ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自己肯定感

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真の自己肯定感を得る

現代の静かなトレンドが、自己肯定感を高めることだ。
とはいえ、かなり昔に、ディール・カーネギーが『人を動かす』の中で、人間がこの上なく求めて止まないのは「自己重要感」であると指摘している。「自己肯定感」と「自己重要感」は同じだ。
つまり、人間は自分に価値があることを切ないまでに願っていることは、ずっと以前から明確に分かっていたのだ。
オリンピックで金メダルを取った選手の様子がしばしば異様な雰囲気に見えるのは、彼らは普段はコーチの奴隷としてモノ扱いされ、自己肯定感を全く持つことが出来なかったのに、不意に高い自己肯定感を得て異常な状態になっているからだ。
そして、選手達は、自己肯定感の大きな欠落を埋めることをモチベーションにして頑張ったのである。
だから、元々、自己肯定感が高い者は、スポーツで成功しない。
時々、2位や3位になった選手が「金以外は2位もビリも同じ」と言うのは、あまりに自己肯定感に欠け、1位でないと間に合わないほどなのである。

昔、SMAPの『世界で1つだけの花』という歌で、「ナンバー1じゃなくても、元々皆オンリーワンなんだ」と歌ったが、この歌が大ヒットした半面、これを聴いて反吐が出た人も多かったはずだ。
そんな言葉は誤魔化しでしかないことを、本当は皆、知っている。
ただの個性に価値はない。
ナンバーワンに近い者ほど個性が認められるだけだ。
それについて、喩えは悪いが、こんなことを考えれば分かる。
干ばつ(雨が降らないこと)が続く村で、神様に生贄をささげ、雨乞(あまごい)をすることになったとする。
そんな時は、時代、場所を問わず、生贄はナンバーワンの美少女に決まっている。
個性があるからと、美少女でない娘を生贄にしたら神の怒りに触れて願いが叶わないどころか、別の災害すら与えられかねないと誰もが思う。
本当に、誰にでもある個性に価値があるなら、そんなことにはならないはずだ。

ゲームでも何でも1番になり、それが周りから認められれば自己肯定感は高まる。
しかし、どんなことでも、1番になることは難しい。
まして、多くの人に認められることであれば。
そこで、資格を取れば自己肯定感が高まるような詐欺を仕掛けて、資格ビジネスで儲けている者がいるのだ。
もし、資格で自己肯定感が高まるとすれば、誰もが称賛・羨望するような高度な資格を取った場合だけで、しかも、それですら、すぐに色褪せるものである。
オリンピックの金メダルの栄光も一瞬であり、10年前の金メダリストと言ったら、もう生暖かい目で見られるだけだ。
ある途上国で、オリンピックのボクシングで金メダルを取り、国を上げて英雄として扱われた選手がいたが、翌年、別の選手が金メダルを取ると、すっかり忘れられ、その1年前の英雄は、新しい金メダリストのプロモーションビデオで、その他大勢の者達と一緒に、新しい英雄のバックでみっともなく踊っていたのだ。

自己肯定感が低ければ、引き寄せは出来ない。
そして、結論を言えば、自己肯定感(自己重要感)は、神にでもならないと得られない。
ところが、人間は元々、神なのである。
これを宗教臭く感じるのは、一般人に決して自己肯定感を与えないための策略である。誰の策略かは言わないが。
本来は、多様な経験の中で、些細なことの中に、自分が神であることを発見することが好ましいかもしれない。
しかし、世界はディストピア(暗黒郷)に入ってしまった。
すでにハルマゲドンの状態である。気付かない人が多いがね。
方法は沢山あるのだろうが、私は「神実現の呼吸法」を勧める。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
どんな方法でも構わないが、神に近付き、自己肯定感を高めるというよりは自己否定感や劣等感を除かないと、そして、ナメられない人間でないと、生きていけなくなるかもしれない。








あなたの顔も千年後は超イケメンかもしれない

自己肯定感とか自己重要感が欲しいという気持ちも分かるが、人工的な自己肯定感や自己重要感を持つと、それが壊れた時が大変だ。
そして、それは必ず壊れる。
岡本太郎のように、「俺が宇宙だ」とか「俺は親に生んでもらったのではなく、自分で生まれてきた」なんていう頭のおかしな人(笑)の真似をしても、普通はただの頭のおかしな人としか見られない。
では、精神病院の中には、「俺は宇宙の帝王だ」と主張する男や、「私はキリストの愛人よ」と言うオバサンが沢山いるのに、岡本太郎とどこが違うのだろう?
それは簡単な話で、精神病患者は優劣を立てるが、岡本太郎にはそれがない。
要するに、精神病患者は、「私はキリストの愛人だから偉い」という考えがあるが、岡本太郎にはそれがない。つまり、「俺は宇宙だ。だが、別に偉くない」というのが岡本太郎だ。
優劣を立てなければ、頭のおかしさだって偉大さになる。

何度か書いたことがあるが、私は小学4年生の時、クラス1、いや、学年1かもしれない美少女と、最底辺の女子を見比べ、
「同じ人間なのに、どうしてここまで違うのか?」
と真剣に悩み、自然に、「前世の行いのためだろうか?」と本当に思ったものだった。
でないと、理不尽過ぎる。
だが、私が、そのように、2人の女子に優劣をつける限り、私も自己肯定感、自己重要感を求め、自分が優れている理由を探さないといけないのだ。
その2人の女子は、全く等価なのである。
それが分からない者が、つまらない、作り物の自己肯定感、自己重要感を欲しがるのである。
だいたい、催眠術を使えば、この2人の女子の評価を反対に感じることは容易いのである。
手塚治虫の『ザ・クレーター』という作品の中の『巴の面』は、武士の時代のお話だが、巴姫という女は、心は優しいのに、ひどい醜女(ぶおんな)で不幸な生涯を送った。しかし、現在よりもずっと未来、若者の間では、巴姫のような顔が美女ともてはやされていた。
いや、そんな大袈裟なものでなくても、私は、アメリカなど、外国の映画のヒロインの中に、映画の中では美女ということになっていても、「金くれてもいらん」と思うようなのは珍しくもない。

『アラビアンナイト』のお話の1つに、この世の普通の男が、異界に行くと、そこでは、葬式でドンチャン騒ぎをして楽しんでいるのに驚き、「あなた方はなぜそんなに嬉しそうなのか?」と尋ねると、「葬式が楽しいのは当たり前ではないか」と言われてしまうお話がある。
ちなみに、私は、今なら、そんな世界に行っても、別に驚かない。
人の世の価値観は、場所により、時代により、あるいは、人により違うが、どれが優れているということもないのだ。

涼宮ハルヒが、普通でない人間を探していたのは、あくまで、この世界の価値観への反発で、本当は、普通の人間も、宇宙人も、未来人も、異世界人も、超能力者も、皆、同じである。
もちろん、好みというものはあり、好みの食べ物、好みの絵画、好みの音楽、好みの女、好みの男といったものはあるかもしれないが、自分の好みに合うことを「優れている」と勘違いすると、我々は力を失うのだ。
優等生は、「自分の点数は100点で、30点のやつより自分は遥かに優れている」と思った時から、超能力を失ったのである。
私は、手塚治虫の『ザ・クレーター』と、荘子(荘周)の『荘子』が、世間的発想を超え、超能力への扉を開く本と思う。








自己肯定感ではなく自己否定感が貴い

最近、書店に行って気になるのは、「自己肯定感を高める」という本がやたら多いことだ。
今、Amazonで「自己肯定感」で検索したら541件もヒットし、その多くが、「簡単に自己肯定感を得られる」といった感じのものだ。
だが、世の中は、「それ以上、自己肯定感を持ってどうする?」と言いたい人達がやたら多い。

自己肯定感を持つには、戦って勝つしかないのだが、今年の東大の入学式で、「君達が東大に入れたのは、頑張ったからじゃなく、恵まれていたからだ」と、やっと直球で本当のことを言ってくれる人がいた。つまり、ある意味、反則で勝ったようなものなのだ。
ある高校生が、募金箱の上で自分の財布をひっくり返し、中身を全部入れて満足げだったが、それは自分で稼いだ金でないので、大切にしなければならない。親の金を使っているだけで、何かやっている気になるのは愚か者である。
要するに、戦って勝つと言っても、自分で力で戦わなければならないということだ。
そうでないと、健全な自己肯定感ではない、幼児性退行による万能感・・・つまり、幼児が、自分を神様か王様のように思うレベルに陥ってしまう。
母親が面倒を見てくれるのは、赤ん坊が神様や王様であるからではないが、赤ん坊の方は、無意識にそう感じるものらしく、大きくなってもそれを引きずると、愚か者の出来上がりである。

あるいは、自己肯定感を得るために、過激な承認欲求を満足させたがると、即座に人格崩壊の危機につながる。
レディー・ガガらの「Me Too」運動は、決してそれを否定するのではないが、もう少し穏便にやらないと、参加者達は、一時的な満足感はあっても、結局、もっと不幸になるのではと感じるのである。

「さすが俺」なんて自己肯定感を持ってはならない。
謙虚とは、自己否定しながら、ちゃんとやれる人間が持つ貴いものだ。
そりゃ、「俺もなかなかやるな」「私って出来る子なんだ」って思うのは気分が良い。
しかし、それは、近寄って来た悪魔のささやきなのだ。
それよりは、自分のいたらない点に目をやり、「もっと上」「もっと強く」と悩む方が良い。
一見、劣等感で苦しんでいる者は、実は、「俺は凄いのに、どうしてこいつらは分からないのか」という承認欲求に苦しんでいるだけなのだ。
つまり、傲慢さこそ問題なのである。
無論、極端な例外はあるだろうが、そうではない場合が多い。

自分の技量を認めるのは悪いことではないが、それを静かに出来ないのであれば、ただの自惚れだ。
そして、自己否定を抱えていても良いから(実際には、自己否定を捨てることは出来ない)、理想に向かう道を見つけた時に、健全な自己肯定感を持てる。

私は、イチローがいつまでも素振りやストレッチをやったり、木村達雄さんという武術の達人で東大を出た数学の博士が1日に何千回も四股を踏むって話を見ると、つくづく、彼らは自己否定感が強いのだと思う。でないと、そんなことはやれない。
彼らは決して「さすが俺」「私ってすごい」とは思っていない。
親鸞が念仏を唱えていたのも、岡潔博士という世界でも屈指の数学者が毎朝1時間念仏を唱えていたのも、やっぱり自己否定感のためだ。
私がプログラミングをマスター出来たのも、今、四股を踏むのが楽しいのも、自己否定感の賜物である。
私が、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』のヒロイン、美しき「剣姫(けんき)」アイズ・ヴァレンシュタインが好きなのも、彼女が自分の技量に決して満足せず、むしろ、自己否定感を抱えているからだと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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