現代の静かなトレンドが、自己肯定感を高めることだ。
とはいえ、かなり昔に、ディール・カーネギーが『人を動かす』の中で、人間がこの上なく求めて止まないのは「自己重要感」であると指摘している。「自己肯定感」と「自己重要感」は同じだ。
つまり、人間は自分に価値があることを切ないまでに願っていることは、ずっと以前から明確に分かっていたのだ。
オリンピックで金メダルを取った選手の様子がしばしば異様な雰囲気に見えるのは、彼らは普段はコーチの奴隷としてモノ扱いされ、自己肯定感を全く持つことが出来なかったのに、不意に高い自己肯定感を得て異常な状態になっているからだ。
そして、選手達は、自己肯定感の大きな欠落を埋めることをモチベーションにして頑張ったのである。
だから、元々、自己肯定感が高い者は、スポーツで成功しない。
時々、2位や3位になった選手が「金以外は2位もビリも同じ」と言うのは、あまりに自己肯定感に欠け、1位でないと間に合わないほどなのである。
昔、SMAPの『世界で1つだけの花』という歌で、「ナンバー1じゃなくても、元々皆オンリーワンなんだ」と歌ったが、この歌が大ヒットした半面、これを聴いて反吐が出た人も多かったはずだ。
そんな言葉は誤魔化しでしかないことを、本当は皆、知っている。
ただの個性に価値はない。
ナンバーワンに近い者ほど個性が認められるだけだ。
それについて、喩えは悪いが、こんなことを考えれば分かる。
干ばつ(雨が降らないこと)が続く村で、神様に生贄をささげ、雨乞(あまごい)をすることになったとする。
そんな時は、時代、場所を問わず、生贄はナンバーワンの美少女に決まっている。
個性があるからと、美少女でない娘を生贄にしたら神の怒りに触れて願いが叶わないどころか、別の災害すら与えられかねないと誰もが思う。
本当に、誰にでもある個性に価値があるなら、そんなことにはならないはずだ。
ゲームでも何でも1番になり、それが周りから認められれば自己肯定感は高まる。
しかし、どんなことでも、1番になることは難しい。
まして、多くの人に認められることであれば。
そこで、資格を取れば自己肯定感が高まるような詐欺を仕掛けて、資格ビジネスで儲けている者がいるのだ。
もし、資格で自己肯定感が高まるとすれば、誰もが称賛・羨望するような高度な資格を取った場合だけで、しかも、それですら、すぐに色褪せるものである。
オリンピックの金メダルの栄光も一瞬であり、10年前の金メダリストと言ったら、もう生暖かい目で見られるだけだ。
ある途上国で、オリンピックのボクシングで金メダルを取り、国を上げて英雄として扱われた選手がいたが、翌年、別の選手が金メダルを取ると、すっかり忘れられ、その1年前の英雄は、新しい金メダリストのプロモーションビデオで、その他大勢の者達と一緒に、新しい英雄のバックでみっともなく踊っていたのだ。
自己肯定感が低ければ、引き寄せは出来ない。
そして、結論を言えば、自己肯定感(自己重要感)は、神にでもならないと得られない。
ところが、人間は元々、神なのである。
これを宗教臭く感じるのは、一般人に決して自己肯定感を与えないための策略である。誰の策略かは言わないが。
本来は、多様な経験の中で、些細なことの中に、自分が神であることを発見することが好ましいかもしれない。
しかし、世界はディストピア(暗黒郷)に入ってしまった。
すでにハルマゲドンの状態である。気付かない人が多いがね。
方法は沢山あるのだろうが、私は「神実現の呼吸法」を勧める。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
どんな方法でも構わないが、神に近付き、自己肯定感を高めるというよりは自己否定感や劣等感を除かないと、そして、ナメられない人間でないと、生きていけなくなるかもしれない。
とはいえ、かなり昔に、ディール・カーネギーが『人を動かす』の中で、人間がこの上なく求めて止まないのは「自己重要感」であると指摘している。「自己肯定感」と「自己重要感」は同じだ。
つまり、人間は自分に価値があることを切ないまでに願っていることは、ずっと以前から明確に分かっていたのだ。
オリンピックで金メダルを取った選手の様子がしばしば異様な雰囲気に見えるのは、彼らは普段はコーチの奴隷としてモノ扱いされ、自己肯定感を全く持つことが出来なかったのに、不意に高い自己肯定感を得て異常な状態になっているからだ。
そして、選手達は、自己肯定感の大きな欠落を埋めることをモチベーションにして頑張ったのである。
だから、元々、自己肯定感が高い者は、スポーツで成功しない。
時々、2位や3位になった選手が「金以外は2位もビリも同じ」と言うのは、あまりに自己肯定感に欠け、1位でないと間に合わないほどなのである。
昔、SMAPの『世界で1つだけの花』という歌で、「ナンバー1じゃなくても、元々皆オンリーワンなんだ」と歌ったが、この歌が大ヒットした半面、これを聴いて反吐が出た人も多かったはずだ。
そんな言葉は誤魔化しでしかないことを、本当は皆、知っている。
ただの個性に価値はない。
ナンバーワンに近い者ほど個性が認められるだけだ。
それについて、喩えは悪いが、こんなことを考えれば分かる。
干ばつ(雨が降らないこと)が続く村で、神様に生贄をささげ、雨乞(あまごい)をすることになったとする。
そんな時は、時代、場所を問わず、生贄はナンバーワンの美少女に決まっている。
個性があるからと、美少女でない娘を生贄にしたら神の怒りに触れて願いが叶わないどころか、別の災害すら与えられかねないと誰もが思う。
本当に、誰にでもある個性に価値があるなら、そんなことにはならないはずだ。
ゲームでも何でも1番になり、それが周りから認められれば自己肯定感は高まる。
しかし、どんなことでも、1番になることは難しい。
まして、多くの人に認められることであれば。
そこで、資格を取れば自己肯定感が高まるような詐欺を仕掛けて、資格ビジネスで儲けている者がいるのだ。
もし、資格で自己肯定感が高まるとすれば、誰もが称賛・羨望するような高度な資格を取った場合だけで、しかも、それですら、すぐに色褪せるものである。
オリンピックの金メダルの栄光も一瞬であり、10年前の金メダリストと言ったら、もう生暖かい目で見られるだけだ。
ある途上国で、オリンピックのボクシングで金メダルを取り、国を上げて英雄として扱われた選手がいたが、翌年、別の選手が金メダルを取ると、すっかり忘れられ、その1年前の英雄は、新しい金メダリストのプロモーションビデオで、その他大勢の者達と一緒に、新しい英雄のバックでみっともなく踊っていたのだ。
自己肯定感が低ければ、引き寄せは出来ない。
そして、結論を言えば、自己肯定感(自己重要感)は、神にでもならないと得られない。
ところが、人間は元々、神なのである。
これを宗教臭く感じるのは、一般人に決して自己肯定感を与えないための策略である。誰の策略かは言わないが。
本来は、多様な経験の中で、些細なことの中に、自分が神であることを発見することが好ましいかもしれない。
しかし、世界はディストピア(暗黒郷)に入ってしまった。
すでにハルマゲドンの状態である。気付かない人が多いがね。
方法は沢山あるのだろうが、私は「神実現の呼吸法」を勧める。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
どんな方法でも構わないが、神に近付き、自己肯定感を高めるというよりは自己否定感や劣等感を除かないと、そして、ナメられない人間でないと、生きていけなくなるかもしれない。

