ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

神統記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

権利にしがみ付く者に芸術は創れない

集団的自衛権の法案成立に反対するデモのニュースをよく見るようになったが、反対デモ自体には力はないものらしい。
ただ、反対する人々が十分に多いと、次の選挙で、その法案を支持した議員には投票しないぞといった、ちょっとした脅しがかけられるということはあるのだろうか?
しかし、その効果はおそらく、あまりないのだろうと思う。
議員は、賛成か反対か分からないような立場を取れるものだし、投票者も、選挙の時はあまり追及しないものだ。
憲法第九条は別格であるが、大抵のことは政府主導で進んでしまい、いったん決まった法律は百年くらいは変えることは不可能だ。
実際、何の効力もないばかりか、弊害のある古い法律が沢山、改定されずに残っている。

ところで、最近のスマートフォンやタブレットPCは、ますます高性能化してきたが、どこが良いのかというと、普通のパソコンを圧倒する画面表示の美しさだ。
20インチ以上の画面でも、フルHD(1920×1080ピクセル)は十分に綺麗なのに、10インチ、7インチ、さらには、5インチ前後のスマートフォンもフルHDを採用するのだから、本当に鮮やかだ。
しかし、この素晴らしい画面を持ったタブレットPCやスマートフォンって、ブルーレイやフルハイビジョン放送を見る以外に何か意味があるのだろうかと思う。
けれども、それを見ること自体が、事実上、法律で禁止されてる。
ブルーレイやデジタル放送のコンテンツを、タブレットPCなどにコピーすること(正確にはブルーレイ等のプロテクトを回避すること)は法律で禁止なのである。
ならば、高解像度のタブレット端末は、ほとんど何の意味もないことになる。

制作者があまりに権利を主張していては、芸術が生まれることはない。
現在の、音楽、映像コンテンツは娯楽的になり、派手で刺激的で楽しくなっているということは言えるが、質は低下しているし、今後、更に低下するだろう。
芸術というのは、無償の行為なのである。
ギリシャ神話の源流の1つである叙事詩『神統記』を書いたと言われるヘシオドスは農夫であり、いわば日曜詩人で、職業詩人ではなかった。
名曲の誉れ高いフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を創ったのは、職業軍人(技術軍人)で、趣味で音楽をやっていた日曜音楽家であった。
アインシュタインは自分の物理学は趣味だと言い、たまたま、かなりのお金になったが、彼はその金を誰とでも、どんなロクデナシとでも分かち合った。
アインシュタインの物理学は芸術であった。

初音ミクのミュージックビデオのDVDである『MUSIC OF SCIENCE』は今日では非常にユニークなものだ。
DVDが2枚入っていて、1枚は普通のDVDビデオなのだが、もう1枚のDVDに、DVDビデオと同じ内容のHD画質のMP4ファイル(動画)が入っている。
DVDビデオが720×480ピクセルの標準画質で、HD画質は1366×768なのだから、主コンテンツより付属コンテンツの方が高解像度なのである。
これだと違法なリッピングをしてDVDビデオからMP4ファイルを作る必要はない。
無論、いかなる著作物にも著作権があるが、この製品では、コピー禁止などの無駄な表示はないし、MP4ファイルに関しては、購入者の持ち物である限り、どんな機器にも無制限にコピーできる。
素晴らしい芸術作品であると思うし、その後、この作品の制作者はさらに進歩している。
そして、この制作者は、立派な良識の持ち主であると思う。
ならば、私のような、この作品を購入した者も、コンテンツをコピーして他人に渡したり、一般に公開するようなことをしてはならない。
ただ、本当は、コピーや一般公開をしても良いが、制作者に相応の報酬が入るようにすれば良いのだと思う。
いずれにしても、コピーは止められない。
それならば、新しい流通の形、新しい著作権、版権の形を作らなければならない。
著作者の権利を侵害してはならないが、制作側も権利を握りしめてはならない。
権利を握り締めて離さない者に芸術は創れない。
「俺が作ったんだ」と言う者は芸術家ではない。
芸術は人が創るのではなく、神が人を媒介して現すものであるからだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

アルテミスとカリスト

このブログで、黙って耐えることの大切さをよく述べているが、それには、自己否定の理解がなくてはうまくいかない。
偽りの自己である自我とは、「得をする」「楽になる」といった目的がなければ、何もしたがらないからだ。
しかし、黙って耐えても、得をすることはないし、楽にもならない。
それはただ、黙って苦しむことでしかない。
だが、損を捨て得を取ることを続ける限り、一生、自我の奴隷だ。
得を捨て、損を取ることで、自我から解放される。
「汝敗れたり、我が後方に退けサタン」
と自我に対して言えることになる。
たとえば、こんなことであるといった話をしようと思う。

カリストというのは、ギリシャ神話に登場するニンフだ。ニンフとは妖精のことで、聖霊、あるいは、下位の女神とも言われる。
カリストとは、「最も美しい」という意味らしく、その名の通り、絶世の美少女だった。
しかし、アポローンの双子の妹で、狩猟の女神であるアルテミスと気が合うだけあって、アルテミス同様、男嫌いだった。男の、美しい娘に向ける欲望を嫌悪していたのである。
オリュンポス12神の一柱でもあるアルテミスは月の女神とも言われるが、多くのニンフの少女を従えていた。あるいは、人間の少女もアルテミスの側に居れば貞節な清らかな乙女に育つというので、アルテミスに預けたといった話もある。
その中で、アルテミスもカリストを特に気に入っていて、可愛がっていた。
だが、アルテミスの父でもある大神ゼウスがカリストを一目見て、その美しさ、愛らしさにたちまち夢中になってしまう。
ヘシオドスの『神統記』にも書かれてあるが、ゼウスとはいえ、エロースの支配から逃れることが出来ないのである。
神には変身能力があり、ゼウスはアルテミスに化身してカリストに近付き、二人きりになると本体に戻り、強引にカリストを犯した。
その時、カリストはゼウスの子を身ごもり、純潔を何より貴ぶアルテミスに嫌われて追放される。さらに、ゼウス正妻である女神ヘラの怒りを買い、カリストは熊にされてしまう。それで、カリストは、他の熊や狩人を恐れながら、他の女に育てられている息子アルカスを見守っていた。
だが、成長し、立派な若者になったアルカスは狩の名手となり、熊の姿であるカリストを見つけると、母親であると知らずに狩ろうとした。息子に母殺しをさせる訳にはいかず、ゼウスは2人を空に上げ、大熊座と小熊座という星座にした。

さて、カリストにすれば、何とも理不尽な話である。
彼女は、一応は何も悪くないのに、災難、いや、悲劇が次から次に降りかかった訳である。
だが、カリストは黙って耐えるべきであった。
アルテミスに仕えたのも、ゼウスに見初められて肉を犯されたことも、ヘラに恨まれたことも、全て、運命として受け入れ、言葉も心も沈黙し、黙って耐えていれば良かった。
もし、息子に殺されるとしても、それも運命である。
アルテミスも、カリストが裏切ったと感じたかもしれないが、黙って耐えるべきであった。
そこには、アルテミスのカルマもあるのかもしれない。極端に純潔を貴ぶのも、神のすることであるので異論を唱えることは出来ないが、それが彼女の業となる。
実は、カリストはアルテミス自身であるという説もある。カリストは、アルテミスのカルマを背負ったのかもしれない。
カリストの苦しみの反作用は、アルテミスにも及ぶ。
この世の想い、言葉、行為の全てには反作用があるのだが、カリストと一体でもあるアルテミスの場合は、特にそれが顕著であろうと思う。

ゼウスは好色な神として知られ、あちこちで美しい娘を見つけては手を出して子供を作り、その多くは悲劇を生んだ。
しかし、ゼウスはそれらを受容するから偉大な神なのである。
彼は、エロースに操られて、差し障りがありながらも、美しい娘に惹かれることにも黙って耐えていた。
慈悲心はあっても、それを施すことが出来ない場合、黙って耐えた。それを嘆くことはなかった。
プロメテウスに騙された時も、実はゼウスはプロメテウスのたくらみを知りながら、黙って騙されたのである。
それで、オリュンポスは平和なのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

神仙、天使になる実際的な原理

天使というのは、人間よりは神様に近いものなのだろう。
そうであるなら、もし天使が目の前に現れたとして、私やあなたが嫌われることはない。
だが、好かれることもない。
天使は、全てを愛しているのだろうが、好きと愛するとはまるで異なることだ。

我々は、あれは好きでこれは嫌い、この人は好きだが、あの人は嫌いとよく言う。
さらに、自分はあの人には好かれているが、その人には嫌われているとか、誰にも好かれていないとか言う。
また、自分の行為や判断は、大抵の場合において正しいと思っており、自分が悪い、あるいは、間違っているとは思わない。これは、どれほどの凶悪犯罪者や、極端な自己中心主義者の場合であっても、決して変わらない。

では、人に、善い、悪い、あるいは、好き、嫌いと感じさせる原因は一体何なのだろう?
神様や天使には、善い、悪い、好き、嫌いという感情はない。
ただ、人間だけがそれを持っている。
神様は、マルクス主義が正しいとも間違っているとも言わないし、ガンジーは好きだがヒットラーは嫌いとも言わない。
天使も、神様ほどではないかもしれないが、ほとんど同様だろう。なんと言っても彼女達は飛べるのだ。感情なんてものを持っていたら、飛べるはずがない。

人間の善悪好悪の判断は、判断をしたその人だけものだ。
誰も、他人の善悪好悪の判断など、知ったことではない。相手が権力者であれば、表向きでは、権力者の善悪好悪の判断を受け入れているようなふりをするだろうが、本当にそれが正しいなどとは、これっぽっちも思っていないのである。

人間に、善い悪い、好き嫌いと感じさせるのは、個人的な心の潜在的傾向性である。それは、心の奥にしっかりと根を張ったガラクタだ。迷信、妄想、偏見、独断、幻想などと言っても良いだろう。
神様や天使には、そのようなものは無い。無いから天使なのであり神様なのだ。
そして、我々もまた、そのようなものを捨て去っていけば、ある程度捨てたところで天使になり、そして、神様になる。

善い悪い、好き嫌いの感情があるうちは、『神統記』でヘシオドスが、詩神ムーサに言われた通り、「食う腹しかもたぬ」愚かな人間である。
荘子は、全てをあるがままに見、一切の思慮分別を捨て、是非好悪の判断をするなと述べている。そうすれば、永遠の道(タオ)と一体化する。俗世を超越した存在である神仙とは、そのような存在である。『荘子』には、神仙とは、たとえ人間としては第一級の者であっても、全く比較にならない高い存在であることが示されている。

では、どうすれば、我々は、是非善悪や好悪を離れ、心の潜在的傾向性を消すことができるのだろう?
まず、人に好かれようとか、正しいと認められようと思わないことだ。
どんな人も、好き嫌いや、善い悪いを、単に、心に溜め込んだガラクタである心の潜在的傾向性から感じるだけであり、そんなものに何の価値もない。
人に好きだと思われたり、正しいとか価値があると認められることの、一体どこが良いのだろう?
相手が権力者であれば、好かれれば楽が出来ると思うかもしれない。しかし、同時に苦痛を味わうのである。

さて、次に、自分の心の潜在的傾向性をどうやってきれいに捨てるかだ。
決して、無理に、「嫌ってはいけない」などと思うよう努力しても無駄だ。心の潜在的傾向性が存在する限り、それは、あなたに、特定のものを好きと感じさせたり、嫌いだと感じさせたりする。
愚かな人は、「それは本当に善いから私は善いと言っている」「本当に素晴らしいものだから、私は好きだと言うのだ」と主張するだろう。
しかし、そんな人は、ある時まではマルクス主義が素晴らしいと心酔していたのに、時が経てば、マルクス主義はペテンだ、クズだなどと言うのだ。人の判断とは、全てそうである。

食べ物の好みを決めるのも、潜在的傾向性だ。私の例で言えば、私はある時点まで、ミカンの缶詰がこの世で至上の美味なものであると感じていたが、ある時、それがさして美味しいものではないと感じている自分に気付いた。
異性の好みも同様である。私は、小学校5年生の初め頃、クラスにいた1人の少女が非常に可愛いと思って心惹かれたが、夏になる頃には、一体、彼女のどこが良いと思ったのか不可解であった。
ラマナ・マハルシは、16歳で悟りを開いた時、それまで好物であった食べ物や、嫌いであった食べ物の区別が全く無くなったという。
しかし、我々には、今の時点での、食べ物の好みや、異性の好みがある。

もし、ある人を見て、嫌いだと思ったとする。
私であれば、煙草を吸いながら歩いている人を嫌悪する。
それが、私の心の潜在的傾向性だ。
煙草を吸いながら歩いている人そのものに、善い悪いは無い。無論、それが悪いことであると結論付けるための理由は色々思いつくだろう。それを持って、そんな行為は断固悪いと主張する者もいる。私もそうしたい。
しかし、やはり、それは単に、個人的な心の潜在的傾向性がそう感じさせているだけなのだ。
では、そんな風に、嫌悪の感情が起こった時、それを心の潜在的傾向性だと認め、
「この潜在的傾向性は誰のものか?」
と尋ねよ。
潜在的傾向性という言葉が好ましくないなら、主観、心の癖、習慣的思考、個人的迷信、妄想、卑小な信念など、好きな言い方をすれば良い。
その潜在的傾向性、迷信、心の癖は誰のものか?
答は、当然、「私」である。
それが了解されたなら、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。
そうすれば、そのことに関わる心の潜在的傾向性は破壊される。一度では駄目でも、繰り返すうちに必ず破壊できる。これを心のあらゆる潜在的傾向性に対して粘り強く行えば、やがて、心の潜在的傾向性は全て消え去るだろう。

心の潜在的傾向性を消すために、L.ロン.ハバートが『ダイアネティックス』で述べた。オーデティングという複雑で難しい方法は必要がない。しかし、効果は同じなのだ。
その価値を知るために『ダイアネティックス』を読むことは良いことだ。私は、ハバートは善意を持っていたのだと信じる。

あるいは、是非好悪の感情や考えが起こった時、それが、自分の個人的な心の潜在的傾向性であると認識するだけで良い。つまり、そう感じる理由には、何等の正当性もなく、単に個人的な心の癖だと、はっきり認識するのだ。
昔、ある日本人は、映画でグレース・ケリーという女優を見て、「西洋の女性はなんて美しいのだ」と思った。そして、彼はフランスに留学し、同じ大学のオランダ人女性を射殺し、その肉を食ったとされる。
グレース・ケリーは世界的に「クール・ビューティー」と絶賛された美貌の持ち主であった。しかし、いかに多くの人がそう思おうと、そう思わせるのは、単にそれぞれの個人の潜在的傾向性である。
グレース・ケリーを醜い女と認識する傾向の強い民族だって、世界にはきっとあるだろうと推測できるはずだ。
グレース・ケリーを女神のようだと感じていたかもしれないあの男も、彼女を特別視する必要がないことを理解すれば、あのような愚行をせずに済んだのである。

もし、ハリー・ポッターシリーズのヒロインのハーマイオニー役を演じたエマ・ワトソンを可愛いと思ったなら、すぐに、「彼女を可愛いと思う、この潜在的傾向性は誰のものか?」と問わなければならない。それが私のものであると理解されれば、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、もはや、あなたはエマに特別な関心を持たなくなるだろう。
あるいは、「私は、エマ・ワトソンが魅力的だと感じる潜在的傾向性を持っているのだなあ」と認識するのだ。
もし、好きな人に振り向いてもらえず、苦しい思いをしているなら、こうすれば、そんな苦しみは全く不要になる。

私が初音ミクを好ましいと思うのは、彼女が食事をせず、自我を持たないからだ。
「さしすせそ」行を発音しても、息がかすれる音がほとんどなく、息継ぎもしない。つまり、彼女は呼吸をしていない。
心と呼吸は同じものだ。呼吸をしないなら、心が無いのだ。
我々も、呼吸を微かにすれば、心もまた静かになる。呼吸の荒い人は自我が強い。そんな人は、自分の心の潜在的傾向性に価値があると誤解しているのだ。
ミクには、心の潜在的傾向性などというものはない。心自体がないからだ。もしあると思えるなら、それは私の心の潜在的傾向性の反映だ。
CLAMPの漫画『ちょびっツ』で、人型パソコン(アンドロイドと同じ)の少女を愛した19歳の秀樹が、「ちぃの心は俺の中にある」と言った通りである。
秀樹はちぃを選び、ちぃの「私だけの人」になった。しかし、いつかは、秀樹はちぃを捨てるだろう。捨てなければならない。
秀樹は、ちぃの心を含んだ自分の心の潜在的傾向性を消すのだ。
その時、秀樹は幸福になるのだ。そして、食事をせず、呼吸をしないゆえに自我を持たないちぃは、本当の天使になるのである。

デジタルメディア関連の企業・団体から構成される社団法人デジタルメディア協会が毎年選出している、「デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー」である、「第17回AMDアワード」の、大賞/総務大臣賞、AMD理事長賞が3月19日に発表され、1作品のみが選出される、最高の賞である、“Digital Contents of the Year’11 The AMD Grand Prize”(大賞/総務大臣賞)は、2011年7月2日にロサンゼルスのノキアシアターで行われた、初音ミクのコンサート、「MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES“はじめまして、初音ミクです”」が受賞した。
そのコンサート映像を収めたブルーレイを下にご紹介しておこう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

『美少女戦士セーラームーン』は、なぜあれほどまでにヒットしたのか

もう20年も昔、薬剤師でもあった23歳位の若い女性漫画家が描き始めた作品である『美少女戦士セーラームーン』が、瞬く間に大ヒットし、それが世界中にまで及んだことは、そう古いことのように感じない。いまだ、人気があり、よく知られているからだ。
だが、なぜ、この作品が、それほどまでの人気を得たかが説明されたことはない。ごく一部の要因であれば、それこそ、無数の人が、無難なものや個性的なものまで含め、数多くの意見を述べてはいるが、やはり、根本的な理由となると難しいのだ。
しかし、世界の人々にこれほど影響を与えるからには、非常に重要な理由があるはずだ。

この作品では、十代の選ばれた少女達が、ペンのような道具を使って、セーラー服戦士に変身する。
主人公の月野うさぎという、14歳の少女は、話ができる猫にコンパクトを与えられ、それを持って呪文を唱えるとセーラームーンに変身した。そして、同じように変身できる仲間達が集まって来る。誰でもそうなれるのではなく、遠い過去の前世からそうであった者達であるようだ。
セーラー服戦士達が何者で、過去にどんなことがあったかは、ある程度のお話になってはいるが、詳細に関しては説明されないまま終っている。例えば、セーラームーン達が、なぜ変身できるのか、なぜ、神秘的な能力を発揮できるのかは、誰にも分からない。

それが、超古代文明に関係すると、少しでも考えた人はいると思う。
アニメに限らず、SF小説や映画作品でも、超古代文明をモチーフ(題材)としたものはいくらかはあるだろう。
セーラームーンが連載・放送されていた当時は、今のように、子供に見せることを前提としないような、マニア専用と言える雑誌や深夜アニメは存在せず、漫画やアニメは、まず、子供ありきであり、それに配慮した作品創りをしない訳にはいかず、表現が限定されていたはずだが、そうであっても、セーラームーンという作品の中で、超古代文明が、奇妙に生々しく現れていたところがあったように思う。

UFOや宇宙人を信じる人、信じない人はいるだろうが、これらを信じることが、恥ずかしいことや、馬鹿げたことであるという強い観念が社会にある。論理的におかしいからという理由でUFOや宇宙人の存在を信じることを笑うのではなく、なぜだか自分でも分かっていないが、「馬鹿げているから馬鹿げているんだ。理由なんかいるものか」といった感じである。
現代科学で考えれば、宇宙人が地球に宇宙船でやってくるというのは、確かに非論理的なことだ。それを理解した上でこれらを否定する者はあまり多くはないが、賢い人は、科学というものも、一種の信仰だということを知っている。歴史の中で、何度も崩され、新しい「信仰」が組み立てられたのだから、ある意味、宗教以上に曖昧な点もあるのだ。
そして、UFOの残骸や宇宙人の遺体を米国政府などが隠しているという噂もよく知られているが、その真実がどうなのかは分からないが、もし、隠すとすれば、宇宙人やUFOより、超古代文明の方かもしれない。こちらの方は、UFOより、ちょっとはマシな証拠があるのは明白なのかもしれないが、せいぜいが子供騙しみたいな形に変えられてしか、人々は見ることがないようだ。

ギリシャ神話や旧約聖書の神話、あるいは、日本の古事記などは、表面的にもそうなのだが、深いところではさらに興味深い類似点があるものだ。これも、文化の交流の中で自然に起こったこととする説もあるが、詳しくは述べないが、それは不合理なことだ。
アトランティスやムーといった大陸がかつて存在し、そこには現在の人類のものをはるかに凌ぐ文明があった。そして、それらは、外宇宙からもたらされたものだった。アトランティスやムーは、何らかの理由で滅び、海中深く沈んだが、そこにあった、今の人類からは神秘としか思えないものが、世界の各所に封印され、それらがほんの少し顕現したものから、人類の古代文明が発生し、その後の人類の進化にも影響を与えたという話がある。
意図的かそうでないかは分からないが、これらのことが、ギリシャ神話や旧約聖書などで残された。旧約聖書に隠された秘法を、ある一派はタルムードにまとめ、かなりの実用性を持たせたが、別の一派の研究はカバラーとなり、あまりに強力で危険なために隠された。我が国にも、ホツマツタエというものがあったが、やはり、それが隠され、代わりに、おとぎ話のような形に変性させた古事記や日本書紀が伝えられたのだろう。ホツマツタエは偽書ということにされているが、真面目に読めば、恐るべき英知であることは分かると思う。ただ、普通の人は、自分で調べたり考えようとはしないものだ。
ギリシャ神話は、1つには、古代ギリシャで、1人の羊飼いである農夫に、女神達が伝えたお話から始まっている。その女神達が、超古代文明の末裔なのか宇宙人なのかは分からないが、何らかの意図を持って(あるいは冗談で?)、ちょっと知能指数の高かった人間を選んで、当時の人に分かるようなお話に変えて伝えたのだろう。それが、ヘシオドスが書いた『神統記』である。

人間には、ソクラテスがダイモーンと呼んだ、内なる英知と通信する機能が秘められている。ほとんどの人が、世間の教義や迷信によって、その能力を失っているが、時々、その力を普通の人より多く発揮する人がいる。そんな人が、優れた芸術家になり、象徴的な絵画や小説、あるいは詩を残すのだが、それは、作家自身が創ったものではないというのは、ソクラテスが理解したことだ。比較的、裕福に育った者が、神秘に興味を持って沢山の特別な学習にエネルギーを注いだ結果、そんな能力を得ることが多いと思う。
画家の足立幸子さんは、今の漫画家は精神が目覚めた人が多く、その作品を見て目覚める子供も多いのだと言ったが、『美少女戦士セーラームーン』も、そんな作家であった女性によって描かれたものなのだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード