イエスって人は、「心配しなくても、必要なものは必ず神様が与えてくれるので安心しろ」と言ったのだが、中国の荘子となると、「一切の作為をしてはならない。無能で無為であってこそ、幸福な生涯を送れる」と言ったのだ。

一方、努力の大切さを訴えたのがサミュエル・スマイルズで、代表作『自助論』の中で、「神は努力する人を助けるのだ」と力説している。

法然や親鸞は、むしろ、努力が害になると述べている。
努力する者は、自分の力を頼っているということであり、仏様に完全に頼っていないので、仏様としては、救い難いところがあるのだという訳である。
これは、荘子と非常に似ているが、荘子の論は、実際は非常に高度である。ただ、荘子は、頭で判断せず、全てを成り行きに任せて作為を離れれば良いと教えている。そうすれば、その理由も自然に分かるということのように思う。

ただ、言うまでもなく、本当に何も考えず、何もしなければ、ひどく哀れな人間にならざるをえないのは確実である。
ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則でも、努力は無用であり、むしろ、してはならず、ただ、願望を潜在意識に引き渡せばそれが叶うと一貫して教えている。
しかし、本当にそれだけであれば、うまくいっても、一生ニートで、おそらく、幸福であることはなく、むしろ、非常に惨めである場合がほとんどのはずだ。

よって、親鸞や荘子の教えは素晴らしくても、孔子やスマイルズの教えを求める人も多いのだ。
ジョセフ・マーフィーや引き寄せの法則が人気があっても、やはり、自己啓発や能力開発業界も盛況なのである。

そして、我々はどうすれば良いのかと迷うのである。
「バランスが大切だ」なんて言う人もよくいるが、それは、適度に努力し、適度に天に任せろという意味だろうか?それでは、いずれの側の教えにも合致しない。
法然や荘子は、徹底して努力を避けよと言っているのだし、孔子やスマイルズは、徹底して努力し励めと言っているのだ。

ここで、止揚が必要になる。
新たな視点を導入し、問題をより高いレベルで構築し直し、いずれの教えも成り立たせるのだ。
それでこそ、全てうまくいく。

実は、どちらの側にも立たない、つまり、優れた止揚を実現しているのが、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』なのである。
アルジュナは、王子として戦争で立派に戦わなければならなかったが、同時に、敵の中にいる、尊敬する先生や親しい叔父さん、そして、愛すべき友人達を殺したくなかった。
悩むアルジュナに、至高神クリシュナが教えたことは、まさに止揚であった。
ラマナ・マハルシも、ラーマクリシュナも、『バガヴァッド・ギーター』を賞賛するが、これこそが至高の聖典であるのは確かと思う。これに書かれたクリシュナの言葉から想像すると、この教えは、神のごとき高次の存在、通俗的な表現をすれば高度に進化した宇宙人がもたらした教えであるのだろうと思う。

クリシュナは、アルジュナの問題をどう解決し、アルジュナの悩みを消したのだろう?
それは、人智の及ぶところではない。
だが、『バガヴァッド・ギーター』の教えは、孔子や荘子の教えを否定するものではない。これらの、表向きの解釈を止揚し、高い次元に持っていき、真の意味を明らかにするのである。
アルジュナは結局戦う。そして、叔父さんや友人を殺すことになるだろう。それは一見、孔子の仁義に、荘子の無為に、共に反する。しかし、同時に、双方を輝かせるのである。
なぜなら、アルジュナは殺しても、殺していないからだ。敵は既に神に殺されているのだ。

ラマナ・マハルシは言う。
「あなたは有能な財務長官として、責任を持って精力的に仕事をする。しかし、あなたは何もしていない。巨大なプロジェクトを率い、大きな成果を上げても、あなたは何もしていないのだ」
この意味が、頭ではなく、心の底から納得できれば、あなたはこの世界で自由な存在になっているはずだ。









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