ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

福音書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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もし身体から魂を抜かれたら?

私はキリスト教徒になったことはないが、新約聖書の福音書は16歳の時から読んでいる。
その中で、福音書に記述されていることで気になることがあった。
同じようなことが書かれている2つの部分である。
1つは、湖の沖に浮かぶ船の中のイエスの弟子達が、岸から湖の上を歩いてこちらに向かってくる人影を見て、幽霊だと思って恐がった。
すると、その湖の上を歩く者が言う。
「恐れるな。私だ」
それで弟子達は、その人物がイエスであると分かった。
これは、普通に考えれば、弟子達は、声によってイエスだと判別出来るということで、イエスもそう思っていたということだ。
もう1つのところはこうだ。
イエスが磔の刑で死んだ後、イエスの弟子達が部屋に居る時、1人の人物が部屋に入って来て、弟子の1人が、「あなたは誰ですか?」と尋ねる。
すると、その人物は「私だ」と言い、弟子達はイエスと気付くが、確信出来なかったので、イエスは磔にされた時に槍で刺された傷を見せる。
今度は、弟子達は、イエスの声を聞いても分からなかったのだ。

引き寄せ界の重要人物であるネヴィル・ゴダードは、福音書のみならず、新約、旧約の聖書の全体を通して、このようであると言う。
つまり、神もイエスも、「私は神である」とか「私はイエスである」とは全く言わず、いつも「私だ」と言うのだ。
ゴダードは、その「私だ」は、英語で言えば、「I AM」だと言う。つまり、「私は在る」だ。
旧約聖書で、モーセの前に現れた神は「私は『私は在る(I AM)』だ」と言っている。
(原語のヘブライ語では、神は「エヒュー・アシェル・エヒュー」と名乗っているが、これが「I AM THAT I AM」と訳されている)

だから、ゴダードは、神は「私は在る」なのであるが、誰でも「私は在る」と思っているし、人間が唯一確信出来ることは、「私は在る」だけであると言う聖者もいる。
デカルトは「疑っているわれは確かに存在する(一般には、われ思うゆえにわれあり)」と言い、「疑っている」と限定はしたが、究極の真理は「われあり(私は在る)」だということには気付いていた。

もし、あなたが、肉体から魂を抜き取られたらどうなるだろうか?
その時、あなたは、肉体ではなく、魂が自分だと感じると予想出来ると思う。
昔、NHKで放送されていたアニメ『キャプテン・フューチャー』(原作はエドモンド・ハミルトンのSF小説)で、キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンは、肉体から魂を抜かれたことがあった。
その時のカーティスの反応が面白い。
「肉体がなくなっても目が見えるのか?これは驚くべき発見だ」
これほどの緊急事態でも、さすがに宇宙一の科学者は冷静であるようだ。
だが、それなら、存在の自覚があることに驚くべきである。
カーティスは機械によって魂を抜かれたのだが、これは、言い換えれば、魂から肉体を除去したのである。しかし、この装置は、魂から心まで除去しないようである。
もし、心まで除去出来れば、カーティスは全知全能の神になっていたと思われる。
心まで抜かれても、存在の自覚はある。それが神であるようだ。
そして、肉体も心もある我々も、存在の自覚を感じることが出来る。
だが、普通の人は、存在の自覚を重要視しない。
もし存在の自覚を大切にすれば、全知全能の力と一致していく。それが、ネヴィル・ゴダードの引き寄せの根本原理である。
だから、「私は在る」と唱えることが重要で、それだけで引き寄せの力は強大になる。
すぐには納得出来ないと思うが、やってみれば分かると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)新約聖書 福音書(塚本虎二訳。岩波文庫)
(4)聖書(フェデリコ・バルバロ訳)
(5)恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! <キャプテン・フューチャー全集1>(エドモンド・ハミルトン)

女神の出現
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「女神の出現」
Kay

奇跡を起こす練習

アメリカのSFテレビドラマ「X-ファイル(X-Files)」の第2シーズン、エピソード24は『Talitha Cumi』で、日本語では『タリサクミ』となっている。
これは、新約聖書・福音書の中にある、イエスが死んだ12歳の少女に言った言葉で、日本聖書協会の『新約聖書』にはこう書かれている。

そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。

「タリタ、クム」はアラム語で、セム語族が使っていたセム語が起源だというが、私は全く分からない。
「タリタ、クム」の意味は、単に「起きなさい」であるようだ。

イエスが、この少女に「起きなさい」と言った時は、少女は既に蘇っており、この言葉によって生き返ったのではないと思う。
イエスは、奇跡を起こす時、言葉は使わなかった。
水をぶどう酒に変える時、「水よ、ぶどう酒に変われ」とは言わなかったし、パンと魚を増やした時も「パンと魚よ、増えよ」とは言わなかった。
悪霊を人から追い出す時は、イエスは悪霊に対し、「去れ」みたいなことは言ったが、これは、悪霊がイエスを恐れてイエスの言うことを聞いたのである。

私も、小学4年生の時、何の情報もなく、夜空の星から土星を探した時も、「土星が見つかる」とも何とも、口でも心でも言わなかった。
7歳の時、目をつぶって交通量の多い車道に飛び込んだ時も(決して真似しないように)、「車よ来るな」と口や心で言ったわけではなかった。
言葉を使わずに命令を発したのだ。
他にも、このやり方で沢山のことをやったが、どんな馬鹿げたことでも実現出来た。ただし、欲張ったことはやらなかったが。
誰でも出来るが、学校やテレビで変な教育をされたことで、皆、能力が錆びついていると思う。
そこで、こんな練習をすれば良い。
空想の中で、大きな岩を(本当は小さい石ころでも良いのだが)、念力で浮かび上がらせたり、自在に動かす想像をする。
その際、心の中でも、決して言葉を使ってはならない。
実際に岩を動かせるのかというと、自分がやっていることが分かるようなことは自我の性質上、やり難いようだ。
空想の中でも、出来るだけさりげなくやることがポイントだ。
他にも、空想の中で、奇跡的なことを、言葉を使わずに命令して実現する、いろいろな練習をすると良い。
空を飛んだり、服を一瞬で変えたり、食事を出現させたりなどだ。
そうしているうちに、いろいろな奇跡が出来るようになると思う。
多少、参考になる本と言えば、今朝も書いた通り、ネヴィル・ゴダードの『AT YOUR COMMAND(翻訳:世界はどうしたってあなたの意のまま)』だと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)波動の法則(足立育朗)
(3)新約聖書(日本聖書協会)
(4)新約聖書 福音書(塚本虎二)

ともしび
AIアート982
「ともしび」
Kay

「今この瞬間」の最も美しい描写

今今メソッドは、速やかに思考を消して無意識に入る優れた方法だと思う。
無意識に入り、無意識を信頼してまかせれば不可能はない。
無意識に入る方法は他にも沢山あるが、これほど自然に気持ち良くやれるものは、そうはないと思う。
今今メソッドとは、単に、今この瞬間にフォーカスする(焦点を合わせる。注目する)ことで、本来、非常に簡単なのだが、具体的なフォーカスの仕方は案外いろいろある。
一番単純な方法は「今、今、今・・・」とつぶやいたり、心で唱えることである。
呪文のように単調に繰り返すよりは、「今」と唱えるごとに、実際に今を感じるのが良いと思うが、分からなければ、ただ「今」とつぶやいたり唱えても良いだろう。唱えているうちに、今を感じるようになると思う。

私は、いつからやっていたのか分からないが、6つか7つの時には、見えているものの1つにフォーカスし「今見ている、今見ている」と心で唱えていると、一瞬前の記憶が消えるような、何とも奇妙な感じがして、夢中になることがよくあった。
ただ、その意味が分からず、人生の中であまり行わず、何年もやらなかったこともあったと思う。
何とももったいないことだと思う。

今今メソッドに慣れた人が、こんなことを言っていたようだ。
「目の前の空気感や雰囲気を意識します」
私は、「ああこれだ!」と思った。
これほど速やかに無意識に入ることが出来る今今メソッドはないと思うほどだ。
絵画の中には、傑作とか名画と呼ばれるものがあるが、そんな絵と普通の絵との違いは何かというと、もちろんいろいろあるだろうが、何と言っても、空気感や雰囲気が違うのである。
だから、そんな空気感や雰囲気が違う名画を鑑賞する意味は大きいし、名画を鑑賞する本来の目的の1つは空気感や雰囲気といった、五感プラス意識で感じる感覚を磨くためであると思うのである。

空気感や雰囲気と言えば、私には非常に印象的なものがある。
「20世紀最大の詩人」と言われた、ノーベル賞作家でもあるウィリアム・バトラー・イェイツの自伝的小説である『まだらの鳥』にあったものだ。
イェイツが自分を投影した主人公のマイケルが、精霊の少女と出逢う場面である。
精霊の少女は、深いオリーブ色のドレスをまとい、濃いブロンズのような髪をした、美しくて優しい、ほとんど無表情な顔で、海の上2,3インチのところに両足を離して浮かんでいた。
その後の描写が素晴らしいので、そのまま引用する。

好奇心に満ちた彼(マイケルのこと)の目に彼女の細部がはっきり見え、あたかも空気が普通のときよりも澄んでいるかのように、彼女のドレスの襞の一つ一つがくっきりと隅々まで光を一杯に浴びているようであった。

まるで、この精霊の少女が目に浮かぶようであると思った。
これこそが、最上の空気感や雰囲気であり、マイケルは、「今この瞬間」にあったはずだ。
まあ、我々が、このような精霊の少女を見たら、いくら美しくても幽霊のように思って恐れるかもしれない。
新約聖書の福音書の中でも、湖の上を歩くイエスを見て、ペテロらは幽霊だと思って恐れたという記述がある。
だが、イエスが「恐れるな、私だ」と言うと、ペテロは感激し、「私に来いと命じて下さい。あなたが命じれば私にも出来ます」と言い、イエスが「私は命じる。来い」と言うと、ペテロも水の上を歩いた。
この時も、ペテロはまさしく、今この瞬間にあったのであると感じる。
そして、ペテロがこの時に感じていたであろう、空気感や雰囲気を想像すると、今この瞬間というものが明確に分かる気がするのである。

神殿の石段
AIアート855
「神殿の石段」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)まだらの鳥(ウィリアム・バトラー・イェイツ)
(2)新約聖書 福音書(塚本 虎二訳。岩波文庫)
(3)さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール)

聖典の意外な読み方

『法華経』を読もうとすると、冒頭の大量の仏、菩薩、神の名を見て疲れてしまう。
これは『古事記』も似たようなものだが、『新約聖書』の『福音書』でも、イエスの家系がずらずら説明されていて退屈になる。
『バガヴァッド・ギーター』では、戦士らの名が長く述べられる。
こういうことは、他の聖典にもある。
そこで、これらの、一般読者にとって退屈な部分を、なるべく簡易化して書く著者もいるが、さすがに完全に取り除くことはない。
しかし、簡易にしたものも含め、これらの冒頭の部分を飛ばし読みする読者がおり、特に、再読の際は読まない人も多くいるかもしれない。

結論を言うと、実は、それら冒頭の名前の羅列に霊的な力があり、聖典を読んで神秘な力を得た者は、そこを淡々と読んだ人達だ。
それに、子供に読ませると、冒頭部分を別に苦痛なく読むものである。
さらに驚くべきことに、それらの冒頭部分のみを読んでも、高次の力を得ることが出来るのである。
冒頭部分をやや簡易化したものであっても、かなりの効果がある。
なぜそうであるのかの説明は難しい。
神仏の名などは、日本語に翻訳された時点で、元の名とはかなり違ったものになっているし、仏典であれば、サンスクリット語から中国語に翻訳される時に、全く別の名になった名前が大半である。
それでも威力があることは、経験的に語るしかない。

花と夜景
AIアート565
「花と夜景」
Kay


今は少ないが、昔の本では印刷が不鮮明であったり、時の経過と共に印字が薄れて、特にフリガナが見えなくなる場合が多い。
そんな場合でも、見える範囲の文字だけ眺めていても何かの力を感じるのである。
天才的な発明家であった中山正和さんは、『法華経』を文字を読解せず眺めているだけでイメージが湧くのは、漢字が象形文字であるからかもしれないと書かれていたことがあったが、それもあるかもしれないが、やはり別の霊的な力がある。

信じなくてもいいが、そんなこともあるかもしれないと思いながら聖典を読むと、新しい発見や体験があるかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)日本語の法華経(江南 文三)
(2)古事記物語(鈴木 三重吉)
(3)新約聖書 福音書(塚本 虎二)
(4)神の詩―バガヴァッド・ギーター(田中 嫺玉)

「行け俺」のノリで「消えろ俺」と言う

キリスト教に興味がなくても、イエス・キリストの荒野の試練の話は何となく知っているのではと思う。
これは簡単な話ではあるが、福音書に載っているままでは、それでも複雑過ぎるから、もっともっと単純に言ってみる。
イエスは、粗末な服と靴だけで・・・小屋のような建物すらなく、食べ物が入ったリュック1つない状態で40日を過ごしていた。
そんな、食べ物だけでなく、物質的なものへの欲求が極大になっているイエスのところに悪魔がやってきて、「俺に従うなら、何でも、世界中の富ですらやる」と言って、自分に服従するよう誘惑する。
福音書では、イエスがそれを断る理由をいちいち書いているので話をややこしくしているが、つまるところ、イエスは、「いらん。サタンよ、お前の負けだ。失せろ」と言ったのだ。
この「失せろ」もまた、福音書では「退けサタン」などと変な書き方をするから誤解を生むのだ。

ところで、このサタンの正体は、自我(エゴ)で、これは心であることは間違いないと思う。
そこまでは指摘している人は多い。
だが問題は、「失せろサタン(福音書的には「退けサタン」)」と言ったのもまた心だということだ。
なぜなら、心ではない本当のイエスであるキリスト(魂。真我。聖霊。内なる神)はそんなこと言わないからだ。
これはちょうど、馬鹿なことをした自分に、自分で「この大馬鹿者」と言うのと同じだ。
「この大馬鹿者」と言っている自分も、言われている自分も同一人物で、つまるところは同じ心だ。

イエスは、自分に対して「失せろ」と言い、自分が本当に失せた・・・つまり消えたのだ。
「行け俺」と言って俺が行くのは分かるが「消えろ俺」と言って俺が消えるのは奇妙に感じるが、同じことだ。
「自分を甘やかす」という言葉があるが、甘やかすのも甘やかされるのも自分・・・同じ心だ。

イエスの「退けサタン」は、「失せろ俺」という意味だが、この俺は心である。
よって、イエスは「失せろ心」と言ったのである。
これなら「退け心」と言っても良い。
だが、「失せろ」「退け」とは言ったが、実は、「消えろ」とまでは言わなかったのだ。
これはちょうど、議論をしていて、明らかに間違った論を主張する者に対し、正しい論を言う者が「失せろ」「退け」と言うのは正しいが「消えろ」と言うのは正しくないのと同じだ。論が間違っていても「居る」権利はあるのだ。
そして、間違った論を主張することをやめ、大人しくしていれば、正しい論による恩恵を間違った論を持つ者にも与えるのである。
これが真の民主主義である。

行け私
AIアート539
「行け私」
Kay


では、間違った論を持つ者をどうすれば大人しくさせることが出来るかご存じだろうか?
仕事を与えることだ。
間違った論を声高に主張するのは暇だからだ。
簡単だが気を抜けない仕事を与えておけば、静かになる。
たとえば掃除とか在庫確認とか。
「いや、掃除や在庫確認は難しいこともある」という空気の読めない、IQが低い主張は、やはり暇な者のやることだ。
そこで、心に、腕振り運動とか、足踏み四股、マントラ、念仏といった単調な作業の監督をさせたり、最高なのは静かで深い呼吸をさせることだ。
これが、キリスト、あるいはブッダ(仏陀。如来)になる原理である。
尚、腕振り運動、足踏み四股、深呼吸は、ダイエットや健康や身体強化といったオマケも沢山付いてくるのだから、やらない理由がない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
□足踏み四股に関して
(4)四股鍛錬で作る達人
(5)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
□呼吸に関して
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)弓と禅 単行本
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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