ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

福音書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

山を歩かせて海に入れるには

イエス・キリストは言ったものだ。
「山に向かって、立ち上がって海に入れと命じ、命じた通りになると信じて疑わなかったらそうなる」
だが、イエスは、どうすれば信じて疑わないようになれるか語っていないことになっている。そこが肝心なのに。

イエスには十二使徒と呼ばれる12人の高弟がいたが、イエスはその12人を平等に扱っていたわけではなく、特にヨハネがお気に入りだった。
福音書には「ヨハネはイエスの胸に寄り添って」などといった記述があったり、なんとなく、ヨハネが美少年であったことを思わせる。
いずれにせよ、イエスは弟子たちを平等に扱っていなかった。
それに比べ、私の知り合いは、こんなことを言ってたものだ。
「俺の大学時代のラグビー部のコーチは平等だった。皆を平等にゴミ扱いした」
すると、平等には扱わないながら、誰もゴミ扱いしなかったイエスの方がマシだ(笑)。

そうだ。イエスは誰も差別しなかったが、決して、人を平等には扱わなかった。
本当に重要な教えは、隠れて教えた。
馬鹿に重要なことを教えて誤解されたら大変だからね。
本当に重要なことは、馬鹿には理解出来ないものなのだ。

山が海に入ることについて、有名な牧師でも理解出来ず、困った解釈を言う者も多い。
例えば、ロバート・シュラーは優れた人ではあったが、この件について、
「イエスは、どれくらい時間がかかるとは言わなかった」
と、「おお、なるほど!」と言ってもらえそうなことを言った。
分からないなら分からないって言えば良いものを・・・
そこにいくと、道元は、『正法眼蔵』のどこだったか忘れたが、山が歩いて海に入ることについて書いている。
で、どうすれば、そうなると書いていたと思う?
私もよく覚えていないが、つまるところ、「そんなモンなんだ」だったと思う。
つまり、「山が歩いて海に入った?それが何か?」である。

黄昏時
AIアート519
「黄昏時」
Kay


夢の中でなら、「山が歩いて海に入る」ことも、「あって当たり前」とまでは言えなくても「あってもいいんじゃないか」くらいには思えるだろう。
そして、我々が現実と思っているものも夢と変わらないのだ。
ラマナ・マハルシは、
「夢は短く、目覚めは長い。その他に何の違いもない」
と言ったが、その長さの区別も怪しいものだ。
確かに、マハルシに対し、夢と現実は違うと言い張る者もいたと思うが、マハルシはそんな者を論破しようとはしなかった。
禅の公安の中に、旗が風になびくのは、風が動いているのか旗が動いているのかという議論がある。
それを大真面目に討論し合い、相手を論破しようとしているのを見ても、関わる気は起らない。
マハルシも、それと同じだったのだろう。

そんなわけで、山を歩かせて海に入れたいなら、この世界が夢であると見なすことだ。
そして、信じて疑わないようになれば、全て思い通りである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)現代訳 正法眼蔵
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)アイ・アム・ザット 私は在る
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(5)江戸川乱歩作品集 110作品収録+関連作品
(6)千夜一夜物語 巻1の1

悔い改めようなどとしてはいけない理由

新約聖書の福音書によると、洗礼のヨハネと呼ばれるヨハネは、人々に「悔い改めよ」と訴えたらしい。
イエスもそう言ったとされているが、私はどうもピンとこないのだ。
だって、「悔い改めよ」と言われて、
「あ、俺が悪かった。悔い改めるよ」
と思う人間なんていないと思うからだ。
だから、実際は、イエスは、人々に直接「悔い改めよ」と命じたのではなく、悔い改めればこうなるとか、悔い改めなければああなると言っただけなのだ。あるいは、祈りの中の言葉として「悔い改めよ」と言っただけである。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』という傑作小説がある。
クリスマスの精霊が現れ、守銭奴のスクルージに、スクルージの未来をリアルに見せるが、その未来があまりに悲惨なので、怖くなったスクルージは心を入れ替える。つまり、スクルージは悔い改め、未来を幸せなものに変えることに成功したように思える。
しかし、スクルージは、単に、我が身可愛さのために慈悲深くなっただけで、これって実に浅ましくはないだろうか?岡本太郎流に言えば「卑しい」のではないか?
本当の悔い改めというのは、自分はどんな目に遭おうとも、それに関係なく、利他的なことをすることではないのか?

たとえば、私が天使に、「10万円を寄付しなければ3年後に重病で苦しんで死ぬぞ」と言われたら、10万円を寄付するだろうが、それは善意でも何でもない。単に自分が辛い目に遭いたくない、死にたくないだけだ。
スクルージもそれと同じだ。
※ただし、1938年の映画『クリスマス・キャロル』では、スクルージが今のような人間になった経緯が物語られ、クリスマスの精霊は、スクルージの心を癒すことで、スクルージが悔い改めるよう導いている。

サンセット
AIアート469
「サンセット」
Kay


人間は、自分の想いで悔い改めることは出来ない。
だが、悔い改めなければ、未来が悲惨なことは、ヨハネ、イエス、クリスマスの精霊が言わずとも確かで、現在の日本などの、ほとんどの人間が人生の終わりに、激しく後悔することになる。

悔い改めなど必要なく、ただ、神のようになればよいのだ。そのためには、深呼吸をし薄目で世界を見れば良いだけである。
自分の想いで悔い改めようなどとすれば、ますます神から遠ざかる。
そうではなく、思考を消さなければならない。
そのためには、深呼吸をすればよく、薄目で世界を見れば、さらにうまくいくだろう。








なかなか思考を消せない人へ

思考を消せば全知全能であるが、それを達成するのは難しいかもしれない。
それが本当に難しいのではなく、我々は思考するよう教育され、思考することが素晴らしいと洗脳されているから難しいのだ。
そこで、イエスはそこ(思考を消してしまうこと)までいかなくても済む方法を教えている。
それは、新約聖書の福音書に書かれていることで、イエスが言ったことから読み取れる。

イエスは「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。
すると、人々は笑った。
その地の神殿は、建てるのに何十年もかかったからである。
だが、イエスが言った神殿とは身体のことで、実際、イエスは処刑されてから3日後に蘇った。
イエスの身体だけが神殿なのではなく、人間の身体は神殿なのである。
だから、望めば神はいつでも来てくれて、一緒に食事をしてくれる。

ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、進歩的な人々は、神を遠い天に居る気難しい老人ではなく、年長の大変な知恵と力を持ってはいるが、親しいパートナーであるとみなしている。
その神は、宇宙に遍在するが、我々の身体にも宿るのである。
だから、頭が悪く、力もない我々は、神に一切をまかせて安心すれば良いのである。
同じことを、ラマナ・マハルシは、「列車に乗ってまで、自分の荷物を担いでる必要はない。荷物を下ろして安心しなさい」と言ったのだ。
また、矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言ったが、それにより、矢追さんは神という言い方はお好きではないようだが、我々の頭がパソコンなら、スーパーコンピューターに匹敵する存在が考えてくれると言っているのであるから、これもイエスらが言ったことと同じと思って良い。

空に溶ける少女
AIアート443
「空に溶ける少女」
Kay


『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、「私は心臓に棲む」と言ったが、心臓の内部に広大な亜空間があると思い、そこに神を迎え、親しくすれば良い。
旧約聖書の『ヨブ記』の22章21節に、
「さあ、あなたは神と和(やわ)らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」
とあるようにである。
このように、どの宗教も本質では同じなのである。
同じような教えは、神道にも仏教にも当然ある。








『老子』第47章を一言で言えば「ひきこもれ」

今回は『老子』第47章である。
この章を一言で言えば「ひきこもれ」である。

世の中では、ひきこもることは極めて悪いことであるとされている。
しかし、本当は、ひきこもりこそ、人間の理想の姿である。
あの『バガヴァッド・ギーター』にも、「亀が手足を甲羅の中に引き込む」ようにひきこもれと教えているのである。

そして、ひきこもれば、世の中のことも、天地自然の理も何でも分かり、奥深いことを理解し、いかなることでも成し遂げる。
これは逆に言っても良い。
ひきこもらず、外に行けば行くほど、世の中のことも、天地自然の理も分からず、少し奥深くなると全く理解出来ず、何も成し遂げない。

だが、上のように言うと、世間の人は、
「そんな馬鹿な!ひきこもりには何も出来ないに決まっている」
と言う。
まあ、それは良い。
だが、ひきこもりの者自体が、自分は何も分からず、何も出来ないと思っていることが問題なのだ。

誰かがラマナ・マハルシに言った。
「あなたはなぜ講演会をしないのですか?」
マハルシは答えた。
「私は毎日、演壇に登り熱弁を振るっている」
沈黙以上の雄弁はないのだ。
また、マハルシ以上のひきこもりはいない。

重責を担う政治家や軍人はひきこもることで責務を全うし、偉大な事業家はひきこもることで大きな事業を完成する。
彼らは、見かけは激しく活動しているかもしれない。
しかし、彼らは何もしていない。
身体や心が何をしていようが、それはどうでも良いことである。
また、マハルシは、こう言ったらしい。
「イエスは自分の超能力に気付いていなかった」
まあ、これはおそらく、正確には、イエスは、自分の超能力を気に留めなかった…どうでも良いと思っていたということだろう。

30年以上も前だろうか。
当時、マイクロソフトの社長だったビル・ゲイツは、社長室に5日、ひきこもった。
それをしなければ、かつて、世界一のビッグテック企業であったロータスやノベルが消滅したように、マイクロソフトも、なくなっていたはずだ。
だが、ゲイツはひきこもることで本当の仕事をしたのだ。

これらを、頭で理解しようとしてはいけないし、そもそも、人間の馬鹿な頭に理解出来ることではない。
我々も、本当にひきこもれば分かることだ。
そして、本当にひきこもるには、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
これほどのひきこもりはない。
意思は、胸の中、心の中、意識の中にひきこもり、そして、魂と会合する。
これを喩え、「神殿(身体や心)の中で神(真の自分。全知全能の魂)と食事をする」と言うことがよくある。

「私は誰か?」と自分に問うことが、『バガヴァッド・ギーター』の秘儀、『新約聖書・福音書』の秘儀、そして、『老子』の秘儀を実際に行うことである。








これさえ憶えていれば願いは叶う(決定版)

引き寄せ。あるいは、潜在意識の法則で願いを叶える過程が、新約聖書の「マタイによる福音書」の中の短いお話に簡潔に書かれている。
私が好きなお話なので、何度も書いたが、よくよく味わう価値があると思う。

イエスの弟子達が湖の沖に浮かぶ船に乗っていたが、風が強く波が大きかった。
夜が明ける頃、イエスは湖上を歩いて船に向かったが、それを見た弟子達は、幽霊だと思って恐怖し、叫び声を上げた。
イエスは、「私だ。安心しなさい。恐れるな」と言った。
すると、ペトロ(ペテロ)が、イエスに、
「私に命じて、私を水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」
と言い、イエスが、
「私は命じる。来い」
と言うと、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方に向かった。
だが、途中でペトロは強い風が吹いていることに気付き、怖くなって沈みかけたので、イエスに助けてくれるよう懇願すると、イエスは手を伸ばしてペトロを捕まえて、
「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」
とペトロを叱った。

マルコ福音書やヨハネ福音書にも、イエスが水の上を歩く話はあるが、ペトロが水の上を歩くのはマタイ福音書のみである。
ルカ福音書では、イエスが水の上を歩く話すらない(最初から船に乗っていた)。

上の話を憶えておけば、どんな願いも叶えられる。
まず、イエスが水の上を歩いたことは、潜在意識との間の壁がない者は、潜在意識の力により万能であることを示す。
ペトロは、その事実を信じ、自分もそれをやるよう命じて下さいとイエスに願ったら、イエスは「私は命じる」と言った。
ペトロの望みは水の上を歩くことだった。
そして、イエスが「私は命じる」と言ったことが重要である。
この「私」は、イエス個人のことではなく、「真の自己」のことで、真の自己が命じたら潜在意識は何でも叶えるのである。
ペトロの真の自己が命じたので、ペトロもイエスと同じように水の上を歩いた。
だが、ペトロは強い風に気付いてしまった。
それまでは、ペトロは風を意識しなかったのである。
意識しないものは存在しないのと同じである。
つまり、一切の困難、問題は、意識するから存在するのであり、意識を逸らせてしまえば存在しない。
ここが、普通の人がなかなか分からないことであるが、引き寄せのマスター達は皆知っている。
理解したければ、ジョセフ・マーフィーが天才と讃えたネヴィル・ゴダードの『世界はどうしたってあなたの意のまま(原題:At Your Command)』に詳しく説明されている。
ペトロは、せっかく望みを叶えたのに、強い風という問題を意識してしまったために、望みが叶っていない状態に戻ってしまったのである。
ところで、少し戻るが「真の自己が命じる」は、どうすれば良いのだろうか?
つまり、どうすれば、自分が願うことを、真の自己に命じてもらえるのだろうか?
何もする必要はない。
願望が浮かんだ瞬間に、真の自己は「それを得よ」と命じているのである。
ペトロは、考えて「水の上を歩きたい」と思ったのではない。
ペトロは、イエスが水の上を歩くのを見た瞬間、「水の上を歩く」という願望が浮かんだ。これが即ち、真の自己の命令である。
そして、願望が浮かんだ瞬間に、願望は叶うのである。
これは凡人でも例外ではない。
だが、すぐに強い風(「そんなことがあるはずがない」という疑い)が浮かぶ。
これはエゴの声で、凡人は、真の自分の声ではなく、エゴの声に従ってしまい、願望はキャンセルされ、願望が叶った状態が消えたのである。
イエスは、「なぜ、真の自分の声ではなく、エゴの声を信じたのか」と叱ったのである。

1つだけ付け加える。
願望は真の自分の声であるなら、誰かを殺したいという願望もそうなのだろうか?
そうではない。
誰かを殺したいというのは、真の自己の声を歪んで解釈しただけだ。
誰かを殺したいというのは、欲求を叶えるための短絡的な考えだ。
『南から来た用心棒』という映画の中で、大悪党が初めて殺人をした時のことを語る。殺したのは自分の父親で、その悪党が子供の時だった。
子供の時、彼は、父親の懐中時計が欲しいと思った。
父親は「俺が死んだらお前のものだよ」と言った。
悪党は笑って言う。
「5秒後に俺のものになっていた」
我々は、このように短絡的に考える愚か者になってはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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