ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

福音書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第47章を一言で言えば「ひきこもれ」

今回は『老子』第47章である。
この章を一言で言えば「ひきこもれ」である。

世の中では、ひきこもることは極めて悪いことであるとされている。
しかし、本当は、ひきこもりこそ、人間の理想の姿である。
あの『バガヴァッド・ギーター』にも、「亀が手足を甲羅の中に引き込む」ようにひきこもれと教えているのである。

そして、ひきこもれば、世の中のことも、天地自然の理も何でも分かり、奥深いことを理解し、いかなることでも成し遂げる。
これは逆に言っても良い。
ひきこもらず、外に行けば行くほど、世の中のことも、天地自然の理も分からず、少し奥深くなると全く理解出来ず、何も成し遂げない。

だが、上のように言うと、世間の人は、
「そんな馬鹿な!ひきこもりには何も出来ないに決まっている」
と言う。
まあ、それは良い。
だが、ひきこもりの者自体が、自分は何も分からず、何も出来ないと思っていることが問題なのだ。

誰かがラマナ・マハルシに言った。
「あなたはなぜ講演会をしないのですか?」
マハルシは答えた。
「私は毎日、演壇に登り熱弁を振るっている」
沈黙以上の雄弁はないのだ。
また、マハルシ以上のひきこもりはいない。

重責を担う政治家や軍人はひきこもることで責務を全うし、偉大な事業家はひきこもることで大きな事業を完成する。
彼らは、見かけは激しく活動しているかもしれない。
しかし、彼らは何もしていない。
身体や心が何をしていようが、それはどうでも良いことである。
また、マハルシは、こう言ったらしい。
「イエスは自分の超能力に気付いていなかった」
まあ、これはおそらく、正確には、イエスは、自分の超能力を気に留めなかった…どうでも良いと思っていたということだろう。

30年以上も前だろうか。
当時、マイクロソフトの社長だったビル・ゲイツは、社長室に5日、ひきこもった。
それをしなければ、かつて、世界一のビッグテック企業であったロータスやノベルが消滅したように、マイクロソフトも、なくなっていたはずだ。
だが、ゲイツはひきこもることで本当の仕事をしたのだ。

これらを、頭で理解しようとしてはいけないし、そもそも、人間の馬鹿な頭に理解出来ることではない。
我々も、本当にひきこもれば分かることだ。
そして、本当にひきこもるには、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
これほどのひきこもりはない。
意思は、胸の中、心の中、意識の中にひきこもり、そして、魂と会合する。
これを喩え、「神殿(身体や心)の中で神(真の自分。全知全能の魂)と食事をする」と言うことがよくある。

「私は誰か?」と自分に問うことが、『バガヴァッド・ギーター』の秘儀、『新約聖書・福音書』の秘儀、そして、『老子』の秘儀を実際に行うことである。








これさえ憶えていれば願いは叶う(決定版)

引き寄せ。あるいは、潜在意識の法則で願いを叶える過程が、新約聖書の「マタイによる福音書」の中の短いお話に簡潔に書かれている。
私が好きなお話なので、何度も書いたが、よくよく味わう価値があると思う。

イエスの弟子達が湖の沖に浮かぶ船に乗っていたが、風が強く波が大きかった。
夜が明ける頃、イエスは湖上を歩いて船に向かったが、それを見た弟子達は、幽霊だと思って恐怖し、叫び声を上げた。
イエスは、「私だ。安心しなさい。恐れるな」と言った。
すると、ペトロ(ペテロ)が、イエスに、
「私に命じて、私を水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」
と言い、イエスが、
「私は命じる。来い」
と言うと、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方に向かった。
だが、途中でペトロは強い風が吹いていることに気付き、怖くなって沈みかけたので、イエスに助けてくれるよう懇願すると、イエスは手を伸ばしてペトロを捕まえて、
「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」
とペトロを叱った。

マルコ福音書やヨハネ福音書にも、イエスが水の上を歩く話はあるが、ペトロが水の上を歩くのはマタイ福音書のみである。
ルカ福音書では、イエスが水の上を歩く話すらない(最初から船に乗っていた)。

上の話を憶えておけば、どんな願いも叶えられる。
まず、イエスが水の上を歩いたことは、潜在意識との間の壁がない者は、潜在意識の力により万能であることを示す。
ペトロは、その事実を信じ、自分もそれをやるよう命じて下さいとイエスに願ったら、イエスは「私は命じる」と言った。
ペトロの望みは水の上を歩くことだった。
そして、イエスが「私は命じる」と言ったことが重要である。
この「私」は、イエス個人のことではなく、「真の自己」のことで、真の自己が命じたら潜在意識は何でも叶えるのである。
ペトロの真の自己が命じたので、ペトロもイエスと同じように水の上を歩いた。
だが、ペトロは強い風に気付いてしまった。
それまでは、ペトロは風を意識しなかったのである。
意識しないものは存在しないのと同じである。
つまり、一切の困難、問題は、意識するから存在するのであり、意識を逸らせてしまえば存在しない。
ここが、普通の人がなかなか分からないことであるが、引き寄せのマスター達は皆知っている。
理解したければ、ジョセフ・マーフィーが天才と讃えたネヴィル・ゴダードの『世界はどうしたってあなたの意のまま(原題:At Your Command)』に詳しく説明されている。
ペトロは、せっかく望みを叶えたのに、強い風という問題を意識してしまったために、望みが叶っていない状態に戻ってしまったのである。
ところで、少し戻るが「真の自己が命じる」は、どうすれば良いのだろうか?
つまり、どうすれば、自分が願うことを、真の自己に命じてもらえるのだろうか?
何もする必要はない。
願望が浮かんだ瞬間に、真の自己は「それを得よ」と命じているのである。
ペトロは、考えて「水の上を歩きたい」と思ったのではない。
ペトロは、イエスが水の上を歩くのを見た瞬間、「水の上を歩く」という願望が浮かんだ。これが即ち、真の自己の命令である。
そして、願望が浮かんだ瞬間に、願望は叶うのである。
これは凡人でも例外ではない。
だが、すぐに強い風(「そんなことがあるはずがない」という疑い)が浮かぶ。
これはエゴの声で、凡人は、真の自分の声ではなく、エゴの声に従ってしまい、願望はキャンセルされ、願望が叶った状態が消えたのである。
イエスは、「なぜ、真の自分の声ではなく、エゴの声を信じたのか」と叱ったのである。

1つだけ付け加える。
願望は真の自分の声であるなら、誰かを殺したいという願望もそうなのだろうか?
そうではない。
誰かを殺したいというのは、真の自己の声を歪んで解釈しただけだ。
誰かを殺したいというのは、欲求を叶えるための短絡的な考えだ。
『南から来た用心棒』という映画の中で、大悪党が初めて殺人をした時のことを語る。殺したのは自分の父親で、その悪党が子供の時だった。
子供の時、彼は、父親の懐中時計が欲しいと思った。
父親は「俺が死んだらお前のものだよ」と言った。
悪党は笑って言う。
「5秒後に俺のものになっていた」
我々は、このように短絡的に考える愚か者になってはならない。








人生というストーリーの設定方法

信じ切ることが出来れば、どんなことでも実現する。
文字通り、どんなことでもであり、宙に浮いたり、大きなダイヤモンドの塊を出現させることも出来る。
信じ切ることが出来れば。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、ヒマラヤの大師達は、手に持ったコップの水を凍らせ、流れの速い川の上を歩いて渡り、種を発芽させ見る見る成長させた。
また、瀕死の重傷の少年を直ちに完全な健康体にし、あばら家を消すと立派な新しい家を「にょきにょきと」出現させた。
新約聖書の福音書では、イエスが様々な奇跡を起こしているが、それらは全て、出来ると信じ切れば誰でも出来ることである。
もちろん、人間が信じなくても、高次の精神がそんなことを起こすこともある。
それは丁度、漫画の中で、人間が自力で空を飛ぶ時には、その者が飛べると信じるか、漫画の作者が意図すれば飛べるようにである。
人間世界の漫画では、登場人物が信じても空を飛べない場合があるかもしれないが、この世界と言う漫画では、そんなことはあり得ない。
この世界は漫画であり、映画やゲームと言っても良い。
あなたは、自分が存在する漫画の世界でお金持ちになりたいとする。
それなら、お金持ちになれると信じ切れば、強制的にお金持ちになる。

ただ、信じ切ることが難しく、信じ切ることが出来るかどうかは、作者にまかされている。
だが、事実を言えば、あなた自身が作者なのだ。
サルトルは気付いて言った。
「小説を読むことは、小説を書くことである」
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という小説があり、それは、『ネバー・エンディング・ストーリー』という映画にもなったが、ある本を読んでいた少年が、その本の中に入ってしまい、自分で物語を作るのである。
実は、我々はもう、そんな本の中に入ってしまっているのだ。

何かを信じて、ストーリーを書き換える方法はこうだ・・・と言ってもいろいろなやり方があるのかもしれないが、これは昔は、一般の人は出来なかった(させてもらえなかった)簡単な方法だ。
ルドルフ・シュタイナーが言う通り、昔は、福音書(新約聖書のイエスの物語部)を読むことは禁止されていた。
しかし、今はおおっぴらに読める。
まあ、自分の世界で禁止した人は別なのだが。
そこで、福音書を読み、イエス自身が「これは譬喩である(事実ではないたとえ話である)」と言っていない限り、全て事実として捉える。
想像の中でイエスとして振る舞い、イエスのようにすることを実感出来るまでになれば、もうイエスのようなことが出来る。
女性の場合は?
イエスが女性であっても全く問題ない・・・というより、私は、イエスが女性であったという世界を見たことがある。

荒唐無稽と思われる人は、冗談だと思っていただけば良い。確かに、そんな人にとっては、ただのおとぎ話であるが、それはそれで良いのかもしれない。








子供っぽさの良い面悪い面

「子供っぽい」という言葉には、良い意味と悪い意味がある。
それで、子供っぽいことは、全面的に肯定することも全面的に否定することも出来ない。
子供っぽいことのプラスの面は、純粋であることと、偏見がないことだ。他の美点も、全てこの2つから来る。
特に日本では、昔から、この子供のプラスの面や、そこから来る美点を過度に称賛する傾向がある。
しかし、子供の親であるとか、幼稚園や小学校の先生であるとかで子供に接する機会が多いほど、子供は天使ではないことをよく知っており、ある意味、子供は悪魔であると認識しているはずだ。
著名なコンピューター科学者、プログラマーであり、作家、画家でもあるポール・グレアムは著書『ハッカーと画家』で、子供について鋭く指摘している。
「ニコニコしながらクモの脚を引きちぎってしまうのが子供なのだ」
実際、子供に権力を与えると間違いなく暴君になる。
だから、少しでも賢ければ、親は、自分がいくら偉くても(王様であっても)、子供は、ある意味、悪魔であると心得て躾けるのである。
まあ、少しも賢くない偉い人が多いのだが。

「若々しい」というのも、「子供っぽい」と同じところがある。
そして、子供っぽさを卒業していない若々しさは最悪だ。
子供っぽさを卒業していない若々しさを端的に表す言葉は、例えば、「プライドのお化け」だろう。
子供っぽさとは「無知」である。無知な若者は皆、「プライドのお化け」である。
私は、高校生の時に見たゲーテの詩の中の一文(ひょっとしたら、その一文が1つの詩だったかもしれない)を印象深く憶えてしまっている。
それは、
「自慢するのをやめよ。でないと、君は青年時代の過ちを卒業するかしないうちに老人の過ちを犯す」
だ。
自慢は、子供時代の無知を持ちこしてしまった者の欠点だが、青年時代に無知でなくなることが出来なければ、無知な老人になる。
無知な老人とは、悪い意味での、「子供に帰った老人」であるが、本当は、「子供のまま歳を取った老人」なのだ。

なぜ、こんな話を長々としたのかというと、悪い意味で子供っぽければ、引き寄せは出来ないからだ。
実際は、出来ないというわけではないのだが、本来、人間は100の引き寄せの力を持っていても、人間として無知であれば5以下の引き寄せしか出来ず、そうであれば不満と屈辱に満ちた人生になる。それは丁度、重しを付けられた鳥のようである。

ついでに言っておくと、権力者(実際は、表に現れない真の支配者である黒幕)は、国民を肝心な点で子供っぽいままに留める。
学歴自慢をする者は全部、精神的幼児であり、権力者の狙い通りになってしまっているわけだ。そして、全家庭が、そのような子供の生産に励み、エリートコースから外れたら外れたで、別の子供っぽさ堅持のコースがあるだけだ。

上で述べたが、ゲーテは、
「自慢するのをやめよ。でないと、君は青年時代の過ちを卒業するかしないうちに老人の過ちを犯す」
と言ったが、それよりも、
「自慢するのをやめよ。でないと、引き寄せが出来ないから」
と言った方が良いかもしれない。
このことも、イエスは見事に語っている。
「自分を高くする者は(神によって)低く下げられ、自分を低くする者は(神によって)高く上げられる」
また、イエスは、こんな話もしている。
「2人の人が祈っていた。1人は『私は貧しい者に施し、親を大切にし、寄付をし、浮気もしない。神よ願いを聞き届け給え』と祈った。もう1人は『神よ、罪深い私を憐れみ給え』と祈った。祈りが聞き届けられるのはどちらか?」
一応言っておくと、答は当然後者の方である。

だが、過去、2000年に渡り、人々は「では謙虚であらねば」と思い(これは別に間違いではない)、イエスの教えは謙虚さの美徳を教えるためのものであると大誤解をしてきた。
さらに、教会は、戒律を守ることも強制し、戒律を守らないと謙虚ではないと強調した。
だって、収入の1割を収めよという戒律を守ってくれないと、聖職者は贅沢出来ないからね(笑)。
それで、一見真面目な信仰者は、「私はイエスの教えに従っている」と言い、結局、上の、間違った祈りをするような人間だらけになってしまった。
謙虚を装ったプライドほど厄介なものない。
そのあからさまな例が、スウェーデン映画の傑作『処女の泉』で、レイプされて殺された、まだ半分子供のような少女カレンの父親だ。
カレンの父親は、最愛の娘の無残な遺体を見て言う。
「神よ!あなたは見ていたはずだ。なのに、なぜ見捨てたのだ」
この言葉の裏には、自分は熱烈なキリスト信仰者であるという自負がある。
だが、娘の悲惨を招いたのは、この父親なのだ。

で、いつも言う通り、必要なことは思考を消すことだ。
自分の頭は大したことはないから、考えることを諦めるのだ。
おかしなことに、天才と言われる人間ほど、そう考えるのだが、実は、そう考えるから天才なのだ。
思考を消す実践編は、午後の記事ででも書く。








聖書に書かれている完璧な奇跡の起こし方(決定版)

信念がいかに奇跡を起こすかを、新約聖書の福音書の中に見てみよう。

イエスの弟子ペテロが、他の弟子達と共に、湖の沖に浮かぶ船に乗っていた。
夜中に、ペテロは、湖の上を歩いてこっちに向かって来る人影を見て、幽霊だと思い、恐れて悲鳴を上げた。
すると、湖の上を歩く人は、「私だ。恐れるな」と言った。それはイエスだった。
その時、ペテロは、思わず言った。
「主よ。あなたが来いと命じて下されば、私にも出来ます。どうか命じて下さい」
それに応え、イエスは言う。
「私は命じる。来い」
それを聞くと、ペテロは湖の上に降り、イエスの所に歩いて行った。
だが、その時、強い風が吹き、ペテロは恐くなり、イエスに向かって叫んだ。
「主よ、沈みそうです。助けて下さい」
イエスは、ペテロの身体を掴むと言った。
「なぜ疑った。信仰薄い者(信念の弱い者)よ」

この短いお話の中に、奇跡を我がものとする秘訣が全て込められている。
ペテロが、湖の上を歩いているのがイエスだと分かった時、
「主よ。あなたが来いと命じて下されば、私にも出来ます。どうか命じて下さい」
と言ったのは、ペテロが考えて言ったのではない。
ペテロの潜在意識から、そんな想いが湧き出て、ペテロはその想いを言葉にして言ったのだ。
つまり、潜在意識(真の自分)は、「ペテロよ、お前にも出来る」と伝えてきたが、ペテロには、イエスの助けが必要だった。
それを見抜いたイエスはペトロに「私は命じる。来い」と言い、ペトロは潜在意識から来た想いを信じることが出来た。
信じれば、いかなることでも出来る。
それで、ペテロは湖の上を、イエスと同じように歩いた。
しかし、強い風が吹いた時、イエスのエゴ(自我)は、「沈むぞ」と言い、ペテロはそれを信じてしまった。
つまり、「自分は水の上を歩ける」という信念より、「そんなことが出来るはずがない」という信念の方が勝ってしまったのだ。

以上が分かれば、奇跡の起こし方は明晰だ。
まず、どうすれば信じることが出来るかだ。
ペテロは、別に、イエスが言ったから信じたのではない。
イエスはただ「来い」と言っただけだ。
ペテロに何が起こっていたのかというと、幽霊を見たと思ってパニックになったが、それがイエスだと分かって安心し、そして、イエスが湖の上を歩いているのを見て感動した結果、ペテロの思考が消えたのである。
その時、潜在意識の「お前にも出来る」という声が、言葉ではない直観としてペテロに伝わったのである。
つまり、奇跡を起こすには、思考を消せば良いのである。
思考を止めるには、私の勧める方法では、息の流れを止めれば良い・・・つまり、「息を飲む」状態になる。難しければ、微かな呼吸をすれば良い。他にも、沢山の方法がある。
だが、強い風が吹いて、ペテロは恐れ、それによって思考が戻ってきてしまったので、奇跡が途切れた。
この「強い風」は、あなたを疑わせる出来事の象徴で、「現実からの挑戦」とも言われ、あなたの信念を揺るがす出来事であり、そんなことが起こることが多い。
例えば、話を分かり易くするため、やや低レベルな喩えで言うが、可愛いあの子を必ず恋人に出来ると信じているが、彼女があなたに非常にそっけない態度をして、信念が揺らぐといったようなことだ。
そんな時、どうすれば良いか?
答は、旧約聖書のダニエル書に書かれている。
ダニエルは、ライオンのいる洞窟に入ってしまった。
だが、ダニエルは、ライオンに背を向け、太陽の方を見た。
つまり、悪い状況(ライオンがいる)から目を逸らして無視し、願いが叶っていることを意識する(太陽を見る)のである。

聖書は、開かれた心で読めば、引き寄せの最高のテキストなのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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