ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

聖母マリア

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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瞬間の啓示

昨夜、述べたが、1932年にベルギーのボーレングという村で、聖母マリアが数人の子供達の前に現れ、ただ、「よい子でいなさい」と言った。
きっと、それだけで、子供達は深い志を持つことが出来たはずだと。

貴い人のたった一言。
これに優る教えはない。
あるインドの聖者は、そんな一言は、火薬に点火する火花のようであると言う。
その火花で火薬は爆発し、穢れを払い、自我を透明にするのだろう。

2004年のNHKの大河ドラマ『新撰組!』を、私はよく見ていたが、その中で、近藤勇が、陸奥国(むつのくに)会津藩(あいずはん)の藩主で京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)に、多分、初めて謁見したのだったと思うが、松平容保は、近藤勇に、ただ一言、「励め」と言い、それを聴いて近藤は感極まった・・・という場面に、強い印象を持った。
「励め」
このたった一言が、近藤勇に新たな力強い志を持たせたのだと感じた。
もちろん、作り話であろうが、そんなことはどうでも良い。
大切なことは、自分がどう思うかだ。

東洋経済誌企画の対談の中で、今をときめくチームラボの猪子寿之氏が、初音ミクさんの『みんなみくみくにしてあげる』を聴き、出だしの、「科学の限界を超えて 私は来たんだよ」というところで泣いてしまったと言われていたが、これも、彼に志を与えたのかもしれない。

必殺の一言は、誰でも与えられたはずだが、きっと、ほとんどの人は、それを見逃すか、忘れてしまうのだろう。
ブルース・リーの『燃えよドラゴン』で、リーが言った、「考えるな!感じるんだ!」は、相当に沢山の人々が覚えていると思うが、それを志にまでするには、受け取る側の器量も必要なのだろう。
私は、猪子寿之氏へのインタビューを電子書籍にした『知の謎はインターネットで解き明かせるか』で、非言語的知性について猪子氏が語るのを見て、この「考えるな!感じるんだ!」の意味が少し分かった気がしたが、志にまではならなかった。
つまり、これ(非言語的知性)は、アップルのiPhoneのどこが良いのかというようなもので、理屈(言語的知性)の上では、iPhoneに特段に優れたところは無いのだが、言葉に出来ないところで、非常に優れているのだろう。
私にとっては、アップルのiPhoneやiPadは、不便極まりないだけで、決して使わないが、もし、使い込む機会でもあれば、私も、信者になるほど惚れ込む可能性は高い。
実際、iPhoneが良いと言う人に、「どこが良いのか?」と聴いても、まともな答は決して返ってこない。
それは、アップル製品全般について言える。
アップルのファンの答は、「とにかく良い」、「どこか良い」であり、せいぜいが、「効率が違う」であるが、「どんな効率?」と尋ねたら、「とにかく効率が高いのだ」としか答えてくれないだろう。
アップルの魅力は、非言語的なものだ。
つまり、「考えるな!感じるんだ!」なのである。

初音ミクさんのコンサート『ミクの日感謝祭』の、『StargazeR』という曲で、ミクさんは、何度か人差し指を立てて見せ、最後に、彼女のその貴い指を捧げるかのように、我々の前に差し出すのだが、それを観て、私は、言葉で言えない何かを悟ったのだった。
しかし、この歌が、私にとって、ゲーテの『ファウスト』の『天上の序曲』(高橋健二訳。森鴎外訳では『天上の序言』)をそっくり現していることを知るのに4年ほどかかってしまった。
それは、「神を目指して、片時もたゆむな」、一言で言えば、「ゆるむな」であった。

必殺の一言は、不意に一瞬に訪れるのであり、それを逃すと、次まで待たなければならない。
そして、おそらく、ほとんどの人は、一生、逃し続けるのだろう。
あなたは、いつ、それがやって来ても良いように、常に、目覚めていなければならない。
そして、一度それを得たとしても、ゆるまずにいれば、さらに新しい啓示が与えられ、より高いステージに進むことになるかもしれない。
いつまでも、今のところに留まっているとは限らない。
しかし、近藤勇は、次の必殺の一言を逃したのではあるまいかと思うのだ。
あなたは、そうであってはならない。









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力ある女神達がイノセンスである理由

ギリシャ神話の神々のことを「人間臭い」と表現する人がよくいると思う。
完全であるはずの神に似合わないように思える行いがよく見られるからである。
しかし、それを、「人間臭い」というのとは違うと思う。
ひどく無邪気に感じる神々の行いは、全く人間臭くなく、それこそ神らしいと思うのである。

ギリシャ神話の最高位の神々であるオリュンポス十二神は、ほとんどがゼウスの兄と姉、そして、ゼウスの子で、例外は愛と美の女神アプロディーテーだけだが、アプロディーテーはゼウスの祖父ウラヌスから生まれた女神である。
オリュンポス十二神は、男神6柱、女神6柱だが、力や勢力において際立つのは、若い女神であるアテーナーとアルテミスである。
アテーナーは大神ゼウスとほぼ互角とまで考えられるし、ゼウスの後継者と思われるアポローンの双子の妹(一説には、先に生まれた姉)であるアルテミスも、アポローンと並び称される。
ところで、アテーナー、アルテミスとも処女神として知られる。
アルテミスは純潔の女神とも言われるが、この2柱の女神は徹底して処女であることに重きを置く。
アルテミスはカリストーという非常に美しく愛らしい精霊の少女を気に入って可愛がり、身近においていたが、カリストーは、彼女を見初めたゼウスと交わり身ごもる。
カリストーの妊娠を知ったアルテミスは、一切の事情を知ろうともせず、カリストーが処女でないという理由だけで追放する。
普通に考えたら、アルテミスの行いは理解し難く、カリストーを可哀想に思うだろう。

だが、ギリシャ神話でいう処女とは、固定観念を持たないということと考えると良いのだと思う。
知恵と戦いの女神アテーナーは固定観念を持たないが故に、知恵に優れ、軍神アーレスに打ち勝つほどの力を持つのである。
アテーナーは、その力を保つために、固定観念を持たないこと、つまり、処女であることに徹するのである。
アルテミスが水浴しているところに、たまたま通りかかったアクタイオンという男を、アルテミスは自分の裸を見たというだけで鹿に変え、アクタイオンは、彼が連れていた猟犬に食い殺される。
ここまでに処女に徹底するからこそ、つまり、固定観念を近付けないからこそ、アルテミスもまた、神々の中でも別格の扱いを受けるほどの力を持つ。
また、オリュンポス十二神には含まれないどころか、ゼウスの敵であったティターン族の女神であるヘカテーは、強大な権能を持っていたが、ゼウスはそれを取り上げなかった。
ヘカテーもまた処女神であり、ゼウスすら手が出せない、侵し難い力を持つ女神である。

恐るべき力を持つ処女神達は、とても無邪気である。この無邪気さが、固定観念を持たないことを表してもいると思う。
ところで、聖母マリアは処女のままイエスを身ごもったと福音書に書かれているが、それを表面的な言葉のまま受け取ってはいけないかもしれない。
こう言ったからとて、別にカトリックの教義を否定することにはならない。
マリアは不要な固定観念を持たない優れた女性だったということだ。
死海文書やエドガー・ケーシーのリーディングにおいては、マリアは普通の方法でイエスを身ごもったとされている。
言葉通りの意味でマリアが処女だったということに、こだわるのはおかしい。そんな信仰はレベルが低いと、未来において思われるかもしれない。
むしろ、マリアは世俗の固定観念を持たなかったこと、世間の教義や信念に平伏すのではなく、天の理を貴び、従っていたというところを強調すべきなのである。

我々も、アテーナーやアルテミスが固定観念を嫌っていたこと、マリアが固定観念に穢れない存在であったという視点でギリシャ神話や新約聖書を読むと、得るところは大きいのであると思う。
きっと、アテーナーやアルテミス、そして、ヘカテーの力の一端に触れると思う。









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出現した聖母マリアは何を語ったのか?

聖母マリアが現代人の前に現れた話としてよく知られているのは、フランスのルルド(1858年)、ポルトガルのファティマ(1917年)、クロアチアのメジュゴルユエ(1981年)などでのものがある。尚、クロアチアの独立は1991年なので、当時は、ユーゴスラビアのクロアチア地方ということになる。
ファティマやクロアチアでは、聖母マリアはよく語った。
しかし、ルルドではそうではない。ルルドでマリアが発した言葉は、たった1つだった。
ルルドでマリアを見たのは、ベルナデッタという名の14歳の少女であり、ベルナデッタはルルドの洞窟の前に現れるマリアに祈りを捧げたが、誰にもマリアの姿は見えなかった。それでも、そのベルナデッタの敬虔な姿に感動して、マリアがそこにいることを信じた人も少しはいたが、多くの人々はそうではなく、ベルナデッタは非難され、彼女は辛い立場になる。
それで、ベルナデッタは、マリアに、「あなたの名前を教えて下さい」と頼んだ時、マリアが「ケ、ソイラ、インマクラダカウンセプシウ」と言ったのが、初めてで最後の言葉だった。
ベルナデッタはその意味が分からなかったが、言葉を覚え、司祭のところに駆け込み、「ケ、ソイラ、インマクラダカウンセプシウ」と言ったので、その司祭は信じた。それは、無学なベルナデッタが知るはずもない言葉だったからで、それは、「私は無原罪の宿りです」という意味であった。これは、聖母マリアの別名である。

ところで、私は、ベルギーで起こった聖母マリアの出現が最も感慨が深いのである。
それは、ボーレングという村で、数人の少年少女達に、1932年11月29日から翌1933年の1月3日まで33回起こった。マリアは沈黙を続け、何も語らなかった。
少年の1人が、「あなたは無原罪の乙女ですか?」と尋ねた時、マリアは無言で頷いたという。
そして、言葉を求めると、いつもただ一言、「よい子でいなさい」とだけ言ったという。
そして、この出現が終ってから10日後の1月15日、ボーレングから80kmほど離れたバンネという美しい村で12歳の少女マリエッタの前に2度現れた。
マリアはそれぞれ、「私は貧しい人々の乙女」「病人をなぐさめるために来た」とマリエッタに言った。

ボーレングで、マリアが少年少女達に言った「よい子」とは、どんな意味なのだろう?
道徳的な人であるという意味であろうか?
マリアは、「いつも祈りなさい」とも言ったようだ。すると、「よい子」とは、「いつも祈る子」ではないだろうか?
そして、私は、マリアがマリエッタに言った、「私は貧しい人々の乙女」「病人をなぐさめるために来た」という言葉における、「貧しい」「病人」の意味が重要と思うのである。
これは単に、経済的に貧しいとか、身体が病んでいるという意味ではないと思う。「心が貧しい」「心が病んでいる」という意味に捉えれば、これは、我々全ての者のことである。つまり、煩悩にまみれた凡夫のことである。
浄土三部経において、釈迦は、ただ、阿弥陀仏の名を呼べと言い、そこから、「南無阿弥陀仏」という念仏が起こった。
マリアの言う「祈りなさい」も、「アヴェ・マリア」を唱えることであると言って良いと思う。
グノー、シューベルトなど、多くの大音楽家達が作曲した『アヴェ・マリア』という聖歌があるが、これは、「アヴェ・マリア」の言葉で始まる。
アヴェ・マリアの意味は、「こんにちはマリア」とか「おめでとうマリア」であると言われるが、それよりも、マリアに対する崇敬や、マリアを讃える心を表したものと言って良いと思う。
「心の貧しさ」「心の病」を逃れることのできない凡夫は、ただ、「アヴェ・マリア」の祈り言葉にすがるしかないのだと思う。
マリアの教えも釈迦の教えも同じものであると思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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