ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

老荘思想

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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あの子を恋人にするスイッチ

老子や荘子、あるいは、列子の思想を道教、道(タオ)、タオイズム、老荘思想などと言うが、これらを難しく言う者が多い。
難しく言うことで商売をしたり、自我を満足させているのだろう。
彼らは、この道教における「道(タオ)」を、ことさらに難解に語る。
だが、「道」とは、単に、「自然」ということだ。
それなら、老子らが言う「道に従う」というのも、ただ「自然に従う」「自然に逆らわない」というだけのことだ。
こんな簡単なこと、そして、重要なことを難しく言ってはならない。

そして、人間の思考は、自然に何の影響も与えないことに気がつかないといけない。
人間がどれほど考え、その考えによって何をしようが、星の動きに何の影響も与えない。
「いや、飛行機は自然に逆らって鉄の塊が空を飛んでいる。人間の思考は自然に勝つのだ」という考えもあるが、それもただの考えである。
なぜなら、人間の思考は、「落下する」という自然の法則、つまり、重力に何の影響も与えないからである。
つまり、限定された小さな範囲で見れば、人間の思考が自然に影響を与えているように見えることもあるが、上で述べた通り、星の動きといった大きなこと、さらには、宇宙という大きさで見れば、人間の思考は無いに等しい。

百合の道
AIアート66
「百合の道」
Kay


自然に従う限り、自然は味方になってくれる。
このことは、思考では分からないので、納得が出来ないと感じるかもしれない・・・というより、考える限り納得が出来ない。つまり、その理屈が分からないと思うのである。
これはただ、思考を消すことでしか納得出来ない。
自然は宇宙を支配する無限の力だ。
それを味方にするのは、「世界中を味方につける」などとは比較にならない。
喩えは悪いが、数人のグループで戦うのと、アメリカ軍全部の指揮権を与えられて戦うよりもはるかに大きな差がある。

自然に従う限り、そんな力の支援を得る。
そして、自然に従うには、思考を消せば良い。
なぜなら、自然に逆らうのが思考だからだ。
思考を消すために、老子は『老子』81章を説き、クリシュナ神は『バガヴァッド・ギーター』18章を説いた。
だが、今は、思考を消すスイッチがある。
これは、ある意味、悪いことである。
例えば、不登校の子供がいるとして、その子を学校に行かせるスイッチはない。
その子供が学校に行くようにするには、その子と向き合い、その子を不登校にさせている問題を解決しないといけない。
あるいは、素晴らしい女の子を恋人にするスイッチはない。
その女の子を恋人にするには、彼女のことをよく知り、彼女が気に入る方法で彼女に親切にしたりと、四苦八苦しなくてはならない。
しかし、不登校の子供を学校に行かせるスイッチ、素晴らしい女の子を恋人にするスイッチが出来てしまった。
同じように、思考を消すスイッチが出来てしまった。
それが「私は誰か?」と自分に問うことである。
だが、実を言えば、このスイッチは単に、自然に不登校の子供と向き合うようにさせるスイッチであり、自然に素晴らしい女の子に正しい方法で接することが出来るようになるスイッチである。
よって、大いに活用すべきである。








物質も精神も共に大切にする

ゲーテの『ファウスト』の主人公ファウストが目指していたように、人生の目的は神になることなのだと思う。
そのことを、インドの仏教やヒンズー教では悟りを開くとか真我の実現と言い、中国の老荘思想では道(タオ)と一体化するとか言う。
しかし、これら(仏教、ヒンズー教、老荘思想)では共通して、物質世界の価値を徹底して否定し、精神に重きを置く。
物質世界は夢であるとし、物質的、感覚的な欲望を捨て去れと言う。
これは、インドではカースト制度というものがあって低い身分の者には、世俗で何の希望もなかったし、中国においても、大多数の庶民は権力者に蹂躙(じゅうりん=ふみにじること)され、暮らしは厳しいものであったことが大いに関係し、物質世界を否定する教えが、大多数の庶民のニーズに合ったのだろう。
日本でも似たような事情があり、現実否定の傾向が強い浄土系仏教が流行った。
一方、西洋でも大多数の庶民の暮らしは楽ではなかったろうが、アリストテレス以来の科学が発達し、物質世界を否定するどころか、大いに関心を持ち、むしろ、精神を軽んじ、結果、行き過ぎた物質主義に陥り、目に見えるものだけがあると考えるようになった。

ただ、インドや中国、あるいは、日本でも、権力者も仏教やヒンズー教等を信仰し、西洋でもやはり、あらゆる階級でキリスト教やユダヤ教、あるいは、ギリシャの神々が信仰されたように、必ずしも、信仰は物質的価値を否定しない。
そして、一見、特に物質世界を否定しているように見えるヒンズー教や老荘でも、案外に物質を軽んじてはおらず、現実を力強く生きる教えでもあるのだと思う。

現代の日本でも、以前の私もそうだったが、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ君のように、無力感にとり付かれてしまうと、現実に冷めてしまい、個人の内面世界に逃避する。
ところが、大人になって、物質欲、性欲が強くなってくると、それでは苦しくなる。
だが、欲望を満足させる力がないと、今度は宗教に逃げ込んで、物質世界を否定し、精神世界に極端に価値を置くようになる場合が多くある。

長々書いたが、要は、物質世界も精神世界(あるいは霊的世界)も共に重要なのであり、いずれかを切り捨てたり、偏重したりしてはいけない。
極端にリッチである必要はないが、十分に豊かであるべきだし、同時に、目に見えないものにも重い価値があることを忘れず、心的輝きに憧れを持ち、それを実現しなければならない。
物質と精神のいずれが重要かと言うと、精神が物質世界の原因であり、物質世界は有限だが、精神世界は無限であるのだから、比較にならない(精神、あるいは、霊が重要)が、肉体を持つ人間としては、単に、「精神の方がより重要」とだけ分かっていれば良い。
人間が生きる目標とは、物質世界に肉体を持った身でいながら、個人の心を無限の心と一体化させることである。
インドでは、個人の心である自我を、厄介者として破壊せよと教えるが、それはやはり極端なのである。
神である無限の心は敬うべきであっても、個人の心はその一部なのであり、個人の心が無限の心に溶け込んでも消えて無くなる訳ではない。
よく、個人の心は一滴の水で、神の心が大海であると喩えられるが、一滴の水である個人の心が神である大海に溶け込んでも、無になることはなく、大海と一体化し、全てを知るのである。
ただ、個人である一滴の立場にこだわらなくなるだけだ。
神になった個人は、全てを知り、全知全能であるが、まさかそんな力を見せ付けようという欲望はなく、そもそも、普段は自分の力に気付いていない(いつでも思い出せるが)。
ただ、深い心は自分の力を知っているので、揺るぎない勇気・・・蛮勇の勇気ではなく、静かで落ち着いた勇気がある。
キリストのような力があるので、争わずに、どんな願いも自然に叶えることが出来る。
ファウストや我々は、そのようなものを目指しているのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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