ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

竹宮恵子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

本当に生きていると言える人間とは

竹宮恵子さんの古い漫画で、あまりよく覚えていないが、こんなお話があった。
一人の少年(青年とも言える年齢)か、この世界で生きることがとても辛く感じていた。
世界は灰色で、人々は誰も生きているように見えなかった。
そんな時、一人の少女を見かけたが、少年は、彼女は生きていると感じ、彼女を追いかける。それは、単に、彼女が好みのタイプだったからとか、そういうのではなく、本当に、彼女に生命の輝きというものを感じたようだった。
まあ、結末は、かなり悲惨だったと思うが(笑)。
ただ、「この世界は生き難い」「誰も生きているように思えない」というのは、十代の若い人にはよくあることだが、これが20代、30代となっても、そのままだと、生涯、ひきこもりのニートになりかねない。
とはいえ、誰もが、いくらかは、そんな感情を持っているのだと思う。
この世界は、どこか偽物っぽく、空虚で、嫌な世界で、夢も希望もなく、こんな世界で生きるのは辛い。ここに居る人々も、血の通った、動いている心臓を持った、人間らしい心を持った存在と感じられない・・・誰でも、多かれ少なかれ、そんな想いを持っているものだろう。

そこで、こんな問題に思い至る。
つまり、自分は本当に生きているのかと。
上の竹宮恵子さんの漫画で言えば、その、おそらくはピュアな心を持った少年に、あなたは生きていると思ってもらえるだろうか?
あの少年は、魔女の少女だけを生きていると感じたのだ。

長谷敏司さんのSF小説・アニメ『BEATLESS』で、15歳の少女、村主オーリガは、「人類はエロとグルメだけで生き延びてきた」みたいなことを言ったが、それはあくまで、友達の遠藤ユカ(14歳)を元気付けるために言っただけで、もちろん、間違いである。
つまり、上の竹宮恵子さんの漫画で言えば、「エロとグルメだけで生きているような人間は本当には生きていない」のである。
そして、現代の人間のほとんどは、エロとグルメだけで生きているので、本当には生きていないのである。
エロとグルメだけで生きている人間は、そもそも人間ではない。

では、どうすれば生きることが出来るのか?
これは重要である。
なぜなら、生きている者だけが神の力を持てるのだからだ。
俗なことを言うなら、生きている者だけが、引き寄せが出来る、つまり、世界を創造出来る。
というわけで、生きよう(笑)。
どうすれば生きられるかは、教えてもらうようなことではない。
ただ、逆向きに言うなら、さっきも述べたように、「エロとグルメだけで生きない」ということだ。
言うまでもないが、エロとグルメを否定するのではない・・・こんなことを言わないと、すぐ、「エロもグルメもあってはならないと言うのですね」と言う馬鹿がいる。嗚呼、面倒臭い(笑)。

正義を指向する者は生きている。
純粋な敬い、憧れを持つ者は生きている。
それが純粋な敬いや憧れであるかどうかは、正義を指向しているかどうかで決まるように思う。
金メダルを狙う者は生きていない。そんな者は、エロとグルメに生きていて、その欲望を利用されているだけだ。
結局のところ、正しい心、美しいハートを求めている者だけが生きているのである。
つまり、『銀河鉄道の夜』の、ジョバンニやカンパネルラのような者が、本当に生きていると言えるのだと思う。

※上で引用した竹宮恵子さんの漫画は『真夏の夜の夢(ミッド・ナイト・ドリーム)』であることが判明。『シルベスターの星から』に収録。








恨みのエネルギーと報恩のエネルギー

恨みというものは、大きなエネルギーになる。
その中でも、子供の時に持った恨みは危険はエネルギーになり易く、それを使って成功した人もいるが、逸脱した人間・・・例えば、凶悪な犯罪者になる場合もある。
竹宮恵子さんの『私を月まで連れてって!』の『Vol.29 白いドレス』が、それを感じさせるお話だった。
白い服を作らせたら右に出る者はいないと言われる女性デザイナーがいるのだが、彼女は子供時代の悪い思い出を持っていた。
彼女は子供の時、家が貧しく、他の女の子達がパーティーで着ている白いドレスを羨ましく思い、堅信礼(宗教的儀式)の白いドレスも用意出来なかったことを、彼女は、「恨みだった」と表現していたが、全くその通りだと思う。
子供の時、どうしても欲しかったもの、まして、それが、他の子が普通に持っているものであれば、自分がそれを持てないことに対する感情は、恨み以外に考えられない。
彼女は、その恨みを原動力に、執念といって良い努力で成功したのだろう。
だが、竹宮さんは、その作品を描かれた若い時から賢い方だった。
そのデザイナーは、子供用の礼服を作らないこと、そして、結婚しないこと(子供を作らないため)で、精神のバランスを保っていたのである。

もう1つ、人に大きなエネルギーを与えるものに、「報恩のエネルギー」がある。
仏典にあるお話だが、竹林が大火事になった時、一羽のオウムが、池に飛び込んで身体を濡らしては、炎の上で羽ばたき、火を消そうとしていた。
それを見た神が言う。
「オウムよ、お前の行いは健気(けなげ)ではあるが、それしきの水で何が出来よう」
だが、オウムは、こう答える。
「長年棲家を与えてくれた竹林への報恩の気持ちで行っていることが成らぬはずがない。私は何度生まれ変わってでもやりぬく」
心を動かされた神は、オウムと協力して火を消した。
神が火を消したのではない。神とはいえ、このような者がいなければ出来ないこともあるのだ。

報恩の行いといえば、私が必ず思い出すのは、プロレスのジャイアント馬場さんだ。
今の有名な野球選手やサッカー選手とは全く違い、馬場さんは、実力もまだまだの無名の若手時代、飛行機の切符だけ渡されて、アメリカに行った。手っ取り早く一人前にするための武者修行であるが、随分、乱暴なものだ。
それで、昭和36年という、一般の日本人の海外旅行など、ほとんど皆無の時代のアメリカで、馬場さんは、もう何も分からないという状況の中、ボボ・ブラジルやジン・キニスキーといったレスラー達が親身に世話を焼いてくれたのだ。
馬場さんは、この恩を決して忘れず、自分が大スターになっても、控え室では常に小さくなって彼らを立て、また、彼らが年を取って、かなり力が衰えても、全日本プロレスの社長でもあった馬場さんは、彼らを定期的に日本に呼んで、彼らの全盛期の時に匹敵する高いギャラを払い続けたという。
史上最高のレスラーと言われるルー・テーズは、馬場さんが亡くなられた時のインタビューで、「ミスター馬場はプロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」と述べ、また、馬場さんの告別式で来日した、馬場さんの若手時代からのライバル、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノは、「馬場、君は身体だけでなく、心もジャイアントだった」と言った。
馬場さんは、「自分はプロレス界入りしてから全て順調だった」と言ったことがあったと思う。苦労もあっただろうが、こんな人が成功しないなら、この世に神も仏もないだろう。

きっと、あなたも、何かの恨みを抱えているだろうし、それは子供の時の辛い思い出と共にあるのかもしれない。
そして、忘れられない恩もあるだろう。
恩の方はもちろん、恨みの思いだって否定しなくて良いと思う。
だが、その恨みに負け、自分の魂を裏切ることは許されない。
それがたとえ、どれほどの恨みであってもだ。
そうであれば、いずれ神は埋め合わせをしてくれるだろう。
そして、恩というものは、いかに小さなものであっても、身に沁みるものではないだろうか?
それに報いようとする気持ちがあれば、神に見捨てられるはずがない。
私も、初音ミクさんや、ミクさんのクリエイターの方々には恩があるのである。









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伝統と権威に葬られないために

クリスマス、正月といった、「権威ある祝日」には、よくよく注意しなければならない。
国家、民族、世間のロボットになりたくなければね。
私は、クリスマス、正月を、何ら特別な日と思っておらず、むしろ、憤りと怒りを持って反発する。

その理由を説明するために丁度良い、ちょっと素敵なお話があった。

1980年代前半に描かれた竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』は、現在よりさらに数十年先の21世紀後半を描いているが、今読んでもなかなかの未来描写と思う。
そして、この作品はSFであると同時に「ラブコメ」なのだが、その相乗効果により、次のようなことを実現させているように思うのである。
それは、読者の固定観念を壊してしまって、非現実を、すんなり受け入れさせ、悲しいことも、あまり深刻にさせないことである。
竹宮恵子さんは、萩尾望都さんとよく比較されたが、二人とも本当に天才だと思う。

さて、その『私を月まで連れてって!』の中に、こんなお話がある。
ウルサラという名の、女性用の白いドレスの第一人者である女性デザイナーがいた。
そのウルサラだが、彼女は、素晴らしい男性と5年間も同棲し、相手の男性は結婚を強く望んでいるのに、なぜかそれに応じない。
彼女が結婚を拒む理由は、彼女は、ある理由から、子供を持ちたくないからだった。
実は、彼女は、子供の頃、家が貧しく、他の少女達が、子供パーティーで着てくる白いドレスを羨んで見ているしかなかったのだ。
また、堅信礼という、宗教的に重要な儀式にも、おそらく、常識的なはずの白いドレスを用意できず、これらのことが、彼女の心に深い傷を負わせていた。
それで、彼女はデザイナーになってからも、白いドレスが欲しかった少女時代の願望を満たそうと白いドレスを創り続けたが、子供用の白いドレスは決して創らない。
いや、本当は、子供用の白いドレスを山ほど創っていたが、心の傷が大きくて、いくら創っても満足できず、それらを発表しないのだった。
そんな彼女が子供を持ちたくない理由は、自分に女の子でもできたら、いまだ消えない少女時代の執念をその子に押し付けてしまうことを恐れていたからだった。
だが、ある日、ウルサラは、少女の時の自分にそっくりな、12歳のニナに出会い、子供用の白いドレスに溢れた秘密の部屋に彼女を案内し、ニナに好きなドレスを選ばせ、それを着てもらう。
ニナはウルサラが最も気に入っているドレスを見事選び、その輝く姿は、ウルサラを過去の束縛から解放した。

21世紀後半の未来に貧困があるだろうかということは、あまり考えないでおこう。これは、ストーリーに必要だからね。
まず、このお話には、2つの疑念がある。
1つは、その時代になってすら、人々は、1人の少女の心に深い傷を負わせるほどに、低いレベルのままなのかということである。
確かに、どんな世界になっても、不幸そのものは必ずある。
しかし、誰かの不幸は、他の人達に、真の同情心や親切心を育てるために、神が用意したものであり、その機会を得たことを喜び、不幸な役を担ってくれた相手を愛さずにはいられないのである。
まあ、愛の無い私が書くと、どこか表現がおかしいかもしれないが、だいたいそんなものであることは、私にも分かるのである。
もう1つの疑念は、少女を特別に苦しめたのが、宗教的儀式であることだ。
堅信礼は、キリスト教やユダヤ教の、一種のイニシエーション(入信の儀式)で、伝統と権威ある儀式だ。
そして、これらのことは、どこか生々しく現実的であるからこそ、読者の心を揺さぶるのだ。

つまり、伝統と権威が、人々の心を、鈍く、暗く、そして、固くし、炎となって天に昇っていくような、あるいは、若い草木が天に向かって伸びるような成長を決してさせないのだ。
伝統と権威が、我々の精神を縛りつけ、制限付け、我々は、権威者の決めた範囲と方法でしか考えることができないようになり、国家の、民族の、世間の哀れな奴隷となるのである。

アンデルセンの『マッチ売りの少女』の、哀れな少女には、実際のモデルがいた。
大晦日(クリスマスにも似ている)という、伝統と権威ある祝日は、小さな女の子が飢えて凍死することを避けさせるための何の力もなく、むしろ、人々から慈悲心を消してしまい、少女を殺すことに手を貸しただけだった。
私だって、クリスマスや正月には辛い思い出や、惨めな記憶しかない。
私が、権威に反発し、世間に従うことを拒まずにいられない状態だったからである。

しかし、嘆くばかりでは、何の益にもならない。
我々は、伝統と権威の愚かな奴隷になることを拒否し、高く飛ぶことを覚えねばならない。
あの白いドレスが欲しかった少女の時のウスサラは、なぜ、苦しんだのだろう?
そんなことを真面目に考えなければならない。
彼女は、ただ、他の子供のことが羨ましかったのではない。
もっともっと深い辛さがあったのだ。
それは恐怖である。
白いドレスを持っていない自分は、この世で生きさせてもらえないと感じたはずなのだ。
白いドレスを着ることができない自分は、伝統が続く中で居場所がなく、すぐにも権威によって排除される存在であると感じ、彼女の小さな胸は凍り付いていたのだ。
そして、伝統と権威に反発する者が感じることも同じなのである。
だが、高みを目指す我々は、そんな伝統や権威を真正面から見据え、よく観察しなければならない。
そして、その時の自分の心の反応を、たとえば、病気の愛しい人の様子を観察するように、静かに見守るのだ。
一切の批判をしてはならない。
ただ、静かに静かに見るのだ。
苦しくても、目を逸らさず、勇敢に苦しみに耐えてね。
すると、何かが起こるのである。
それこそが、本当のイニシエーションである。
目には見えない存在達が、あなたを招くのである。

『私を月まで連れてって』の『白いドレス』のお話が載ったものを、下にご紹介しておく。









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アセンション後の世界

古代マヤ暦の最終日にあたるとされる2012年12月22日に「世界は滅びなかった」というニュースをよく目にする。
だが、世界はちゃんと滅びた。
これまでの世界は終焉し、新しい世界になった。
そして、人々はみんな、ロボットにすり替わってしまった。
人々は、見かけはこれまでと変わらない。
相変わらず、駅でのろのろ歩きながらスマートフォンを眺め、タバコを吸いながら歩き、電車の中で悪臭を撒き散らしながらものを食べているだろう。
12月22日が過ぎると、「世界は滅びなかった」と言って、つまらん噂に惑わされなかった自分は賢くて理性的だと自慢したり、お祭り騒ぎをするのがロボット達のプログラムであるらしい。
だが、ロボットのやることだ。
あなたは煩わされてはならない。嫌悪してはならない。彼らはただ、プログラムされたままに動いているのだ。
彼らの僅かに残っていた魂は、物質世界に取り込まれ、それはそれで幸福に過ごしている。

あなたの取る道は2つに1つ。
1つは、ロボット達に魂を吹き込み、新しい世界を育てるか。
もう1つは、あなたもロボットになるかだ。

タイトルは忘れたが、竹宮恵子さんの昔の漫画で、未来の世界を描いたものがあった。
『少女の魔女があなたの心臓を食べる歌』というのは、そのタイトルだったか、その頃、制作・販売された、その漫画をテーマにした歌なのかもしれない。
こんなお話だったと思う。
ある青年は、人々が皆、本当は生きていないことを見抜いていた。
彼は絶望し、苦しみながら生きていた。学校は毎年落第していた。同じ学校を、弟は数年も前に主席で卒業していた。
青年は、雨の最初の一滴に当たることだけを生き甲斐にしていた。
それが出来たら、幸せになれると聞いたことがあったからだ。しかし、それはなかなか叶わない。おそらく、一生無理だろう。
だがある日、彼は、街中で、1人の少女を見かける。
彼女は生きていた。彼はそう感じた。そして、夢中で少女を追う。
しかし、なんてことはない。
少女は魔女で、まだ本当に生きている人間の心臓を食べるのだ。
彼もまた、死んでしまったのだ。

あなたは、この青年のようであってはならない。
ただ嘆き、悲観し、幸福が訪れるのを待っていてはならない。
だが、自分が世界を変えることが出来るなどと傲慢になってもならない。
あなたは、心から沈黙し、静かでなければならないのだ。
それによって、内側からエネルギーを汲み出し、揺るぎない勇気を持ち、全てを等しく見られるようにならなければならない。

アルベール・カミュの短編小説『異邦人』も、言ってみれば、世間の人々というロボットにうんざりし、ただ吐き気は感じるが、自分の道を持たない青年のお話だ。
彼は最後には、悟りのようなものを感じた。それは、読者である我々に大切なものを指摘はしたが、彼にとっては遅過ぎた。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』や、ホフマンの『砂男』、イェイツの『まだらの鳥』などの天才達の作品からも、それを感じるのだ。
しかし、これらの作品の主人公達は、みんな弱い。弱過ぎる。誰もこの世に勝てない。
だが、イエスは、『私はこの世に勝ったのだ』と言ったのだ。
イエスは、「貧しい者、悲しむ者、虐げられる者は幸い」と言った。そんな人間達は神の側に居り、まだロボットでないからだ。
だが、皆、力がなく、自分もロボットになってしまった。
イエスは力を得るには、断食と祈りが必要だと言ったが、それは分かり易く言うと、必要以上に食べないことと、沈黙を守ることだ。
ところが、断食と言ったら、絶食という荒行紛いのことだと思ったり、下らないことを頭の中でべらべら喋ることを祈りと言うようになってしまった。
断食とは、必要な食事を決まった時間に食べる以外は食を断つことであり、祈りとは、精神活動を制限し、沈黙して心を静寂に保つことだ。
だが、沈黙しても、眠ってはいけない。意識は覚醒していなければならないのだ。
イエスは、「祈っておれ」と言ったのに、眠ってしまったヨハネやペテロを見て、「これだけの間も起きていられないのか」と嘆いたのだ。
だが、昨日、我々には力が与えられた。
心を静かに保つ力。沈黙を守れる力だ。
苦しければ、初めの音と最後の音を使った呪文を唱えることだ。
即ち、「あうん(阿吽)」「アジマリカン」「アーメン」だ。
「アン」だけでも良いが、アンアンと繰り返してはならない。丁寧に唱えなければならないからだ。声に出さなくても、心で唱えると良い。
言ってみれば、アンパンマンとかアインシュタインなんてのは素晴らしい言葉だ。
アンパンマンは、著者やなせたかしさんの正義の姿を示したものだ。そして、我が国の歴史に残るほどの人気を得たのは、その名前が影響している。
また、アインシュタインを古代の賢者だと感じている人が多いのは、彼の思想や特別な業績のせいもあるが、その名前のためでもあるのだ。
アセンション自体も、上昇、昇天を表す美しい英単語である。
このあたりのお話は、機会があれば追々話そう。









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我流でも引け目なんか感じるな

竹宮恵子さんの漫画作品『変奏曲』だったと思うが(昔読んだのだが、今は私の家に本が無い)、ある名門の音楽学校で、入学試験を受けたエドアルド・ソルティーという少年のことで物議を醸していた。教師達は、彼の演奏が抜群であることは認めたが、弾き方がデタラメにしか見えなかった。実は、彼の演奏は独学だった。
そんなことが可能かどうかは分からないが、パガティーニという実在したヴァイオリニストは、あまりの上手さに、彼は悪魔に魂を売って演奏技術を得たと言われたくらいだったが、彼の演奏も独学だったと言われる。風説だとは思うが、彼がどれくらい恐るべき腕前だったかという話にこんなものがある。パガティーニが公演中、ヴァイオリンの弦が1本切れたが、パガティーニは平気で引き続けた。続いて2本目が切れたが、それでも変わらない。すると、なんと3本目まで切れてしまう。しかし、パガティーニは1本の弦だけで、見事に演奏を終えたという。
『フラッシュダンス』というアメリカ映画でも、アレックスという若い女性は、名門のダンサー養成所への入学を希望するが、受験者の大半はクラシックバレエのしっかりとした基礎のある者ばかりだった。しかし、彼女は、そのような経験の無い独学のダンサーで、日頃ダンスの腕を磨いているのは夜のバーだった。
立派な基礎訓練というものは、ある種の運が無い者には無縁な場合が多く、こういったお話には、心ときめくものがある。

一方、アニメ『魔法少女リリカルなのは A's』の中で、達人的な騎士シグナムは、魔導師の少女フェイト・テスタロッサとの戦いで圧倒的勝利を収め、悠然としていたが、ザフィーラは何かに気付いていた。そして、シグナムはザフィーラに対し、実は、フェイトに一太刀を浴びていたことを告白する。シグナムは、自分が勝てたのは、持っていた武器の威力の差だと言い、もし、武器が同じなら苦しかったことを認めた。
そして、シグナムは、フェイトについて言う。「綺麗な太刀筋だった。きっと、良い師に学んだのだろう」
正直、私は、あまり良い気持ちではなかった。私は、何に関しても、優れた師に学ぶ機会はなかったからだ。この感情は、一種のひがみ根性と言えるかもしれない。
だが、アインシュタインも岡本太郎も独学ではあったが、本は読んだだろうし、瞬間的になら優れた人物から何かを学んだことはあったはずだ。
私も、数度しか会わなかったが、政木和三さんと話した時に、貴重なことを聞いたことをよく憶えている。

私と同様、多くのコンピュータプログラマは、ほとんど独学の場合が多いと思う。
しかし、この世界には、ブライアン・カーニハンの『プログラム書法』や、『ソフトウェア作法』、そして、新しい『プログラミング作法』という素晴らしい教本がある。
あまりに素晴らしいので、読むとすっかり愉快になってしまうような本だ。
とはいえ、これらの本に書かれているのはあくまで基礎である。
基礎は大事であるが、その上に独自のスタイルを構築しなければ、どんなことでも一人前にはならないだろう。
そして、基礎、応用に限らず、最も良い師は自然である。
迷った時は、自然を謙虚に観察すれば、必ずヒントが得られるものだ。
私は以前、dbMAGIC(今はMAGIC)という開発ツールの腕前を磨き、多くの企業から指導依頼を受けたが、開発の仕方そのものは本に書かれている。しかし、私は、本に書かれていないが効果的な開発方法を編み出していたので求められたのだ。しかし、そのヒントは、ある優秀なdbMAGICの開発者の処に足しげく通い、彼の技を参考にしたものだった。
私は、今はマイクロソフトのAccessをよく使う。これは、素人の道具のように言われるが、やはり、本には書かれていないオリジナルの手法がなければ力を発揮しない。それは、決して自己中心的な偏った技法ではない。大袈裟に言えば、宮本武蔵の剣法は独自のものではあるが、実は、最も自然の流れに沿った普遍的なものだというのと同じだ。武蔵の極意はあらゆるものに通じるし、岡本太郎に関しても同じである。
Accessは簡単だと馬鹿にする者も多いが、それは、ギターやオカリナを、誰でも音が出せるから簡単だというのと変わらない。
Accessより簡単だと言われる桐(管理工学研究所のデータベースソフト)も、名人の手にかかれば素晴らしい開発ツールであり、実際に、これで素晴らしいシステムを開発している人もいる。
どんな世界だって、基礎の上に立った、オリジナルの技を編み出した者が道を究める。
そして、いつまでも師の元で学んでいては、決して師を超えないばかりか、やがて落ちぶれるだろう。だから、昔から、師の下を離れた後で師に挑んで負かすことを、師に対する最高の「恩返し」と言うのである。彼は、師と同じ道を歩み、その世界そのものを発展させたのだからだ。負けた師が本物なら、非常に喜んでいるだろうし、弟子も、自分と同時に師が勝ったことを理解しているのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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