ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

神になる

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神になる方法(不遜でない)

自発的に何か1つのことに打ち込み、寝食を忘れてそれに打ち込めば仙人や大師になる。
そんなことを昨夜書いた。
だが、坂本龍一さんのように、3歳の時からみっちりピアノを弾いたのは、やっぱり自分の意思ではなく、親の意思で、坂本さんは「やらされた」ことになる。
しかし、坂本さんは、早いうちから、ピアノが好きだったのか、なんらかの折り合いをつけたのかは知らないが、自主的にピアノを弾くようになったのだろう。
坂本さんの親も、そう誘導するのがうまかったのかもしれないが、作為的な誘導ではそうはいかない。
だが、いずれにしろ、坂本さんは、自分の意思でピアノに打ち込んだのと同じになったのだと思う。

もっと極端な例がある。
小説『ベン・ハー』は、これまで7回も映画を主とした映像作品が公開されたが、2016年の映画で面白い場面がある。
主人公の青年ユダは、貴族から奴隷に転落し、ガレー船(人力と帆で進む軍用船)を漕がされた。手足は鎖でつながれ、逃げられないばかりか、船を沈められたら、ユダら奴隷の漕ぎ手達も船と運命と共にするしかない。
奴隷達は、毎日長時間、強制的に漕がされたが、ユダは、それすら、自分の意思でやるようになったのだと思う。
だから幸運が味方し、自由の身になることが出来た。
そして、旧友メッサラとの、命をかけた戦車競走対決で、勝負を決めたのは、ガレー船で鍛えられたユダの「引く腕力」だった。
ユダは他の奴隷と違い、自分の意思で漕いだので、偉大な力を得た。

私も詳しくは知らないが、ウィリアム・バトラー・イェイツが書いたと思われる『アラブ人への3つの手紙』という手記がある。
その中に、賢者として知られる、あるアラブ人が登場する。
そのアラブ人は神だった・・・というか、神のようなものだった。
彼は豊かな商人だったが、家を盗賊に奪われる。
その後、家族を殺される。
彼は財産を捨て召使いになるが、病気で死期が近付く。
そんな悲劇のたびに、彼は「喜びの歌」を作り、幸福に生きた。
彼もイスラム教徒であったかもしれないが、それなら「全ては神の思し召し」と考えたのだろう。
しかし、彼は、1つのことで、他のイスラム教徒とは違っていた。
それで彼は神になった。
それは誰でも出来る。
それは、「全ては神の思し召し」であると共に、「自分の意思」と見なすのだ。
するとどうなるか?
全て、自分の意思で起こるのだから、自分が神であることが成り立つのである。

どんな状況であろうが、それが自分の意思であると見なすのである。
だが、それが本当なのだ。
あなたは神である。
その悟りに導く言葉が「完璧だ」である。
神は完璧であり、ものごとは完璧に起こっている。
全て自分の意思と見なすことで自分が神であるという自覚が深まれば、状況を自在にコントロールすることも可能だが、最初のシナリオを全うする方が楽しいかもしれない。
いずれにしろ、支配権はわが内にあり、自分は世界最強なのだから、不安はなくなる。それに、後悔は元々ない。








万能の神になる方法を出来るだけ簡単に書いてみた

『ちびまる子ちゃん』というアニメで、主人公の小学3年生の女の子である、まる子(本当の名はさくら)の頭の中で、天使のまる子と悪魔のまる子が戦うという場面を見たことがあるかもしれない。
悪魔のまる子が、悪いことを「このくらいいいじゃない」「皆やってるじゃない」「バレなきゃいいじゃない」とやることを勧めるが、天使のまる子が、それに断固反対するといった感じのものだ。
いわゆる、エゴと良心の葛藤というやつだ。
普段、我々は、「エゴを無視する」「エゴを黙らせる」「良心に従う」「良心に逆らわない」などと言う。
しかし、それでは何だか、自分の心以外に、エゴ(悪魔の心)とか良心(天使の心)みたいなものがあるように感じる。
では、自分とは何なのだろう?
イエスは「退けサタン!」と言い、このサタンがエゴのことだと言われる。
しかし、心理学では「エゴ=自我=自分」であり、「退け」と言うのは誰なのだろう?
ここらを、皆、あまりに曖昧に・・・つまり、ちゃんと意味を定義しないで話すので、混乱してしまうのだ。
ある人は、自分をエゴと捉えているし、ある人は、自分を良心だと捉え、別のある人は、自分はエゴとも良心とも異なる意識だと思っている。
これでは話が成立しない。

だが、『バガヴァッド・ギーター』に答が書いてある。
『バガヴァッド・ギーター』では、独特の言い方をするが、考え方だけ拝借すると、エゴの性質とか良心の性質というのは、同じ1つの心の様々な性質だ。
心は、エゴの性質が強くなったり、良心の性質が強くなったりするだけで、心以外にエゴや良心があるわけではない。
つまり、エゴも良心も自分の心である。
言ってみれば、「太る」と「痩せる」が、自分の身体とは別にあるのではなく、自分の身体が太ったり痩せたりするようなものだ。

だが、インドの聖者達は、自我(=心)とは別に真我というものがあり、こちらが本物の自分だと言う。
そう言われて分かる人はいない。
インドの聖者達も、いろいろ説明することもあるが、説明が無茶苦茶なので、聞いた人達は混乱するだけだ。
そして、分かった顔で勝手なことを言って商売をする者も多い。
だが、これ(自我と真我の違い)も、心とエゴと良心の話と同じだ。
心の中にエゴと良心があるように、真我の中に自我があるというだけのことだ。
心の中のエゴを大人しくさせれば良い人になるように、真我の中の自我を大人しくさせれば、真我は神なのだから、万能の存在になる。

では、どうしたら、自我を大人しくさせ、真我を表に出せるかというと、インドの聖者達はとんでもなく抽象的で難しいことを言うが、簡単か難しいかはともかく、まずは、自我と真我をはっきり区別出来るよう定義しなければ話にならない。
これは本当は簡単で、自我は「する(行う)」意識で、真我は「在る(存在する)」意識だ。
コーヒーを飲むことを「する」ことは出来るが、「在る」ことを「する」ことは出来ない。どうしたって、最初から在るからだ。
これで、「する」と「在る」が決定的に違うことが分かるだろう。
そして、自分が存在することを意識すれば、万能の神に近付き、何もしなくても何でも出来るようになる。
「自分が存在する」というのを、ちょっと抽象的に思うかもしれないが、「私は存在する」ことは荒唐無稽なことではないので、ちゃんと意識出来るはずだ。
単に、簡単過ぎて戸惑うだけである。
「私は存在する」という意識に、少しずつ馴染めば良い。そうすれば、不可能はなくなる。
どうしても分からなければ、「私は在る」という言葉を呪文、あるいは、マントラのように唱えると良い。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」が最高のマントラだと言ったらしい。

今回の内容は、ネヴィル・ゴダードの『世界はどうしたってあなたの意のまま』にも書かれているが、その本では、聖書を数多く引用し、やや抽象的と感じるかもしれない。
まあ、やや昔の本なので、少々下手なのは仕方がないと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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