ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自己制約

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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なぜ言葉の魔法が効かなくなったか

芸能人の自殺のニュースが続いているらしいが、元々、日本は異常なほどの自殺大国だ。
自殺の原因なんて、恨みとか絶望と思われるかもしれないが、結局のところは、無力感から来る不安だ。
本来、不安なんてものは、一休さんの遺言ではないが「心配するな、なんとかなる」と思ったり、「大丈夫」と口にすれば消えるものであるが、今の日本ではそうではない。
その理由は2つで、1つは、日本人の心が弱くなったこと、そして、もう1つは、日本人の判断力が狂っていることだ。
なぜそうなったかというと、学校やテレビによって、日本人がモラルを失ってしまったことに因る。
モラルがないと、誤った判断しか出来ず、心が弱くなるのである。
そもそも、モラルとは、「放埓(勝手気まま)に振る舞いたいと思う気持ちに制約を加えること」だ。
あくまで「制約を加える」ということで、全て抑えるわけではない。しかし、理性ある人間として必要な分は抑えなければならない。
そして、個人的欲望に制限をかけずに生きている者は、正しい判断が出来ず、しかも、心が弱いのである。

なら、心を強くする方法は簡単で、それは、モラルを持つことだ。
分かり易い言い方をすれば、「個人的欲望に加えた制約の倍の力を神はその者に与え、世界を闊歩させる」だと考えて良いと思う。

尚、断ち物(特定の欲望を完全に断つ)のような極端なやり方は勧めない。
断ち物で有名なのは、幼少だった徳川家光の重病からの回復を願い、春日局(かすがのつぼね)が、生涯、薬を飲まないと誓ったり、上杉謙信が、戦の勝利を願って、生涯、女を抱かないと誓ったりしたものである。
それで、家光は治り、謙信は戦で無敗だった。そして、彼らは誓いを実際に、生涯に渡って守った。
だが、願いが高貴でない場合は、必ず破滅が訪れる。
これも、分かり易い譬えで言えば、個人的欲望で断ち物をすれば、悪霊や動物霊の力を借りることになり、一時的にうまくいって喜ぶが、すぐに悲惨な目に遭うのである。
願いがまごうことなき高貴な場合は、やることを止めはしないが、もし、誓いを破ったら、どうなるか分からない。

モラルを高める・・・つまり、自己制約の力を高める楽な方法には、腕振り運動や四股(佐川式に準じる)を数多く行うことがある。
それにより、無意識のエネルギーを多量に味方に出来るからだ(気功や合気武術では、気を蓄えるといった言い方をする)。
そうなれば、自分の心を支配し易く、「大丈夫」と口にすれば、容易く大丈夫と思える。
そして、大丈夫と思えば大丈夫になるし、なんとかなると思えばなんとかなるのである。

「ありがとう」「ツイてる」などといった魔法の言葉と言われるものがあるが、モラルのない、心が弱い人間には、あまり効力はない。
ただ、心が弱い者でも、思い切り苦労したり、温かい人の情けに触れたりして、心が純粋になると、そんな言葉が有効になることはよくある。
だが、そうでないなら、モラル、すなわち、自己制約の力が必要であるのに、このことを言う者がほとんどいない。まあ、これを言うと、本が売れないのかもしれないが(笑)。








なぜ「ツイてる」と言ってもうまくいかないのか?

因幡の源左(いなばのげんざ。1842~1930)は、江戸時代末期から昭和の男性で、Wikipediaやweblio辞書に載っているくらいだから有名人であり、彼のことを詳細に綴った本や、彼の語録を集めた本もあるし、彼の話を引用した本はかなり多い。
では、因幡の源左は、どんな業績を上げた人かというと、特にないと言うか、商業的、政治的といった物質的なものでは何もない。
それなら、宗教人かというと、彼はただの農民で、僧侶や牧師といった類の、宗教を職業とする人ではなく、宗教ということでは、単に、仏教の信仰者の一人だった。
彼は、「妙好人(みょうこうじん)」と呼ばれる。
妙好人とは、浄土仏教の在家の熱心な信仰者で、特に、浄土真宗の信仰者を指し、念仏者であると言える。
とはいえ、因幡の源左は、信仰振りが凄かったのかというと、彼が長時間、一心不乱に念仏を唱えていたというような話はなく、やはり、ただの農民なのである。
では、そんな彼がなぜ名を残しているのかというと、実は難しいのだが、超越した人間性のためとしか言えないと思う。
そんな彼の人間性を示すお話は多い。
例えば、彼の畑の芋が掘り起こされて盗まれた時のことだ。
それから権左は、畑に鍬(くわ)を置きっぱなしにした。
その理由を尋ねると、「手で掘って怪我をしてはいけないから」だった。
また、権左が町に出て、作ったものを売り、お金を持って帰る時、強盗が彼の金を奪おうと、彼の後をつけてきていた。
すると、権左は、強盗に近付き、
「お前がついてきているのは気が付いている。金が欲しいならやるから、とりあえず、家に来い」
と言って自分の家に連れて来ると、食事を振る舞った。強盗は改心して帰っていったという。
また、こんな話もあったと思う。
権左が訪れた家で金がなくなり、盗まれたと思われた。
権左の仕業と決めつけた、その家の者が権左に「返せ」という額を権左は黙って支払った。
しかし、後で、その金が見つかり、その家の者が権左に謝罪するが、権左は別に気にしていない様子だったという。

権左は、「いい人」と言うよりは超人だったと思う。
では、なぜ、権左は超人になったのか?
念仏を唱えたということもあるが、彼には悟りというものがあった。
そのきっかけは、彼が19歳の時に、父親が亡くなったことだ。
父親は死ぬ直前に、権左に「これからは親様を頼れ」と言った。
ここで言う親様とは、阿弥陀仏のことだ。
それなら、念仏を唱えて、阿弥陀仏の力を頼れば良いのだが、これは誰しもそうだが、神仏に頼るということは本当はどういうことか、権左には分からなかった。
だが、こんなことがあった。
権左が、彼が可愛がっている牛を連れて、山に草刈りに行った時のことだ。
彼が刈った、大きな草の束のいくつかを牛に背負わせ、自分も1つ背負って帰ろうとしたが、やがて、権左は疲れてしまった。
そこで牛に、「すまんがこれも頼む」と言って、自分が背負っていた草の束も牛に背負わせたが、牛はいっこう平気そうで、自分はすっかり楽になった。
その時、「阿弥陀仏に頼む」とは、こういうことだと悟った。
はからずも、イエスが「重い荷を負った者は私に預けよ」と言ったのと同じである。
権左とほぼ同時代のインドの聖者ラマナ・マハルシも「神はいかなる重荷にも耐える。荷を下ろして安心しなさい」と教えている。

まあ、早い話が、「がんばるな」ということである。
だが、「がんばるな」と教える、宗教がかった自己啓発指導者は今でも多いが、世の中を見ると、がんばらない者にはロクなやつがいないことも確かである。
「少しはがんばらんか!馬鹿者!」
と言いたい連中がそこかしこにおり、やっぱり、何かは頑張らないといけないのかと思う。
斎藤一人氏の本を見ると、最初のうちこそは、「ツイてる」とか「ありがたいなあ」と言えばうまくいくと書かれていて嬉しい気分になるが(笑)、読み進めていくと、なんだか話がどんどん難しく抽象的になっていき、厳しいことをどんどん言い、「俺のように、こんなふうにしないといけない」という妙な話になっている(笑)。

だが、話は簡単だ。
まず、がんばる必要はない。
だが、モラルが必要なのだ。
がんばらないロクデナシにはモラルがない。
モラルとは、個人的欲望を抑える、つまり、自己制約のことだ。
別に、無制限に制約しろと言うのではない。
ただ、放埓(勝手きまま)では駄目で、限度を守るということだ。
その限度を知る者を、モラルを持った者と言うのである。
言い換えれば、「放埓に振る舞いたい気持ちを抑え、自分に制約を課すること」がモラルであり、モラルがない者がうまくいくことはない。
斎藤さんにしろ、皆、なんでこんな簡単なことを言わないのか不思議である。
いくら「ツイてる」「ありがたい」と言っても、モラルがない者が成功することはない。
しかし、モラルがあれば、難しい話は不要で、「ツイてる」でも「大丈夫」でも、何と言ってもうまくいくだろう。
因幡の源左は、ただのいい人ではなく、モラルがある人だった。








なぜ偉くなった者の大半が落ちぶれるのか

モラルがない人間が成功することは決してないし、成功どころか、平安すら得られないだろう。
もし、モラルがない人間が富や地位を得ると、間違いなく破滅が訪れる。モラルがない人間が、外面上は、豊かだったり権勢を保っているように見えても、普通の人以上に惨めなのである。
なぜなら、モラルがない者の判断は異常であり、大きく間違っているが、それを無理に通そうとすれば大きな反動が来るし、また、身近な者からは避けられるようになるからだ。

モラルとは、個人的欲望に自ら制限をかけることで、一言で言えば、自己制約のことである。
人間は、誰しも放埓(勝手気まま)でありたいが、それを制限した倍の力を神、あるいは、自然に与えられる。そのように感じるのである。

ところで、ある成功した事業家は、やはり、モラルの重要性を理解しており、社員や家族が簡単にモラルを持てるような指導をしようとした。そこで、その事業家は、誰でも自己制約が出来る簡単な方法を考えた。
それは、家に上がる時、脱いだ靴をきちんと揃えることと、傘をたたんで傘立てに立てることであった。
もちろん、自分の家、他人の家、靴を脱ぐ必要のあるお店や公共の場を問わない。
そういえば、こんな話がある。
ある平凡な男性が、こんなことを言っていたという話がある(かなり昔の話だ)。
「私は、死んで閻魔様の前に出たら、『私は、人生で大したことは何もしなかったが、便所の下駄だけはきちんと揃えていました』と言うつもりだ」
この男性は、モラルがあり、富や栄光とは無縁でも、幸福であると思われた。

だが、その事業家の会社や家庭は、ある時期までは順風満帆だったが、やがて、そうではなくなった。
それなら、上の、便所の下駄を揃えていたという男性も、必ずしも幸福な状態とは限らない。
つまり、小市民、小善人では駄目なのである。
モラルがある人間は、正しい判断力があり、それは、優秀であるということだ。
そうであるなら、リーダーにならなければならないのだ。まあ、いろんな意味でだが。
そしてである。
リーダーは、モラルから挑戦を受ける。
つまり、モラルを捨てる危険にさらされる。
そして、残念ながら、多くの者は、その危険に躓(つまず)き、挑戦に敗れてモラルを失い転落する。転落先は、普通の人よりはるかに低い位置・・・地獄のようなものだ。
その意味、成功などしない方が幸福という面は確かにある。
簡単な喩えで言えば、普通の人は、自分が靴を揃えたり、便所の下駄を揃えればそれで良い。
偉くなりたければ、イエスが言ったように、むしろ、人に仕えないといけない。即ち、他人の靴や下駄も揃えないといけない。
そして、偉くなったら偉くなった分、大勢の人に、靴や下駄を揃えさせないといけない。
さらに、次々襲い来る、モラルを捨てる誘惑に打ち勝たないといけない。
そういったことが出来ないと、たかが人間の成功者など、哀れなものである。

何かのヤクザ映画で、偉いヤクザの妻が言っていたものだ。
「人間、神仏に手を合わせる気持ちがなくなったら終わりです」
特に、大きな自由を持つ者はそうだと言いたいのだと思う。
モラルを保つ優れた方法は感謝の心を持つことで、黒住宗忠も言っていたように、まずは口先だけでもいいから「ありがたい」「ありがとう」と出来る限り唱えることだ。
宗教っぽい感じがするかもしれないが、誰にも強制されず、自主的に、「ありがとう」「ありがたい」などと唱えることは、自己制約の気持ちを起こさせる。つまり、モラルを持てる。
そうであるなら、嫌でも成功するだろう。
小さなことで、ついついモラルをないがしろにする者が多い。そんな者が、いわゆる「うだつが上がらない」のである。それに気付き、「ありがとう」「ありがたい」と唱えれば、豊かになれるだろう。








超少食は正しいか?

世の中には、超少食とか、あまつさえ、不食(食べないこと)で、運命が良くなったり、超健康になるなどと主張する者がいる。
そういった輩は相手にしない方が良いと私は思う。
尚、私も一時、超少食を実践し、それが良いことだと言っていたことがあるが、それは間違いであったと反省している。
超少食は、場合によっては、大食より悪い。

食に関しては、『バガヴァッド・ギーター』の、クリシュナ神の教えが適切であると思う。
即ち、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない」である。
スウェーデンの科学者、政治家、教育家、宗教家であったエマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の言い方も良いと思う。
即ち、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」で、要は、食べ過ぎなければ良いのである。

また、クリシュナ神は、こうも述べている。
「惰眠を貪るな。だが、眠りが少な過ぎてもいけない」
クリシュナ神の教えのようなものは、あらゆることに関し、バランスが大切だということかと言うと、そうとも言えるが、もっと大切なことがある。
それは、人間は、「自己制約(自己コントロール)」が何より大切だということだ。
つまり、人間というものは、放銃(勝手気まま)に振る舞いたい・・・欲望のままに好きなことをしたいという性質がある。
美味しいものを好きなだけ食べたい、性的快楽を果て無く求めたい、偉くなって人をひれ伏させたい、もっともっと贅沢をしたい・・・などである。
そういった欲望は、個人的欲望と言って良いと思う。
そして、個人的欲望を適切な範囲に抑えることを、自己制約(自己コントロール)と言い、それが出来る人間が、本当に優れた人間である。
個人的欲望の自己制約のことをモラルというのであり、本当に優れた人間とはモラルがある人間である。

個人的欲望も、ある程度は必要である。
だが、個人的欲望の1つ、あるいは、特定のものを取り上げ、超少食とか完全な禁欲といったことを称賛する者がいる。
そんな主張をする者が世の中に溢れたら大変なことになる。つまり、間違っている者である。
私の推測では、そんな主張をする者は、称賛されたい欲望(名誉欲)、偽物の大きな力を得たいという、個人的欲望のコントロールが出来ないのである。つまり、モラルがないのである。

ある書によれば、「食は少なければ少ないほど幸運になる」と言った江戸時代の有名な観想家である水野南北は、女遊びに関してはどんどんやれと言ったそうだが、それが本当なら、南北は2重の意味で間違っているのである。
無論、食の慎みは、大変難しいながら、その重要性を訴えたことは立派であったと思う。しかし、それも度が過ぎては、そして、他の個人的欲望は放縦で良いというのが、正しいはずがない。
確かに、水野南北には、妻が8人いたという。
しかし、水野南北は、8人全員を正妻とし、妻たちが歳を取っても、ちゃんと面倒を見たのであり、それをする財力もあった。
気に入らなくなったら捨て、若い女をとっかえひっかえというのは放縦であり、自己制約がないが、水野南北の場合は、その点は自己制約があり、モラルがあったと言えると思う。それが出来ない者に同じことを勧めてはならないはずである。

徳川家康や孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といった意味のことを重要なこととして守り、人にも教えていた。
あらゆることに対し、そんな態度で挑むことを、自己制約と言い、それを実践する者のことを、モラルがある人と言うのである。
そして、モラルがある者こそが幸運なのである。

例えば、パワハラをするような上司は、尊大に振る舞いたいという、人間だれしも持っている欲望をコントロール出来ない・・・つまり、個人的欲望を自己制約出来ない者であり、モラルがないのである。
そのような者は、一時的に良い状況にあっても、すぐに駄目になり、惨めな状況に落ちる。
パワハラの被害に遭った方は、決して自己制約を忘れてはならない。
そうすれば、幸運に恵まれ、状況は改善すると思う。








水野南北を超える幸運の秘訣(千万に一つも外れなし)

江戸時代の、観想(顔や身体の相で運命を鑑定すること)の大家であった水野南北(1760~1834)は、絶対的な確信を持って、運について、こう語っている。
「食が多ければ悪運、少なければ幸運」
水野南北は、これを「万に一つの外れもない」真実と述べている。
これは、水野南北の、長年に渡る、無数の鑑定での結論でもあった。

私は、これは、ほとんどの場合は当たると思う。
しかし、南北だって、「少食でも、この場合は駄目」と言ったことがある。

正しくは、「モラルあれば幸運、なければ悪運」である。
南北の論は、これの応用に過ぎず、根本原理はこれなのである。
分かるように説明する。
モラルとは何かというと、「本能的な欲望を暴走させないよう、コントロールすること」だ。
一言で言えば、「自己制約(セルフ・コントロール)」と言える。
少食の人間というのは、「食欲を暴走させずにコントロール出来る人」で、言い換えれば。「食欲について自己制約する人」だ。
つまり、少食というのは、本能の中の大きなものであることは確かだが、食欲という1つの本能に限った制約なのである。

確かに、食欲をコントロール出来ることは立派なことであり、これが出来る者は、モラルがある可能性が高く、それはつまり、幸運である可能性が高いということだ。
しかし、食欲の他にも、性欲や、優越欲求といった本能がある。
性欲は分かり易いが、ここで仮に優越欲求と言ったものは、自己重要感とか名誉欲とも言え、自分が他人より優れていると思いたい欲求だ。流行りの言葉で言えば、マウントを取りたがることである。
モラルとは、まさに、これらの本能的欲望を暴走させないよう、コントロールすること・・・すなわち、自己制約である。
あらゆることについて、モラルを持った者、自己制約が出来る者は、確実に運が良い。
宗教的な言い方をするなら、「自己を制約した倍の力を、神はその者に与える」のである。
※他にも、生存欲求という生きる本能もあり、これに関しても同様のことが言えるが、話が高度になって難しいので、ここでは省く。

食欲も、性欲も、優越欲求も、本能に根差すものだから、あって当然であり、むしろ、ないと大変だ。
それを暴走させないようコントロールする、即ち、自己制約すれば、幸運が来る。
少食だけでは駄目、(性の)禁欲だけでも駄目、謙虚なだけでも駄目である。
1つを極端にやるのではなく、これらをバランスよくコントロールすべきである。

「本能」という言い方が動物的と感じるのなら、言い換えれば、自己中心的な欲望をコントロールすることが、モラル(自己制約)である。
何度も言うが、モラルが高ければ幸運である。
しかし、今、日本は、凶運へ真っ逆さまになろうとしている。
国民のモラルが、甚だしく低下しているからだ。
だが、その中でも、モラルを持っていれば、つまり、自己制約が出来れば、つまり、個人的な欲望をコントロール出来れば、幸運なのである。
万に一つ、いや、千万に一つのはずれもない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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