ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

竹宮恵子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

大物武将や政治家が娼婦の処に通う訳

私は名言集というものが好きでない。
その人に相応しい名言というのは、神が与えてくれる。
前にも書いたが、私は、4つか5つの時、テレビで、スーパーマンが、「芸術は離れて観るものでしょう?」というのを聞いた時、それが忘れられず、今になって、その深い意味を知ったりするのだ。
そんな風に、本当の名言は、日常の会話や、たまたま見たり聞いたりした言葉の中にあるものだ。

小学生の時、竹宮恵子さんの『ファラオの墓』という伝説的な漫画を読んだ時、16歳の王スネフェルが言った、「ものごとは客観視するに限る」という言葉を憶えている。
だが、本当に客観視することは難しい。
客観視したつもりでも、所詮、自分の視点、観点でものを見、考えるものなのだ。
本当に客観視するということは、自分が存在しないということだ。
それは、神の視点で見ているということなのだ。
だから、本当に客観視できたとしても、何を見たかは、自我である自分は憶えていない。ここが辛いところだ。
神になって客観視した時、自我である自分は消えているのだから、自我に戻った時に、憶えているはずがないのだ。
ただ、自我が戻って来る瞬間の、まだ自我が希薄な時に、神の英知の欠片を掴める時がある。
それは、直観と呼ばれるものだ。
つまり、本当に客観視した時に見たものは、運が良ければ直観として、少しだが得られるということだ。
真の客観視は才能でもあり、あるいは、訓練でもある。
普段から、自我を弱くする訓練をしていれば、直感を多く感じるようになる。
直観は、優れた頭脳で何百時間考えることよりも優れたことを瞬間に得る。
いや、真に優れた頭脳とは、直観を受信する頭脳のことなのだ。人間が考えることなど、猿より多少マシというに過ぎない。

初音ミクの『45分の恋人』という歌がある。作詞はエンドケイプさん、作曲・編曲は坂本祐介さんだ。
これがなんと、娼婦をやってる女の子の歌だ。
しかし、最初、ミクのあどけないような声で聴いた時は、それが、さっぱり分からなかったくらいだ。
ところが、ミク・・・というより、単に歌詞の中の女の子なのだが、その仕事は嫌なんだろうなという感じはあるが、さりとて、絶望してもいない。
明るいとまではいかないが、暗くもない。
シャワーを浴びながら、家で自分の帰りを待ちわびる猫のことを思い出すというのが、どこか温かい。
胸に触られても、ヒトゴトのように眺めている。

娼婦なんてのも、やりたくてやれるものじゃない。やりたくなくて逃れられるものでもない。
運命がそう決まっているなら、本人の意思は何の関係もない。
だから、喜ぶことはないとしても、自分を嫌悪したり罪悪感を持つ必要はない。
それは、どんなことだって同じだ。
ラマナ・マハルシが、「あなたがどんな悪人であっても、『私は悪人だ』と嘆くべきでない」と言ったのは、そんな意味だ。

人の運命は、生まれる前に全て決まっていて、それは決して変わらない。我々は世界や人生に対し、何の影響を与えることもできない。
それを無条件に受け入れるなら、自我は弱くなる。
自我が弱くなれば、客観視が出来るようになり、直観を得ることだろう。
昔から、娼婦には、不思議と賢い人がいて、武将や政治家が、ただ欲望を満たすためでなく、会話をするために通ったという話は多い。
自分の運命を受け入れ、自我が弱くなった娼婦には、霊感というほどの直観を持った人がいたのだろう。
彼女達は、まさに荘子の教えを、教えられることもなく、本当に実践しているのだ。
『45分の恋人』の女の子も賢者候補かもしれない。









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人生を世間に売った人の歩き方

私は、毎朝、通勤で駅へ向かって歩いている時、中学生が通学する集団と対向する形になる。
私は大抵、毎日同じ時間に家を出るし、彼らもそうであろうから、顔を合わせる相手はほぼ決まっているはずだ。
そこそこには、彼らの顔を見ているはずであるが、彼らの顔を憶えていることは全く無い。
ところが、ただ1人、はっきり憶えてしまった女子生徒がいる。
美少女なのかといえば、確かに美少女だが、同じくらいの美少女なら、多分、他にもいるだろうから、それが理由で憶えている訳ではない。

ところで、大学生も、あまり多くはないながら、すれ違うのであるが、こちらは、格好の良い服装をした女子大生や、逆に、あまりにだらしない格好の女子大生であれば、憶えていることもある。だが、見れば美人でも、顔をあまり憶えていない。そして、男子学生を憶えていることは全く無い。
ところが、やはり、女子大生の1人をはっきり憶えてしまった。こちらは、相当な美人で、服のセンスも抜群であるのだが、どうも、それが理由で憶えた訳ではないような気がする。

なぜ、女子中学生の1人、女子大生の1人をはっきり憶えてしまったかというと、それは目だ。
特に中学生の場合、前を見ないで歩いている子が多く、対向して歩いていると、こちらが避けないと衝突しそうな感じになることが多い。だがこれは、大学生でもあまり変わらないように思う。いや、実際は大人も同じなのだ。
誰も、意識して前を見て歩いていないのだ。
ところが、上記の2人は、そうではない。そして、今では珍しい特性と言えるが、自分から避けて道を空けるのである。特に、その女子中学生の慎ましい歩き方は好意に値する。また、その女子大生は、ちょっと鋭い感じの素晴らしい目をしている。私は、彼女を心の中でアテーナーと呼んでいる。最も輝く瞳を持つ女神だ。一方、中学生の子はアルテミスと呼んでいる。理性と芸術の神アポローンの双子の妹、最もおがやかな女神レートーの娘で、新月の女神とも言われる純潔の女神だ。

前を見て歩いていない者は、意識を捨てて生きている。意識を捨てているということは、人生を捨てているのである。そして、そんな人が非常に多い。

竹宮恵子さんの漫画で、純粋な心を持っているがゆえに、文明社会で生きるのが辛い青年の話がある。彼は、街の中の、虚ろな、死んだような顔の人を見るのが辛かった。きっと、そんな人々はいつもうつむき、前を見て歩いていない。だが、ある時、彼は1人の少女を見て驚愕する。「生きている!あの子は生きている」。彼女は、他の子と違う。生命が息づいていた。
古い漫画で、なんという題名だったか思い出せないが、ホラーもので、その少女も魔の者だったというおちであったとは思う。多分、『少女の魔女があなたの心臓を食べる歌』なんて歌になっている元の漫画のように思う。

本当に、前を見て歩いていない者が多い。人の行動は、心構えを表していることが多い。前を見て歩いていない者は、実際に、人生においても、前を見て歩いていない。
ずっとうつむいて歩いている女子大生と対向して歩いていて、試しに避けずに放っておいたら、本当に真正面ぎりぎりまできてしまったことがある。顔を見ると、きれいな顔をしているのに、知性が全く感じられない薄気味悪い顔だった。
携帯やスマホを見ながら歩いている者は、人生を携帯に渡してしまったと言って良い。この場合の携帯、スマホとは、世間の象徴である。まさに、自分の人生、自分の内面を見ず、世間だけを見ているのだ。世間にひれ伏す者は、自分で生きることを止めたのだ。イエスは、「私は生命を与えるために来た」と言ったが、その意味がよく分かるように思う。だが、現代はもはや手遅れかもしれないのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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