ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

神頼み

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ちゃんとした神頼みとは

ロシアによるウクライナ侵攻は、世界の主要国による侵略が本当に行われたということで世界中を大いに驚かせたが、戦争状態と変わらない紛争地域は他にもいくらでもある。
そして、中国による台湾や日本への侵攻や、その他の国による日本への核攻撃も、十分に考えられると訴える識者もいる。
有事の時に我々が頼るべきは自衛隊である。自衛隊は軍事力としての規模でも世界トップクラスだが、何より、十分に訓練された能力の高さは比類ないと言われる。
ところが、ご存じのように、日本には軍事行動を制限する法律があり、いざという時に、自衛隊が十分な力を発揮出来ない可能性が高い。

ところで、信じない人も多いだろうが、大難が小難に、小難が無難になったと言われる神的、霊的な話は非常に多い。
その中には、まさに、信じるも信じないも個人の自由と言うしかない伝説や宗教的な話もあるが、科学的思考の習慣があり、また、人間は錯覚や曲解をし易いものだと理解する者が、事実である可能性を否定しない不思議な話もある。
ちなみに私は、何度も述べたが、自分では疑いようのない奇跡を何度も体験しているので、奇跡現象自体には抵抗がないが、世に出回っている奇跡話には疑わしく感じるものの方が多い。しかし、やはり、信憑性があると感じるものも少なくはない。

それで、私は、おそらく、何があろうと、大概はなんとかなると思っているし、それは、誰でもそうなのである。
最近、何度か取り上げた、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に書かれた、カール・グスタフ・ユングが好んだ奇跡話のように、神の意思に沿ってさえいれば。
そして、神様に面倒をみてもらうつもりでいるなら。
ノーマン・ヴィンセント・ピール(ドナルド・トランプが崇拝するアメリカの牧師)は、世界的ベストセラー&ロングセラーである『積極的考え方の力』の最後を「なぜ、神の力を、もっと求めないのか」と締めている。
宗教的とかオカルト的と言われることを恐れる人は多いが、今や、霊や神秘と科学の境界なんて曖昧なものだ。
ただ、神頼みもちゃんとやりなさいとは言いたい。
やり方は無数にあり、好きなやり方でやればよいが、大事なことは「うまくやる」ことではなく「ちゃんとやる」ことだ。
大金を払って、うまいやり方を教わればうまくいくのではなく、人間らしく「ちゃんと」やれば、必ず神の恵みがあると確信する。
その「ちゃんとやる」ことが、神の意思に沿うことであり、そして、「最低限」神の意思に沿おうとすれば良いのだと私は思う。
「ちゃんとした」「最低限、神の意思に沿う」とは、言い換えれば「人間として当たり前のことをやる」だけである。
少し前、イチローが高校生を指導した後、「ちゃんとやってよ」と言い残したという話が面白い。
「ちゃんとやる」ことは難しいことではない。しかし、それをしない者が多いのである。
イチローだって、ちゃんとやったのであり、おそらく、そんなに難しいことはしなかったのだ。








神頼みのゆるい作法

私は自助努力に著しく欠け(笑)、神頼みが大好きなのであるが、神頼みについて、今朝の記事よりもシンプルなことを述べようと思う。

中国出身のアメリカの女性作家で事業家のチン・ニンチュウの世界的ベストセラー『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の195ページ「羊飼いをあなたの主人にせよ」に、神頼みの究極が書かかれているが、これは、チン・ニンチュウの悟りのようなもので、意味とか、実際のやり方がよく分らなかった。
ニンチュウは、こんな説明が上手くないので、名著ながら、ロングセラーにならなかったような気もする。
だいたい、こんな話である。

チン・ニンチュウは大変な努力家であった。
作家として最高の評価を受け、いくつかの会社を起業して成功し、女優だったこともあった。
そんなある日、彼女が瞑想をしていると、こんなイメージが浮かんだ。
羊飼いが自分に近付いてきて、自分は羊になった。
羊は羊飼いにしっかりと面倒をみてもらってさえいれば、何の努力もする必要はない(と彼女は理解したのだろう)。
夢の中では(あれ、瞑想だったはず。寝ちゃったのかなw)、その羊飼いは彼女の保護者になってくれていた。
羊飼いは彼女に、「私が"究極の戦士"として、あなたの代わりに戦ってあげる」と言ったようだ。
瞑想を終えた彼女は(また瞑想に戻ったw)、喜びと安堵で涙が止まらなかったという。

日本には、羊の放牧とか、羊飼いといったものがほとんどないが、羊飼いのイメージは、アニメや映画等で見て分かっていると思う。
キリスト教では、イエスが羊飼いで、我々人間は羊であると喩えられることがよくある。
ニンチュウもクリスチャンであるから、やはり、羊飼いはイエス・キリストで、神ということなのだろう。

上の話が全てで、我々も羊になって、羊飼いである神様に面倒を見てもらい、代わりに戦ってもらえば良いのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まることの教え」といって、神様にまるごとまかせれば良いのだと教えたのである。

ところが、上で、ニンチュウは、「何の努力もする必要はない」と述べているが、これをニンチュウは悪意なく書いているから問題なのである。
つまり、彼女のような超努力家で超優秀な人から見れば「こんなの努力じゃない」と思うようなことが、我々凡人には、かなり努力しなくてはならないことかもしれない。
たとえば、イチローが毎朝百回素振りをするのは極めて楽なことだが、アマチュア野球の選手なら、かなりの努力になる。
黒住宗忠だって、「仕事に励むのは当たり前だ」と言っているのであるが、それは、私にとっては、努力以外の何物でも・・・である(笑)。

とはいえ、やはり、やりたくないことは、やらなくて良い。だが、これも誤解されることが多いので言い直す。
「どうしてもやりたくないなら、やらなくて良い」
偉くなったり、金持ちになりたい場合はいざ知らずだが、平安に楽しく暮らす程度で良ければ、最小限の努力で良い。
上の羊と羊飼いの例で言えば、羊の努力とは、せいぜいが、羊飼いの側に居ることだ。
しかも、聖書によれば、羊がはぐれてどこかに行ってしまっても、羊飼いは必ず、探しに来てくれるのである。
我々も、神様から離れてしまったら、神様の方で探しに来てくれるかもしれない。
しかし、せっかく神様が見つけてくれたのに、その時に逃げ出したら、少々まずいわけである。そんな時は、黙って神様に従う程度の努力は必要なのである。

努力について、もう少し考える。
私の場合は、会社で全く仕事をしなかった。
それでも、出勤し、自分の机に座っているくらいのことはしたし、それほど大変でないことならやっていた。
ところが、大俳優だった丹波哲郎さんの場合は、サラリーマン時代、出勤はしても、遊びに行ってしまって、席にはいなかった。
それでも、丹波さんは、宴会の幹事は得意で好きなので、それで役に立っていたらしい。また、丹波さんという人は、人に嫌がらせや、まして、いじめをするような人ではなかった。
つまり、嫌なことでなければ、羊も、最小限の努力はすべきだが、とにかく、最小限で良いのである。
しかし、そんな最小限の努力・・・やってクタクタになるわけでもないことをやらない人間は多いのである。
あるいは、やらなくてもいい嫌がらせや陰口みたいなことをする人も少なくないし、いじめをする者もいる。詳しくは解説しないが、そんなことをするのは、神様の恵みを拒否しているようなものだから、神様だって何も出来ないのではと思う。

結局のところ、神様にくっつくくらいの努力をすれば良いのだと思う。
神様(あるいは仏様)は、限りなく慈悲深いが、自分も最低限の立派さがないと、神様に近付く気になれないと思う。
たとえば、極端な話だが、毎日電車で痴漢行為をしながら、「神様、お近くに居させて下さい」とは言えないものである。
だが、それほど「ご立派」である必要もない。
つまり、最低限のモラルを持つべきで、それであれば、ニンチュウのように、神様に面倒を見てもらう気満々でさえあれば(笑)、それで良い。
それには、最近動画で見た話であったが、斎藤一人さんが教えるように、「天之御中主(アメノミナカヌシ)様、お助け下さいまして、ありがとうございます」と唱えるのも良い方法と思う。
もちろん、自分に合うなら、「南無阿弥陀仏」や「アマテラスオホミカミ」や「アジマリカン」や「トホカミエミタメ」と唱えるのも良いと思うし、「神様の奇跡が起こる」と唱えても良いのである。








親や神様に聞いてもらえる願い方

難しい願いが有る時は、神様に頼みたくなるかもしれない。
私はなる(笑)。
そして、イエスは、願いごとは叶ったと思えば叶うと言うが、この話は、優れた人物達も、よく正しいこととして引用するのである。
だが、叶ったと信じることが難しい。
それなら・・・
神様にとって我々は、親に対する子供に似ているらしく、黒住宗忠も神様(彼の場合は天照大神)のことを親様と呼ぶこともあったが、悟った人は、神仏に対して、そのように考えていることが多いと思う。
そして、多少愚かな人間であっても、自分の子供に対しては、案外に神様のように考えるものである。
では、そんな親に子供が、「お願い」を聞いてもらう良い方法とは何だろう?
それが分かれば、神様にも正しく願うことが出来るかもしれない。

「言うこと聞いてくれないと勉強しないぞ」なら、よほど馬鹿な親でない限り、怒鳴られて終わりで、願いは聞いてくれないだろう。
逆に、「勉強するから言うこと聞いて」ではどうかというと、さっきのよりマシとしても、成功率は高くない。
これは、勉強に限らず、「何かしてあげるから」でも、だいたい同じである。
なぜなら、勉強にしろ、良いと思われる他のことにしろ、それは、自分のためにするのであり、相手のためにするわけではない。
だから、それを、「あなたのためにやるから、言うこと聞いて」と言うのは、おかしなことであると、いやしくも親なら気付かないといけない。
たとえ、お使いをする、親の肩を叩いてあげるなどでも、そんな行為を商取引に使うなんて馬鹿げており、下手にそれで成功体験を持ってしまえば、その子供はロクな大人になれない危険がある。
そんな良いことは、無償で、喜んでやるようでないといけないのではないか?

では、どうするか?
そんなの、「言うこと聞いてくれるまでゴハン食べない」に決まってる(笑)。
子供にそれが長続きするはずもないが、それでも、3食ほど食べなかったら、親も、「なるほど、半端な願いではないな」と、願いを叶えてやることを真面目に検討することだろう。
たとえ下心があっても、特に子供にとって、食べないことは辛いことだ。
その気合いだけは認めてやっても良いと思うだろう。
そして、個人的欲望を抑えることが修行なのだから、その子供は、一応は修行をしたのである。
神様においても、食の慎みには応えてくれることが多いと思う。
そして、特に食でなくても、放埓(ほうらつ。勝手気まま)に振る舞いたい心を抑えれば、神様は応えてくれるのだと思う。
例えば、修行と言うに値するだけ、念仏や真言を唱えたたり、坐禅を組んだり、静坐をしたり、その他の行をやれば良いのである。
そんなわけで、延々、腕振り運動をしたり、四股踏みをするのも良いと思う。
もちろん、何でも良いのである。
その中でも、例えば、四股踏みをする時、階下の人の迷惑にならないよう、つま先は床につけたまま、踵だけ上げ下げするというのは、良い修行である。
(この四股に関しては、『月刊秘伝3月号』の大森悟氏の四股を参考にした。私も、あのような話が大好きである)
親としても、そんな気遣いのある子供が愛おしいように、神様もそうであるに違いないと思う。
さあ、良い修行をしよう。








諦めた時に願いが叶うわけ

結局、最後は、何事も「神頼み」しかなくなる。
サミュエル・スマイルズは、名著と言われる『自助論』で、「天は、自分を助ける人を助ける」と言ったが、人間が出来ることは、所詮、自分を助ける程度のことだ。
そして、自分を助けるとは、「堕落し切らない」程度のことなのだ。
後は、神頼みである。
無論、納得出来ない人もいるだろうが、そんな人を説得する気はない(それは難しいので)。

神頼みというよりは仏頼みになるが、それを最も純粋に力強く語っている書は、親鸞の教えのエッセンスを、弟子の唯円が短くまとめた『歎異抄』だ。
『歎異抄』では、「全て仏(ここでは阿弥陀如来)に任せよ」と書かれているが、世の中の普通の教えでは、その上で、「善いことをしろ」「悪いことをするな」「修行せよ」「感謝せよ」と言うのだが、『歎異抄』では、そうではない。
「善いことをせよ」ではなく、「善いことをする必要はない。いや、善いことをしてはならない」。
「悪いことをするな」ではなく、「悪いことをするのは構わないが、別に、無理に悪いことをする必要はない」。
「修行せよ」ではなく、「修行するな」。
「感謝せよ」に関しては、上記の通りで良いのだから、自ずと感謝するはずだということである。
ただ、親鸞やその師である法然の仏頼みの成果は、「死んだ後に極楽浄土に行ける」ということで、今の時代には、有り難味が少ない。
しかし、法然もだが、親鸞ははっきりと、仏頼みすれば、果てのない現世利益があると教えているのである。
そして、仏頼みのやり方は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることだけだ。
法然は、念仏は多ければ多いほど良いと述べたが、親鸞は1回でもよろしいし、唱えなくても良いと教えている。

「南無阿弥陀仏」というのは、本質的には、「阿弥陀仏に全てまかせる」という意味であるから、特に念仏でなくても良いはずだ。
例えば、こんな話がある。
ある人が末期癌になり、延命するためにあらゆる手を尽くしたが、病状は悪くなる一方で、絶望的な状況になった。
そこで、ついに諦めて、「私はもう一切何もしない。後は神様に任せる」と決めたら、癌が消えてしまった。
これが、高次の存在に全て任せるという念仏の本質を正しく実行した例である。

こういった話をすると、楽でもあるので、賛成してくれる人は少ない訳ではなく、それはそれで良いことである。
しかし、彼らは成果が出ないのだ。
つまり、口では神仏に任せると言いながら、相変わらず、自分の卑小な力に頼っているから、神仏の力が働かない・・・いや、働けない。
「勉強してる」「努力してる」「あつらは馬鹿(俺は賢い)」「あいつらは無能(俺は有能)」という言いぐさは、やっぱり、神仏に任せ切っていないことを示しているのだ。
つまり、他人を見下したり、非難しているということは、自分は見下している相手や非難している相手より何か出来るという思い上がりがあるということだ。

自慢をしなくなった時、他者を一切非難しなくなった時が、完全に神仏に任せた状態だ。
もちろん、そこまで行き着くことは非常に難しいが、過度に思いあがった者が多いのである。
つまり、やたら自慢をしたり、やたら、他者を非難している間は、あんまり良いことはなく、随分、辛いことだろう。
もちろん、ある程度の自慢、ある程度の文句は、未熟な人間であるからには仕方がない。
だが、自分が自慢していることは全く大したものではないし、自分が非難し見下している相手と自分は全く同等なのである。なぜなら、人間は、同等の相手しか馬鹿にしないからである。

上に述べた末期の癌患者のように、人間は、追い詰められない限り、神仏に完全降伏出来ないものである。
特に、自分の力ではどうにもならない困難を経験したことのない「坊や」や「お穣ちゃん」はそうであろう。
とはいえ、世界的教育学者の七田眞氏の本に書かれていた、宝くじで1億円当てた(それも2回)ホームレスのように、1日中、「神の奇跡が起こる」と唱え続けていれば、やがては思い上がりも消えると思う。
あるいは、今朝も書いたように、頭の中でずっと、聖歌、あるいは、『アヴェ・マリア』、あるいは、お経、あるいは、鐘の音、その他何でも、神仏に近いものを、唱え、鳴らして置けば良い。













当ブログオーナー、KayのAI書。近日(5月30日)発売。
AI時代に適応するために、AIを理解するには、自分でAIを作るのが一番の早道です。
しかし、毎日のように出版される、機械学習・ディープラーニングの本は、プログラミング能力を前提とし、難しい数学やAIの理論が延々語られ、ほとんどの人には手も足も出ません。
しかし、AIの基本機能を作るという天才の仕事ではなく、実用的なAIを作るためには、本当は、WindowsパソコンとExcelが適度に使え、ソニーの無料AIアプリNNCがあれば十分です。
本書では、それらを使うための、なるべく易しく面白いテーマを考え、出来るだけ楽しく実習が出来ることを意図しました。

困った時は神頼みに限る

苦しい時の神頼みをする人は、今でも多いだろうか?
私は、それは決して悪いこととは思わない。
たとえ下心があろうと、自分より上位の存在を認め、謙虚になることは良いことだ。

スティーブ・ジョブズは若い頃、インドを放浪していた時、猛烈なスコールに襲われて恐怖を感じ、思わず神様に祈った。
「神様、助けてくれたら、いい人間になります」
まあ、神様だって、アテにはしなかっただろうが、ジョブズも少しはマシになったのではないだろうか?

私も、苦しい状況の時、自分のコントロールの範囲を超えるトラブルに見舞われた時には、やっぱり祈る。
「南無阿弥陀仏」
「南無観世音菩薩」
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」
「オン、アロリキャ、ソワカ」
そして、今度こそ、思いやりある人間になろうと思うのだ。
思うだけだが・・・
だが、やっぱりいつも助けてもらえるのだ。
それも、見事なやり方でね。
さすが阿弥陀様、観音様だ。
アインシュタインは「神は老獪である。だが悪意はない」と言ったが、本当にそうだ。
いじめられてるんじゃないかと思うこともあるが、結局は、それでうまくいくのだ。

アメリカの公式モットーは「我々は神を信頼する」であるが、かつてのアメリカは、これを覚えていたから、他国を圧倒出来た。
だが、今のアメリカは、別のおかしなものを信頼するようになった。
フードスタンプ(食料品専用の金券)のような生活保護の信頼性は高い分、神様は忘れられている。
それで、貧困者も丸々太ってる。
アメリカもそうかもしれないが、日本人はスマートフォンを信頼している。
スマートフォンは幸運をもたらしてはくれない。

もちろん、阿弥陀様も観音様も、我々がイメージするような姿ではないが、イメージがなければ、信頼し難いし、祈り難い。
そして、そのイメージは大抵、的外れでもないのである。
宗教家の解説など聞かず、法華経の25章(25品)の『観音経』をよく読み、自分なりのストーリーを作ると良い。
すると、科学的、深層心理学的に考えても、観音様は確かに助けてくれるようである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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