インドでは、神のことを「彼」と言うことが多いように思う。
「彼」ではなく、「それ」と言うこともある。
つまり、「彼」とか「それ」という言葉を、文脈によって神と認識する。
例えば、「私は彼である」(あるいは「私はそれである」)と言う場合、「私は神である」という意味になる。
なぜ、そんな言い方をするようになったのかというと、「神」という言葉を直接言うことを畏(おそ)れ多いと考えたからかもしれない。
ユダヤ教やキリスト教においては、「神の名をみだりに唱えてはならない」として、神の名であるヤーウェ(ヤハウェ)を口に出して言わないようにしているらしい。
それで、聖書には、「御名を崇めよ」とか「彼(これは人間)は私の名を知るがゆえに彼を守る」というふうに、神の名を伏せて書くが、これもやはり、神の名であるヤーウェを直接口に出して言うことが畏れ多いからではないかと思う。
ところで、故・石ノ森章太郎氏は、代表作『サイボーグ009』において、ある時期から、ヒーロー達であるサイボーグ戦士達の最大の敵を神とすることに強いこだわりを持っていたと思う。
『サイボーグ009』が長い連載の後、休止となる前に、サイボーグ戦士達、そして、人類の前に神は姿を現す。
その神は、はるかな昔、地球に人類を科学的に作ったが、しばらく振りに地球に来て確認したら、あまりに人類の出来が悪いので、滅ぼして、もう1回作り直すと言う。
サイボーグ戦士達と神では、力の差が大き過ぎ、抗いようもないことは分かっているが、サイボーグ戦士達は神に戦いを挑むことを決心する。
勝ち目はゼロなので、戦いというよりは抵抗に過ぎないが、とにかく、人類のリセット計画など認めないと決めたのだった。
まあ、現代(2022年)の状況を見たら、「人類リセット、大歓迎!」と言いたくもなるが(笑)、当時(1970年代)はそうでもなかったのだろうか・・・?
『サイボーグ009』の連載休止前、神との戦いを決心したサイボーグ戦士達に、サイボーグ戦士の1人でもある001ことイワンが、「君達に新しい力をつけてあげる」と言って終わる。
その後、石ノ森氏は、『サイボーグ009』の連載を再開し、神との戦いをぼんやりとした感じで描くが、連載休止最後のところの直接の続編は書かなかった。
その頃、スタートした第2期のアニメ『サイボーグ009』では、石ノ森氏が主題歌を作詞するなどでも関わり、このアニメでは神との戦いをテーマにしてはいたが、やはり連載休止最後の続きとは程遠いものだった。
しかし、石ノ森氏は、神との戦いの本格的な続編は書く気十分で、ライフワークとして作ろうと考えていたと思われるが、悪性リンパ腫(血液の癌)に侵される。
生きているのが奇跡と医者が言う病状の中、石ノ森氏は、サイボーグ戦士達と神との戦いを小説として執筆するが、未完成のまま没する。
残された原稿は、とても1本の作品としてのまとまりはなかったが、石ノ森氏の息子の小野寺丈氏(現在は「丈」)が数年をかけて作品にまとめ、『サイボーグ009 完結編 conclusion god’s war』全3巻の小説として出版した。
章によっては、石ノ森氏は全く書いておらず、丈氏(当時は小野寺丈氏)が丸ごと書いたことを認めている。
結局は、『サイボーグ009 完結編 conclusion god’s war』は未完であったと思うが、これが出版されたことで、石ノ森氏の意思は受け継がれたのだと思う。
そして、制作された、2012年の『009 RE:CYBORG』は、私はかなり素晴らしかったと思う。
この作品では、神を自然に「彼」と違和感なく呼ぶことが出来たと思う。
「彼の声」を聴いたという、ごく少数の人々が、世界中で爆破テロを起こし、世界に混乱が広がる。
そして、27年間、高校生活を繰り返していた009こと島村丈も「彼の声」を聴き、それが正しいこととして、自分も六本木ヒルズの爆破計画を実行しようとするが、別の「彼の声」を聴いた人物によって先を越され(六本木ヒルズを爆破され)残念がる。
とはいえ、009が邪悪になったのではなく、彼は「彼の声」に従って、人類をやり直す計画を進めようとしたのだった。
まさに、石ノ森氏の連載休止時の続編として成り立つように思えた。
この「彼の声」の「彼」は、やはり「神」であるが、神とは何かを、断定はしないながら、自然に示せていたと思う。
そういうところからも、やはり、なかなかの傑作であると思う。
演出も面白かった。
神が善であるのか悪であるのかも、良い形で示唆出来たと思う。
まあ、個人的には、ジョーとフランソワの愛情表現は、悪くはないが、やや邪魔な感じもしないではなかった。
2人が愛し合っていることには、もちろん異論はないが、宮崎駿監督ほどではなくても(『天空の城ラピュタ』では、パズーとシータの愛情表現シーンは全く描かなかったが、宮崎監督は「あって当たり前」と言う)、あまり直接描かず、デリケートな表現にして欲しかった。
私は『009 RE:CYBORG』は10回ほど見たが、最近も2回見ている。
「彼」ではなく、「それ」と言うこともある。
つまり、「彼」とか「それ」という言葉を、文脈によって神と認識する。
例えば、「私は彼である」(あるいは「私はそれである」)と言う場合、「私は神である」という意味になる。
なぜ、そんな言い方をするようになったのかというと、「神」という言葉を直接言うことを畏(おそ)れ多いと考えたからかもしれない。
ユダヤ教やキリスト教においては、「神の名をみだりに唱えてはならない」として、神の名であるヤーウェ(ヤハウェ)を口に出して言わないようにしているらしい。
それで、聖書には、「御名を崇めよ」とか「彼(これは人間)は私の名を知るがゆえに彼を守る」というふうに、神の名を伏せて書くが、これもやはり、神の名であるヤーウェを直接口に出して言うことが畏れ多いからではないかと思う。
ところで、故・石ノ森章太郎氏は、代表作『サイボーグ009』において、ある時期から、ヒーロー達であるサイボーグ戦士達の最大の敵を神とすることに強いこだわりを持っていたと思う。
『サイボーグ009』が長い連載の後、休止となる前に、サイボーグ戦士達、そして、人類の前に神は姿を現す。
その神は、はるかな昔、地球に人類を科学的に作ったが、しばらく振りに地球に来て確認したら、あまりに人類の出来が悪いので、滅ぼして、もう1回作り直すと言う。
サイボーグ戦士達と神では、力の差が大き過ぎ、抗いようもないことは分かっているが、サイボーグ戦士達は神に戦いを挑むことを決心する。
勝ち目はゼロなので、戦いというよりは抵抗に過ぎないが、とにかく、人類のリセット計画など認めないと決めたのだった。
まあ、現代(2022年)の状況を見たら、「人類リセット、大歓迎!」と言いたくもなるが(笑)、当時(1970年代)はそうでもなかったのだろうか・・・?
『サイボーグ009』の連載休止前、神との戦いを決心したサイボーグ戦士達に、サイボーグ戦士の1人でもある001ことイワンが、「君達に新しい力をつけてあげる」と言って終わる。
その後、石ノ森氏は、『サイボーグ009』の連載を再開し、神との戦いをぼんやりとした感じで描くが、連載休止最後のところの直接の続編は書かなかった。
その頃、スタートした第2期のアニメ『サイボーグ009』では、石ノ森氏が主題歌を作詞するなどでも関わり、このアニメでは神との戦いをテーマにしてはいたが、やはり連載休止最後の続きとは程遠いものだった。
しかし、石ノ森氏は、神との戦いの本格的な続編は書く気十分で、ライフワークとして作ろうと考えていたと思われるが、悪性リンパ腫(血液の癌)に侵される。
生きているのが奇跡と医者が言う病状の中、石ノ森氏は、サイボーグ戦士達と神との戦いを小説として執筆するが、未完成のまま没する。
残された原稿は、とても1本の作品としてのまとまりはなかったが、石ノ森氏の息子の小野寺丈氏(現在は「丈」)が数年をかけて作品にまとめ、『サイボーグ009 完結編 conclusion god’s war』全3巻の小説として出版した。
章によっては、石ノ森氏は全く書いておらず、丈氏(当時は小野寺丈氏)が丸ごと書いたことを認めている。
結局は、『サイボーグ009 完結編 conclusion god’s war』は未完であったと思うが、これが出版されたことで、石ノ森氏の意思は受け継がれたのだと思う。
そして、制作された、2012年の『009 RE:CYBORG』は、私はかなり素晴らしかったと思う。
この作品では、神を自然に「彼」と違和感なく呼ぶことが出来たと思う。
「彼の声」を聴いたという、ごく少数の人々が、世界中で爆破テロを起こし、世界に混乱が広がる。
そして、27年間、高校生活を繰り返していた009こと島村丈も「彼の声」を聴き、それが正しいこととして、自分も六本木ヒルズの爆破計画を実行しようとするが、別の「彼の声」を聴いた人物によって先を越され(六本木ヒルズを爆破され)残念がる。
とはいえ、009が邪悪になったのではなく、彼は「彼の声」に従って、人類をやり直す計画を進めようとしたのだった。
まさに、石ノ森氏の連載休止時の続編として成り立つように思えた。
この「彼の声」の「彼」は、やはり「神」であるが、神とは何かを、断定はしないながら、自然に示せていたと思う。
そういうところからも、やはり、なかなかの傑作であると思う。
演出も面白かった。
神が善であるのか悪であるのかも、良い形で示唆出来たと思う。
まあ、個人的には、ジョーとフランソワの愛情表現は、悪くはないが、やや邪魔な感じもしないではなかった。
2人が愛し合っていることには、もちろん異論はないが、宮崎駿監督ほどではなくても(『天空の城ラピュタ』では、パズーとシータの愛情表現シーンは全く描かなかったが、宮崎監督は「あって当たり前」と言う)、あまり直接描かず、デリケートな表現にして欲しかった。
私は『009 RE:CYBORG』は10回ほど見たが、最近も2回見ている。