世間では、年末は、第九というか、『歓喜の歌』の季節だと言う高尚な人もいくらかはいるものだと思う。
だが、「歓喜」って何だろう?
美味しそうな焼肉やケーキ、セクシーな美女やイケメンの男性俳優を見たら興奮するかもしれないが、そんなのは歓喜ではない。
それらは、我々の自由を奪い、牢獄に閉じ込めるだけのものだ。
現代のお笑い芸人の与える笑いも同じだ。
彼らの笑いは、他人を蔑み馬鹿にすることを土台としている。
笑いというのは、緊張を「ほっとする」ような無害な要因で解いた時に起こる。
例えば、いかめしく恐い先生には、私達は強い緊張を強いられる。しかし、その先生が奥さんに叱られて小さくなっているのを見たら、その緊張が解けて笑えるのだ。これが笑いの原理である。しかし、その先生の奥さんが、怒りのあまり、その先生に熱いコーヒーをぶちまけたら、見ている者達は余計に緊張して笑えない。
現代のお笑いは、誰かを徹底的に貶めることにより、見ている我々は相対的に「上から目線になる」(優越感を感じる)ことで、自分に強くまとわりついている劣等感という緊張が解けるから可笑しく感じるのだ。
こんな公式が理解できれば、後は世間的駆け引きができる頭の良さがあれば、お笑い芸人で成功できる。
だが、それでもたらすのは、誰も幸福にしない、否、不幸にするだけの地獄の笑いである。
有名なお笑い芸人達は、害が大きいのである。本当は人々を不幸にしているのだ。
さて、では、本当の歓喜とは何だろう?
昨夜、私は、このブログで、「本当に悪い男はもてる」と書いたが、書いた本人がどうかというと、勿論、もてる。
私は嘘は書かない。
もてるとは良いことだ。
ところで、私は、小さな子供が嫌いだった。そんな人も多いと思うが、なぜそうなのかというと、小さな子供に好かれないからだ。
私もそうだったのだ。
しかし、数日前、道を歩いていたら、3歳くらいの男の子が、私を見ると、必死に駆け寄ってきて、両手を私に差し出した。
可愛いものだと感じた。
その時、私に何が起こっていたのか?
また、昨日、やはり道を歩いていたら、向こうの方に、大変な美人の猫がいた。
以前は、私を見ると、猫は逃げていったものだが、「彼女」が、さーっとこっちに寄ってくる。
しかし、途中で奥ゆかしくも、そこにあった家の庭の、狭い塀の中に入って行って、隠れてしまった。
そこに行き着いた私が、その塀の中を覗くと、猫ちゃんは、うずくまってじっとしている。
私は、身を低くして近寄った。
すると・・・なんと、猫のお嬢さんは、こちらに向かって、きちんと座りなおしたのだ。
そそとした、自然な育ちの良さを示すような、品位があって、それでいて可愛らしい座り方だった。
しかし、戸惑いを感じるのも可憐な乙女の条件・・・姫様は、少しおみ足を進めるような雰囲気はあったが、近寄ってはこなかった。
無理強いは騎士道に反するのであり、私は通り過ぎたが、しばらくして視線を感じて振り返ると、愛しの乙女は道にお出ましで、こちらに向かって優雅に座っておられた。
その時に私が感じたのが歓喜である。
さて、私に何が起こっていたのか?
歓喜に満ちた時、人は、一切のイメージを持っていないのである。
あらゆる先入観から解放されているのだ。
全ての記憶と関係を断っているという言い方をしても良いと思う。
空(くう)に、無になっている。
そこには、全くの自由がある。
咲こうと意図しなくても咲くことができた花の自然性があるのだ。
夏の夕方に、涼しい風がそよと吹いた時。
明るい陽の光の中、間近をカラスが優雅に滑空する姿を見た時。
我々は一瞬、無になる。
これまでの人生で蓄えていた記憶の一切と無関係になり、思考せず、何のイメージも持たない。
その時、風の神秘に震え、カラスの筋肉の動きの1つ1つに至上の美を見出す。
それが、芸術といえば真の芸術だし、宗教といえば、原初の宗教だ。
そして、これこそが歓喜なのである。
『歓喜の歌』のシラーの詩の訳詩はいかめし過ぎないだろうか?
よく分からないが、シラー自身は、もっと気楽な表現をしているのではないかと思うのだ。
だって、歓喜って、気楽なものなのだよ。
歓喜が留まっていると、何を見ても美しい。
だって、それは、「新たな目」を持つことなのだから。
見慣れていると思っている部屋や家具すら、どうしようもなく美しい。
ミカンを見ると、どこからどう見ても美しい。
私は初音ミクのブルーレイを見てみたら、目も眩むほどの美しさだった。
これが歓喜なのだ。
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だが、「歓喜」って何だろう?
美味しそうな焼肉やケーキ、セクシーな美女やイケメンの男性俳優を見たら興奮するかもしれないが、そんなのは歓喜ではない。
それらは、我々の自由を奪い、牢獄に閉じ込めるだけのものだ。
現代のお笑い芸人の与える笑いも同じだ。
彼らの笑いは、他人を蔑み馬鹿にすることを土台としている。
笑いというのは、緊張を「ほっとする」ような無害な要因で解いた時に起こる。
例えば、いかめしく恐い先生には、私達は強い緊張を強いられる。しかし、その先生が奥さんに叱られて小さくなっているのを見たら、その緊張が解けて笑えるのだ。これが笑いの原理である。しかし、その先生の奥さんが、怒りのあまり、その先生に熱いコーヒーをぶちまけたら、見ている者達は余計に緊張して笑えない。
現代のお笑いは、誰かを徹底的に貶めることにより、見ている我々は相対的に「上から目線になる」(優越感を感じる)ことで、自分に強くまとわりついている劣等感という緊張が解けるから可笑しく感じるのだ。
こんな公式が理解できれば、後は世間的駆け引きができる頭の良さがあれば、お笑い芸人で成功できる。
だが、それでもたらすのは、誰も幸福にしない、否、不幸にするだけの地獄の笑いである。
有名なお笑い芸人達は、害が大きいのである。本当は人々を不幸にしているのだ。
さて、では、本当の歓喜とは何だろう?
昨夜、私は、このブログで、「本当に悪い男はもてる」と書いたが、書いた本人がどうかというと、勿論、もてる。
私は嘘は書かない。
もてるとは良いことだ。
ところで、私は、小さな子供が嫌いだった。そんな人も多いと思うが、なぜそうなのかというと、小さな子供に好かれないからだ。
私もそうだったのだ。
しかし、数日前、道を歩いていたら、3歳くらいの男の子が、私を見ると、必死に駆け寄ってきて、両手を私に差し出した。
可愛いものだと感じた。
その時、私に何が起こっていたのか?
また、昨日、やはり道を歩いていたら、向こうの方に、大変な美人の猫がいた。
以前は、私を見ると、猫は逃げていったものだが、「彼女」が、さーっとこっちに寄ってくる。
しかし、途中で奥ゆかしくも、そこにあった家の庭の、狭い塀の中に入って行って、隠れてしまった。
そこに行き着いた私が、その塀の中を覗くと、猫ちゃんは、うずくまってじっとしている。
私は、身を低くして近寄った。
すると・・・なんと、猫のお嬢さんは、こちらに向かって、きちんと座りなおしたのだ。
そそとした、自然な育ちの良さを示すような、品位があって、それでいて可愛らしい座り方だった。
しかし、戸惑いを感じるのも可憐な乙女の条件・・・姫様は、少しおみ足を進めるような雰囲気はあったが、近寄ってはこなかった。
無理強いは騎士道に反するのであり、私は通り過ぎたが、しばらくして視線を感じて振り返ると、愛しの乙女は道にお出ましで、こちらに向かって優雅に座っておられた。
その時に私が感じたのが歓喜である。
さて、私に何が起こっていたのか?
歓喜に満ちた時、人は、一切のイメージを持っていないのである。
あらゆる先入観から解放されているのだ。
全ての記憶と関係を断っているという言い方をしても良いと思う。
空(くう)に、無になっている。
そこには、全くの自由がある。
咲こうと意図しなくても咲くことができた花の自然性があるのだ。
夏の夕方に、涼しい風がそよと吹いた時。
明るい陽の光の中、間近をカラスが優雅に滑空する姿を見た時。
我々は一瞬、無になる。
これまでの人生で蓄えていた記憶の一切と無関係になり、思考せず、何のイメージも持たない。
その時、風の神秘に震え、カラスの筋肉の動きの1つ1つに至上の美を見出す。
それが、芸術といえば真の芸術だし、宗教といえば、原初の宗教だ。
そして、これこそが歓喜なのである。
『歓喜の歌』のシラーの詩の訳詩はいかめし過ぎないだろうか?
よく分からないが、シラー自身は、もっと気楽な表現をしているのではないかと思うのだ。
だって、歓喜って、気楽なものなのだよ。
歓喜が留まっていると、何を見ても美しい。
だって、それは、「新たな目」を持つことなのだから。
見慣れていると思っている部屋や家具すら、どうしようもなく美しい。
ミカンを見ると、どこからどう見ても美しい。
私は初音ミクのブルーレイを見てみたら、目も眩むほどの美しさだった。
これが歓喜なのだ。
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