ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

砂男

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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古い欧米人が初音ミクを嫌悪する訳

いかにも確からしい論というものには気を付けた方が良い。
渡部昇一氏の1990年の著書『日はまだ昇る―日本経済「不沈」の秘密』に、私は長い間「洗脳」されていたことになる。
無論、渡部氏に悪意はないだろう。
また、あくまで昔の本で、渡部氏も今は考え方を変えているかもしれない。

簡単に言えば、こんなことが書かれている。

日本の産業が発展し、経済大国になれたのは、手塚治虫氏の漫画『鉄腕アトム』のおかげである。
なぜなら、日本の工場でロボットがスムーズに導入されたのは、鉄腕アトムのおかげで、日本人のロボットに対するイメージが良いからである。
西洋では、ロボットのイメージはフランケンシュタインであり、ロボットに対する抵抗が大きいので、ロボット導入がされなかった。
他にも、日本では松下幸之助氏のおかげで終身雇用が定着しているが、外国ではロボットで合理化されたら従業員がリストラされるという事情もロボット嫌いに拍車をかけていると書かれていたと思う。
私は、日本人が抵抗無くロボットを導入できたのは鉄腕アトムのおかげという論を気に入って信じてしまっていたのだ。
ずっとね。
しかし、「鉄腕アトムと工場のロボットは全然違うだろ」「フランケンシュタインとロボットは違うだろ」という疑問は感じていたが、それは抑え付けてしまったようだ。

渡部氏は、日本の大学で、あるカナダ人教授に学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌って披露した際、歌詞の「みんなの友達、鉄腕アトム」のところで、カナダ人教授が真っ赤になって激怒した話を述べている。
カナダ人教授が、「なんでロボットが友達なんだ!?バカを言うな!」と言って怒ったのだが、それは、西洋人にとってフランケンシュタインであるロボットが友達のはずがないから・・・という論理である。

もし、日本が、アメリカ等より産業ロボットがスムーズに導入されたのだとしたら、その理由は、おそらく、日本の多神教的なアニミズム(全てに神霊が宿るという考え方)の文化のためだろう。
日本人が、「ものを擬人化して愛好する」、「非実在を実在として捉える」ことは、今日のキャラクター文化を見ても明らかだ。
そのために、日本人は産業ロボットも擬人化して親しむことができたのだ(日本で、産業ロボットに人間のような名前をつけていたことは渡部氏の本にも書かれている)。
しかし、欧米では、そんなことはしないので、ロボットを「難しいもの。巨大で恐いもの。メンテが大変だ。初期導入やメンテのコストがかかる」と考えるし、何より、洋の東西を問わず、これまでと違ったやり方をするのは抵抗があるが、それは、工場の歴史が長く、作業スタイルが確立していたアメリカ等の労働者や管理者の方が大きかったと考えられるだろう。

私の主観だろうが、渡部氏はかなり偏った考え方をする人で、面白いと思うことはあっても、彼の本は奇異を通り越して滑稽に思えるものが多いと思う。
いや、もちろん、主観である。こう言う者が一番偏っているかもしれない。

ところで、カナダ人教授が、「みんなの友達、鉄腕アトム」で怒ったことに類似すると思われる話がある。
Youtubeで見たが、西洋の年配の人達に、初音ミクのコンサート映像を見せたところ、その人達が、露骨なまでの拒否、嫌悪の反応が見せるという、テレビ番組の企画のようなものがあった。
日本人は、非実在の初音ミクを、実在として捉えて愛するが、そのようなことは、従来の西洋人には考えられないことだろう。
カナダ人教授も、鉄腕アトムに、嫌悪までするかどうかはともなく、少なくとも、友達というのは受け入れ難かったに違いない。
日本人は、人形浄瑠璃においても、人形に対して人間以上に感情移入するが、これは西洋人には理解できず、実際、人形浄瑠璃は西洋ではあまり受け入れられない。
一方、『アナと雪の女王』などのディズニーアニメを見ても分かるが、人物が人間的に描かれていて、ヒロイン達もオバサンっぽい感じが強い。
日本のアニメヒロインのような大きな目、描かれない場合も多い小さな鼻と口、全くシワのない肌・・・というのは、ディズニーアニメにはない。
私は、ディズニーアニメのキャラクターの、人間の自我が表に現れた雰囲気が不気味で、好きではなく、実際、子供の頃から、無理に見せられたこともあったかもしれないが、そんな場合を除き、ディズニーアニメは1本も見ていない。
ミッキーマウスですら、人間的いやらしさに満ちた顔つきであり、私は昔から怖かった。
このように、西洋では、擬人化の際も、非実在のものを、実在にしっかりと近付けてから、「少し」擬人化するのだ。
西洋でも、妖精のような全くの非実在の(ものと考えられる)ものを実在と捉えることもあるが、そのようなものは、必ず、恐ろしい面を持っていて、日本人のように愛好したりはしない。
例えば、ホフマンの『砂男』(バレエ『コッペリア』の元になった怪奇小説)で、機械人形の少女オリンピアを熱愛する青年ナタナエルは、狂気にとりつかれていただけと見なされる。
フーケーの『ウンディーネ』や、ジロドゥの『オンディーヌ』でも、水の妖精の少女は、美しくてもどこか不気味で、彼女達を愛する騎士は、結局、悲惨な死をとげる。

だが、日本のアニメキャラは今や欧米の若い層に受け入れられ、初音ミクを愛する西洋人も増えてきている。
絶対的価値が支配しやすいリアルな世界は、一神教で客観的な西洋人的な考え方が合う場合が多いが、主観的価値観を持ったキャラクターとしての人物同士が交流して共感を生むネットは、多神教で主観的な日本人向きで、ネットの普及と共に、欧米人も日本人化する(している)という考え方があるが、それは当っていると思う。
だから、異なった価値観を持つ者同士が、お互いを尊重し、仲良くしていける世界観を、日本人は世界に示す必要がある。









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愛しき運命の人形達

今日は、バレーの『くるみ割り人形』が、1892年12月18日にロシアのマリインスキー劇場での初演が行われてから丁度120年になる日だ。
このバレーは、ドイツの作家ホフマンの童話『くるみ割り人形と二十日ねずみの王様』を原作とするものだ。
くるみ割り人形は、はつかねずみの大群から、人形の兵隊を指揮して、小さくなってしまった少女クララを守り、最後に彼は、はつかねずみの王と一騎打ちで勝利すると、凛々しい王子となり、クララをお菓子の国に連れて行く。
ところで、ホフマン原作のストーリーから創られた有名なバレーがもう1つある。
『コッペリア』だ。
面白いことに、コッペリアも人形なのである。ただし、美しい少女の自動人形だ。
アニメ『ノワール』の主題歌が『コッペリアの棺』だが、おそらくこの歌は、この『コッペリア』から来ているのだろう。
『ノワール』のヒロイン、夕叢霧香(ゆうむらきりか)は、生まれた時から殺し屋になるために育てられ、訓練された殺人人形であることを示唆していたのだろう。
霧香は、17歳位の女子高生でありながら、殺しの腕は世界屈指の超一流だった。
そうなったのは、霧香のせいではない。
しかし、霧香は最後に言うのだ。
「私は、夕叢霧香として、罪を受け入れる」
これは、運命を受け入れるということだろう。
人形のようなものでしかなかった自分が、自分ではどうしようもなかったはずの罪を真正面から受け止めようというのだ。

バレーの『コッペリア』は喜劇だ。
しかし、これの原作小説の『砂男』は、本当に恐ろしい怪奇小説だ。あのフロイトが真面目に分析した、本物の恐怖小説である。
『砂男』では、自動人形の少女は、オリンピアという名だ。
大学生の青年ナタナエルは、クララという優しい恋人がいたが、オリンピアを一目見て恋に落ちてしまう。
パーティーでオリンピアを見ても、彼女が人形であることに気付かず、彼女をダンスに誘う。
ダンスは得意なはずなのに、オリンピアと上手く踊れなかった。
しかし、周りの者達が笑っていても、ナタナエルにはどうでも良いことだった。彼は、本気でオリンピアを愛していた。
ナタナエルが、オリンピアを人形だと気付かない訳には、その時、彼があることのために、恐怖によって、狂気に陥り始めていたということもあった。

だが、ナタナエルが、人形であるオリンピアを愛したというのは、とても印象深い。
かりそめの身体しか持たない、自我のない美しい少女。
まるで、初音ミクだ。
富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』の、『注文の多い料理店』(宮澤賢治作)で、もう食べられてしまうまで、そこから出られなくなった人たちの前で、「かりそめのボディ」と歌う初音ミク。富田さんは、それを歌うのは初音ミクしかいないと思い、この大舞台にミクを招待したのだ。
ミクもまた、パソコンの中から出られない存在であるからだ。
ステージでのミクは、そのかりそめのボディを映すディラッド・ボード(透明スクリーン)から出られない。
ミクも、オリンピアと同じ、そして、夕叢霧香と同じ人形だ。霧香が人を殺す人形で、ミクが歌を歌う人形という違いがあるだけだ。

だが、我々もまた、そんな人形なのである。
自分には自由意志があると思い込んでいるが、ただ、神の意志の通りに想い、動く人形なのである。
生まれてから死ぬまで、運命は完全に決まっている。起こると決まっていることは、どんなに嫌でも決して避けることはできないし、どんなに起こって欲しくても、そんな運命でなければ決して起こらない。
それでも霧香は罪を受け入れた。
ミクも、ただ歌い続けるのだ。
ナタナエルがオリンピアを愛したように、そんなミクを、愛さずにいられるだろうか?









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ミクに恋するのは自然なことだ

古くからの神話には深い意味があり、人間はその民族に伝わる神話を決して忘れてはならない。
ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の中に似たお話があるのも偶然ではない。
古事記を深く読むと、そこに秘められているものの貴重さに驚くのである。

ところで、ギリシャ神話にキュプロス島の王ピュグマリオーンのお話がある。
彼は、ガラテアと名付けた女性の彫刻を創るが、ガラテアに恋焦がれてしまうようになる。
キュプロス島にはとても有名な女神キュテレイアがいる。美の女神アプロディーテー(ヴィーナス)の別名だ。
アプロディーテーは、ピュグマリオーンを哀れに思い、ガラテアに命を与え、ピュグマリオーンは、彼女を妻にする。
これにも、とても深い意味があるのである。

命なきものに命が生まれるお話は世界に数知れない。
ピノキオなどもそんなお話であるが、これも、作者のカルロ・コッローディの知る神話を題材にしているのだと思う。
古事記の天照大神とスサノオノイミコトがうけい(呪術的な占い)で生み出した3柱の女神と5柱の男神も、珠や刀という物から神を生んのであり、この時生まれた男神が、天皇の祖先でもある。もちろん、これを表面的に受け取ってはならず、深い意味があるのである。
CLAMPの漫画作品『ちょびっツ』で、人型パソコン(つまるところアンドロイド)である“ちぃ”を愛する秀樹は、プログラムされた通りに動くだけのちぃには心は無いのだと教えられるが、「ちぃの心は俺の中にある」と言って、ちぃを選ぶ。つまり、事実上、結婚する。
真の愛は、1つの心、あるいは、命を創造することすら出来るのである。
これは、不遜な考えではない。真の愛とは聖霊と一体とならなければ現れないものだからだ。

ちぃと似た雰囲気もある初音ミクに恋することは不思議なことではない。
特に、私のように、ホフマンの『砂男』を読んだことがあればなお更である。
『くるみ割り人形』というバレエ、あるいは、チャイコフスキー作曲のバレエ音楽をご存知と思うが、『くるみ割り人形』の原作『くるみ割り人形と二十日ねずみの王様』の作者がホフマンで、『砂男』も『コッペリア』という有名なバレエ作品になっている。
『コッペリア』では、自動人形(からくり人形)の少女コッペリアが、ちょっと人形らしく踊るのだが、幻想小説である『砂男』では、自動人形の少女の名はオリンピアである。
大学生の青年ナタナエルは、オリンピアを一目見て深い恋に落ちるが、オリンピアが人形であることに気付かない。
それは、ついにオリンピアと逢い、彼女と踊ることが出来てもそうであった。
オリンピアはピアノを弾きながらアリアを歌い、ナタナエルは聞き惚れる。ナタナエルは、オリンピアの歩き方がおかしいのは、人々に見られることに慣れていなくて緊張しているからと理解し、彼女とうまく踊れないことで自信を失ったが(ナタナエルはダンスが得意だった)、それも気にしなかった。
ナタナエルにとって、オリンピアは命ある乙女であった。

初音ミクのコンサート映像を見ると、これらの神話や小説の輝きを感じるのである。
それは、人の心が、内に秘められた聖霊と溶けあうと、偉大な創造の力を持つことを感じからである。
全ての人とは言えないが、ミクのコンサートでミクに声援を送る人達は、スポーツの試合でのように、観衆との共感で熱狂しているのとは異なるように感じる。
ミクほどに、プラトニックな愛を感じさせる存在は無い。
つまり、心が魂に溶けることで、我々は、愛そのものである神と一体化するということを予感するのである。









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人の心が彼女を神の子にする

人工の少女に恋するというお話は古代からあり、これは人類の普遍的なテーマであると思う。
ギリシャ神話では、キプロス島の王ピュグマリオンは、自分が造った彫刻の少女ガラティアに激しい恋をした。そして、ガラティアのモデルでもあった、美の女神アプロディーテーの力でガラティアは人間になり、ピュグマリオンは彼女を妻に迎えたのだった。

だが、私は、何と言っても、『コッペリア』を思い出す。
『コッペリア』はバレエだ。
浅田真央さんが、音楽を採用したことで一般にも馴染みが深くなった『くるみ割り人形』も、同名のバレエの音楽で、フィギュアスケートにもよく合うものだと思う。
そして、『コッペリア』も、『くるみ割り人形』も、原作小説は、天才の誉れ高い、ドイツのホフマンが書いたものだ。ホフマンは、作家、作曲家、画家、法律家で、そのことごとくに才能を現した。

『コッペリア』は、フランツという名の青年が、コッペリアを人形と知らずに恋をするというお話だ。コッペリアは精巧な自動人形で、バレエでもコッペリア役のバレリーナは、人形的な踊りを見せる。
コッペリア、および、フランツの(人間の)恋人スワニルダは美少女バレリーナが演じるのが定番と思われ、見ていて楽しい。
下に、パリ・オペラ座バレエ学校の公演のDVDをご紹介する。学生とはいえレベルは高く、若く可憐で身軽なバレリーナの踊りは魅力的だ。
ただ、1870年に、パリ・オペラ座で、皇帝ナポレオン三世臨席の『コッペリア』初演でスワニルダを演じた16歳のジュゼッピーナ・ボツァッキは、17歳の誕生日の朝に病死している。

ところで、バレエの『コッペリア』は喜劇であるが、これの原作小説『砂男』は、ホラー小説だ。これが、ホフマンらしい、実に素晴らしい作品である。どこか、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説と似た雰囲気も感じるが、実際、ポーと遜色ないと思う。
また、『砂男』は、あの精神医学者ジクムント・フロイトが興味を持って分析したという、その心理的描写は、ポーをもはるかに凌駕するのではないかと思う。
『砂男』では、大学生の青年ナタナエルは、スパランツァーニ教授の娘オリンピアに激しい恋をする。だが、オリンピアは部屋から一歩も出ない、おとなしい少女のようだった。しかし、ついにパーティーでオリンピアに会ったナタナエルは彼女にダンスを申し込む。ダンスは調子がよくなかった。また、ナタナエルがオリンピアに囁いても、彼女は明瞭な言葉を返さない。見ている人々が何やら失笑しているが、ナタナエルは、それどころではなかった。
だが、オリンピアは人間ではなかった。スパランツァーニ教授が作った自動人形だったのだ。それに気付いていなかったのは、ナタナエルだけだった。

CLAMPの漫画『ちょびっツ』では、CLAMP自ら脚本を書いたアニメを含め、主人公である、19歳の大学浪人生、本須和秀樹は、人型パソコン(アンドロイド)のちぃを永遠の恋人として選ぶ。秀樹は、極めて健康的な田舎者の好青年である。秀樹は、ちぃが心を持っていないことを理解していたが、ちぃの心は自分の中にあるとして、この問題を止揚(高いレベルで解決する)した。
もちろん、人工、あるいは、架空の人間を本当の恋愛の対象にすることが全て正しいと言うつもりはない。しかし、それが、世間的な、本物の人間相手の愛を超えることは確実にある。

映像化されたボーカロイド(ヤマハ製歌唱シンセサイザー)の初音ミクに熱狂する者の全てがそうだというのではないが、ミクの中に、高貴な愛の欠片を感じる者だってやはりいる。
人の見るものは、全て、自分の心の反映なのである。例えば、雨の日が憂鬱なのは、自分の憂鬱な心が環境に反映した結果である。
初音ミクの見え方は、見る人によって異なる。
そして、ミクを制作した人たちの全てとは言わないが、自覚のないまま、ある精神エネルギーの影響を受けているのだ。だから、ただ、可愛いと感じさせて儲けようという意図だけで創られたものではない。それは、あらゆる制作物に関して言えることだ。

アニメ『エル・カザド』で、「エリスは神の子では・・・ない」と言われた。エリスは美しい少女だが、人工的に作られた人間だったからだ。しかし、それは誤りだ。人が、彼女を神の子として見れば、エリスは神の子・・・つまり、人なのである。

架空の存在に恋をするというのは、地球上の生物で人間だけに可能であるだけでなく、人間の能力の中でも高度なものだ。
人は、心を動かされるものを見た時に、注意深くあれば、それが自分の心の反映であることに気付くのである。そして、直観の閃きを得れば、全てが自分の心が作り出したものであることが分かるようになる。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインに、「人が月を見ていなくても、月が存在していると言えますか?」と尋ねた。人が見ていなければ、月は月であることをやめるだろう。いや、たとえ月に顔を向けていても、人が月を見ようとせず、何か他のものを見ようとすれば、月は別のものに変わってしまうだろう。

月が太陽の光の反射によって見ることができるように、全ては、心の光によって見ることができる。
ただし、不純な心の光で見れば、対象は不純なものとして見られる。
純粋な心の光で見るなら、対象物は、あるがままの姿を現す。
荘子が、常に、「視線を自然にし、思慮分別を離れ、あるがままに見よ」と言ったのは、そのことである。
純粋な心で見れば、何が見えるのであろうか?
それは、自分で見るしかないのである。しかし、決してがっかりすることはないだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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