ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自己制約

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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超少食は正しいか?

世の中には、超少食とか、あまつさえ、不食(食べないこと)で、運命が良くなったり、超健康になるなどと主張する者がいる。
そういった輩は相手にしない方が良いと私は思う。
尚、私も一時、超少食を実践し、それが良いことだと言っていたことがあるが、それは間違いであったと反省している。
超少食は、場合によっては、大食より悪い。

食に関しては、『バガヴァッド・ギーター』の、クリシュナ神の教えが適切であると思う。
即ち、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない」である。
スウェーデンの科学者、政治家、教育家、宗教家であったエマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の言い方も良いと思う。
即ち、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」で、要は、食べ過ぎなければ良いのである。

また、クリシュナ神は、こうも述べている。
「惰眠を貪るな。だが、眠りが少な過ぎてもいけない」
クリシュナ神の教えのようなものは、あらゆることに関し、バランスが大切だということかと言うと、そうとも言えるが、もっと大切なことがある。
それは、人間は、「自己制約(自己コントロール)」が何より大切だということだ。
つまり、人間というものは、放銃(勝手気まま)に振る舞いたい・・・欲望のままに好きなことをしたいという性質がある。
美味しいものを好きなだけ食べたい、性的快楽を果て無く求めたい、偉くなって人をひれ伏させたい、もっともっと贅沢をしたい・・・などである。
そういった欲望は、個人的欲望と言って良いと思う。
そして、個人的欲望を適切な範囲に抑えることを、自己制約(自己コントロール)と言い、それが出来る人間が、本当に優れた人間である。
個人的欲望の自己制約のことをモラルというのであり、本当に優れた人間とはモラルがある人間である。

個人的欲望も、ある程度は必要である。
だが、個人的欲望の1つ、あるいは、特定のものを取り上げ、超少食とか完全な禁欲といったことを称賛する者がいる。
そんな主張をする者が世の中に溢れたら大変なことになる。つまり、間違っている者である。
私の推測では、そんな主張をする者は、称賛されたい欲望(名誉欲)、偽物の大きな力を得たいという、個人的欲望のコントロールが出来ないのである。つまり、モラルがないのである。

ある書によれば、「食は少なければ少ないほど幸運になる」と言った江戸時代の有名な観想家である水野南北は、女遊びに関してはどんどんやれと言ったそうだが、それが本当なら、南北は2重の意味で間違っているのである。
無論、食の慎みは、大変難しいながら、その重要性を訴えたことは立派であったと思う。しかし、それも度が過ぎては、そして、他の個人的欲望は放縦で良いというのが、正しいはずがない。
確かに、水野南北には、妻が8人いたという。
しかし、水野南北は、8人全員を正妻とし、妻たちが歳を取っても、ちゃんと面倒を見たのであり、それをする財力もあった。
気に入らなくなったら捨て、若い女をとっかえひっかえというのは放縦であり、自己制約がないが、水野南北の場合は、その点は自己制約があり、モラルがあったと言えると思う。それが出来ない者に同じことを勧めてはならないはずである。

徳川家康や孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といった意味のことを重要なこととして守り、人にも教えていた。
あらゆることに対し、そんな態度で挑むことを、自己制約と言い、それを実践する者のことを、モラルがある人と言うのである。
そして、モラルがある者こそが幸運なのである。

例えば、パワハラをするような上司は、尊大に振る舞いたいという、人間だれしも持っている欲望をコントロール出来ない・・・つまり、個人的欲望を自己制約出来ない者であり、モラルがないのである。
そのような者は、一時的に良い状況にあっても、すぐに駄目になり、惨めな状況に落ちる。
パワハラの被害に遭った方は、決して自己制約を忘れてはならない。
そうすれば、幸運に恵まれ、状況は改善すると思う。








水野南北を超える幸運の秘訣(千万に一つも外れなし)

江戸時代の、観想(顔や身体の相で運命を鑑定すること)の大家であった水野南北(1760~1834)は、絶対的な確信を持って、運について、こう語っている。
「食が多ければ悪運、少なければ幸運」
水野南北は、これを「万に一つの外れもない」真実と述べている。
これは、水野南北の、長年に渡る、無数の鑑定での結論でもあった。

私は、これは、ほとんどの場合は当たると思う。
しかし、南北だって、「少食でも、この場合は駄目」と言ったことがある。

正しくは、「モラルあれば幸運、なければ悪運」である。
南北の論は、これの応用に過ぎず、根本原理はこれなのである。
分かるように説明する。
モラルとは何かというと、「本能的な欲望を暴走させないよう、コントロールすること」だ。
一言で言えば、「自己制約(セルフ・コントロール)」と言える。
少食の人間というのは、「食欲を暴走させずにコントロール出来る人」で、言い換えれば。「食欲について自己制約する人」だ。
つまり、少食というのは、本能の中の大きなものであることは確かだが、食欲という1つの本能に限った制約なのである。

確かに、食欲をコントロール出来ることは立派なことであり、これが出来る者は、モラルがある可能性が高く、それはつまり、幸運である可能性が高いということだ。
しかし、食欲の他にも、性欲や、優越欲求といった本能がある。
性欲は分かり易いが、ここで仮に優越欲求と言ったものは、自己重要感とか名誉欲とも言え、自分が他人より優れていると思いたい欲求だ。流行りの言葉で言えば、マウントを取りたがることである。
モラルとは、まさに、これらの本能的欲望を暴走させないよう、コントロールすること・・・すなわち、自己制約である。
あらゆることについて、モラルを持った者、自己制約が出来る者は、確実に運が良い。
宗教的な言い方をするなら、「自己を制約した倍の力を、神はその者に与える」のである。
※他にも、生存欲求という生きる本能もあり、これに関しても同様のことが言えるが、話が高度になって難しいので、ここでは省く。

食欲も、性欲も、優越欲求も、本能に根差すものだから、あって当然であり、むしろ、ないと大変だ。
それを暴走させないようコントロールする、即ち、自己制約すれば、幸運が来る。
少食だけでは駄目、(性の)禁欲だけでも駄目、謙虚なだけでも駄目である。
1つを極端にやるのではなく、これらをバランスよくコントロールすべきである。

「本能」という言い方が動物的と感じるのなら、言い換えれば、自己中心的な欲望をコントロールすることが、モラル(自己制約)である。
何度も言うが、モラルが高ければ幸運である。
しかし、今、日本は、凶運へ真っ逆さまになろうとしている。
国民のモラルが、甚だしく低下しているからだ。
だが、その中でも、モラルを持っていれば、つまり、自己制約が出来れば、つまり、個人的な欲望をコントロール出来れば、幸運なのである。
万に一つ、いや、千万に一つのはずれもない。








必ず神から力を与えられる方法

人間が欲しいものには、愛、友情、安らぎ、お金など、いろいろなものがある。
だが、それらを得るのは、「力(パワー)」というべきものが必要だ。
それは、お金とか、地位とか、ましてや、学歴などといったものとは全く違う魂の力なのだが、それを得れば、お金でも地位でも思いのままで、学歴などは全く不要になる。
では、そんな本物の力、根本的で本質的な力、心の、そして、魂の力をどうやれば得られるか?
これは、やり方自体は簡単なのである。
単に、自分がやるかどうかだけだ。
そのやり方とは、一言で言えば、「自己制約」である。
つまり、自分に制約を課すのであるが、そのためのシンプルな方法が「自分に掟を課す」ことである。

強い力を持つ人間は例外なく、自分の掟を持っている。
例えば、自分の家にいてもスーツなど、しっかりした服装をするという場合もある。
他の人が、リラックスした・・・有体に言えばだらしない格好をし、「自宅なんだからいいじゃないか」と思っているのに、あえて自分に掟を課し、自宅ですら、自分の自由に制限を加えているのである。

戦国武将の上杉謙信は、戦(いくさ)において無敗であった。
彼は、いかなる大きな掟を課し、得られるはずの自由を自分で制限していたのだろう?
なんと彼は「女」を絶っていたのだ。もちろん、彼は人並・・・いや、あれほどエネルギッシュな男だ、超絶女好きであったと想像する。
そして、彼なら、どんな女でも思いのままであったはずだが、その羨ましい自由に自分で制限をかけたのだ。
もし、超大物になりたいなら、それほどの犠牲が必要であり、犠牲という対価を払うことなく大きな力は得られない。

神は、人間が自分に課した制約の倍の力を人間に与えるのである。
人間は皆、自分勝手に自由に生きたい・・・これを「放埓(ほうらつ。勝手きままなこと)に生きる欲望」」と言い、人間の持つ強い欲望だ。
美味しいものを好きなだけ食べたい。
好みの女(男)を無限に自由にしたい。
自分のわがままを押し通したい。
しかし、そればかりでは、神はその人間に力を与えない。

朝、7時まで寝ていたって生活に支障はないが、毎朝5時に起きるという掟を自分に課した者は、寝ていられるという自由に制限を加えた・・・つまり、制約を課したのである。
江戸時代の観想家(身体や顔の相で運命を鑑定する占術師)、水野南北は、「食の制限こそが人間に最大の力を与える」として、小食粗食を説いた。彼は、子供の時から飲酒し、姿醜く、性格は粗暴で、牢屋敷(今の刑務所)に入れられるような人間でありながら、厳しい食の慎みを実践することで、蔵を7つ持つ大長者になり、正妻は8人で、貴族にまで叙せられたという。また、当時としては異例の75歳まで生きた。

確かに、誰もが、水野南北のような厳しい食の制限を課すことは必要ではないかもしれない。
しかし、欲望のままに無制限に飲み食いする者は、その他のことで、よほどの厳しい掟を課し、それを絶対的に守らなければ大きな力は得られない。
普通は、食に関しては、エマニュエル・スウェーデンボルグのように、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」程度で十分であるが、その範囲では制限を課すべきと思う。
また、水野南北は、酒も大好きであったが、1日1合と制約を課していた。

私も、ささやかなことであるが、絶対的な掟で、自分に制約を課し、自分の自由に制限を加えている。
朝は、暮、正月関係なく、4時半に起床し、朝晩身体を鍛えているし、ちゃんとした食事は夜だけにし、満腹するまで食べることはない。
だが、全然足りないなあ(笑)。
これを機に考え直し、しっかりとした掟を持ち、大躍進を目指そう。よろしければ、皆様もご一緒に。








美しくなるには

最近・・・かどうかは分からないのだが、人間が醜くなってきたように思えてならない。
そりゃ、オッサンというものは美しいものではないだろうが、中年過ぎの男の醜悪さは見るに耐えず、視界に入れたくないと強く願うほどだ(まあ、自分のことは置いておくが)。
ところが、それは、若い男も、さらに、全ての女についても、ほとんどそう感じるのである。
見かけは美人の女だって、醜さに気分が悪くなることも少なくはない。
そして、ついに、子供に関してすら、そうとしか感じられないことも多くなった。

そう感じる原因は、私の感覚や精神の問題ではないかと疑うことは大切であるが、数は少ないながら、醜く感じない人も、見知らぬ人の中にもいるのだから、一概に私の問題ではないかもしれない。
では、単に私の趣味の問題、つまり、個人的な好悪の観念に過ぎないのではないかというと、表面的な美醜の印象とは、全く関係ないので、やはり、そうではないと思える。

だが、こんなことを考えるだけでは意味がない。
今、私が平和を得る方法は、自分が醜い人間の仲間入りをしないことと、彼らを近寄らせないことだ。
腐った人間とうのは、完全に腐っていない人間を「お仲間」と見なして(つまり、自分も完全には腐っていないと自惚れて)近寄ってくるのである。
だが、連中も、本当に腐っていない人間には近寄れないのである。
つまり、私もかなり腐っているのだ。
困ったものだ。

では、人間はどうすれば腐るのだろう?
それは、自己に制限を加えないこと・・・言い換えれば、放埓(勝手きまま)であることによってだ。
肥満は腐敗への道である。なぜなら、食への制限を怠っているということだし、運動したくないという怠惰な気持ちに制限を加えていないということだからだ。
アルコールや性欲への制限を加えない者は、即座に腐る。
お釈迦様は、7つの掟を守れば、絶対に繁栄すると言ったが、実は、その1つでも守れば繁栄する。
例えば、「老人を敬え」であるが、人間は放っておくと老人を侮るのであり、その気持ちに制限を加えることで醜くなるのを逃れ、美しければ繁栄するのである。
あるいは、「良家の(まっとうなという意味だろう)女性や少女を大切に扱え」とも言ったが、これも、自己の心に制限を加えないと、性欲の垂れ流しになり、それは男をこの上なく醜くする。

いくら念仏を唱えても、自己に制限を加えない者は何の力も得られないが、怠惰な心に制限を加えて、毎日1時間とか数千回の念仏を唱える者であれば、美しくなり、力も与えられるだろう。
まあ、それだけ出来るなら、今の時代、ExcelのVBAでもマスターすれば良いと思うのだが(笑)。

私も、放埓になってきたから、醜いゾンビが近寄ってくるのだろうなあ(笑)。
ここは一発、ぐっと引き締め、美しくなろうと思う。
それには、「断ち物」が一番である。
別に天下取りを願うのではないから、上杉謙信のような女断ちはしなくていいだろうが、何か差し出したくないものを生贄にすることは大切である。
頑張ろう。









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駄目な我々の最終最後の武器

世の中には、どうしようもなく駄目なやつが、かなりいる。
なんとか社会の最底辺に加わることが出来ても、蔑まれ、疎まれ、そうしたくないのにヘラヘラ笑うしかない人達だ。
彼らには性格的な欠点も多いのだろうが、それを論じているとキリがないし、そもそも、性格の欠点なら誰しも同じだ。
彼らの本当の欠点は、力がないことだ。

とはいえ、彼らを蔑み、嘲る者達もまた、力がないことでは彼らに近い、あるいは、本当は同等なのだ(徒党を組む力があるので、嘲る側に回っているだけ)。
彼らに対して、一言でも口汚い言葉、蔑む言葉を吐く者は全てそうなのだ。

最底辺の者達と、彼らを蔑む、実は同じ穴のムジナの者達。
そんな、我々のような者達は、どうすれば苦境を脱することが出来るかというと、力をつけるしかない。
私は、以前は、それは簡単だと思っていた。
単に、早寝早起きをすれば良いだけであるから。
ついでに、朝、腕振り運動を千回もやれば、それで悪夢は終わる。
なぜなら、よほどのことがない限り、1年365日、朝5時前に起きる、どうしようもない人間はいないし、それでしかも、毎朝腕振り運動千回を欠かさない駄目人間など、想像も出来ないからだ。
しかし、早起きだって、出来ない者は出来ないのだと分かった。

人間が力を付ける原理は、たった1つなのである。
それは「自己制約」という言葉で表現出来る。
人間には、放埓(ほうらつ。勝手気ままの意)に振舞いたいという性質があるが、それに自分で(強制でなく、あくまで自分で)制約を加えれば、神はその数倍の力を与えてくれるのである。
夜更かしして遊びたい気持ちに制限を加え、朝、もっとゆっくり寝ていたいという気持ちに制限を加えれば、それだけでかなりの力が得られる。
だが、放埓に流され、自己に制約を加えない者は、元々持っていた力すら、どんどん失われる。
美味しいものを好きなだけ食べ、酒を飲みたいだけ飲み、すぐにマスターベーションをするような者が、哀れな状態になるのは自然の理である。

そんな駄目な者達・・・と言っても、自分がそうであると認めない方が多いのかもしれなが、認めなくてもいいから(後で気付けば良いから)最後の手段を言うなら、それが、最近私が薦めている「EA(えれくとりっく・えんじぇぅ)メソッド」である。
私はこれに救われている。
重ねた手を胸の前で回すだけだ。胸に当てるだけでも良い。ただ、回した方が効果がある。
それを、額、頭頂でもやれば、さらに効果がある。
詳しくは、アレクサンダー・ロイドの『「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく』を参照することを奨める。
なぜ、これを勧めるかというと、やれば必ず、ストレスが消え(少なくとも軽くなり)、視界の明るさがアップするのを感じたからである。それは、確実にエネルギーが高まっていることを示す。
最適なやり方は人それぞれであるので、個別の質問には応じようがない。
最もベーシックには、重ねた手を胸の上に置くだけであり、これだけでも効果がある。
時間は、最低で1分で、10分程度やるのが好ましい。
もちろん、他にもやり方はある。
しかし、他のやり方を知らないか、知っていても続かないなら、これが最後の砦かもしれない。
この通りにやれば良いというのではなく、私が手を胸に当てることのフィーリングを感じる2つのYouTube動画をご紹介する。
【PS4FT】えれくとりっく・えんじぇぅ【初音ミク:スクール(ディープスカイ)眼鏡なし】PV
【IA OFFICIAL】Shooting Star / TeddyLoid feat.IA (MUSIC VIDEO)









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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