ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

私は誰か?

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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思考を消せば全知全能であることのギリギリの理屈

思考(=心)を消せば全知全能である。
だが、誰もが、思考することには非常に価値があると思い込んでいる。
しかも、思考しないことは物凄く悪いことだと思ってる。
従って、思考を消せば全知全能であることが全く信じられない。

ただ、1つだけ、ギリギリ理屈で説明出来る事実は、思考は自動的に起こるだけのもので、自分の意志で考えているわけではないことが科学的に分かっていることだ(異論はある)。
だが、この事実は全く普及しない。
普及しない理由は、やっぱり、信じられないからだし、信じられない理由は、これを信じない思考が自動的に起こるからだ。

カップラーメンを調理する時でも、壮大な建築物を建てる時でも、必ず思考することが必要だと思われている。
しかし、実際は、思考するのではなく、思考は自分の意志と関係なく、自動で起こるだけだ。
それを、自分で考えていると思い込んでいるだけというのが事実だ。

簡単に言えば、脳は受信装置で、遠くから宇宙人があなたの脳を操っているのである。
宇宙人は、あなたに崇高なボランティア活動をさせることも出来れば、殺人、暴力、レイプをさせることも自由自在に出来る。
宇宙人の目的は分からない。
だが、宇宙人はあなたに悪いことをさせようとしている。
無論、我々に分かるような単純な悪いことだけでなく、一見、崇高なことをさせることもよくある。
その方が、悪の威力が増すからね。
ところが、実を言えば、あなたも宇宙人で、あなたを操っている宇宙人と同等の存在なのだ。
だから、操られることから逃れれば、自分の本当の意志で活動することが出来る。
操られることから逃れるためは、自動的に起こる思考を消せば良いだけである。
そのための最上の方法が「私は誰か?」と自分に問うことだ。
「私は誰か?」と問うと、外部の宇宙人はあなたを操ることが出来ない。
「私は誰か?」という思考しか起こらないのだから当然だ。

彼女の世界
AIアート181
「彼女の世界」
Kay


だが、「私は誰か?」なんて、なかなか問い続けることは出来ない。
そりゃ、あなたを操りたい宇宙人が、あなたの脳に、それをしないための思考をガンガン起こさせているのだからだ。
それに逆らって「私は誰か?」と問わせるのは、宇宙人としてのあなたの意志である。
宇宙人としてのあなたの意志は、以前は完全に覆い隠されていた。
だが、少しだけ、その覆いが取れたのである。
ところが、敵もさるもの引っ搔くもので、いろんな人の脳を操って、本やYouTube動画で、あなたが思考を消すのをやめさせようとしている。
それで、目覚めかけているほとんどの者が元の木阿弥なのである。
とにかく、思い出したら「私は誰か?」と自分に問うことである。








不安が消えない時

人間が嫌いなものは不安である。
なぜ人間は不安が嫌いなのかというと、人間が本質的に不安の対局である安らぎを求めているからだ。
人間は、富や名誉や酒池肉林(しゅちにくりん)のようなものを求めているのではなく、ぐっすりと眠れることを求めているのである。
そして、不安を消し安らぎを得るには、心を消せば良いというか、心を消す以外の方法はない。
心を消すこととは思考を消すことと同じである。
考えている限り、不安があり、安らぎはない。

そして、心(=思考)を消す最上の方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
だが、真面目に「私は誰か?」と自分に問うている者が、こんな状況に陥ることが、おそらく必ずある。
それは、「私は誰か?」と問うているのに不安だらけで苦しいということだ。
それで、「私は誰か?」と問うことに効果はないのではと思うだろう。
それなら、世間で人気がある「大丈夫」という言葉の方が良いと思い、試しに唱えてみると、確かに気楽になる気がする。
実際、「大丈夫」は慰めになるが、言ってみれば慰めにしかならない。

一人の道
AIアート163
「一人の道」
Kay


なぜ、「私は誰か?」と唱えていても効果がないのかというと、数が足りないだけである。
「大丈夫」も、唱え続けている限り心が落ち着く感じがする。
しかし、やはり、唱えている間だけである。
だが、「私は誰か?」は、心を消していくので、やがては問うていない時でも、そして、心が消えれば、常時、平安でいられる。
もっとも、心が消えたとは言っても、うまい譬えかどうかは分からないが、ニサルガダッタ・マハラジが言ったように「ハチミツのような心」は残る。
つまり、水が、かき混ぜると、かき混ぜるのをやめても長い間動いているのとは違い、ハチミツは、かき混ぜるのを止めると直ちに停止するようなものである。
これを釈迦は「聖者は第二の矢を受けず」と言い、聖者だって怒ったり「美しいなあ」と思うのは凡人と同じだが、凡人は、怒ったら仕返しをしたくなり、美しいなあと思ったらそれを手に入れたいと思うが、聖者にはそれがない。
これを、「聖者は心が魂に従っている」と言い、「凡人は心が玉座に座っている」と言うこともある。
そこでイエスは、「汝(=心)破れたり。私(=魂)の後方に退けサタン(=心)」と言ったのである。

素振りの足りないバッターが打てないように、「私は誰か?」と問う数が少ない人間は、心が玉座から降りないのである。








念仏、真言などはどれも同じ

『死と生の記録』という京大の教授だった佐藤幸治さんの本の中に、『真実の自己』という本の引用で、こんな話がある。
実際の文章はひどく複雑だが(変に頭が良い人の文章はそんなものだ)、簡単に言えば、肺病で余命が5年ないことを宣告されたお坊さんが熱心に念仏を唱えていたら、ある日、心が消えてしまった。
それで、これも複雑な書き方だったが、やはり簡単に言うと、宇宙全体が自分の中にあることが分かった・・・つまり、本当の自分は宇宙であることが明確に分かったのだ。
岡本太郎が横尾忠則さんとの対談で「おれは宇宙だ」と言うと、横尾さんは、おそらく小馬鹿にした感じで「言うと思いましたよ」と、今流に言えば「ディスっていた(ディス・リスペクト=尊敬の反対。馬鹿にする)」が、スピリチュアル大好きな横尾さんも、岡本太郎に言われたら嫌なのだろうなあと思った(どうも、横尾さんは岡本太郎に抵抗があって、ディスらずにいられないように思う 笑)。

だが、心が消えれば・・・つまり、思考が消えれば、自ずと真実の自分とは何かが分かり、言葉で言うなら、真の自分とは世界そのものなのだから、上の本に出てきた念仏者も岡本太郎も本当のことを言っているのである。
それで、その念仏者は念仏によって思考を消して解脱したのだが、手段は何でも良い。
ここで引用された『真実の自己』の著者は、聖者として有名な弁栄上人の弟子と思われる僧で東大の心理学を出た人だと、いろいろ権威付けされ、念仏を神聖視した扱いなのかもしれず、もちろん、それが悪いことではないが、やはり、念仏が特別なわけではない。
念仏でも、「南無妙法蓮華経」でも、仏や菩薩の真言でも、あるいは、全く別の真言や呪文、祝詞、祈り言葉でも、とにかく、繰り返し唱えれば同じである。
言い換えれば、ある程度の敬虔さを感じる言葉を自発的に十分な数を唱えれば、やがて思考は消え、魂が現れる。
人間の魂というものは、言葉では表現のしようがないが、我々が知る概念で最も近いのは神であると言えるかもしれない(『エイリアン・インタビュー』でも、宇宙人エアルはそのように言ったらしい)。

念仏なり、真言なりを唱えていたら思考が消えるのだが、それを十分にやれば、思考が生じなくなるのだろう。
だから、法然上人が言ったように、起きている時間ずっと念仏を唱えよというのは、良いことなのであるが、当然、そんなことを本当にやるのは相当に難しい・・・いや、不可能だろう。
また、法然の時代なら、念仏に特定したのも仕方がないことであったが、今の時代にそんなことを言うのは、困った宗教者ではないかと思うし、実際、本人が好むものを唱えれば良い。
そもそも、今の葬式と結びついてしまった感がある念仏には抵抗がある人も多いだろう。
本来、念仏は葬式とは何の関係もない。
私の場合、いろいろな事情があって、昔から、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」が唱え易く、今でも自然によく浮かぶので愛用している。
だが、この真言も「テイセイ」のところは「テイゼイ」が正しいとかいろいろ言う人もいるが、そもそも、この真言自体、サンスクリット語を中国語に音写したもので、正確な発音ではない。
だが、そんなことはどうでも良いことである。
ちなみに、阿弥陀如来真言は、サンスクリット語では、「オーン、アムリタ、テジェ、ハラ、フーン」であるらしいが、これも正確ではないかもしれない。

唱える言葉は何でも良いが、唱えるというのとはやや違うかもしれないが、「私は誰か?」と自分に問うことは、ずっと効果がある・・・つまり、早く解脱出来ると思う。
というのは、「私は誰か?」という言葉は、思考する主体である「私」に意識を引き戻し、それが誰かと問うことで、すみやかに思考を消す作用があるからだ。
当然、「私は誰か?」の正しい答えは心、思考に分かることではないが、それもまた、思考を消す優れた効果をもたらす。
よって、本来は、唱える言葉は何でも良いが、私は、「私は誰か?」と自分に問うことを勧めるのである。
確かに、起きている間中、ずっと唱えるのが良いが、それはなかなか出来ないので、なるべく多くということになる。
このあたりは、野球の素振りや佐川幸義流四股と同じであると私は思っている。








「私は誰か?」をどのように問うか?

今の日本には深刻な問題が沢山あり、学識・教養に満ちた頭の良い人達がその問題を分析したり、解決策を提示したりしているが、現実的には、それらは何の解決ももたらされない。
なぜなら、その分析や解決策は思考によるものだからで、思考はどこまで行っても貧小で力のないものだからだ。
ところで、人々は日本の問題や世界の問題に本気で興味があるわけではなく、自分の問題にのみ強い関心がある。
そして、自分の問題もまた、思考することで悪くなることはあっても良くなることはない。
だが、単に思考を消せば全て解決する。
思考を消す最上の方法は「私は誰か?」と自分に問うことである。
よって、「私は誰か?」と自分に問えば、あらゆる問題は解決する。
それは、自分の問題も、日本の問題も、世界の問題もであるが、日本の問題は日本に、世界の問題は世界にまかせておけば良い。
自分の問題も解決出来ない者に日本の問題や世界の問題を解決出来るはずがない。
「私は誰か?」を提唱したラマナ・マハルシは「世界平和のためにあなたが出来ることは?」と聞かれたら「真我の実現」と答えたと言われるが、真我の実現は思考を消すことによって達成される。
よって、我々は「私は誰か?」と自分に問うのが良い。
ところが、「私は誰か?」とどのように問うのが良いのかが分からない。
ある本によると、マハルシは「『私は誰か?』を呪文にしてはならない」と言ったらしい。
これを、空虚に言葉だけを繰り返してはならないという意味に取る人が多いだろう。
だが、マハルシがそう言ったのだとしても、それをいつ、どんなシチュエイションで言ったかが問題で、それを勝手に意味づけしてはならない。
私は、「私は誰か?」を単調に繰り返しても良いと思う・・・つまり、呪文にしても良いと思う。
言い換えれば、「私は誰か?」は最上の呪文であるとも言える。
『バガヴァッド・ギーター』や『エイリアン・インタビュー』に書かれたことを理解して問うのが良いのかもしれないが、そうでなくて良い・・・あるいは、下手な理解の影響を受けて問うより良いかもしれない。
唯一大切なことは、問う数というか時間の長さである。
どんな下手な問い方であろうが、多く問えば、自ずと正しい問い方になっていく。
逆に言えば、どれほど深淵な本をよく読んでいても、数をこなさなければ正しい問い方にならない。

神殿の乙女
AIアート158
「神殿の乙女」
Kay


私はいかなることも、落合博満さんが教えを乞いに来た若い選手に5時間素振りをやらせたことを教訓にしている。
まあ、それ以前に、ある成功した経営者が、会社の幹部達に「俺とお前達との差は素振りの数だけ」と言うのを印象深く聞いていたこともあり、いかなることも数で解決出来る・・・いや、数でしか真の解決は出来ないと分かっている。

人生が楽しくないから早くタイムリープしたいと思う者も多いだろうが、思考を持ったままタイムリープしても、記憶は消えてしまうばかりか、偽の記憶が植え付けられ、結局、同じ人生・・・それどころか、もっと悪い人生になる可能性もある。
タイムリープや転生後は、それ以前の記憶がないのが普通である。
思考を消せば、タイムリープ後や転生後も記憶を維持し、さらに、英知を持ち、引き寄せも行うのであるから、楽しい人生になるし、今の人生のままでも十分かもしれない。
とにかく素振り(「私は誰か?」と問うこと)を多くすべきと思う。
※今回は世界コマンドのことには触れなかった。








三蔵法師の奇跡

『西遊記』の登場人物である三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は中国の僧で、若い日に、インドの仏教の経典を手に入れるため、チベットを超えてインドに行こうとしていた。
これは、登山のプロにも過酷なコースで、成功の見込みは薄く、死を覚悟しての挑戦だった。
だが、インドから来た老僧に身をやつし(みすぼらしい恰好をし)ていた観世音菩薩は、三蔵に般若心経の呪文を教え、常にこれを唱えていれば安全であると言った。
三蔵は、言われた通り、この呪文を唱え続け、山賊、猛獣、雪嵐などの苦難をことごとにかわし、ついにインドにたどり着いた。
すると、三蔵の前に、あのインドの老僧が現れ、驚く三蔵に、「私は観自在菩薩である」と告げて消えた。
その後も、三蔵は無事、657部の経典を入手し、インドの言葉も学び、中国に経典を持ち帰ると、翻訳に生涯をかけた。
般若心経の呪文は、ご存じの方も多いと思うが、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。

森の囁き
AIアート114
「森の囁き」
Kay


このお話が事実であったとは言い難いが、重要な真実は含んでいる。
三蔵は、この呪文をひたすら唱えることで思考を消したので、不可能に近いことを悠々やり遂げたのである。
もし、そうではなく、頭で考えて山賊や猛獣に怯え、雪嵐を恐れていたら、あっという間に殺されるか転落死していただろう。
思考が消えた人間は、全能の魂が表に現れ、不可能はない。
ただし、思考が消えたフリでは駄目で、三蔵は、本当に絶え間なく呪文を唱えて心を消していた・・・無になっていたのだ。
そして、重要なことは、唱えるのは別に般若心経の呪文でなくても、何でも良かったのだ。
念仏でも、阿弥陀如来真言でも、大日如来真言でも、クリシュナでも、ラーマでも、アジマリカンでも、トホカミエミタメでも。
効果に優劣などあるはずもなく、あるとすれば、続けやすいものが良いというだけである。
般若心経の呪文は、唱え方によってはリズムが良く、没入し易いものである。
このように、呪文でも、真言でも、あるいは、現代のアファーメーションでも、常に唱え、思考、あるいは、心を消せば、誰でも、三蔵のような奇跡を起こすことが出来る。
たとえ三蔵のように、常に唱えることが出来なくても、唱えた数に応じて思考が消え、いくらかの魂の力は発揮出来る。

そして、最も簡単に思考を消す言葉が、いつも言う通り「私は誰か?」で、これを自分に問えば良い。
私は、昔から慣れている阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をよく唱えるが、それで「私は誰か?」と問い易くなっているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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