ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

綾波レイ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

年を取るほど可能性は大きくなる

男の場合、年を取るほど、社会的な力は大きくなることもあり、10代や20代前半の、いわゆる「青春時代」を懐かしむことは、あまり、あるいは、全くない。
もし、そうでないなら、あまり良い人生とは言えないかもしれない。
女性でも、特にキャリア志向の場合は同じようなものだと思う。
それでも、夜、若い頃の夢を見て、起きた時に旅愁のようなものを感じることがあるのは、「可能性」を失ったことを実感するからではないかと思う。
コンピュータープログラマーなら、向いてさえいれば30代から始めても十分だが、二十歳からプロ野球選手やピアニストを目指すのは現実的ではない。
しかし、年を取れば可能性を失くすというのは、ただの思い込みである。
「無限の可能性を秘めた若者」と言えば、なんだか美しい言葉のように思うが、これは全く嘘である。
人間は、年を取れば取るほど、可能性は大きくなる。
そりゃ、さっきも言ったように、年を取ればなれない職業もあるかもしれないが、実は、そんなものは、あらゆる可能性の、極めて僅かな部分である。
80歳、90歳と、生きている限り、可能性は大きくなる。それも桁違いに。
そう思えないとすれば、それは、無意識の壁の問題である。
一週間前に公演が行われた、冨田勲さん制作、初音ミクさん主演のバレエ『ドクター・コッペリウス』で言われたように、「重力の柵」があるから高く飛べないのである。

ところで、昨日、初音ミクさんを完全に否定する60代の男性に会った。
この男性には、何の可能性もない。
「何だ。可能性ってのは初音ミクが好きかどうかで決まるのか?」
と言われるなら、全くその通りである。
まあ、可能性がないとは言っても、現状維持は可能であるかもしれない。
しかし、面白いことは起こらないし、革新とは無縁である・・・まあ、そんなものいらないと言うなら、好きにしてくれれば良いが。

初音ミクさんに縁がないという人いるだろうが、それなら、ライトノベルが面白く読めるうちは大丈夫である。
30代や40代になってもニートで、ゲームばかりしている人達の多くは、おそらく、ライトノベルなんて馬鹿にすると思う。そうでなければ、そんな人達だって可能性はある。
確かに、ライトノベルというのは、ドワンゴの川上量生会長が何かのインタビューで言っていたように、主人公は努力をしない。
超能力(力)も美少女も、むこうから勝手にやってくるような、ご都合主義の設定でないと人気が出ない。
そしてまあ、現実には、そんなことは確かにない。
確かにないが、ライトノベルが面白いなら、何かが起こる可能性はあるのだ。

最近、谷川流さんの『学校を出よう』を読み始めたが、これが抜群に面白い。
谷川さんの代表作である『涼宮ハルヒの憂鬱』と同時に発売された作品だが、その『涼宮ハルヒの憂鬱』と似ているが、インパクトに欠けるかもしれない。しかし、案外にこっちの方が混じりけがなくて良い。
妹君の幽霊がぷかぷか浮かんでいるだけで、読んでいて幸せになれる。
谷川流さんてのは、幽霊が好きなのかもしれない。
長門有希さんも、幽霊のような存在だと、『涼宮ハルヒの憂鬱』の中で語っていたことがあったと思う。
だが、幽霊は名を付けると、幽霊でなくなる。
いや、幽霊は幽霊だが、何かが変わるのかもしれない。
初音ミクさんだって、幽霊のようなものだが、初音ミクって名を持つことで何かになったのだ。
有希さんもミクさんも、綾波レイさんをモデルにした部分があるような気がするが、それで言えば3人は姉妹のようなものだ。
最後に現れたところから、ミクさんが一番妹なのだが、姉の2人が希薄ながら感情を持っていたのに対し、ミクさんは水のように透明である。
(公称年齢は逆になるが、まあ、それはあまり関係ないだろう)
水から生まれたレイさん、雪になった有希さん、そして、ウンディーネのように魂のないミクさん。
どこかでつながっているのだろう。









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レイとミクのプレゼンス

子供の時に読んだ漫画に、とても印象深い場面があった。
1人の少年(中学生位と思う)が、大勢の不良グループに拉致され、ひと気のない場所に連れて行かれる。
不良グループのリーダーは、その少年に服を脱がせ、全裸にさせる。
別に、その不良グループのリーダー、および、不良達に「妙な趣味」があるのではない。
屈辱を与え、力関係をはっきりさせようというのだろう。
ところが、その裸で立っている少年を見て、不良達のリーダーが言う。
「見ろ、ちっともビビッてない」
リーダーが見ろと言ったのは、少年のおちんちんで、それが、こんな場面では当然そうなるはずであろうようには縮んでいなかったのだろう。
一応、女性のために解説すると、男性器は性的興奮で勃起するのは当然だが、恐怖や不安を感じると、逆に縮むのである(多分)。
不良達のリーダーは、この少年の度胸とか心の強さを認め、敬服したのだろう。

私は、子供心に、この少年は、なぜこんなに度胸があるのか不思議だった。
そして、こんなふうになりたいものだと思った。

この少年は、アメリカで発達していると思われるプレゼンスの科学でいう、プレゼンスがあるのである。
プレゼンスは、「存在」とか「存在感」と訳されるが、道教や禅で言われる、無為自然とか、あるがままの状態のことと言えるかもしれない。
私が最近述べてるパワーポーズが、プレゼンスに導くのである。
胸を張り、顔を上げ、腹に力を込め、心が勇壮に感じるポーズをするのである。

ところで、その少年のような目に遭っている場面を、もう1つ思い出す。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、赤木リツコが、ゼーレの老人達の前で、やはり全裸にさせられていたところだ。
リツコは、「少しも屈辱だと思っていない」と言ってのけ、ゼーレ達を感心・・・というか、呆れさせるが、彼女もまた、高いプレゼンスを持っているのだろう。
だが、ゼーレが碇司令に、来させるよう命じたのは、綾波レイだったようだが、碇は代わりにリツコを送ったようだ。
もっとも、レイのプレゼンスもまた非常に高度である(シンジが絡むと、ひどく脆くなるが)。

ドワンゴ会長の川上量生氏の本で読んだが、昔は、綾波の方がアスカより人気があったが、今は、アスカの人気が高いそうである。
その理由は、以前は、レイは謎の存在だったから、神秘性があって人気も高かったが、もう正体がバレてしまった。
そこで、むしろピュアな魅力があるアスカの方が人気があるというのである。
だが、私はそうは思わない。
今も、多くの人達は、心では綾波を支持している。
それはやはり、プレゼンス・・・この場合は、そのまま「存在感」と訳しても良いかもしれないが、それが強いのである。
平常であれば、全く力が抜けた自然(超自然)な存在・・・それが綾波である。
初音ミクさんも、綾波レイさんをモデルにしたところがあるとも聞くが、そうかもしれない。
初音ミクさんの魅力は、可愛いというのも勿論だが、最も大きなものはプレゼンスなのである。









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オンナの秘密は魅力か恐怖か

ドワンゴ会長の川上量生さん(カドカワ社長)の『コンテンツの秘密』という本に、『新世紀エヴァンゲリオン』の2人のヒロイン、綾波レイと惣流アスカラングレーについて、こんなことが書かれていた。
川上さんは、昔のテレビシリーズでは、綾波レイの方が圧倒的に魅力があったが、最近の劇場版では、アスカの方が魅力的に感じると言う。
そこで、これが偉い人の特権なのだが、作品の監督の庵野秀明さんに、「それはなぜか?」と尋ねたらしい。
しかし、なぜかと尋ねられても、人それぞれなのだから、庵野さんも困るだろうし、確かに、しばらく考え込んだようだ。
そして、庵野さんは、「綾波レイが魅力的なのは、謎の存在だから。でも、すでに彼女が何者なのか分かってしまった」ことで、綾波レイの魅力が下がったのだと説明する。
川上さんはそれで納得し、アスカは純粋なキャラクターとして作られているので、謎が解けても魅力は変わらない・・・と結論付け、それが、自分だけの感覚なのではなく、普遍的な理であるかのように書かれていた。
以前読んだ時は、私もうっかり信じてしまった。
人間が偏見を持ってしまうのは、こういう時なんだろうなあと思った。
まあ、これを読んだ一年ほど前は、私のIQは今よりずっと低かったので、天才の川上さんに、ある意味、軽く騙されたのだろう。

昔から、アスカの方が好きだった人もいるだろうし、両方共、同じ程度に好きとか、両方共好きでない人もいるだろう。
ただ、単純に、綾波レイの方が日本人好みではあるだろう。
それに、レイは、普段は厳しいようで、案外に、弱いところ、脆いところ、それに優しいところを見せていたし、何より、その圧倒的な魅力の決定打は、下着の着替えシーンが多かったことだろう(違うかもしれないが)。
アスカのように、さっぱりし過ぎて、しかも煩い女は、度量のある男性でないと、なかなか受け入れられない。
川上さんも、年を取り、しかも、ビッグになったことで度量が大きくなっただけではあるまいか。
まあ、それだけではないだろうが。
『コンテンツの秘密』は素晴らしい本だと思うが、やっぱり川上さんは頭が良過ぎるので、彼のペースに乗せられて騙されてしまうことが多いかもしれない・・・そんな面が確かにある本だと思う。

作風や世界観が全く違うが(とはいえ、似ている点もあると思うが)、『涼宮ハルヒ』シリーズで言えば、謎という点では、ハルヒに比べ、長門有希や朝比奈みくるの方が圧倒的に大きいが、謎が魅力の条件にはなっていない。
ハルヒのような煩い女より、物静かな(静か過ぎるが)長門や、ドジで可愛いみくるが好きな人が多いと思う。
ところが、単純過ぎて裏がない・・・つまり、超常的なことは別として全く謎がないハルヒという少女は、案外にそこがとても可愛い。
まあ、こちらは、単に、いとうのいぢさんが描いた、それぞれのキャラクターの姿の趣味で、ほとんど決まるのかもしれない・・・と言う私が単純過ぎるのかもしれないが。

初音ミクさんには、何の謎もない。
だが、ここで、ジロドゥの小説『オンディーヌ』の、王妃とオンディーヌの会話を思い出す。
王妃が、無垢そのものの水の精オンディーヌに言う。
「一点の曇りもないというのは人間にとって恐怖なのよ。それこそ最悪の秘密にしか見えない」
本当は、ここは長い対話であり、それが実に美しいのだが、つまるところが、そういうことなのだ。
ところが、アメリカの音楽グループAnamanaguchiが、『Miku』という歌で面白い歌詞を書いている。

Open secrets, anyone can find me

訳詩では「公然の秘密 誰でも探せる」となっていたが、ここで、secrets(秘密)=me(私)だろう。
ミクさんの秘密は、知ろうと思えば誰でも得られる。
だけど、オンディーヌは、愛する騎士ハンスに、秘密を明かすことも隠し続けることも出来ない。
早い話が、消えるしかない。
ところが、もし、我々が騎士ハンスになり、オンディーヌの秘密を受け入れてしまえば、彼女を幸せに出来るだろう。
ミクさんとオンディーヌさんはよく似ているのである。









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『天空の城ラピュタ』を久し振りに観た

昨晩は、アニメ映画『天空の城ラピュタ』を久々に通して観た。
私は、この映画を特に好きではないと思っていたが、考えてみれば、DVDを持っているが、ブルーレイを購入し、テレビ放送を何度も録画し、いまもテレビのHDDに残っている。
さらにムック(和製英語。雑誌のような書籍。雑誌のように大きく、カラーの絵や写真が映える)や、豪華な絵コンテ集まで持っている。
ブルーレイは昨日届いたものだ。
川上量生さんが書かれた『コンテンツの秘密』に、スタジオ・ジブリや宮崎駿監督のアニメ映画制作に関する面白いことが書かれているのを読んだことで、非常に興味深く観ることが出来た。
逆に言えば、私は、作品そのものを純粋に楽しむことが出来ないということでもあるのだろう。
そもそも私は、宮崎アニメ、ジブリ作品が、あまり好きではない・・・今のところは。
まあ、ひょっとしたら、後10年くらいしたら、猛烈なファンになるかもしれない。

宮崎アニメはどれも、わざとらしい、不自然・・・というか、監督の思想の色がつき過ぎている。
しかし、ジブリの作品は、まさに、監督の分身のようなものだから、それは当たり前かもしれない。
DVDにもブルーレイにも、絵コンテをそのまま映画にしたものが収められている。
絵コンテとは、四コマ漫画みたいなものである。
川上さんの本で知ったのだが、宮崎監督は、映画を創る時、まず絵コンテを描くのだが、絵コンテがたまってきたところで、すぐに制作に入るのだそうだ。
ストーリーは創りながら考えており、最初から決まっているのではない。だから、どんな展開になるか、監督すら分からない。
まして、観ている者に分かるはずがないので、先が読めずに面白い。
そんな創り方では、お話は最初はゆっくり進むが、ラスト近くになると、お話を終わらせるために急ピッチで進むといういい加減なものだが、それでかえって、緊迫感、詰まった濃い感じ、それに、小気味良いスピード感が出る。
何かの作品で、宮崎監督が、プロデューサーに、「お話が終わんないよお。後30分しかないのに」と泣きついてきたことがあったそうだが、そんなことも全部、作品の面白さになるらしい。
そういったことは、宮崎監督は自分の本では書いてなかったような気がするが、それを川上さんがバラしたということになるのだろうか。

宮崎監督は、この作品以降、美少女キャラを登場させていないのだと思う。ところが、この作品のヒロイン、シータと、前の作品『風の谷のナウシカ』のナウシカの人気は、今も絶大だ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに並ぶ、日本の代表的ヒロインと言えるほどだ。
ただ、川上さんは、綾波レイの人気は落ちていると言う。その理由は、綾波レイの魅力の大きな部分は神秘性、つまり、謎があるところだが、それがもう明かされたことが彼女の魅力を減じてしまったということだ。そんな感じもするが、本当かどうかは分からない。私は、綾波レイの秘密はまだ知らないが、さして好きでもない(無論、付き合ってくれと言われたら付き合うが)。
私は、『エヴァンゲリオン』シリーズは、テレビ放送も映画も、見ていると、憂鬱になって疲れてしまうので、一度見れば十分で、最近の映画は見ていない。
宮崎監督は、監督デビュー作であった『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリスが理想の女性だと著書に書かれていたが、ナウシカやシータも同じか、もしくは、それに近いのだろう。
それで、シータで描き切って終わりにしたのだと、宮崎監督も書かれていたように思うが、川上さんは、性的な要素は単純で広がりがないというのが、ジブリが美少女キャラをやめた理由だと書かれていたようにも思う。

性的な要素と言えば、宮崎監督は露骨なエロチックな表現はしないが、無い訳では決してない。
古くは、テレビアニメ『未来少年コナン』で、コナンとラナが、潜水艦の小さな窓から外を見ていたのが、2人がくっつかざるをえない必然的状況になっていて、そんなふうに、さりげなく表現するのが宮崎監督らしい。
とはいえ、シータは、スカートが風で大きくひるがえったり(下着は見えなかったが)、ドーラの息子達(いい年のオッサンばかりだ)が、シータを遠くから、「いい!」と、ぼーっと眺めたり、なかなか危うい感じもあった。
ところで、私が不自然に思っていた最たるものが、パズーのあまりの健全さだった。
あれだけシータと何度もぴったりくっつきながら、まるで平気なのである。
そもそも、初めてシータと会った時、気を失っているシータを一人暮らしをしている自分の家に運び、ベッドに寝かせて何もしないなど、あるはずがない。
まあ、ここらが、アニメと言えばアニメなのだと思っていたが、最近は、「いや、多分、あれで普通なのだ」と思うようになった。
つまり、我々の方が、社会の影響でエロくなり過ぎていただけなのだ。
あの2人は魂で融合しているのであり、それが本当の男女の結び付きだろう。
そんなことが描かれているので、私は、昔から、この作品を好きでないと思いつつ、作品に関するあらゆるものを集めていたのだろう。
それにやはり、シータは、人間としては理想のタイプである。









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想えば、必ず、想われる

「想うものには想われる」というのが、この世の純粋で明晰な(はっきりとした)真理だ。
好きな人のことを想えば、想ってもらえる。
若い女の子が、中年のおじさんをゴミか毛虫のように嫌悪するのも、「想って想われた結果」だ。
愛すれば愛してもらえるのだが、男の中には、女を、性的対象、歩くアクセサリ、綺麗な人形と想っている者が多い。
だから、女も、その男を全く同じように想うのだが、男に性的魅力がなければ嫌悪するし、アクセサリの役に立たなければ不用品と見なすし、腹の出たブサイクな人形と思えば、関わりたくないので焼却炉の中で消えて欲しいと思うのである。
なんとも分かり易いことだ。
相手を存在として、つまり、全体として愛すれば、あなたの外見や性格や社会的立場や財産・収入がどうであろうと、間違いなく、存在として愛してもらえる。

ただ、現代人は自分のことしか考えないので、自分の殻を作って、その中に閉じこもっているのである。
その世界はとても狭い。
「他人の良いところを見なさい」と昔からよく言われているのは、もちろん、世界を広げ、暖かく、活気ある想いの交流を作るためである。

神様のことを想えば、神様もあなたのことを想って下さる。
だが、人間は神様を直接イメージできないので、神様は、自分と一体化したキリストであるイエスをこの世に送ったのだ。
だから、新約聖書の福音書を常に読み、いつもイエスのことを想っていれば、イエスを通して神様があなたのことを想って下さるのである。
『バガヴァッド・ギーター』をいつも読めば、あなたは、至高神クリシュナのことをいつも想うことになる。そうすれば、クリシュナがあなたのことを想って下さるのである。
世界の支配者があなたのことを想うのだ。いったい、何を不安に思うことがあるだろうか?

法然は、『選択本願念仏集』にこう書いている。
阿弥陀如来を想えば、阿弥陀如来が想って下さる。
阿弥陀如来を礼拝すれば、阿弥陀如来は見て下さる。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、阿弥陀如来が聞いて下さる。
阿弥陀如来とは何かは分からないが、尊ばれるべき仏様たちの全てが賞賛する仏様の中の仏様である。
阿弥陀如来を想えば、宇宙全体があなたを想ってくれるのである。

私は、小学4年生の時、ずっと土星のことを想っていた。
すると、土星が私を想ってくれるので、夜空の満天の星の中から簡単に土星を見つけて、天体望遠鏡で見ることができたのである。
面白いことに、私は、少しも興味がなかった『美少女戦士セーラームーン』を、3年目のシリーズの、土萠(ともえ)ほたるという名の少女が登場するあたりから、不意に興味を持って熱心に見るようになったのだが、そのほたるは、土星を守護星に持つセーラーサターンだったという訳だ。これは偶然ではないと思う。

『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメのヒロインである、綾波レイという名のミステリアスな14歳の美少女は大変に人気があるが、彼女のことを想えば、彼女を通して、その背後にある、彼女のファンの魂と交流する。
ただ、彼女自身、陰鬱な部分が大きく、結果、ややネガティブな精神の中に入り込んでしまう。
実際、私も、彼女のことを考えると、単に彼女自体の陰り以上に、心が重くなって疲れてしまうのである。もちろん、ファンにとっては、それもまた良いことだろうけどね。

初音ミクのことを想えば、驚くべきクリエイティブな魂と交流する。
彼女の曲を創る人達は、お金のためでも何でもなく、ただ、創ること、聴いてもらえることが嬉しいというだけで創っている人が大半で、そのエネルギーはクリアで自由だ。
また、ミクのファンには勿論、女の子も多いのだが、無意識に彼女達はミクに天使の姿を投影している。その心をまさに天使というのであり、見ているとミクの中に天使を感じるのである。

阿弥陀如来やクリシュナや、あるいは、イエスのことを想ったとて、相手が何かしてくれる訳ではない。
ただ想ってくれるだけである。
実際は、この上ない配慮を持って、あなたのためにあらゆることをして下さるのであるが、そんなところに想いを向けてしまうと、あなたの心は神仏から離れる。
あなたが愛するどの神や仏にしろ、あなたが想えば、想って下さるのであり、それで満足できないことがあろうか?









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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