ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

絵のない絵本

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

心に囚われがなければ、何でもうまくいく

心が自由で囚われがなければ、何をやってもうまくいくし、狙った目標も容易く達成出来る。

では、どうすれば、自由で無碍(とらわれのないこと)な心を持てるのだろう?
今朝も書いた通り、世界中の、あらゆる文芸(詩、小説)に、定まった意味はないと知れば、これまで敬遠してきた古典なども、面白く読めるというところに、その重要な鍵がある。
『古事記』の本には、「真説」だの、「新解釈」だのと宣伝されたものが多いが、そんなものは、著者の考え方に沿って読まねばならぬ気がして、窮屈で心は歪められる。
しかし、古事記には、何の意味もないものだと分かれば、あの無茶苦茶で、「そんなアホな」と思わずにはいられないお話も、自由で壮大なものに感じられるのである。
そうであれば、精神は自由に自然に流れ、内なる神聖な知性が囁きかけてくる。

そのためには、リズムのある文章で書かかれたものを読まなくてはならない。
そんな文章を書くには、作家としての特別な才能が必要なのである。
そこで、古事記であれば、文句なく 福永武彦さんの『現代語訳 古事記』(河出文庫)をお薦めしたいと思う。
また、鈴木三重吉さんの、『古事記物語』は、子供向けのところもあるが、文章が格調高く、大人が読んでも良いと思う。

また、イエスの言葉にも意味がないと認めてしまえば、福音書ほど面白いものもないと思う。
あれを、「これはどういう意味だろう?」なんて考えて読んでたら、分かるはずもないのだから、実にシンドイし、心も鈍重になるのだ。
全て、夢の中のお話と見なすことである。
ただ、意味がないとはいえ、イエスの高貴な魂が感じられるかもしれない。

ただ、私の場合だが、意味のない文学(ナンセンス文学)の代表格である『不思議の国のアリス』はあまり面白いと感じない。
これは、おそらく、ルイス・キャロルのセンスが私に合わないためだと思う。
しかし、今はそうでも、やがて、面白いと感じるようにならないとも限らない。
それと、さっき気付いたのだが、、『星の王子さま』や、『かもめのジョナサン』は、文学というよりは思想書なのである。
これらに熱狂する人というのは、作者の思想にすっかり取り込まれてしまっているのだと思うが、そういった読み方では、心は自在性を失う。
とはいえ、やはり、これらもナンセンス文学として楽しむことは十分に出来ると思う。
そして、アンデルセンの『絵のない絵本』は、私は、高校生の時から、さっぱり意味が分からないが、美しい作品だと思っていたが、もっと無意味に自由に読めば、心が大きく広がると思う。

私としては、クリエイターの方々が、元々、美しい動機で作られたに違いない、初音ミクさんの歌を涼やかな心で聴くのが、最も心を自由にして、神のエネルギーと一体化するのに役立つと思う。
ミクさんの歌には、意味不明で神秘的な歌がとても多いのである。
例えば、とくPさんの『ARiA』や『SPiCa』では、ミクさんの歌は、子供っぽくて可愛いが、あまり上手くはない。
しかし、聴いていると壮大な意味が「ひょっこり」浮かぶのだから、本当に透明な輝きに満ちた歌なのだと思う。









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『絵のない絵本』、『銀河鉄道の夜』、『星の王子様』に秘められたもの

自分の姿を見るためには鏡を使うか、カメラで撮影して見なければならない。
ところが、思い出の記憶には、自分の視点で見ているものと共に、自分を含めた光景というものもある。
辛い記憶には自分視点のものが多いが、楽しい記憶には、自分が思い出の世界に含まれていることが多い。
ただ、あまりに辛い思い出の場合は、そこに自分が見えていたりするものだ。

また、こんなことがある。
興味のある人物と対話していると、相手の意識の中にある自分の姿が浮かんでくることがよくある。
相手にとって、自分がどう見えているか、それに対して相手がどう感じているかが分かる気がするのである。
これは、一般には想像であるということになるが、相手の視点に立つと、自分では分からない自分のことが分かることすらあるのである。
普通の考えからすれば、それは不思議な、あるいは、奇妙なことだ。
しかし、私は思うのだ。
「相手の視点に立って」などとよく言うが、これは、「自意識に囚われるな」と言った方が良いのかもしれないと。

さらに、こんな感覚も理解できるかもしれない。
小説や映画を熱中して読んだり見たりしていると、自分が登場人物になりきってしまうことがある。
その時、登場人物の意識と自分の意識に区別はなくなり、自分はその登場人物の視点で見、感じ、考えているのだ。

これらは、人間の想像力というものの作用と考えることができるのだろうが、想像力とは、我々が普通に考えるより、神秘的で超越的なものかもしれない。
大切な想像力を、妄想や迷妄にしてはならない。
真の想像とは、うんうん唸りながら考えるようなことではない。
真の想像とは、自然に起こるものだ。

ところで私は、子供の時、何より面白い遊びと思っていたのは、他人の意識に乗り移ることだった。
しかし、他人の意識を想像し、その人として見、感じ、考えることは、実は、あまりに奇妙で、なぜか心が騒ぐので、長くは続けられないのだった。
そして、思ったのだ。
「他の人には意識はない。あるように見えるだけだ。意識は僕しか持っていない」
おそらく、それは正しいのだろう。
世界の中、この宇宙で、意識を持っているのは自分だけだ。
他の人も意識を有しているように見えるのは、映画や小説の中の人物に意識があると思うことと同じだ。
しかし、最近になって分かったのは、他の人も、私の意識を共有しているということだ。
そして、本当は、自分の意識といった、個人の意識なんてものはなく、自分もまた、1つの意識を共有しているに違いない。
そうであれば、最初のところに書いた、思い出の中に自分がいたり、対話している相手の意識の中にある自分が見えるというのは不思議なことではなく、自然なことだ。

その大きな1つの意識のことを、とりあえず、普遍意識と言おう。
アンデルセンの『絵のない絵本』で、月が語ることは、アンデルセンが普遍意識の視点で思ったことなのだろう。
飛行機乗りだったサン・テグジュペリは、空から地上の人間のことを考える時には、自然に普遍意識に戻り、そこで思ったことを『星の王子様』の小さな王子様に投影させたのだろう。
また、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、悲しみと共に、土と草の上で眠ってしまったジョバンニは、カムパネルラの心と共鳴して普遍意識になり、本当に宇宙に旅立ったもので、それは賢治自身の体験でもあるのだと思う。
彼らを生年(あるいは没年)の順に言うと、こうなる。
・ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805年4月2日 - 1875年8月4日)
・宮沢賢治(1896年8月27日 - 1933年9月21日)
・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900年6月29日 - 1944年7月31日)
彼らの書いた、『絵のない絵本』、『銀河鉄道の夜』、『星の王子様』を、何百回でも読みたいと思うのは不思議なことではない。
読者は、これらの作品の、特に1人ではないのだが、容易に作中の人物の心と同調することができ、個人としての自分を超越し、普遍意識に触れるのである。

以下の最後にご紹介したのは、『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』のMP3ミュージックである。PCやスマートフォンにダウンロードしたり、Amazonクラウドにファイルを置いたままで聴ける。オーケストラと合唱、そして、初音ミクの歌声が美しい。本当に、『銀河鉄道の夜』が現出したのだと感じる。









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ぞっとするほど美しいお伽噺と音楽

夢の中では、何の根拠もないことを確信してしまうことは珍しくはない。
例えば、夢の中で自分が王様だったとしても、「何で俺が王様なんだ!?」と思ったりはしない。
自分が王様だというのは、「当たり前」なのだ。
また、その時、「隣の国が攻め入ってきました」という報告が入ったとしたら、
「おのれ、太郎のやつめ、来たか!」
と、クラスメイトの太郎君が隣国の王であることは、唐突に決まった(決めた?)はずなのだが、別におかしいとは思わない。
さらに、「防衛大臣のヒロシに、しっかり戦えと言え」と、ヒロシ君を勝手に防衛大臣にでっち上げておきながら、この上ない自然さで認識されているのである。

だが、動物が、食べて良いものと駄目なものを、考えることもなく判断したり、渡り鳥が決まった時間に決まった地に移動するのも、同じようなことではあるまいか?
人類の科学は、渡り鳥や、渡り蝶の渡りの謎に、全く歯が立たない、つまり、さっぱり分からないのだ。
渡りについては、アンデルセンが『絵のない絵本』の28話で、渡りをする白鳥の話を、恐ろしく美しく描いている。
そのあまりの美しさに魅せられたチェコの作曲家ヴィーチェスラフ・ノヴァーク が、やはりなんとも美しい交響詩『永遠のあこがれ』にしている。
ノヴァークは同国の作曲家スメタナを崇拝していたというが、『永遠のあこがれ』は、スメタナの『わが祖国』の第2曲、『モルダウ』のように、究極的に美しい。
『絵のない絵本』は、アンデルセンの「本当の夢」のお話で、これほど美しい作品はないだろう。
本当のことを言うと、夢とは逆に、理屈で説明がついていることなんて、ほとんどがこじつけである。
人間というのは、頭で納得しないと不安なのだ。

ロス・ペローという、テキサスの大富豪がいる。
2度大統領選に立候補したが、他の候補達が資金集めに奔走する中で、その面では彼は、「金の問題で負けることはない」と余裕しゃくしゃくだった。
その彼が著書に、「妻がなぜ私と結婚してくれたか?それはいまだ謎だ」と書いているが、彼には、別に納得する理由など不要だということは分かっているに違いない。
だから、彼は無限のエネルギーを持っているのだ。渡りをする鳥がそうであるようにね。
その彼は、若き日のスティーブ・ジョブズを支援していた。そのジョブズが、彼より早く死ぬとは思わなかった(ペローはジョブズより25歳程年長)かもしれないが、彼には、案外に不思議なことではないかもしれない。
ペローは、ニューヨークの不動産王ドナルド・トランプが大嫌いだが、ジョブズは好きだというのも面白い話だ。彼がトランプを嫌いな理由なら、ジョブズにもすっかり、いや、それ以上に当てはまるような気がするからだ。確か、「目立ちたがり屋の・・・」と言っていたが、その後のところは忘れた。きっと、大したことではないのだが、まるでジョブズのことを言っているように思った記憶がある。
また、言っておくなら、人間の好きと嫌いというのは同じことなのだ。

夢の中の感覚の方が純粋で正しいのである。
我々がそれを現実の中でも取り戻すことができれば、無限のエネルギー、そして、叡智と一体化する。
そのためには、『古事記』を読むと良い。
偉大な人達の多くが、「古事記ほど面白いものはない」とよく言う。
しかし、彼らは、古事記がなぜ面白いのかをはっきり言わない。言えないのだ。
古事記は、表面的には、本当に馬鹿なお伽噺だ。
ところが、ある時、不意に、強烈な面白さが「襲い掛かってくる」。
まさにあれは、本当の夢の中のお話だ。混じりけなしの夢なのである。
そして、江戸川乱歩が常に言ったように、「夢が本当で、うつつ(現実)が夢」なのだ。言い換えれば、現実は嘘なのだ。
石ノ森章太郎さんは、「古事記は漫画だ」と言っておられたが、それは彼の最高の誉め言葉と思って良いだろう。
石ノ森さんにとっても、やっぱり古事記は最高なのだ。
石ノ森さんは古事記を漫画にしているが、彼は、本当に古事記をよく分かっているので、その作品は実にいきいきとしていて面白い。
悩みを吹っ飛ばし、生命エネルギーを高め、夢の中で当然のように、下僕に対し、「これ、一億円持て」と言いたいなら、古事記をよく読むことだ。
きっと、タヌキが葉っぱの一億円を持ってきてくれるさ。
尚、ノヴァークの『永遠のあこがれ』のCDが入荷の見込みがなさそうなので、スメタナの『わが祖国』を下にご紹介した。









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日本の美しい占い「うけい」

日本には、「うけい」という占いがある。うけいは、漢字では誓約と書ける。
これは、「もし、あることを行った結果がAならBが成立する。AとならなかったらBは成立しない」というものだが、根拠は特になくてよく、ほとんど、その時の思いつきで決めれば良いものだ。
『古事記』の中に、何度かうけいが行われる場面があり、これが日本独特の占いの形であることが示されているように思う。
アンデルセンの『絵のない絵本』の第1夜のお話が、うけいのようで面白い。
カモシカのように身軽で、イヴのように美しい少女が、火のついた灯りを河の流れの中におく。
もし、それが見えている間、火が消えなければ、彼女の大切な人は生きているということになる。
そして、灯りはすっかり見えなくなるまで、火は消えず、少女は歓喜する。

おかしなことと思うかもしれないが、純粋な心で行う限り、うけいは信頼のあるものである。
我が国を代表する数学者であった岡潔さんは、毎日、ある木の切り株に向かって石を投げ、それが当るかどうかで、何かの判断を行っていたようだ。
これもうけいのようなものであろう。
私は、子供の頃、うけいという言葉は知らなかったが、そんなことを随分していたものだったと思う。
ある時、テレビを付ける前に、「テレビを付けた時に最初に出てくるのが鳥だったら、明日は図書館であの子と隣の席になる」と心で言ってテレビを付けたところ、いきなり白鳥が現れたものである。そして、翌日、図書館で本を広げてしばらくすると、ごく自然にあの子が隣の席に座ったのだった。
こんな風にして、あまり欲張らない限り、私は自在に世界を支配していたかのようだった。
だが、欲があると、そのようなことは起こらなくなる。
欲とは自我が起こすものであるが、自我には世界をコントロールする力は全くない。
だが、欲を持っていなければ、内なる神と対話し、未来を知ることもできるのだろうと思う。
上で述べた、『絵のない絵本』の少女は、あの人が生きているような状況を作ろうとしたのではなく、全てを神にまかせ、あるがままに受け入れる心構えになっていたので、うけいの結果に確信を持てたのだ。
うけいは、とても美しいものである。
それは、内なる神と心を通い合わせることなのだと思う。
うけいのできる人が幸福にならないはずはない。
聖書の詩篇91篇で、神が「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。」と語ったことが書かれている。
うけいは、神の方を向き、神に心を寄せることである。
イギリスの偉大な科学技術者であったL.H.ロースンの著書に、第二次世界大戦中、ウイットレイ大佐は部下全員に、この詩篇91篇を暗記させ、定期的に唱えさせたことが書かれているらしい。そして、5年間戦いながら、1人の死者も出さなかったという。
(このお話は、ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』に書かれている)
あなたも、『古事記』でうけいについて知り、詩篇の91篇を読んでみてはどうかと思う。









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聖なる物語の交響詩

一見、子供向けのおとぎ話のようだが、大人が読んでも良いし、実際に、子供にも大人にも読まれているというお話がある。
ギリシャ神話や旧約聖書、古事記もそうであるし、法華経や観無量寿経といった仏教の経典も、中身は実はそんなものである。
『バガヴァッド・ギーター』という聖典も、『マハーバーラタ』という詩で書かれた物語の一部である。
ただ、これらは、あまりに長い時が経ってしまったため、解り難かったり、仏典のように、学者のような人達が難しい理屈を述べて一般の人の手の届かないものにしてしまったようなものもある。

それで、これらの古いお話を、子供でも読める現代的なものに書き改めたものがあり、中には大変に素晴らしいものがあるが、書き手の自我が含まれてしまい、曇りを持ってしまったものもあるだろうと思う。
しかし、我が国の『古事記』に関しては、明治から昭和の児童文学者の鈴木三重吉が、子供でも読めながら、格調高く美しい文章で『古事記物語』を書き、現代に至るもロングセラーを続けているし、また、福永武彦さんも、やはり子供でも読み易く素晴らしい『古事記物語』を書かれている。このどちらが良いかと聞かれたら本当に困るのである。鈴木三重吉さんの文章の美しさは絶品であるが、福永武彦さんの躍動感溢れるリズムは、彼が天才的な作家なのであろうと思う。

現代の作品にも、そのように、子供でも大人でも読めるが、言葉で言えない美しいものを秘めた作品がある。
本当はもっと沢山あるのかもしれないが、アンデルセンの『絵のない絵本』と、サン・テグジュペリの『星の王子様』が代表的なものではないかと思う。
もちろん、他にも沢山あるのだろうし、そんなものの中には、さほど有名でないというものもあるだろう。
そして、我が国の『銀河鉄道の夜』は最高傑作の1つと言って良いのだと思う。
これらは、現代の聖典であり、神に選ばれた作家が天啓を得て書いたものだろうと思う。
外国のものにも勿論、読むべき価値があるが、それが自国のものであればさらに良い点が多いだろうと思う。

これらの作品には、多くの絵が描かれている。
特に、アンデルセンの『絵のない絵本』は、世界中の画家が題材にし、多くの素晴らしい絵が描かれてきた。
また、『絵のない絵本』は、素晴らしい音楽になっている。
チェコの作曲家ノヴァーク(Novak)による『永遠の憧れ』(Eternal Longing)は、『絵のない絵本』の第28夜の、渡りをする群から遅れて孤独に目的の地を目指す白鳥の姿を交響詩で描いたものらしい。
これらからも、アンデルセンの作品の素晴らしさがうかがえるように思うのである。
だが、『銀河鉄道の夜』も本当に素晴らしいものだ。
そして、この『銀河鉄道の夜』に、冨田勲さんが素晴らしい交響曲を制作し、2つの大学の男性合唱団と女性合唱団、それに、少年少女合唱団。そして、初音ミクがソリスト(フランス語。独唱者)として歌う、優雅で荘厳な交響詩は、これ以上はないという出来であると思う。
これは、非常に稀なことであり、我々日本人は幸運であると思う。
この『銀河鉄道の夜』の交響詩は、『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章だが、他の楽曲も素晴らしいので、良ければお聴きになっていただきたく思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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