私は名言集というものが好きでない。
その人に相応しい名言というのは、神が与えてくれる。
前にも書いたが、私は、4つか5つの時、テレビで、スーパーマンが、「芸術は離れて観るものでしょう?」というのを聞いた時、それが忘れられず、今になって、その深い意味を知ったりするのだ。
そんな風に、本当の名言は、日常の会話や、たまたま見たり聞いたりした言葉の中にあるものだ。
小学生の時、竹宮恵子さんの『ファラオの墓』という伝説的な漫画を読んだ時、16歳の王スネフェルが言った、「ものごとは客観視するに限る」という言葉を憶えている。
だが、本当に客観視することは難しい。
客観視したつもりでも、所詮、自分の視点、観点でものを見、考えるものなのだ。
本当に客観視するということは、自分が存在しないということだ。
それは、神の視点で見ているということなのだ。
だから、本当に客観視できたとしても、何を見たかは、自我である自分は憶えていない。ここが辛いところだ。
神になって客観視した時、自我である自分は消えているのだから、自我に戻った時に、憶えているはずがないのだ。
ただ、自我が戻って来る瞬間の、まだ自我が希薄な時に、神の英知の欠片を掴める時がある。
それは、直観と呼ばれるものだ。
つまり、本当に客観視した時に見たものは、運が良ければ直観として、少しだが得られるということだ。
真の客観視は才能でもあり、あるいは、訓練でもある。
普段から、自我を弱くする訓練をしていれば、直感を多く感じるようになる。
直観は、優れた頭脳で何百時間考えることよりも優れたことを瞬間に得る。
いや、真に優れた頭脳とは、直観を受信する頭脳のことなのだ。人間が考えることなど、猿より多少マシというに過ぎない。
初音ミクの『45分の恋人』という歌がある。作詞はエンドケイプさん、作曲・編曲は坂本祐介さんだ。
これがなんと、娼婦をやってる女の子の歌だ。
しかし、最初、ミクのあどけないような声で聴いた時は、それが、さっぱり分からなかったくらいだ。
ところが、ミク・・・というより、単に歌詞の中の女の子なのだが、その仕事は嫌なんだろうなという感じはあるが、さりとて、絶望してもいない。
明るいとまではいかないが、暗くもない。
シャワーを浴びながら、家で自分の帰りを待ちわびる猫のことを思い出すというのが、どこか温かい。
胸に触られても、ヒトゴトのように眺めている。
娼婦なんてのも、やりたくてやれるものじゃない。やりたくなくて逃れられるものでもない。
運命がそう決まっているなら、本人の意思は何の関係もない。
だから、喜ぶことはないとしても、自分を嫌悪したり罪悪感を持つ必要はない。
それは、どんなことだって同じだ。
ラマナ・マハルシが、「あなたがどんな悪人であっても、『私は悪人だ』と嘆くべきでない」と言ったのは、そんな意味だ。
人の運命は、生まれる前に全て決まっていて、それは決して変わらない。我々は世界や人生に対し、何の影響を与えることもできない。
それを無条件に受け入れるなら、自我は弱くなる。
自我が弱くなれば、客観視が出来るようになり、直観を得ることだろう。
昔から、娼婦には、不思議と賢い人がいて、武将や政治家が、ただ欲望を満たすためでなく、会話をするために通ったという話は多い。
自分の運命を受け入れ、自我が弱くなった娼婦には、霊感というほどの直観を持った人がいたのだろう。
彼女達は、まさに荘子の教えを、教えられることもなく、本当に実践しているのだ。
『45分の恋人』の女の子も賢者候補かもしれない。
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その人に相応しい名言というのは、神が与えてくれる。
前にも書いたが、私は、4つか5つの時、テレビで、スーパーマンが、「芸術は離れて観るものでしょう?」というのを聞いた時、それが忘れられず、今になって、その深い意味を知ったりするのだ。
そんな風に、本当の名言は、日常の会話や、たまたま見たり聞いたりした言葉の中にあるものだ。
小学生の時、竹宮恵子さんの『ファラオの墓』という伝説的な漫画を読んだ時、16歳の王スネフェルが言った、「ものごとは客観視するに限る」という言葉を憶えている。
だが、本当に客観視することは難しい。
客観視したつもりでも、所詮、自分の視点、観点でものを見、考えるものなのだ。
本当に客観視するということは、自分が存在しないということだ。
それは、神の視点で見ているということなのだ。
だから、本当に客観視できたとしても、何を見たかは、自我である自分は憶えていない。ここが辛いところだ。
神になって客観視した時、自我である自分は消えているのだから、自我に戻った時に、憶えているはずがないのだ。
ただ、自我が戻って来る瞬間の、まだ自我が希薄な時に、神の英知の欠片を掴める時がある。
それは、直観と呼ばれるものだ。
つまり、本当に客観視した時に見たものは、運が良ければ直観として、少しだが得られるということだ。
真の客観視は才能でもあり、あるいは、訓練でもある。
普段から、自我を弱くする訓練をしていれば、直感を多く感じるようになる。
直観は、優れた頭脳で何百時間考えることよりも優れたことを瞬間に得る。
いや、真に優れた頭脳とは、直観を受信する頭脳のことなのだ。人間が考えることなど、猿より多少マシというに過ぎない。
初音ミクの『45分の恋人』という歌がある。作詞はエンドケイプさん、作曲・編曲は坂本祐介さんだ。
これがなんと、娼婦をやってる女の子の歌だ。
しかし、最初、ミクのあどけないような声で聴いた時は、それが、さっぱり分からなかったくらいだ。
ところが、ミク・・・というより、単に歌詞の中の女の子なのだが、その仕事は嫌なんだろうなという感じはあるが、さりとて、絶望してもいない。
明るいとまではいかないが、暗くもない。
シャワーを浴びながら、家で自分の帰りを待ちわびる猫のことを思い出すというのが、どこか温かい。
胸に触られても、ヒトゴトのように眺めている。
娼婦なんてのも、やりたくてやれるものじゃない。やりたくなくて逃れられるものでもない。
運命がそう決まっているなら、本人の意思は何の関係もない。
だから、喜ぶことはないとしても、自分を嫌悪したり罪悪感を持つ必要はない。
それは、どんなことだって同じだ。
ラマナ・マハルシが、「あなたがどんな悪人であっても、『私は悪人だ』と嘆くべきでない」と言ったのは、そんな意味だ。
人の運命は、生まれる前に全て決まっていて、それは決して変わらない。我々は世界や人生に対し、何の影響を与えることもできない。
それを無条件に受け入れるなら、自我は弱くなる。
自我が弱くなれば、客観視が出来るようになり、直観を得ることだろう。
昔から、娼婦には、不思議と賢い人がいて、武将や政治家が、ただ欲望を満たすためでなく、会話をするために通ったという話は多い。
自分の運命を受け入れ、自我が弱くなった娼婦には、霊感というほどの直観を持った人がいたのだろう。
彼女達は、まさに荘子の教えを、教えられることもなく、本当に実践しているのだ。
『45分の恋人』の女の子も賢者候補かもしれない。
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