「やらないよりマシ」「ないよりマシ」という、考え方・・・と言うより、哲学と言って差し支えないと思うものがあり、私は大切に思っているが、実践していないので損をしている気がする。
「やらないよりマシ」哲学とは、言葉の通り、全くやならい・・・ゼロに比べれば、たとえ少しでもやった方が良いというものだ。
例えば、腕立て伏せと言えば、世間の筋トレマニアは、「多くやってこその腕立て伏せ」「多くやらないと意味がない」「限界までやれ」と言ったり、YouTubeで自分が、普通の人には無理な回数をきっちりしたフォームで楽々やる姿を自慢し、少ない回数しかしないことを、いかにも無価値のように示唆する。
しかし、1日たとえ3回でも、やるのとやらないのとでは、長い間に雲泥の差になる。
腕立て伏せは普段、全くやらず、1回でもシンドイという人が大半だが、1日3回でもやっていれば、1回や2回は、YouTube動画で自慢しているマッチョマンと同じ位出来るようになるし、実際、全くやらない人との差は歴然としている。
黒柳徹子さんはスクワットを何十年も毎日やっているらしいが、彼女のやり方である、非常にゆっくりで、少ししか曲げないことを、「あんなのスクワットじゃない」と言いたげに見下す人が多いが、ああいう誰でも出来るスクワットをやってさえいれば、歳を取って歩行が困難だったり、歩けない老人だって、軽々と歩けている可能性が高いのである。
若い人であれば、すぐに効果が表れ、全くやらない人との差は広がる一方になる。
ある牧師さんは、説教に生かそうと心理学の勉強をしていると言うが、1日15分、トイレで用を足しながら行っていると言う。
しかし、それだけでも、長年やっていると、大学で心理学の講義を受けているのと同等の時間学べ、しかも、自主的にやっているのだから、身に付くのである。
外国のことは分からないが、日本では、「ちょっとやること」「ゆるくやること」を馬鹿にし、苦しいほど多く、ハードにやってこそ偉いという観念が強いように思う。
だが、本当に偉いのは「1年365日やる」ことである。
昔、あるテレビ番組で、腰回し運動の指導者が、ゆっくりした腰回し運動を、1日1分でいいからやって下さいと言って実演すると、出演していた50代の人気女性タレントが「これ、けっこう効きますね」と言い、その指導者が少し戸惑っていた。
「効く」ほどのものであるはずがないことが明らかだからだ。
その女性タレントは「運動は“効く”ほどきつくてこそ効果がある」という世間的信念にどっぷり飲み込まれているのである。
また、やはりその番組に出演していた、やはり50代くらいだが、若々しい人気歌手は、腰を激しく振って見せ、その腰回し運動を馬鹿にしている様子だった。
実を言うと、私自身は、腰回し運動はあまり好きではないが、腰を前後左右にゆっくり動かす運動なら、毎日少しでも行う価値は十分にあると思い、私も、毎朝、前後100回、左右100回で行っているが、10回でも20回でも、やらないよりやった方がずっと良いし、毎日欠かさずやれば、全くやらないのとは雲泥の差になる。
それを、やる日は数千回やっても、やらない日が多いというのでは、効果がないばかりか、身体を痛める危険があると思う。
何ごとも、1年365日、毎日欠かさずやってこそである。
しかし、ストレスに感じるほど、きつかったり、多かったりだと絶対続かないのである。
私は一頃、腕立て伏せを毎晩決まった時刻に200回以上やって自慢していたが、腕立て伏せの時間になると、毎日、憂鬱で仕方がなかった。
何と言ってもシンドイ。
しかし、根性でやる自分を称賛したくてやっていたが、精神的負担もあったのだと思う。肩を壊してしまい、また、全身に変調があった。
今は、何かの武道で行われているらしいが、肘をほとんど曲げず、肩周辺の筋肉を主に使って、数センチの振幅で行う腕立て伏せをやっているが、数十回なら楽々で、私はもう何年もやっているが、素晴らしい効果がある。
法然は、念仏のやり方を教える際、「決まった時刻に回数を決めてやりなさい」と言い、暗に、「多ければ多いほど良い」という雰囲気を見せ、自分は1日6万回唱えていると言い、実質、「数千回やれ」といった圧力をかけていたかもしれない。
しかし、それでは、よほどの悩みを抱えた人でない限り続かないのだ。
まあ、他にやることがない時代だったので、それで良かった部分もあったに違いないが、少なくとも現代では、「10回でいいから唱えなさい」で 良いと思う。
ちなみに私は、毎朝、仏壇に水を上げ、線香を炊くが、その際、5回だけ心の中で唱えている。
アファーメーションも、やるなら、ずっとやるのが確かに好ましい。
しかし、朝、目が覚めた時や、風呂に入っている時、あるいは、夜寝床についた時、どこかの大商人のように千回とは言わず、せめて10回、いや、3回でも唱えれば良いと思う。
まあ、「お金がある」「生きている」「ありがたい」「神様の奇跡が起こる」といった言葉なら、せめて10回くらい唱える気持ちがないのもどうかと思うが、3回でも、本当に1年365日やれば 立派なものである。
ただし、やはり、「今日は忘れた」が何度もあるようでは駄目である。
また、「私はこの言葉を毎日10回唱えています」といちいち報告してくる者は、どこか間違えているのである。黙ってやれである。
黙って、淡々と、一生続ける気でやれば、天の恵みがないはずがないだろう。
「やらないよりマシ」哲学とは、言葉の通り、全くやならい・・・ゼロに比べれば、たとえ少しでもやった方が良いというものだ。
例えば、腕立て伏せと言えば、世間の筋トレマニアは、「多くやってこその腕立て伏せ」「多くやらないと意味がない」「限界までやれ」と言ったり、YouTubeで自分が、普通の人には無理な回数をきっちりしたフォームで楽々やる姿を自慢し、少ない回数しかしないことを、いかにも無価値のように示唆する。
しかし、1日たとえ3回でも、やるのとやらないのとでは、長い間に雲泥の差になる。
腕立て伏せは普段、全くやらず、1回でもシンドイという人が大半だが、1日3回でもやっていれば、1回や2回は、YouTube動画で自慢しているマッチョマンと同じ位出来るようになるし、実際、全くやらない人との差は歴然としている。
黒柳徹子さんはスクワットを何十年も毎日やっているらしいが、彼女のやり方である、非常にゆっくりで、少ししか曲げないことを、「あんなのスクワットじゃない」と言いたげに見下す人が多いが、ああいう誰でも出来るスクワットをやってさえいれば、歳を取って歩行が困難だったり、歩けない老人だって、軽々と歩けている可能性が高いのである。
若い人であれば、すぐに効果が表れ、全くやらない人との差は広がる一方になる。
ある牧師さんは、説教に生かそうと心理学の勉強をしていると言うが、1日15分、トイレで用を足しながら行っていると言う。
しかし、それだけでも、長年やっていると、大学で心理学の講義を受けているのと同等の時間学べ、しかも、自主的にやっているのだから、身に付くのである。
外国のことは分からないが、日本では、「ちょっとやること」「ゆるくやること」を馬鹿にし、苦しいほど多く、ハードにやってこそ偉いという観念が強いように思う。
だが、本当に偉いのは「1年365日やる」ことである。
昔、あるテレビ番組で、腰回し運動の指導者が、ゆっくりした腰回し運動を、1日1分でいいからやって下さいと言って実演すると、出演していた50代の人気女性タレントが「これ、けっこう効きますね」と言い、その指導者が少し戸惑っていた。
「効く」ほどのものであるはずがないことが明らかだからだ。
その女性タレントは「運動は“効く”ほどきつくてこそ効果がある」という世間的信念にどっぷり飲み込まれているのである。
また、やはりその番組に出演していた、やはり50代くらいだが、若々しい人気歌手は、腰を激しく振って見せ、その腰回し運動を馬鹿にしている様子だった。
実を言うと、私自身は、腰回し運動はあまり好きではないが、腰を前後左右にゆっくり動かす運動なら、毎日少しでも行う価値は十分にあると思い、私も、毎朝、前後100回、左右100回で行っているが、10回でも20回でも、やらないよりやった方がずっと良いし、毎日欠かさずやれば、全くやらないのとは雲泥の差になる。
それを、やる日は数千回やっても、やらない日が多いというのでは、効果がないばかりか、身体を痛める危険があると思う。
何ごとも、1年365日、毎日欠かさずやってこそである。
しかし、ストレスに感じるほど、きつかったり、多かったりだと絶対続かないのである。
私は一頃、腕立て伏せを毎晩決まった時刻に200回以上やって自慢していたが、腕立て伏せの時間になると、毎日、憂鬱で仕方がなかった。
何と言ってもシンドイ。
しかし、根性でやる自分を称賛したくてやっていたが、精神的負担もあったのだと思う。肩を壊してしまい、また、全身に変調があった。
今は、何かの武道で行われているらしいが、肘をほとんど曲げず、肩周辺の筋肉を主に使って、数センチの振幅で行う腕立て伏せをやっているが、数十回なら楽々で、私はもう何年もやっているが、素晴らしい効果がある。
法然は、念仏のやり方を教える際、「決まった時刻に回数を決めてやりなさい」と言い、暗に、「多ければ多いほど良い」という雰囲気を見せ、自分は1日6万回唱えていると言い、実質、「数千回やれ」といった圧力をかけていたかもしれない。
しかし、それでは、よほどの悩みを抱えた人でない限り続かないのだ。
まあ、他にやることがない時代だったので、それで良かった部分もあったに違いないが、少なくとも現代では、「10回でいいから唱えなさい」で 良いと思う。
ちなみに私は、毎朝、仏壇に水を上げ、線香を炊くが、その際、5回だけ心の中で唱えている。
アファーメーションも、やるなら、ずっとやるのが確かに好ましい。
しかし、朝、目が覚めた時や、風呂に入っている時、あるいは、夜寝床についた時、どこかの大商人のように千回とは言わず、せめて10回、いや、3回でも唱えれば良いと思う。
まあ、「お金がある」「生きている」「ありがたい」「神様の奇跡が起こる」といった言葉なら、せめて10回くらい唱える気持ちがないのもどうかと思うが、3回でも、本当に1年365日やれば 立派なものである。
ただし、やはり、「今日は忘れた」が何度もあるようでは駄目である。
また、「私はこの言葉を毎日10回唱えています」といちいち報告してくる者は、どこか間違えているのである。黙ってやれである。
黙って、淡々と、一生続ける気でやれば、天の恵みがないはずがないだろう。