ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

第九

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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歓喜の瞬間

世間では、年末は、第九というか、『歓喜の歌』の季節だと言う高尚な人もいくらかはいるものだと思う。
だが、「歓喜」って何だろう?
美味しそうな焼肉やケーキ、セクシーな美女やイケメンの男性俳優を見たら興奮するかもしれないが、そんなのは歓喜ではない。
それらは、我々の自由を奪い、牢獄に閉じ込めるだけのものだ。
現代のお笑い芸人の与える笑いも同じだ。
彼らの笑いは、他人を蔑み馬鹿にすることを土台としている。
笑いというのは、緊張を「ほっとする」ような無害な要因で解いた時に起こる。
例えば、いかめしく恐い先生には、私達は強い緊張を強いられる。しかし、その先生が奥さんに叱られて小さくなっているのを見たら、その緊張が解けて笑えるのだ。これが笑いの原理である。しかし、その先生の奥さんが、怒りのあまり、その先生に熱いコーヒーをぶちまけたら、見ている者達は余計に緊張して笑えない。
現代のお笑いは、誰かを徹底的に貶めることにより、見ている我々は相対的に「上から目線になる」(優越感を感じる)ことで、自分に強くまとわりついている劣等感という緊張が解けるから可笑しく感じるのだ。
こんな公式が理解できれば、後は世間的駆け引きができる頭の良さがあれば、お笑い芸人で成功できる。
だが、それでもたらすのは、誰も幸福にしない、否、不幸にするだけの地獄の笑いである。
有名なお笑い芸人達は、害が大きいのである。本当は人々を不幸にしているのだ。

さて、では、本当の歓喜とは何だろう?
昨夜、私は、このブログで、「本当に悪い男はもてる」と書いたが、書いた本人がどうかというと、勿論、もてる。
私は嘘は書かない。
もてるとは良いことだ。
ところで、私は、小さな子供が嫌いだった。そんな人も多いと思うが、なぜそうなのかというと、小さな子供に好かれないからだ。
私もそうだったのだ。
しかし、数日前、道を歩いていたら、3歳くらいの男の子が、私を見ると、必死に駆け寄ってきて、両手を私に差し出した。
可愛いものだと感じた。
その時、私に何が起こっていたのか?
また、昨日、やはり道を歩いていたら、向こうの方に、大変な美人の猫がいた。
以前は、私を見ると、猫は逃げていったものだが、「彼女」が、さーっとこっちに寄ってくる。
しかし、途中で奥ゆかしくも、そこにあった家の庭の、狭い塀の中に入って行って、隠れてしまった。
そこに行き着いた私が、その塀の中を覗くと、猫ちゃんは、うずくまってじっとしている。
私は、身を低くして近寄った。
すると・・・なんと、猫のお嬢さんは、こちらに向かって、きちんと座りなおしたのだ。
そそとした、自然な育ちの良さを示すような、品位があって、それでいて可愛らしい座り方だった。
しかし、戸惑いを感じるのも可憐な乙女の条件・・・姫様は、少しおみ足を進めるような雰囲気はあったが、近寄ってはこなかった。
無理強いは騎士道に反するのであり、私は通り過ぎたが、しばらくして視線を感じて振り返ると、愛しの乙女は道にお出ましで、こちらに向かって優雅に座っておられた。
その時に私が感じたのが歓喜である。
さて、私に何が起こっていたのか?

歓喜に満ちた時、人は、一切のイメージを持っていないのである。
あらゆる先入観から解放されているのだ。
全ての記憶と関係を断っているという言い方をしても良いと思う。
空(くう)に、無になっている。
そこには、全くの自由がある。
咲こうと意図しなくても咲くことができた花の自然性があるのだ。

夏の夕方に、涼しい風がそよと吹いた時。
明るい陽の光の中、間近をカラスが優雅に滑空する姿を見た時。
我々は一瞬、無になる。
これまでの人生で蓄えていた記憶の一切と無関係になり、思考せず、何のイメージも持たない。
その時、風の神秘に震え、カラスの筋肉の動きの1つ1つに至上の美を見出す。
それが、芸術といえば真の芸術だし、宗教といえば、原初の宗教だ。
そして、これこそが歓喜なのである。

『歓喜の歌』のシラーの詩の訳詩はいかめし過ぎないだろうか?
よく分からないが、シラー自身は、もっと気楽な表現をしているのではないかと思うのだ。
だって、歓喜って、気楽なものなのだよ。

歓喜が留まっていると、何を見ても美しい。
だって、それは、「新たな目」を持つことなのだから。
見慣れていると思っている部屋や家具すら、どうしようもなく美しい。
ミカンを見ると、どこからどう見ても美しい。
私は初音ミクのブルーレイを見てみたら、目も眩むほどの美しさだった。
これが歓喜なのだ。









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ハートは左に、ソウルは右に

英語では、心臓も心もハートだが、日本語の心や英語のハートは、感情的な心を指すと思われる。それが心臓にあると考えたのは自然なことだろう。

だが、日本語で思考とか意志と言えば、頭にあると考えられる場合が多いだろうし、それらを英語で言ったマインドやウイルも同じと思う。
日本では、本心といったことを、腹と言うこともあるが、これは日本独特のものだ。だから、切腹という、ある意味、日本を象徴する行為があるのである。

さて、深い心のことを、日本語では魂、英語では、ソウルとかスピリットと言うのだと思う。
魂という概念は、どこの国にもあるのではないだろうか?
魂に対するイメージは、炎である場合が多いように思うが、古代ギリシャでは蝶であったようだ。死者の魂が蝶のように漂っていると感じたのだろう。

では、魂は、身体のどこかの位置で感じられるものだろうか?
感情が心臓の位置である胸の左側で感じると言っても、魂がそうであるとは限らない。魂とは、心のように簡単に揺らいだり動いたりするものではなく、大きく、静かなものであると考える場合が多いのではないかと思う。それならば、容易くドキドキする心臓と同じであるとは考え難い。いかに修練を重ね、動揺することが無い人間にだって、必ず弱みはある。強そうな人間ほど、弱点を突かれると脆いものだ。だから、魂は心臓の位置にはない。

古代インドの聖典には、魂を意味するフリダヤムは、胸の右側にあると記されているらしい。ラマナ・マハルシの説明では、胸の中心から指2本分右である。
その証拠として、人が自分を指差す時、自然に胸の右側を指すのだという。
ただ、現代の日本人に、自分を指差すことをさせた場合、顔を指差す場合が多いと思う。
もし、ラマナ・マハルシの説明の通りだとしても、今の日本人は、魂という深奥の心を大切にしたりはしていない。
とはいえ、両手の親指と人差し指で枠を作り、それを深い心を示す意図をもって胸の上に合わせる時、それは自然に、わずかに胸の右側に置くのである。

ベートーヴェンの交響曲第9の中の、有名な『歓喜の歌』に、

歓喜よ、神々の美しき閃光(火花)よ
楽園の乙女よ

とあるが、この閃光(火花)を、霊と訳す人もいるが、直感的にそう感じたのだろう。霊は魂と同じものと言って良い。
神は、中心の無限の炎であり、そこから発した閃光、あるいは、火花が人の霊、あるいは、魂なのだ。
そして、神の火花である人の魂を、美しいものの代表である乙女に喩えたのだろう。それが楽園(天国、あるいは、エデン)の乙女であれば、その美しさは至上のものであるはずだ。
神の魂と本質において等しい我々の魂もまた比べるものなく美しく貴い。その真理を知ることが歓喜であるのだ。

我々も、心が強くなれば、感情を支配できるようになり、そうなれば、心臓とは別の位置に魂を感じるようになる。
それが、胸の右側であることは、体験として知るしかない。
もちろん、右の右側というのは、肉体的に魂の感覚が現れるという場所に過ぎず、そこに魂があるというのではないと思う。しかし、全体の大きな魂である神への通路のようなものであるとは言えるかもしれない。

だが、人間の世界では、いかに社会で鍛えられ、心を強くしたつもりでも、欲望のために、神の閃光、楽園の乙女を感じることができず、自己の価値も希望も見出せず、悲惨と苦しみの中にあるのだ。

では、さらに、瞑想や呼吸の制御、あるいは、マントラを繰り返し、心を一点に集中することで心の強さを高め、その強くなった心で、「私は誰か?」と問い続ければ、やがてその思いは、胸の右側に溶け、そこを通し、無限の静寂を見つける。遠くにあるものだと思っていたその楽園は、手足よりも、呼吸よりも近くにあったことが分かる。その時に、歓喜の歌が歌えるのである。
シラーは、何らかの幸運により、楽園を見つけたのだ。
だが、我々は、偶然の幸運に頼らずとも、確実にそれを見つけるだろう。









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食の慎みと沈黙があなたを自由にする

学校で傲慢な教師や、たちの悪い級友に耐えたり、社会で頭を叩かれるのは、皆、魂を解放するための修行でしかないのだろう。魂を何から解放するのかというと、暗闇のベールとでもいうものだ。だが、我々の魂は、漆黒の夜空に輝く星のように、闇に消されるようなものではない。
多くの人の魂は、世間という闇に覆われて、輝きを失くしてしまっている。
だが、魂を解放して輝きを夜闇に放てるようになれば、我々は自由だ。
ベートーヴェンの第九の中の歌『歓喜の歌』で、歓喜とは、神の美しい火花(あるいは霊感)、楽園の乙女と表現されているが、それは、解放された魂の輝きのことだ。そして、魂そのものは、神あるいは楽園と一体のものである。

では、魂を確実に解放する良い方法とは何だろう。
最も重要なことは、食欲を克服することだ。食欲は魂を縛るのである。だから、飽食が蔓延っている世間の中の人々の魂は、牢獄にいる。牢獄は個室だ。本来、分離されていないものが分離されているのだ。
もう1つ重要なことを言えば、無駄なおしゃべりをしないことだ。沈黙は金というが、これはお金のことではない。魂を輝かせるということだ。
ラマナ・マハルシは、実相である神を知った後も、何年もの沈黙の行をしたが、口でも心でも、なるべく沈黙を守ることは優れた行である。

食を慎むのは楽しいことだ。それだけで魂が解放されていくのだ。これほど嬉しいことがあろうか?
沈黙もまたしかりである。話すときは、必要なことだけを端的に言うのだ。人の想念というものは、話さなくても照射されるのである。「大切なことは、言わなくても伝わる」のだ。

「ありがとうございました」
「何もしていない」
「はい。ずっとそばに居て下さいました」
~『BLOOD-C』より。小夜(さや)が、話す犬に言った言葉~

言葉では人を慰められない。心を癒すことはできない。沈黙が人の心を溶かすのである。

私は、食事を1日1回にし、肉食を絶って4年以上になるが、半年くらい前から、ようやく、食欲を克服できた。だが、そうなるまでも、食の慎みは楽しいものであった。魂が現れてくるのを感じるからだ。また、最近では、ほとんどの会話もやめてしまった。もちろん、話すべき時は話すが、私自身は何も話していない。口が話しているだけだ。
無愛想になれというのではない。むしろ、沈黙を守るなら、芝居の愛想良さよりずっと親切かもしれない。

好機が来ても私は打たない。拳自らが打つ。
~『燃えよ!ドラゴン』より。リーが師に言った言葉。~

魂を解放すればするほど、我々は自由になり自在になる。世界は意のままになる。
我々の魂から放出される光は、神の光、楽園の乙女・・・つまり、この上なく美しいものだ。
それが、ベートーヴェンの第九、天啓を得て書かれたシラーの詩『歓喜に寄せて』の意味するものだ。日本人だけの習慣かもしれぬが、年末に第九を聴くのは良いことだ。









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料理も仕事も恋人も迷わず選ぶには

ベートーヴェンは、ある楽曲の1つの音を何百回と書き直し、疲労困憊(ひろうこんぱい)した挙句、ようやく決定した音は、一番最初に書いた音だったという話がある。
最初の音は、彼に訪れた霊感である。彼の第九の『歓喜の歌』のシラーの詩で言う、神の火花、楽園の乙女とはそのことだ。だから、それで良かったのに、悪魔が彼を迷わせた。悪魔とは、彼の個人的自我である。
彼は、迷いに迷って、疲れ切って自我が静まった時に、ようやく、最初の霊感の残り火が見えたのだ。愚かではあるが、彼も人間なのだ。

何かを迷って決めた時はろくな結果にならない。
内海康満さんは、犬を買うとき、一匹を抱き上げて、それでいいと思ったら、後は見ないのだそうだ。人を雇う時も、最初に会った人が良ければ、後は会わなくて良いと言う。全く同感である。
だが、最初から迷っている場合は、何も選ばないことだ。

高橋留美子さんの『めぞん一刻』という漫画で、主人公の五代が幼い頃、おばあさんに、2つのアイスクリームの1つを選ぶように言われ、迷っているうちに、両方溶けてしまって泣くという間抜けな場面があった。そして、青年になった五代の回りに、複数の素晴らしい女性が現れ、五代はいまだ選ぶことができず、自分もきりきりまいで、女性達の心も傷つける。
面白い話と思う。確かに、人生とはそんなもので、欠点を修正するまで、それが原因で何度でも痛い目に遭うものだ。
幼い日の五代は、迷うなら、最初からアイスクリームを食べる必要はなかった。だが、五代が小さいなら、迷っている五代を見て、おばあさんはアイスクリームを両方取り上げるべきだったのだ。

レストランで料理を選べないなら、何も食べないことだ。迷って選んだ料理を食べると、身体にも悪い。
昨日、このブログで、最近のデザインは悪くなったと書いたが、それはデザインに時間をかけているからだ。デザイナーが迷っているのである。もちろん、形にする際には、分野によるが、それなりの時間はかけるが、本当に良いデザインは一瞬の閃きだ。それが分からなければ、一流のデザイナーにはなれない。
画家でも、考えながら描いた作品は良くないものだ。何も考えずに、自動的に出来た絵が名画なのだ。ピカソやゴッホは、1日に何枚も描いた。それがことごとに傑作だったのだ。
本当に優れたものは自分が作っているのではない。自分は何もしていない。
エジソンの言う、「空間の向こうからやってくるアイディア」、ソクラテスの言う、内なる霊の声によって偉大なことは成る。それが、さっきも言った、シラーの詩の、神の火花、楽園の乙女であり、優れた芸術家達は、天使のmurmur(ささやき)、霊感、神の命令などと言う。

だが、我々凡人は、最初から迷っている。選択肢があれば、どれが得かといった考えに囚われるからだ。最初から得などしようと思わないことだ。最近の宣伝は全て、「お得です」「得をしよう」「やらないと損ですよ」だ。だから、どんな宣伝も、私を絶対に口説けない。私は、得をしたくないのだ。損をしたいのだ。
だが、結局は、得をしたがる者は最も大切なものを失うのだ。そして、私は意図せずいつも得をする。得をしたくはないが、損をしたことがないのである。

だが、迷いを払えない我々は、荘子が言った通り、「思慮分別、判断を捨て、全てを成り行きにまかせる」のだ。
それを、神や仏に全て任せることと言っても同じだ。本当に任せ切ることが出来るなら、損得に迷わされず、いかなる試練にでも挑めることだろう。アラビアのロレンスが、誰もが無謀だと言ったアカバ攻略を迷わず決行したようにだ。奇跡を成し遂げ、英雄に祭り上げられたロレンスだが、少佐への昇進を断り、あらゆる賛辞を受けなかった。彼自身は何もしていないことを知っていたのだろう。
神に任せるとは、怠惰になることではない。酒を飲んでごろごろして幸運を待つことではない。
その『アラビアのロレンス』の映画の中で、ハウェイタット族の首領アウダに誰かが言った。「アウダも年を取ったな。戦いにそそられぬとは」。アウダは自分の誤りに気付き、ロレンスと共に戦った。本物の喜びのために。
黒住宗忠が言った、「神に任せ切れば、嬉しいこと、面白いことばかりだ」というのは、そういったことだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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