ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

聖テレジアの法悦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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イエスの秘中の秘

この世で起こる全てのことは引き寄せだと言える。
タイムリープですらそうだ。
引き寄せの方法を教える本は無数にあり、引き寄せを教えるセミナーも果て無く行われ、最近では、引き寄せを教える動画が次々作られる。
しかし、誰もうまくいかないので、今度は、「あなたはなぜ引き寄せが出来ないのか?」という本、セミナー、動画が、やっぱり夏のハエのごとく現れる。
その繰り返しである。

引き寄せ成功の方法はただ1つ。
それは思考を消すことである。思考を消すことと心を消すことは同じである。
他の方法では、引き寄せは出来ない。
もっと丁寧に言えば思考が消えた程度に応じて引き寄せが起こるが、それなりの引き寄せを起こすには、それなりに思考を消す必要がある。

イエスは、「願いを叶えたければ願いが叶ったと思え」と言ったことになっているが、この言葉は甚だしく誤解された。
イエスが言った意味はこうだ。
「願いが叶った時、心は消えている」
これは、
「心が消えた時、願いが叶う」
言っても良い。
この2つは同じことで、違うことではない。
蛇足の解説をすれば、
「願いが叶った時、願いのことなんか忘れている」
はずで、さらに言えば、何も考えられないはずだ・・・と言えばピンとくるだろうか?
このことを、ラマナ・マハルシは、
「心からの願いが叶った時、あなたは本当は魂の中にいるのだ」
と言ったのだ。
魂の中にいるものは、思考したりなどしない。

何にせよ、心(=思考)を消せば、本当の願いであれば叶う。
本当の願いが何かなど分からない。
それは、良過ぎて、叶った者は気絶したようにも見えるが、普通の気絶と違い、意識はあるのである。
これがどれほど良いものか、少しは想像出来ると思う。
『聖テレジアの法悦』というベルニーニの彫刻があるじゃないか?
あの彫刻の聖女テレジアが、まさに、「意識があるまま心が消えた状態」である。
「法悦」は英語で「エクスタシー」で、「エクスタシー」は「忘我」という意味でもある。
つまり、それがまさに、心(=思考)が消えた状態だ。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが「芸術の目的はエクスタシー」と言ったのは正しい。
岡本太郎の「芸術は爆発だ」は、「爆発」が「エクスタシー」の意味なら、やはり正しい。
岡本太郎は、世俗的な「エクスタシー」より、もっと強烈な表現をしたかったのだろう。その気持ちは分かる。
「聖テレジアの法悦」のテレジアの表情がエロいという馬鹿が多いからである。

初音ミクの法悦
AIアート132
「初音ミクの法悦」
Kay


よって、引き寄せの最上かつ最も簡単な方法は、いつも思考(=心)を消す方法として述べている通り、
「私は誰か?」
と自分に問うことである。
これがやり難ければ、世界コマンド、
「私は何も考えない」
「私は何も信じない」
「私は何も愛さない」
などを唱えると、かなり心が消え、少なくとも、ある程度は願いが叶う。
その他の方法は、もう分かっていると思うが、全てうまくいかない。








腕振り運動は無になる最高の行法

新約聖書の福音書に、イエスがゲツセマネという場所で祈る話がある。
イエスが弟子たちに、「私は向こうで祈っているから、お前達はここで祈っておれ」と言い、弟子達から離れて祈ったが、帰って来ると弟子達は眠っていた。
イエスは、「少しの間も起きていられないのか」と弟子達をたしなめ、「今度はちゃんと祈っておれ」と言って、また祈りに行った。しかし、帰ってくると、やはり弟子達は眠っていた。
そして、三度目も弟子達は眠っていて、イエスも最後は「眠っておれ」と言って怒らなかった。

イエスの弟子達はだらしないと思うだろうか?
しかし、夜、眠い時に、祈れと言われても、眠ってしまうのは仕方がない。
12使徒とはいえ、普通の人間である。

だが、「腕振り運動をやっておれ」と言っていればどうであろう?
大半は、イエスが戻って来た時も、続けていたと思う。
私は、毎日4千回以上、特に、この3日は5千回以上、腕振り運動をやっていて、腕振り運動は祈りでもあると思った。
偉い先生が著書で、祈りの重要性を説き、祈ることを勧めているが、具体的にどうやるのかは、あまり書かれていないし、書かれていても、違和感を感じるものが多い。
先生方の個人的信条が強く、それに共感出来ないからだ。

私は、祈りとは、本来、無心になることであると思う。
道元は、仏教の目的は自己を忘れることだと言ったが、それが無心(無我、忘我、没我も同じ)になるということと思う。
そして、そのために坐禅をしろと言ったのだから、坐禅もある意味、祈りなのである。
西洋の祈りの究極が法悦であり、それがまさに忘我、没我になることである。
高度な法悦に達した人の様子を彫刻にした作品が、ベルニーニの『聖テレジアの法悦』である。
【画像リンク】聖テレジアの法悦
没我(エクスタシー)の状態の聖テレジアが、性的エクスタシーにあるようでエロいという人もいるが、その2つが同じ場合も確かにある。

そして、このような瞬間的な強烈さはないが、腕振り運動は、自己を忘れ、無心になり、没我に近付く優れた行法で、道元の座る禅に対し、「動禅」と言われることもあるが、「動く祈り」とも言えると思う。
腕振り運動は、ルーツは禅の開祖である達磨太師とも言われるが、禅としても、また、祈りとしても、合理的で高度なものであると思う。

手足のない達磨像は、達磨が座り続けて手足が溶けてなくなったという、坐禅修行の究極の象徴と言われるが、私はそうは思わない(馬鹿でない限り思わないと思うのだが…)。
あくまで個人的にだが、「座るだけではうまくいかない。腕振り運動をして無我になり、思うように生きよ」と言っているように思うのである。

春日大社の宮司であった葉室頼明氏は、自身、長い間、「大祓祝詞」という祝詞を1日中上げ、非常に良いから君達もやれと著書で強く勧め、ひらがな書きの「大祓祝詞」と、これを大勢で唱えている声が入ったCDをセットにしたものを出されていて、これはロングセラーを続けており、私も購入して、やってみたが、とてもではないが続かない。とはいえ、私は、一か月ほどは、大祓祝詞を、平日で2~3時間、休日は6~7時間上げたが、シンドくてストレスが溜まるだけで、正直、性格が悪くなった(いや、元々かw)。
つまり、やれる人というか、向いている人というのがあり、自分に出来るからと言って、こんなことを凡人に勧めるのは如何なものかと正直思う。

念仏も同じだ。
法然は、自分は念仏を毎日6万回唱え、誰にでも、念仏を「常に唱えよ」と勧めたが、出来る人は滅多にいない。
そう思ってか、弟子の親鸞は、「祈ろうという気持ちが大切である」と言って、念仏は1回でも良い、いや、唱えなくても良いと言ったが、法然に知られて怒られた。
しかし、出来ないものは出来ないし、かといって、親鸞が言うように、1回とか唱えても意味がない。

そこで腕振り運動である。
これなら、気持ちが良いので、根気さえあれば、毎日、かなりやれる。
私も、十年以上、回数は多くないが続けており、ついに、これに賭けることとし、毎日、数千回やるようになったのである。
また、腕振り運動は、全身運動としても優れているだけでなく、仙骨の調整にもなり、健康効果が高い。
さらに、関英男博士によれば、仙道の気や、ヨガのプラーナの正体であるグラヴィトン粒子を体内に蓄える働きがあり、生命力が充足し、難病が治った例も多い。
尚、『宇宙学序章 グラビトニックス』に書かれている、関英男博士の腕振り運動が、名古屋身体均整院のサイトにあったので、リンクを貼っておく。
『宇宙学序章 グラビトニックス』は、古書も高価なのでありがたいが、このサイトが、正式に許可を取って載せたものかどうかは私は確認していないので、ご了承願いたい。
【リンク】万病を治す腕振り運動 ~名古屋身体均整院サイト内~








成功を約束する至高体験

大成功した事業家の斎藤一人さんが昔の著書で、「私が成功したのは、頭が良いからでも頑張ったからでもなく、ツイてたからで、なぜツイてたかというと、ツイてると言葉で言ったからだ」といったことを書いていたと思うが、これだけ見ると、受け入れない人も多いと思う。
だが、こんな話がある。
著名な心理学者のアブラハム・マズローは、「優れた人間と平凡な人間の違いは、至高体験があるかないかだけ」と言っているらしい。
至高体験とは英語のpeak experienceの訳で、ある人は「絶頂体験」と訳す方が良いと言っているが、表現し難い体験である。
万物と一体となった没我の体験と言う人もいるが、このようなものは、エクスタシーと言った方が良いかもしれない。しかし、エクスタシーと至高体験は別のものではない。
「20世紀最大の詩人」とも言われるアイルランドのW.B.イェイツは、「芸術の目的はエクスタシーである」と言った。
また、夏目漱石は、おそらく、同じことを「天賓」と呼んだし、およそ文豪で、この体験を知らない者はなく、ロマン・ロランは、至高体験と同じことを太洋感情と言っていた。

至高体験の最も直接的なビジュアルは、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「聖テレジアの法悦」であろう。
「聖テレジアの法悦」は、英語でEcstasy of St Theresaで、まさに、「聖テレジアのエクスタシー」で、原語とも言えるイタリア語のEstasi di santa Teresa d'Avilaも全く同じである。
聖テレジアの法悦
この彫刻(特にテレジアの様子)を「エロい」と言っても、決して不謹慎ではあるまい。ベルニーニも、そんな意図で作らなかったとは思えない。
私なら、閻魔あいと 御景ゆずきの姿にしたいが・・・と思うのであるから、やはりそうである(笑)。

マズローは、至高体験は特別なもので、これが得られるかどうかは幸運に頼るしかないと言うが、マズローと親交のあったイギリスの作家コリン・ウィルソンは、「至高体験とは、単に自分を幸運と思うこと。誰にでもある、ありふれた体験」と言った。
この中卒のヒッピー作家は、超エリートのマズローを超えていた。
そして、マズローが、大学の教室で学生達に、「自分が幸運だと思う体験」を発表させたら、皆が至高体験に達した。
斎藤一人さん風に言うなら「ツイてる体験」であろう。
不幸な人生を送っているあなただって、ツイてた経験、幸運だった経験の1つや2つあるはずだ。
何かの人気小説のように、中学生の少女が不意に胸を見せてくれた・・・なんて特例はなかなかないだろうが(私はもっと凄いのがあるが内緒だw)、幸運の1つもない人間はいないし、思い起こせば奇跡的な幸運だってあるに違いないのだ。
いや、実際は人生は奇跡だらけだ。
それが解れば・・・そうでなくても、きっと「ツイてる」と言えば、奇跡も起こるし、過去の奇跡も思い出すだろう。そうすれば、さらに奇跡は起こる。

成功を約束する短い話が出来てしまった。百円頂戴と言いたいところである(笑)。









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幸運体質になる至高体験の起こし方

自分が幸運そのものになるために、いますぐ出来て、最も重要なことは、「幸運な体験」を思い出すことだ。
本を沢山出している幸運の伝道師達も、なぜかこの一番大切なことを書いていない。

人間にとって非常に重要な、「至高体験」のことを書く。
至高体験は、心理学者のアブラハム・マズローが研究していたもので、英語ではPeak Experienceであり、絶頂体験とも訳される。
至高体験(絶頂体験)とは、最高の幸福を感じ、恍惚とした状態で、宗教で言う「法悦」と同じと思って良いと思う。
法悦の状態を最も見事に描いたものは、ベルニーニの大理石彫刻『聖テレジアの法悦』と思う。
【Wikipedia】聖テレジアの法悦
このテレジアの表情を、ちょっと罪深くも感じるが、性的恍惚のように感じ、非常にセクシーだと言うのは芸術家にも多いと思う。
そして、マズローと交流があり、至高体験についてマズローの共同研究者だったとも言える英国の作家コリン・ウィルソンは、性的絶頂と至高体験は非常に近いものであると述べている。

人間にとって、至高体験ほど大切なものはないかもしれない。
フランスの作家ロマン・ロランが、芸術の目的と言う「大洋感情」と呼んだものも至高体験と同じと考えて良いと思う。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったらしいが、エクスタシーとは、没我、忘我の状態のことで、それは、至高体験、大洋感情の時に起こることであるし、性的絶頂のことをエクスタシーと言うのは一般的であるので、やはり、至高体験と性的絶頂に近いものであると思う。
岡本太郎の「爆発」も、経験としては至高体験なのだと思う。

また、ドストエフスキー、エリオット、トルストイ、その他、およそ超一流の作家であれば、名称こそ至高体験とは言わないが、作品の中で、必ず、至高体験と同じものを取り上げている。
逆に言えば、超一流の作家かどうかを分けるのは、至高体験について書いているかいないかだ。
実際、マズローも、「偉大な人物と平凡な人物の違いは、至高体験があるかないかだけ」と述べていたことがある。
マズローは、至高体験は特殊なものと考えていて、それを得るのは、「非常に稀な幸運な偶然」に頼るしかないと考えていたらしい。
しかし、コリン・ウィルソンは、至高体験は、誰もが体験している、ごくありふれたことと言い、後にマズローもそれを認めている。

そして、コリン・ウィルソンは、至高体験とは、単に、「自分を幸運と思うこと」なのだと言う。
マズローは、このウィルソンの言葉に従ったためかどうかは分からないが、大学の自分の教室で、学生達に、自分の幸運の体験を話してもらったのだが、そうすると、そこにいた学生達が至高体験を起こすのを確認している。
コリン・ウィルソンは、ある、非常に幸福だと感じた体験(彼はそれを、この上ない幸運と思っている)を思い出すと、いつでも至高体験に至るという。
あなただって、自分が幸運だと感じたことが、思い出せるだけでも、いくつかあると思うし、その他にも、忘れているだけで、本当は誰でも非常に沢山あるはずなのだ。
ただ、理屈の上で、つまり、確率的に幸運というだけでなく、感情的に幸運だと感じることが重要だと思う。

至高体験を起こすほど幸運になる。
そのためには、自分が幸運であったと感じる経験を思い出せば良いだけである。
それは誰でも出来るが、もっとスムーズに、力強く至高体験を起こせる性質を持ちたければ、超一流の文学を読めば良いと思う。









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阿呆ほど愉快なことはない

何かに熟達したり、特別な情熱を持った時など、瞬間的な悟りに入ることは、よくあることである。
マイケル・ジャクソンが「歌っている時、僕は楽器になってしまう」と言ったのは、彼が悟りの状態を経験していることを感じさせる。しかし、それはステージ上のことではない。彼に限らないが、特に彼のステージは緻密な計算の上に成り立っているので、ステージの上では悟りを開いている暇はない。だが、彼が日本に来た時にも、床に敷いたマットレスに穴が空くほど練習していたのだが、彼は、練習中に入神状態・・・つまり、解脱し、悟りの状態になるのだ。
水樹奈々さんが本に書かれていたが、一心に歌の練習をしていた時、不意に、音楽と自分が一体になるという「奇妙な」体験をしたそうだ。これも一瞬の悟りの状態である。
宗教では、法悦といって、敬虔な信仰者が、特に情熱が高まった時に、悟りの状態になる。ベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』は、そんな状態を示している。
『聖テレジアの法悦』画像

音楽は趣味でしかなかった一介の職業軍人が、ある夜、異常な情熱にとりつかれ、悟りの状態で作詞、作曲した曲が、名曲の誉れ高いフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』なのである。彼が天才音楽家になったのは、その一夜だけで、他に残っている彼の曲はない。

宗教は、常時の悟りを目指すものだと言って良いと思う。
しかし、それは難しい。
空海は、特別な身体の動きと共に口にマントラを唱え、心にマンダラのイメージを描く修行中には、確かに悟りに入ったが、彼ですら、それが終ると普通の人に戻ってしまった。
道元は、「ただ座れ」と言い、座っている時は悟りの状態にあったのだろう。あるいは、彼が書いた『正法眼蔵』は、明らかに人を超えた仏の世界の真理を示しているが、彼は、書いている時も悟りの状態になることが分かる。
日蓮も、『法華経』を読んでいる時は悟りの状態であったに違いない。彼は、その時の素晴らしさを知っていたので、法華経を読めと言ったが、そんなもの、普通の人、ましてや、その日暮らしの庶民に読めるはずがない。そもそも、当時は、法華経なんて、よほどの金持ちや権力者でないと入手できなかった。そして、日蓮ですら、日常は、やはり普通の人間(凡夫)であったのだ。
常時、悟りの状態にあったのは、釈迦とイエスくらいのものだった。
イエスは、40日の断食の後、「我が後方に退けサタン!」と言って、自我(=サタン)を真我(=神我)の下に置くことに成功した。
釈迦もまた、長期の断食の後、菩提樹の下で永遠の悟りに達した。
彼らのように完全な悟りに入らない限り、自我は常に戻ってきて、煩悩に苦しむことになる。
空海や道元、日蓮のような大天才達すら、それを免れることはできなかった。まして、我々凡人に望みはない。
しかし、法然は革命を起こした。「南無阿弥陀仏」の念仏を常に唱えることで、日常の意識を悟りに近付ける教えこそ、この、人類が堕落した時代のために釈迦が残した最終最大の教えであることを見抜いたのだ。もちろん、法然以前に、インドの龍樹、中国の善導といった、天才というものを超えた極めて優れた僧達がそれを解明していたが、法然以外にはそれが分からなかったのだから、それを理解し、弟子の親鸞に教えることができた法然は偉大であった。
全く教養がなく、文字すら読めないのに、ただ念仏を唱えることで、高僧を超える境地に達する人達が現れた。そんな人達を妙好人(みょうこうじん)と言うことがある。確かに、彼らとて、念仏に専念するために、多少の機縁を必要とはしたが、現代の、この情報時代には、誰でもそれは得られる。ただ、現代人は、物質主義に陥ってしまっていて、理屈の思考ばかり発達して直感の力を失っているので、ただ念仏を唱えれば良いということを、どうしても受け入れることができずに、馬鹿にしたり、見下したりしてしまうのだ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、観相家に、「申し訳ないが、あなたは阿呆の相」と言われ、「これは嬉しい。私は阿呆になる修行に励んでおりますが、いよいよ成果が出たか」と喜んだように、我々も、阿呆になる修行に励まねばならない。ところが、念仏そのものが阿呆になる修行も兼ねる。有り難いことである。後は、やるかやらないかだけの問題である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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