ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自信

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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本当の自信を持つには

世界中の一流人物にも愛読者が多いエマーソン(エマソン)の『自己信頼』は、とにかく自分を信頼しろ、盲目的に自分を信じろと言う。
たとえば、どんな芸術作品だって、あなたの評価を待っているのだと言う。それほどあなたは信用するに足る重要人物であるということだ。
これを見ると、私は青池保子さんの『エロイカより愛をこめて』(1976~2012。全39巻)という漫画の初めの頃に、エロイカを名乗る同性愛者の怪盗グローリア伯爵が、「私が良いと言えばそれが価値になる」みたいなことを言ったのを思い出す。
エロイカはそんな超ナルシストのかなりイカれた男であるが、エマーソンの主張もエロイカに匹敵するナルシスト振りだ。

だが、エマーソンは「どうやったら自信を持てるか」といったことは何も言っていないように思う。
ただ、「あなたにはそれだけの価値がある」と言うだけだ。
ホルストの『惑星』中の『木星』の曲を使った平原綾香さんの大ヒット曲『ジュピター』に、「夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」という美しい歌詞(作詞は吉元由美さん)があるが、「そうは言っても、どうやって自分を信じるのだ?」と言いたい人が多いと思う。
そりゃ、エマーソンは14歳でハーバード大に入学、18歳で卒業した天才だから自信も持てそうなものであるが、はたして普通の人はどうすれば良いのか。まして、普通以下の人は。

ところが、エマーソンは、親にしっかり食べさせてもらっている少年こそが自信を持っていると言う。
つまり、経済的な不安のない少年が、最も強いというわけだ。
どういうことかと言うと、そんな少年は、誰の顔色をうかがう必要もないからだ。それはつまり、自分より強い人間はいないと思っている領主のようなものだ。
少女に関しては、当時はアメリカでも女性の地位が低かったこともあり、少年のようにはいかないかもしれないし、女性の権利問題は今日でも解消されていないが、それなら、十分に権利が保障された令嬢の場合で考えても良いと思う。
だが、世間常識では、そういった自信は、幼稚であり、大人になってもそうであるなら、健康的でなく、不遜であり、謙虚でないことになる。
だが、うろ覚えだが、ビートルズの『ヘルプ!』でも、「僕は子供の時は自信があって、何でも出来た。でも今はダメダメだ」みたいなことを言っていたと思う。
そしてだ。
子供の時のような自信を取り戻してみれば、それは非常に良いものであることが分かるのだ。

で、どうやれば、そんな子供の時のような自信を取り戻せるかだが、最近ここでよく取り上げている、ネヴィル・ゴダードの想定の法則を使えば簡単だと思う。
他に適当な方法がないと思うほどだ。
想定の法則の使い方は、願いが叶ったらどんな気持ちかを想像するだけだ。
そこで、叶ったら自信を持てるような願いを想定すれば良い。
たとえば、仕事で成功するとか、1億円持つとか、憧れのアイドルを恋人にするとか。
本当の願いであることが必要だが、それなら(それが本当の願いなら)、想定の法則のそのメソッドをやった瞬間に自信が出来る。
その瞬間に願いが叶っているからであり、1度や2度では少ないながらも、その実感は得られるのだからだ。
そして、何度も繰り返せば、想定の法則に従って願いは現実化する。

温かい家
AIアート765
「温かい家」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン)※電子書籍
(2)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン)※紙の本
(3)エマソン名著選 精神について(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(4)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(5)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(6)The Power of Awareness(Neville.Goddard)
(7)エロイカより愛をこめて 1(青池保子)

自由の掟

確かに、私の敬愛する岡田虎二郎が言ったように、地球上を闊歩する力を得、自由に生きるために、努力、克己(自分に打ち勝つこと)、忍耐は必要ない。
だが、だからといって、甘ったれた根性で、人の真似ばかりし、言われた通りにやるだけの奴隷のような人間でも駄目なのだ。
人間の本質が最初からそうである通り、世界に1つだけの花と言えるだけの個性を輝かせ、特別な存在でなければならない。
努力して特別な存在になるのではない。
元々そうであるように、特別な存在であらねばならないだけだ。
それには、ただ、やりたいことをやれば良いだけである。どこに難しいことがあろうか?

好きなことを、自分の意思で行うとは、どういうことだろうか?
それは、3つのことをしないことで証される。
1つは、「泣き言を言わない」こと。
1つは、「言い訳をしない」こと。
1つは、「自慢をしない」こと。
つまりね、何もする必要はない。
ただ、好きなことをやりながら、この3つをしなければ良いだけである。

さて、本当に好きなことをして個性を磨いている者と、したいことをしているフリをしているだけの者との違いは何だろう?
それは、他人の評価を気にするかどうかだ。
無論、必要な時には、正当な評価を受ければ良い。どうせ、大絶賛に決まっているのだから(笑)。
しかし、人目を気にしたり、単なる主観的な意見にいちいち反応してはならない。
たとえ偉い人であっても、その人の個人的評価に惑わされるな。
大切なものは、自分の評価だけだ。
「私が良いと言えば、それが価値になる」
このくらいの自信がなくてはならない。
まあ、ここまで一足飛びにはいかないので、まずは、好きなことをすることだ。
泣き言を言わず、言い訳をせず、自慢をせずにね。








即座にあふれる自信を持つ方法

学校に入学する時や、会社に入社する時に、不安を感じるだろうか?
まあ、かなり多くの人がそうで、そんな不安を感じることが慢性的になっている人も少なくないだろう。

だが、能力さえ高ければ問題ない。
自信たっぷりで入っていけば、その後も快適だ。
では、能力が高いとはどういうことだろう?
それは、自分の能力が高いと決めつけることだ。
では、私がそうなのかというと、たまにはそうだ(笑)。

私は、幼稚園生活が終わる頃には、ズタズタに自信を失っていた。
悪意なのかどうかはともかく、先生達の、私へのあの言動では当然の結果だった。
しかし、小学校入学の時は自信たっぷりだった。
きっと、蝶ネクタイをしたからだ(笑)。
いや、お洒落は、自信を高めてくれることが多いのだ。
ソウルオリンピックで女子100m、200m、4x100mリレーで金メダルを獲得し、今だ、100mと200mの世界記録保持者であるフローレンス・グリフィス=ジョイナー(1959~1998)は、「走るクレオパトラ」と呼ばれるほど、派手なメイク、ユニフォーム、ネイルで出場したが、そんなことをした理由について、彼女は、「お洒落をすると自信が出るから」と言っていた。
しかし、私は、小学校入学からしばらくして、すっかり自信を失った。
女性教師が私を激しくこき下ろし、タチの悪い級友達がそれに乗って私を馬鹿にしたからだ。
そこからずっと、自信のない暗い小学校生活を送ったが、5年生で転校する時には、溢れる自信と共に新しい学校に登場した。
そこはかなり田舎で、私は都会から来たからだ(笑)。
いや、自信を持つ理由なんて何でも良いのである。そこはよく覚えていていただきたい。
もちろん、私の学校生活は、それまでと打って変わって快適で、女の子にもモテモテだった(まあ、おかげで散々な目にも遭ったがw)。自信があれば何でも出来るのである。
しかし、それも中学校入学で終わる。中学校というのは、体制に従わない生徒の自信を徹底的に叩き壊す仕組みがあるからね。おかげで、以降は引きこもりである(笑)。

とにかく、自信を持つことだ。
自信とは、自分は能力が高いと決めつけることだ。根拠など不要だ。
実績も資格も何もなくても、「俺、凄い」「あたし、出来るの」で良いのである。
ただ、こじつけるものが何かあった方が、決めつけ易い。
たとえば、こんなことがあった。
昔、私がTM(超越瞑想)を始めて1か月くらいの時のことだ。
私は、交通違反(運転時の信号無視)で警官に捕まった。
しかし、「俺はTMをやっているから」という自信があったので、警官を下がらせることが出来た。これは誓って事実だ。
TMはその後やめたが、自信を持つことに利用出来たのである。もちろん、TMでなくても何でも良い。
念仏を唱えているから、腕振り運動をやっているから、ナンバ四股をやっているから・・・もう何でも良いのである。
ただ、自信とは、誰かが与えてくれるものではなく、自分で持つものであることを忘れてはならない。
日本人は民族的に言って、十言の神咒(とことのかじり。「アマテラスオホミカミ」と唱えること)との相性が良く、これをやっているから大丈夫だという自信を持ち易いのではと思う。
昔、書いたこともあるが、割と普通の女の子(小5位)にこれを教えたら、3か月で天使に化けた(言い方がおかしいが)ことがあったのだ。
まあ、やれることは無限にある。
そう言えば、最近、私は自信に欠ける(笑)。自信を持つため専用に何かやるのも良いものであると思う。








一番大切なのは自信

人間にとって一番重要なものは自信だ。
自信のない者に見込みはない。
だが、自信はあるが実力が伴わない迷惑なやつがいると言いたい者もいるかもしれない。
しかし、そんなやつ(実力はないが自信だけあるように見える者)は、本当の自信を持っていない。
なぜなら、自信があれば実力は勝手に付いて来るからだ。
そのカラクリはこうだ。
本当の自信があれば、積極的に出て行き、そこで、自分の実力のなさを思い知るが、それはあくまで、現時点で実力がないだけであり、それで自信を失ったりしない。単に、これから実力をつければ良いだけであり、自信があって積極的な者は、すぐに実力を得る。

では、どんな者が自信を持っているかというと、一番望ましいのは、自信があるように育てられた者だ。そんな者は幸運であり、人生を楽に楽しく生きていける。
だが、推測出来ると思うが、そのような者は、今の世の中では少ない。
人工的で権威的な社会では、大人になるにつれて、自信を失うような仕組みになっているからだ。
見える実績や、見える力をどんなに身に付けたって、本当の自信はさっぱり得られない。
見えない力、透明な力を持つ者だけが、本当の自信を持てる。

自信より勇気が大切だと言う者もいるが、それは、そう言う者に勇気があるからで、その勇気は自信に支えられていることに気付いていないだけだ。
自信のない者に勇気があったりはしない。
エマーソンが「根拠のない自信を持て」「無制限に自分を信じろ」と言ったのは全く正しい。
しかし、普通の人には、それは出来ない。

では、自信は、どうすれば得られるか?
腕振り運動をすることによって。
ただし、半端ない数をやらないといけない。
もちろん、腕振り運動が唯一の方法ではなく、何でもいいから、延々繰り返す行を、無駄な努力と了解し、何も求めず、愚直に行えば良いだけだ。
どのくらいやれば良いかというと、自信がつくまでだ。
あらゆる行の中でも、腕振り運動が、結局、一番楽で、一番間違いがないと思う。
一方、坐禅、静坐、読経、祝詞、念仏・・・などで、心身の邪気を祓い、自我を浄化させることは、かなり難しい。
そこにいくと、例えばだが、『気功革命』にある「甩手1」で、邪気を祓えば、身体も心も、自ずときれいになる。
自信がある者が、「雨よ上がれ」と言えば、雨は上がる。
自信がある者には、望まなくても幸運が訪れる。








本物の自信

世の中には、まるで駄目な人間もいるが、そうではなく、「そこそこ出来る」し、努力もするのだが、限界が見えてしまっている者もいる。
そんな者の中には、トップに立ちたいという願望を持っている者も少なくないが、せいぜいがCクラス。例えば、野球で言えば、プロ野球のスター選手を夢見ているのだが、現実には、強豪ともいえない高校の野球部で、「頑張ればレギュラーになれないこともない」ようなポジションなのである。
言ってしまえば凡人で、そんな者が大化けしてトップクラスに入ることは、まあ、ない。

上昇志向はあるが、低空の壁に阻まれる者・・・そんな者は、子供の時、自信をつけさせてもらえなかった場合が多い。
漫画家だった楳図かずおさんは、3歳の時、家のふすまいっぱいに絵の落書きをしたのだが、それを見た両親は、その絵を絶賛したらしい。
もしかしたら、実際、3歳にしては凄く上手かったのかもしれないが、そんな親でなければ、後の楳図かずおはなかっただろう。
その楳図かずおさんが漫画家をやめた理由も、聞くところでは些細なことだった。
それは、出版社の者が、楳図かずおさんに、「あなたの手の描き方が良くない」と言ったことらしい。
この2つは、人間は、いかに褒められ認められることが大事で、貶されることがダメージになるか、かなり極端に示しているが、大方では、誰でも、だいたいこの通りなのだ。

子供は褒めないといけない。
ただし、闇雲に褒めて良いわけではない。
その子が好きなことで、自主的にやったことを褒めないといけないのだ。
小さな女の子が、テレビでバレリーナが踊るのを見て、その真似をして踊ると、親が、「まあ!バレリーナのようだわ!」と言うと、その子は「いい気」になるが、自信を得たりはしない。
また、子供にピアノを習わせ、やる気を出させようとして、ピアノを弾くその子を大絶賛するようなのも駄目だ。そもそも、その子は、自主的にピアノに取り組む気はないかもしれないし、あまり楽しくない練習をしている子にとって、わざとらしい称賛は、自信をつけるどころか、馬鹿にされた感じがするのである。

つまり、子供が何が好きか、また、自主的にやっているかを分かる親でなければ、子供に自信をつけてあげる褒め方は出来ない。
何でもかでも、褒めれば良いってものではないのである。
そして、ほとんどの者は、そんな褒め方をされたことがないので、自信がないのだ。

インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの自伝『あるヨギの自叙伝』に、タイガー・ババという、虎と戦うヨギ(ヨガ行者)が登場する。
どんな強い人間だって、健康な大人のライオンと戦って勝つことは不可能だが、ライオンより身体が大きい虎では、さらに無理である。
向こう見ずにライオンと戦って、九死に一生を得た者はいたが、虎相手では、救助される間もないし、そもそも、それに挑むほどの愚か者もいない。
だが、タイガー・ババは虎と戦い、無傷で勝った。
そして、タイガー・ババによれば、これは誰でも出来ることだと言う。
タイガー・ババは、普通の人は「冷静な自信」に欠けると言う。
冷静な自信・・・静かな自信と言っても良い。
この言葉を覚えておくべきである。
タイガー・ババは、幼い時、親の本気の称賛を受けたか、あるいは、何らかの努力で、そのようにされた人間と同じ心を持ったのだ。

ほとんどの者は、幼い時、親に馬鹿にされ続け、あまりに自信を失っている。
そんな者だって、エマーソンの『自己信頼』を読めば、本物の自信を持った人間に憧れ、それが人間の正しい姿だと分かるかもしれない。
その本を読むことは有益だろうが、おそらく、十分ではない。
ところで、エマーソンが『歴史』の中で、こんな方法を教えている。
「英雄の物語を読む時、それを自分の物語と見なさなければならない」
突飛なアイデアに聞こえるかもしれないが、全く正しい。
英雄の物語は、実際に、あなたの物語なのだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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