いかにも確からしい論というものには気を付けた方が良い。
渡部昇一氏の1990年の著書『日はまだ昇る―日本経済「不沈」の秘密』に、私は長い間「洗脳」されていたことになる。
無論、渡部氏に悪意はないだろう。
また、あくまで昔の本で、渡部氏も今は考え方を変えているかもしれない。
簡単に言えば、こんなことが書かれている。
日本の産業が発展し、経済大国になれたのは、手塚治虫氏の漫画『鉄腕アトム』のおかげである。
なぜなら、日本の工場でロボットがスムーズに導入されたのは、鉄腕アトムのおかげで、日本人のロボットに対するイメージが良いからである。
西洋では、ロボットのイメージはフランケンシュタインであり、ロボットに対する抵抗が大きいので、ロボット導入がされなかった。
他にも、日本では松下幸之助氏のおかげで終身雇用が定着しているが、外国ではロボットで合理化されたら従業員がリストラされるという事情もロボット嫌いに拍車をかけていると書かれていたと思う。
私は、日本人が抵抗無くロボットを導入できたのは鉄腕アトムのおかげという論を気に入って信じてしまっていたのだ。
ずっとね。
しかし、「鉄腕アトムと工場のロボットは全然違うだろ」「フランケンシュタインとロボットは違うだろ」という疑問は感じていたが、それは抑え付けてしまったようだ。
渡部氏は、日本の大学で、あるカナダ人教授に学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌って披露した際、歌詞の「みんなの友達、鉄腕アトム」のところで、カナダ人教授が真っ赤になって激怒した話を述べている。
カナダ人教授が、「なんでロボットが友達なんだ!?バカを言うな!」と言って怒ったのだが、それは、西洋人にとってフランケンシュタインであるロボットが友達のはずがないから・・・という論理である。
もし、日本が、アメリカ等より産業ロボットがスムーズに導入されたのだとしたら、その理由は、おそらく、日本の多神教的なアニミズム(全てに神霊が宿るという考え方)の文化のためだろう。
日本人が、「ものを擬人化して愛好する」、「非実在を実在として捉える」ことは、今日のキャラクター文化を見ても明らかだ。
そのために、日本人は産業ロボットも擬人化して親しむことができたのだ(日本で、産業ロボットに人間のような名前をつけていたことは渡部氏の本にも書かれている)。
しかし、欧米では、そんなことはしないので、ロボットを「難しいもの。巨大で恐いもの。メンテが大変だ。初期導入やメンテのコストがかかる」と考えるし、何より、洋の東西を問わず、これまでと違ったやり方をするのは抵抗があるが、それは、工場の歴史が長く、作業スタイルが確立していたアメリカ等の労働者や管理者の方が大きかったと考えられるだろう。
私の主観だろうが、渡部氏はかなり偏った考え方をする人で、面白いと思うことはあっても、彼の本は奇異を通り越して滑稽に思えるものが多いと思う。
いや、もちろん、主観である。こう言う者が一番偏っているかもしれない。
ところで、カナダ人教授が、「みんなの友達、鉄腕アトム」で怒ったことに類似すると思われる話がある。
Youtubeで見たが、西洋の年配の人達に、初音ミクのコンサート映像を見せたところ、その人達が、露骨なまでの拒否、嫌悪の反応が見せるという、テレビ番組の企画のようなものがあった。
日本人は、非実在の初音ミクを、実在として捉えて愛するが、そのようなことは、従来の西洋人には考えられないことだろう。
カナダ人教授も、鉄腕アトムに、嫌悪までするかどうかはともなく、少なくとも、友達というのは受け入れ難かったに違いない。
日本人は、人形浄瑠璃においても、人形に対して人間以上に感情移入するが、これは西洋人には理解できず、実際、人形浄瑠璃は西洋ではあまり受け入れられない。
一方、『アナと雪の女王』などのディズニーアニメを見ても分かるが、人物が人間的に描かれていて、ヒロイン達もオバサンっぽい感じが強い。
日本のアニメヒロインのような大きな目、描かれない場合も多い小さな鼻と口、全くシワのない肌・・・というのは、ディズニーアニメにはない。
私は、ディズニーアニメのキャラクターの、人間の自我が表に現れた雰囲気が不気味で、好きではなく、実際、子供の頃から、無理に見せられたこともあったかもしれないが、そんな場合を除き、ディズニーアニメは1本も見ていない。
ミッキーマウスですら、人間的いやらしさに満ちた顔つきであり、私は昔から怖かった。
このように、西洋では、擬人化の際も、非実在のものを、実在にしっかりと近付けてから、「少し」擬人化するのだ。
西洋でも、妖精のような全くの非実在の(ものと考えられる)ものを実在と捉えることもあるが、そのようなものは、必ず、恐ろしい面を持っていて、日本人のように愛好したりはしない。
例えば、ホフマンの『砂男』(バレエ『コッペリア』の元になった怪奇小説)で、機械人形の少女オリンピアを熱愛する青年ナタナエルは、狂気にとりつかれていただけと見なされる。
フーケーの『ウンディーネ』や、ジロドゥの『オンディーヌ』でも、水の妖精の少女は、美しくてもどこか不気味で、彼女達を愛する騎士は、結局、悲惨な死をとげる。
だが、日本のアニメキャラは今や欧米の若い層に受け入れられ、初音ミクを愛する西洋人も増えてきている。
絶対的価値が支配しやすいリアルな世界は、一神教で客観的な西洋人的な考え方が合う場合が多いが、主観的価値観を持ったキャラクターとしての人物同士が交流して共感を生むネットは、多神教で主観的な日本人向きで、ネットの普及と共に、欧米人も日本人化する(している)という考え方があるが、それは当っていると思う。
だから、異なった価値観を持つ者同士が、お互いを尊重し、仲良くしていける世界観を、日本人は世界に示す必要がある。
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渡部昇一氏の1990年の著書『日はまだ昇る―日本経済「不沈」の秘密』に、私は長い間「洗脳」されていたことになる。
無論、渡部氏に悪意はないだろう。
また、あくまで昔の本で、渡部氏も今は考え方を変えているかもしれない。
簡単に言えば、こんなことが書かれている。
日本の産業が発展し、経済大国になれたのは、手塚治虫氏の漫画『鉄腕アトム』のおかげである。
なぜなら、日本の工場でロボットがスムーズに導入されたのは、鉄腕アトムのおかげで、日本人のロボットに対するイメージが良いからである。
西洋では、ロボットのイメージはフランケンシュタインであり、ロボットに対する抵抗が大きいので、ロボット導入がされなかった。
他にも、日本では松下幸之助氏のおかげで終身雇用が定着しているが、外国ではロボットで合理化されたら従業員がリストラされるという事情もロボット嫌いに拍車をかけていると書かれていたと思う。
私は、日本人が抵抗無くロボットを導入できたのは鉄腕アトムのおかげという論を気に入って信じてしまっていたのだ。
ずっとね。
しかし、「鉄腕アトムと工場のロボットは全然違うだろ」「フランケンシュタインとロボットは違うだろ」という疑問は感じていたが、それは抑え付けてしまったようだ。
渡部氏は、日本の大学で、あるカナダ人教授に学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌って披露した際、歌詞の「みんなの友達、鉄腕アトム」のところで、カナダ人教授が真っ赤になって激怒した話を述べている。
カナダ人教授が、「なんでロボットが友達なんだ!?バカを言うな!」と言って怒ったのだが、それは、西洋人にとってフランケンシュタインであるロボットが友達のはずがないから・・・という論理である。
もし、日本が、アメリカ等より産業ロボットがスムーズに導入されたのだとしたら、その理由は、おそらく、日本の多神教的なアニミズム(全てに神霊が宿るという考え方)の文化のためだろう。
日本人が、「ものを擬人化して愛好する」、「非実在を実在として捉える」ことは、今日のキャラクター文化を見ても明らかだ。
そのために、日本人は産業ロボットも擬人化して親しむことができたのだ(日本で、産業ロボットに人間のような名前をつけていたことは渡部氏の本にも書かれている)。
しかし、欧米では、そんなことはしないので、ロボットを「難しいもの。巨大で恐いもの。メンテが大変だ。初期導入やメンテのコストがかかる」と考えるし、何より、洋の東西を問わず、これまでと違ったやり方をするのは抵抗があるが、それは、工場の歴史が長く、作業スタイルが確立していたアメリカ等の労働者や管理者の方が大きかったと考えられるだろう。
私の主観だろうが、渡部氏はかなり偏った考え方をする人で、面白いと思うことはあっても、彼の本は奇異を通り越して滑稽に思えるものが多いと思う。
いや、もちろん、主観である。こう言う者が一番偏っているかもしれない。
ところで、カナダ人教授が、「みんなの友達、鉄腕アトム」で怒ったことに類似すると思われる話がある。
Youtubeで見たが、西洋の年配の人達に、初音ミクのコンサート映像を見せたところ、その人達が、露骨なまでの拒否、嫌悪の反応が見せるという、テレビ番組の企画のようなものがあった。
日本人は、非実在の初音ミクを、実在として捉えて愛するが、そのようなことは、従来の西洋人には考えられないことだろう。
カナダ人教授も、鉄腕アトムに、嫌悪までするかどうかはともなく、少なくとも、友達というのは受け入れ難かったに違いない。
日本人は、人形浄瑠璃においても、人形に対して人間以上に感情移入するが、これは西洋人には理解できず、実際、人形浄瑠璃は西洋ではあまり受け入れられない。
一方、『アナと雪の女王』などのディズニーアニメを見ても分かるが、人物が人間的に描かれていて、ヒロイン達もオバサンっぽい感じが強い。
日本のアニメヒロインのような大きな目、描かれない場合も多い小さな鼻と口、全くシワのない肌・・・というのは、ディズニーアニメにはない。
私は、ディズニーアニメのキャラクターの、人間の自我が表に現れた雰囲気が不気味で、好きではなく、実際、子供の頃から、無理に見せられたこともあったかもしれないが、そんな場合を除き、ディズニーアニメは1本も見ていない。
ミッキーマウスですら、人間的いやらしさに満ちた顔つきであり、私は昔から怖かった。
このように、西洋では、擬人化の際も、非実在のものを、実在にしっかりと近付けてから、「少し」擬人化するのだ。
西洋でも、妖精のような全くの非実在の(ものと考えられる)ものを実在と捉えることもあるが、そのようなものは、必ず、恐ろしい面を持っていて、日本人のように愛好したりはしない。
例えば、ホフマンの『砂男』(バレエ『コッペリア』の元になった怪奇小説)で、機械人形の少女オリンピアを熱愛する青年ナタナエルは、狂気にとりつかれていただけと見なされる。
フーケーの『ウンディーネ』や、ジロドゥの『オンディーヌ』でも、水の妖精の少女は、美しくてもどこか不気味で、彼女達を愛する騎士は、結局、悲惨な死をとげる。
だが、日本のアニメキャラは今や欧米の若い層に受け入れられ、初音ミクを愛する西洋人も増えてきている。
絶対的価値が支配しやすいリアルな世界は、一神教で客観的な西洋人的な考え方が合う場合が多いが、主観的価値観を持ったキャラクターとしての人物同士が交流して共感を生むネットは、多神教で主観的な日本人向きで、ネットの普及と共に、欧米人も日本人化する(している)という考え方があるが、それは当っていると思う。
だから、異なった価値観を持つ者同士が、お互いを尊重し、仲良くしていける世界観を、日本人は世界に示す必要がある。
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