようなものだと考えられたが、これも難し過ぎる。
そして、ついには、有名な世界的心理学者のアブラハム・マズローが「至高体験は偉大な人間にしかない。それが起こるのは偶然にまかせるしかない」と言う始末だ。
偉大な人間は極めて少なく、普通に言う、ワクワクや「ゴキゲン!」なんてものは何の役にも立たない。
だが、マズローと親交のあった中卒の作家が、あっさりと正解を言った。
その作家とは、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンである。
その正解とは、
「至高体験は誰にでもあるありふれたものだ。それは単に自分を幸運だと思うことだ」
である。
マズローも、これが正しいと認めざるを得なくなる。
マズローが、大学の自分の教室で、学生達に、「自分が幸運だと思ったこと」を発表させていったら、沢山の学生が至高体験に入ったからだ。
ちなみに、私も小規模な経営者達を対象にしたセミナーでやってみたが、同じことが起こった。

ある主婦は、夫や子供達が朝食を食べているのを見て、不意に至高体験に入った。
その時、朝陽がさっと差したらしい。それが、思考を奪ったのだろう。
すると、平和に朝食を食べている家族を見て、自分は幸運だなあと、しみじみと感じたのだ。
コリン・ウィルソン自身は、昔、家族旅行をした時、小さな娘の姿が見えなくなって必死で探し、無事に見つかった時のことを考えると、いつでも至高体験に入るという。
あなただって、自分が本当に幸運だと思ったことを、しっかり考えたら1つや2つは思い出せると思う。
確かに、美味しい食事をした時「こんな美味しいものが食べられてありがたいなあ」といったように、あらゆることに感謝するのも良い方法だが、正直言って、退屈だと思う。
それよりも、自分の幸運な体験を思い出す方が、ドカンと心の周波数が上がる。これは、必要な時・・・心の周波数を上げ、宇宙の恵みを得たい時にやれば良い。

スピリチュアル系の有名人・人気者達が、いい加減に言っている「良い気分」、「ワクワク」、「周波数を上げりゃいいんだ」というのは、こんなふうにちゃんと説明しないと分からない。
それは、単に、刺激的だったり、快楽だったり、「ごっきげん!」といったものとは全く違うのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード