ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

石ノ森章太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

無限の力にアクセスする

今年(2024年)の10月28日に亡くなった楳図かずおさんもそうだが、大漫画家の若い頃の作品を見ても、老練な賢者が描いたのではと思うほどの深遠さを感じることがある。その本質的なものについては、今後、ますますはっきりするかもしれない。
今でも『仮面ライダー』シリーズ等が製作されている石ノ森章太郎さん(1938~1998。1984年までは石森章太郎。本名は小野寺章太郎)の遺作は、彼が病院で闘病中に小説の形で書いた『サイボーグ009』の完結編で、長男の小野寺丈さんがその遺稿を5年かけて編集&追加執筆して『2012 009 conclusion GOD'S WAR』として発表した。
この『2012 009 conclusion GOD'S WAR』の中に、ずっと未来に解明されるかもしれない人間の最深部に関わるヒントと感じるものがある。

それは、『サイボーグ009』のヒーローである009(ゼロゼロナイン。島村丈)が、初めて女神と戦った時のことだ。
女神と戦うとは尋常な話ではないが、元々『サイボーグ009』シリーズは終盤は神との戦いがテーマになっていた。それが、この『2012 009 conclusion GOD'S WAR』で本格化したわけだ。
9人のサイボーグ戦士達は、高度な科学技術で改造され、恐るべき能力を持っているが、その中でも009は最高傑作で、最も優れた性能を持つ。その009の最大の能力は加速能力である。加速中の009には、周囲がスローモーションに見えるほど高速で行動と思考が出来る。
(加速装置のルーツはH.G.ウェルズの『新加速剤』と思われる)
しかし、いかに009とはいえ、神様相手に戦っては勝ち目は全くない。力の差があり過ぎる・・・という言い方も不適切なほどで、存在のレベルが違う。何と言っても神様なのだから。
しかし、その神様が人類を滅ぼそうとしており、蟻が象に立ち向かう以上に無謀であっても、戦わざるを得ない状況で、009は一柱の女神に挑んだのだった。
戦いが始まった瞬間に009は消されるはずだった。
しかし、何と、女神は驚くことになる。
たかが人間が作った加速装置での動きを、女神は捉えられず、とりあえず、009は消えずに済む。
全くあり得ないことだった。いったい何が起こったのか?

『サイボーグ009』は、人気漫画として長く連載されていた。しかし、1970年代か1980年代かはちょっと分からないが、連載休止になる。
別に、石ノ森さんの体調が特に悪いわけではなく、人気が落ちたわけでもない(最盛期に比べれば落ちたかもしれないが)。
商業的な理由ではなく、純粋に作品制作のための時間が欲しかったのだと思われる。
というのは、いよいよ神との戦いが始まるのだが、あまりに壮大なテーマなので、やはり時間が必要だったのだろう。
だが、作品制作がなかなか再開されず、おそらく20年以上も経ち、石ノ森さんが重病になってしまう。だが、石ノ森さんは作品を完成させたかったのだろう。病院の中で、小説として命を削って書き続けた。
ところで、休止となる時の最後の連載で、赤ん坊ながらサイボーグ戦士の中で一番の賢者である001(イワン)が、「みんなに新しい力をつけてあげる」と言って終わっていた。
その「新しい力」が、女神を驚かせた009の力だった。
その力は、他のサイボーグ戦士達も使用可能なだけでなく、全ての人類が使える力だ。
その力は、簡単に言えば生命エネルギーである。
政木和三さんの最後の著書『この世に不可能はない』の副題が『生命体の無限の力』だが、001が言った「新しい力」が、この「生命体の無限の力」で、元々人間にあったものだが、これまではそれにアクセス出来なかっただけだ。

結論は早く、その「新しい力」「生命体の無限の力」を発動させる鍵が、これまで何度も書いた究極の真言であると思う。
「私はなるようになるであろう」
「私は常に生成する者である」
別に、神と戦う必要はないが、人間の考える神の概念を超えた神と融合することになるのだと思う。
良かったら、朝晩30秒ほど深呼吸をしていただければ(もっと多いに越したことはないが、無理にとは言わない)、より早く、その力に到達すると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)サイボーグ009 完結編 2012 009 conclusion GOD'S WAR I first
(2)サイボーグ009(1) (石ノ森章太郎デジタル大全)
(3)この世に不可能はない(政木和三)
(4)魔法入門(W.E.バトラー)
(5)Magic and the Magician(Walter.Ernest.Butler )※『魔法入門』英語版
(6)神秘のカバラー(ダイアン・フォーチュン)
(7)The Mystical Qabalah(Dion.Fortune) ※『神秘のカバラー』英語版

命の輝き
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「命の輝き」
Kay

経験・キャリアに大した意味はない

スポーツでも武道でも音楽でも、キャリアを積んで実力をつけるのではない。
思考を消すことで実力をつけるのである。
「キャリア20年のベテラン」とか言っても、その者がコツとか金科玉条としているものは、案外に駆け出しの頃に身につけたものである。
キャリアがそんなに良いものなら、大ベテランが若い選手に勝つはずだが、やはり、若くて力がある方が勝つことが圧倒的である。
人気漫画家も、代表作は20代の時に書いており、石ノ森章太郎氏の、今でも映像化される代表作『サイボーグ009』や『仮面ライダー』がまさに20代の時の作品で、音楽家でも、坂本龍一氏の代表作は、やはり20代の時に作った『BEHIND THE MASK』である。
これは、20代の時の感性が高度であるということもあるが、彼らは何らかの理由で、若い時に思考を消すことが出来たのである。
だが、歳を取り、地位も名誉も得ると、なかなか思考を消せない。
それでも、自分が一音楽家、一漫画家であるという自覚があれば、歳を取っても思考を消して(即ち無になって)良い作品を作るが、やはり、偉くなると、考えることも多くなり、若い時ほどのことは出来ないのである。
手塚治虫氏がある程度の年齢になって『ブラックジャック』のような傑作を書けたのは、その頃、手塚氏は他の漫画家の台頭で見向きもされなくなったり、あまりに多忙だったり、また、その他の手塚氏の独特の思想性などが重なり、思考を消すことが出来たのである。
手塚氏は実に複雑で個性的な人物で、極端に思考することと思考を消すことを繰り返していたことが、彼の自伝的著書を見ても感じる。

一指も万物
AIアート113
「一指も万物」
Kay


ところで、武道で、歳を取って思考を消すことが出来れば老達人になるが、実際は、恰好だけ無になったフリをしているが、内実は我の塊(つまり、思考が多い)である者が多く、そんな者は力のある若い者に全く敵わない。
こういったこともまた、思考を消す(無になる)ことの価値が認められない原因になってしまっているので困ったものである。
一方、本物の武道家であった塩田剛三や佐川幸義は老齢になっても思考を消すことが出来、ずっと達人であった。
だが、ビジネスや工芸などの世界でよくあるように思うが、歳を取って思考を消す術を見い出して力をつけた者に対し、それが経験の力であるかのように言われたり、本人すらそう思っている場合がよくあるのが残念である。

情熱や修行を否定するのではなく、基礎は大事であるが、逆に言えば、基礎が出来ていれば、思考を消すほど力は果てしなく高くなる。
確かに、10年20年やっているのに基礎がさっぱりという者もいるが、それは、そもそも熱意がなく・・・というよりは、好きなことをやっていないことが原因だ。
一方で、「こいつ、思考さえ消せば無敵なのだが」という者は多いのである。
だが、金銭欲、名誉欲に囚われると、無への扉・・・つまり、思考を消すことから遠ざかってしまう。
とはいえ、「私は誰か?」と自分に問えば思考を消すことが出来ることが確実であることは分かっている。
だが、これを出来ない者が多いのである。
あるいは、肝心の「私は誰か?」の問いや探求に励まず、「私は誰か?」を思想的、哲学的に考えたがるのは自我(これが思考の塊である)が強い者に多い。
それこそ、余計な思考をせずに、ただ問えば良いのにである。

とはいえ、こんな簡単なことが分からない者が多いし、ある程度分かっていても、十分に「私は誰か?」と問えない者が多い。
悪霊なのか、超高度なテクノロジーで作られたマインドコントロール装置の影響なのかは分かり難いが、人間が思考を消し、神のようになることを強力に邪魔する何かはあるように思える。
それに打ち勝つ機会に恵まれた者は幸いであり、歳を取ってもそうあり続けることが必要であるが、現代人でそれが出来る者は稀である。








神のようになった人達の秘密

我々は本当は神のような存在であり、一般に信じられているような能力しか持たない哀れな、地を這う虫のような存在ではない。
ではなぜ、地を這う虫のような存在であるのかというと、これは簡単なことで、単に、地を這う虫の真似をしているからだ。
知力に関しても、我々は、極めて高く、低くはないのだが、それは、学校の試験や受験で高得点を取るような制限されたつまらない能力ではない。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、ヒマラヤの大師(英語ではマスター)達に接するうち、アメリカのある調査隊員は、
「なぜ人間たる我々が地を這う虫の真似をしなきゃならないんだ」
と気付き、能力の一部を解放した。
すると、白紙の紙に、自動で仕事の書類が仕上がり、燃える火の中でも平気でいられた。
(著名な精神科医のミルトン・エリクソンも、自動で書類が仕上がる仕事法を行っていた)
彼は何をしたのだろう?
虫の真似をする代わりに、大師の真似をしたのである。それだけだ。
ひろさちや氏が、著書『空海入門』で、『徒然草』を引用して言ったように、
「狂人のマネをすれば狂人、仏陀のマネをすれば仏陀」
なのである。

感性の優れた作家や漫画家には、精神がクリアになった時、人間の本質を感じ取ることがある。
SF作家の平井和正氏がそうだったし、彼は仕事がなくて困っていた時、漫画原作の仕事をしたが、彼と組んだ漫画家の桑田次郎(後に桑田二郎)氏や石ノ森章太郎氏らは、元々素質があったのが、それでさらに、人間の本質に気付くようになり、超能力をテーマにした漫画を独自にも描くようになった。
平井和正氏原作で桑田次郎氏が漫画を描いた『エリート』、平井和正氏原作で石ノ森章太郎氏が漫画を描いた『幻魔大戦』が代表的なものである。
これらは、出版されて半世紀ほども経つが、現在も出版され、特に『幻魔大戦』は紙の本でも新品が購入出来る。
私は幸い、これらの本を子供の時に詠み、登場人物の超能力者のマネをしたら、確かに超能力が発動したが、子供を徹底的に虫けらの状態に貶める学校により、思ったように力を伸ばせなかった。
これは、学校、あるいは、テレビだけの問題ではなく、人類全体を低い精神状態に留める強力な装置が働いていることが、根本的な問題である。
それが、最近、このブログでずっと取り上げている『エイリアンインタビュー』で明かされていることである。
GAFA(GAFMA。現在はGAMA、GAMAM)といったビッグテックを起こした者達も、皆、SFの愛読家で、SFに登場する超人達のマネをしたのだが、彼らは様々な事情で、結局は、宇宙人の装置の力に屈したように思われる。
宇宙人に直接狙われた可能性もあるが、表舞台に立つと、いろいろ障害があるのだと思う。
精神性を重んじたスティーブ・ジョブズは、若い頃は精神が乱れることが多かったが、中年を過ぎて、いよいよ本物になってきた時に、集中して攻撃されたように思う。
我々は、大事業を行うのではなく、「私は誰か?」と問うか、自分が神(のようなもの)であることを憶えていることで、精神の力で偉大なことを行うべきである。








無敵の力の単純な使い方

『サイボーグ009』は、1964年に、26歳だった石ノ森章太郎が連載を開始し、石ノ森は1998年に60歳で癌で亡くなるが、『サイボーグ009』はいまだ新作が作られ、おそらく、今後もそうだろうと思う。
ところで、漫画の『サイボーグ009』は、ある時以降、それ以前と、明らかな断絶がある。
実際に、一時、連載が休止されているのだが、連載休止の理由に関し、石ノ森は「作者も登場人物も疲れた」と書いていたが、同時に、「今後の構想が大きくなり過ぎ、いったん練り直したい」といったことも述べていたように思う。
だが、その後、再開された作品は、どこか単発的な雰囲気であった。
が同時に、再開された作品は、大きな展開へのオーバーチュア(序曲)のようにも見えた。
そして、結局、石ノ森は『サイボーグ009』を完成させることが出来なかった。
癌で入院し、医者が「生きているのが不思議」というほどの状態で、病室で小説の形で執筆していたが、ついに、途中で命尽きる。
残された膨大な原稿は乱雑なものであったが、石ノ森の息子の小野寺丈氏が5年をかけて3巻の小説作品に構成し、2012年に『サイボーグ009 完結編 2012 009 conclusion GOD'S WAR』として発表した。その中で、やむなく小野寺氏が補完、あるいは、まるまる一章を新規に書いたりもしている。

『サイボーグ009』の漫画連載が休止になる時、作品は大変な状況になっていた。
太古の地球にやってきた、究極の進化を遂げた生命体である「神」は、この地球上に人類を創造した。
そして、人類の進化の様子を見ようと、1975年頃の地球に戻ってきたが、人類の出来があまりに悪く失望したので、「神」は、現在の人類をいったん消去し、新しく作り直すことにした。
それを知った、9人のサイボーグ戦士達と、その生みの親であるギルモア博士は苦悩する。
「神」がそう決めたからには、どうしようもなかった。
だが、結論として、サイボーグ戦士達は「神」と戦うことを決意する。
とはいえ、それは、宇宙船をハエが止めようとするような戦いで、「戦い」というよりは「レジスタンス(抵抗)」であるが、現実には、抵抗にもならないに違いない。
その中で、人類最高の頭脳を持つ超能力戦士である001が、サイボーグ戦士達に、「きみ達に新しい力をつけてあげる」と言うところで話は終わっている。
その新しい力が何かは、2012年の小野寺氏の小説で初めて明かされる。
009が、1柱の女神と初めての戦った時のことだ。
009は女神に挑んだが、サイボーグ戦士最強の009とはいえ、相手は神であり、戦いになるはずがない。
009が誇る加装置による高速移動も、女神には止まっているに等しい。
ところが・・・
女神が驚くのである。
なんと、女神が009の動きを追えないのだ。
これが新しい力で、やがて、全てのサイボーグ戦士達が、この「新しい力」を使うようになる。

「新しい力」とは、人間のいかなる力・・・肉体、精神、あるいは、メカニックであろうが、その力を拡張するのである。
それは、「シンギュラリティ」の提唱者であるレイ・カーツワイルによれば、テクノロジーの発達によって可能になる。
だが、人間の神秘の生命エネルギーは、それを瞬時に行う。
多くの人は、まさに漫画のような話と思うだろうが、私は全くそうは思わない。
なぜなら、この世界は、幻想、あるいは、仮想世界なのであり、人間の心が創造するものだからだ。
人類を創った「神」にも、その上位の存在がいると推測出来るが、その上位の存在が設定した力なのかもしれない。
実際、部分的ではあるが、その「新しい力」を私だって使える。
そのことを、この『サイボーグ009』で思い出したのである。
その力をどうやって使うのかというと、単に、「使いたいな」と思うだけである。
確かに、想像力の限界を超えた力は使えない。しかし、心を広げれば、力も広がる。
この力を使うのに、何の宗教も教義も寄付も要らない。むしろ、それらは力を抑えるものである。
だいたい、人間というのは、素直に、ちょっとしたトキメキと情熱を持って「やりたいな」と思ったことは何でも出来ることは、誰でも知っているはずなのだ。
ただ、あくまで、「素直な」「ちょっとしたトキメキと情熱」であることを忘れてはならない。








あなたは異能の天才かもしれない

世の中には、涙ぐましいまでの努力をして、成功者、勝利者、エリートになることを夢見るが、結局、ワーカー(労働者)やソルジャー(兵隊)にしかなれない者がいる。
SF作家の平井和正さん原作の石ノ森章太郎さんの漫画『幻魔大戦』の主人公である、東丈(あずまじょう)が、全くそんな人間だ。
生まれつき身体が小さく、子供の時、近所の子供達にいじめられていると、弟が助けに来る始末だった。
その弟と共に柔道を習いに行くが、弟の方がずっと強い。
何をやっても、あまりに駄目な上、ある日、父親が姉に「きょうだいの中に、一人くらいは出来損ないがいるものだ」と言うのを聞き、自殺をしようとするが、心優しい姉に慰められる。
姉は、「丈ちゃんが誰からも尊敬される立派な人になるまで、ずっと傍にいる」と約束する。
姉は、本当の愛の持ち主だった。
そして、丈は、大きな目標を立て、厳しい努力をするようになる。
彼は、努力さえすれば、どんな目標でも達成出来ると信じた。
高校では、大学は東大、そして、小さな身体で野球部でサードのレギュラーを目指し、「ボロ雑巾のようになるまで」の頑張りは、誰もが認めた。
そんな丈が、3年生になる。
ところが、模試の成績は振るわず、教師からは東大は諦めるよう言われるが、丈は決して受け入れない。
そして、野球部では、サードのレギュラーポジションは確実だと信じたが、1年生にその座を奪われてしまう。
それほどの努力をしても、何も得られなかったのである。

なぜ、丈が上手くいかないのかというと、生まれつきの能力が低いからで、そんな人間が努力をしたところで、生まれつき優秀な人間のようになることは出来ないという、厳しい現実がある。
だから、生まれ持っての能力が大したことがないなら、大きな望みなど持たず、無駄な努力などしない方が、精神的に良いという声も、よく聞くようになった。
だが、丈の場合は、子供の時からの劣等感や屈辱感が恨みのエネルギーとなり、彼を努力に掻き立てたのだ。
しかし、彼を待っていたのは、失望と落胆だった。

特に今の時代は、才能はあっても、環境(主に親の経済力)が悪いために、望むようなことが出来ない者も多い。
だが、才能があれば、恵まれてさえいれば手に出来たかもしれない最高の成果を得られないまでも、それなりには成功出来る可能性が高いし、チャンスがあれば大飛躍もあり得る。
しかし、才能がなければ、一生、虫のように地面を這うのみだ。

生まれ持っての才能がない者は、どうすれば良いだろう。
イチローさんや米津玄師さんのような、努力もしただろうが、間違いなく偉大な才能があったからトップに立てた人を羨みながら死ぬしかないのか?
ところで、上の東丈の場合はどうだったのか?
出来損ないで、存在価値などなかった彼が、こう言われたのだ。
「宇宙広しと言えども、丈ほどの才能に恵まれたエスパー(超能力者)はそうはいない」
なんと、ちっぽけな世界の中ですら皆に見下されていた丈が、宇宙の中でトップになったのである。
これを見て、「では俺もエスパーで」と思うような者もいて、変な宗教団体なんかに騙されるのだろう。
だが、エスパーというのではないが、実のところ、普通の意味での才能がない者が、異能の才能を持っていることは、よくある。
平井和正さんや、石ノ森章太郎さんといった天才達は、そんなことを感じていたのだと思う。
そして、そんな異能の才能を持った者の特徴も分かっていたのだろうと思う。
その特徴は、詳細には分からないが、例えば、途方もなく優しいとか、弱い者いじめを決してしないとか、悪人の命も大切にし、誰も見捨てないといった性質などが、それに該当すると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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