ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

矢追純一

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

本当に頭が良い人になる

個人的な意見だが、資格なんか取るより、頭を良くする方が、何百倍も何千倍も価値がある。
いや、資格だけでなく、学歴や、ほとんどの個人に貼るラベル的なものも同じだ。
つまり、フェイスブックの自己紹介ページの定型的な記述は全く無価値だ。
ただ、一般的観念として、頭の良さは生まれつきのものだと信じている人があまりに多いと思う。そう思っている限り、自分の頭の良さは正確に両親の頭の良さの平均である。
IQ(知能指数)は必ずしも頭の良さを示さない、あるいは、頭の良さと全く関係ないと言う人もいるが、それはやはり、IQが生まれつきのものだという一般的信念に配慮し、そう言っているという面があると思う。
無論、IQが頭の良さの全てではないが、頭の良さは、ほぼIQで決まる。

私はIT業界の人なので、「プログラマーの適正は?」などという話をしたり聞いたりするし、そんなことを話題にする本やSNSの情報がよくあるが、プログラマーの適正のほとんどはIQである。
「IQより、コミュニケーション能力や社会常識や責任感が大事だ」と言う人もいるが、そんなものも、IQが高い人の方があるし、もし、不幸にして今はないとしても、IQが高い者は、その気になれば、それらを簡単に得る。

企業研修なんてのは、IQが低い人のためのものである。
IQが高ければ研修など必要ないし、むしろ、弊害が多過ぎて、やってはならないくらいだ。
そもそもが、学校がIQが低い者のためのものであり、IQが高い者は学校に行くべきでない。そして、皆、学校に行くより、IQを高くして学校に行かなくて済むようになる方がずっと良い。

もう大昔から、まともな脳や知力の研究者は、頭は後天的に良くなるし、可能性としては無限に良くなると明言しているが、それを積極的に否定するわけではないかもしれないが、頑なに無視し続けているのが「教育界」である。
公的な教育界には関わらないことが幸せだし、関わるとしても(医者や学者等になるには関わるしかない)、なるべく距離を取るべきだろう。

さて、どうすれば頭が良くなる・・・IQが高くなるかというと、その方法が書かれた良書がいくらでもある。ただし、今はその手の本で、読者に損害をもたらすものも多い。
本が売れることだけを目的に書かれたもの、また、その本を通して、教材を売ったり、セミナーに勧誘するといった、お決まりの手法が横行している。
また、YouTubeで「頭が良くなる方法」で検索すれば、上位に出てくるのは、嘘つきの顔や、引っ掛けの文言ばかりで、それこそ、「頭が悪いやつをカモにしよう」と狙っているものばかりだ。

ここからは、嘘つきが書かない、本当に頭が良い者の話だ。
それは、「頭が良くても大したことはない」という話だ。
頭が良い者ほど、自分の頭脳なんて大したものではないことが分かっている。
それを端的に言ったのが、ソクラテスの「私は、自分には知恵がないことを知っている唯一の人間なので、誰よりも知恵がある」という言葉だ。
私がよく引用するのが、矢追純一さんの「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」というものだ。
しかし、矢追さんの実績は、いわゆる「頭が悪い者」が出来ることではない。
実は、矢追さんの父親は天才技術者であり、母親も一芸に秀でた極めて優秀な人だった。
そして、矢追さんは、母親から、家で勉強することや本を読むことを一切禁じられていたが、それでも、テストは100点、通信簿はオール5でなければ、母親に殴られたという。
また、矢追さんは、高校時代は、高校には全く通わず、学校の勉強もせず、自分と妹2人を養うために深夜まで働き(その後飲みに行き)、受験勉強も全くしなかったが、大学は中央大学法学部(司法試験合格実績は東大以上として知られる)に入り、きちんと4年で卒業した。
おそらく、矢追さんはIQは相当高かったと思う。
だからこそ、自分の頭なんて全然大したものではないと分かっていたのだ。
アインシュタインだって、自分が優秀だとか、特別だとか全く思っていなかったらしく、学歴のない2番目の奥さんと比べてもはるかに劣ると思っていて、奥さんに「私は難しいことは苦手だから、お前がやってくれ」と言っていたらしい。

とはいえ、IQが高いと、個人レベルでは無駄なエネルギーを消費せずに済む。例えば、つまらない仕事を、普通の人の10倍の速さで出来るので、ノンビリ出来て早く帰れる。
最初のあたりで言ったように、プログラミングも簡単に出来る。まあ、そんなことはIQが高いマゾにまかせておけば良いと思うが(個人的意見です)。
で、頭を良くするためにはどうすれば良いかというと、「頭が悪い者がやることをしないこと」に尽きる。
つまり、注目されたがったり(目立とうとしたり)、人にちやほやされたがったり、「俺ってイケてる」と自己満足するためのことをやらないことだ。
本なら、ちょっと古いが、中山正和の本を読むと良い。
中山さんは、「理屈で考えられる限り考える」を追求し、意識と無意識の折り合いをうまく調整することを考えたので、IQが高くなっても、その弊害が出ない方法を教えることが出来た。
それと、1日2回くらい、数分から、出来れば10分程度、非常に微かな呼吸をすると良い。これは、頭を悪くする因子を不活性化させ、同時に、脳への酸素供給能力を上げる方法であり、さらには、潜在意識とのコンタクトを高める方法で、引き寄せまでうまくなる。








現代人最大の誤解をさらっと解き万能になる

小説、映画、アニメなどで、主に主人公等の登場人物が危機的状況に陥り、局面の打開は難しく、いわゆる、二進も三進も(ニッチもサッチも)いかないという時に、その登場人物が、「考えるんだ!」と自分に言って、真剣に考える表情になる・・・そんな場面を見たことがあると思う。
そして、ほとんどの場合、素晴らしいアイデアが閃き、そのアイデアは、難しかったり危険だったりはするが、それを果敢に実行し、ついに勝利する・・・という展開になる。

そんな状況の時、「考えるんだ」と言いつつ、人間は何も考えない。
特に、良いアイデアが出る時というのは、ただ心を静めているのであって、考えるのではなく、逆に、思考を止めているのである。

我々だってそうである。
何か不都合な問題が起こり、それを解決したいと思って、自分では「必死で考えている」つもりになるが、本当に考えている時は、ロクな答は出ない。
そうではなく、思考を止め、冷静になることで、アイデアが浮かぶのであり、そのアイデアは思考の結果、得られるものではない。

昔、『一休さん』というアニメがあり、10歳位の小坊主である一休は、すでに知恵者として知られているが、難しい問題に直面し、いよいよ解決することが必要になると、一休は座って、坐禅の形に脚を組むと、目を閉じ、「沈思黙考」といった状態になる。
「沈思黙考」とは、「黙ってじっくりと深く物事を考え込むこと」という意味だが、もし、本当に一休が知恵者であるなら、この時、一休は、考えることを止め、いわゆる「無」になろうとし、普通の人ではなかなか出来ないレベルで「無」になった時・・・つまり、心が静まり、頭の中で一切の思考がない状態になった時、優れた知恵が出るのである。

上に述べたことは、一見、常識に反するが、改めて考えれば・・・いや、心を静めて「考えるな、感じろ」とでもいう状態になってみれば、ごく当たり前であることが分かるはずだ。
実際は「感じろ」も全く不要で、考えなければ、必要なら勝手に感じるのである。これもまた、一般的観念に反するかもしれないが、これが事実だ。

ソクラテスは、「私は人類の中で一番知恵がある」と言った。
これは傲慢では全くない。
この意味は、「私は、自分に知恵がないことを知っている唯一の人間だ。だから、私は誰よりも知恵がある」である。
特に成功者や人々から高い評価を受けている者は、自分の思考能力が優れているからそうなっていると思っている。
少なくとも、世間で認められている自分の実績は、自分の能力で成したと思っている。
だが、ソクラテスは、そうでないことを、なぜか知っていたのだ。
人間の優れた能力がどこから出て来るのかは、ソクラテスだって分からない。
しかし、それは自分が持っているような能力ではなく、いわば、神秘的としか言いようがない何かだ。
だから、ソクラテスは、一応、「内なる霊から出て来る」と言い、それは、現在では潜在意識のことを指すと考えて良いだろう。

矢追純一さんは賢い人だった。
彼は「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言う。
それにより、難しい問題を解決し、テレビディレクターや作家として大成功した。
そして、実は彼も言っているが、人間は皆、頭が悪いのであり、そんなもの(自分の頭、思考能力)に頼っていては何にも大したことは出来ない。
自分は頭が悪いことを知っている者が本当に賢いのである。

成功したり、幸福になったり、重要な問題を解決したいと思うなら、我々のやるべきことは、思考を止めること、想念を消すこと、無になることである。
それには、薄々気付いている人もいる。
しかし、思考を消すことが難しい。
頭はいつも、無駄な独り言を言い、心の中のお喋りは止まらない。
しかし、それが消えた時、人間は天才になり、神のようなものになり、奇跡が起こり、超能力と思えるような力も発揮する。
その浅い方法は、アファーメーションや、あるいは、マントラ(真言)を唱えることで、頭に思考する暇を与えないことだ。
思考とは、脳の暇つぶしに過ぎない。
ただ、必死にアファーメーションを行うと、雑念が出易く、かえって、無駄なことを考えてしまう。
落ち着いて、淡々と、丁寧に、アファーメーションを行うと良い。
最初は焦って、力んでアファーメーションを行っていても、数多く繰り返すうち、落ち着いて、静かにアファーメーションを行うようになった時、思考が少なくなり、潜在意識が問題を引き受け、良い答が閃いたり、状況が変わったりするのである。
アファーメーションより優れた方法が、「今に集中する」ことだ。
今に集中すれば、過去も未来も消え、過去の後悔も未来への不安もなくなり、今この瞬間だけになり、思考が消え、無になる。
その時、人間に不可能はなくなり、全てが可能になる。








人間の中で最も知恵がある者

ソクラテス、プラトン、アリストテレスの関係が分かるだろうか?
昔、私は、ある社長さんに、「今の女子大生は、信長、秀吉、家康の順番を知らない」と言われ、「まさか!」と思い、立派な短大を出て入社してきた女の子に尋ねてみたら、本当に知らなくて絶句したことがある(笑)。
まして、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの順番も知るまいと思った。
プラトンはソクラテスの弟子で、アリストテレスはプラトンの弟子だ。
まあ、別に、知ってても偉くはないが・・・

で、ソクラテスである。
彼は、アテナイ(今のアテネ)の人達に、「最も知恵がある人間は自分だ」と言ったと言われていた。
本当だった(笑)。
それで、当然ながら、傲慢だと非難された。
もちろん、馬鹿がそう言っても、単に馬鹿にされるだけだが、ソクラテスほどの者がそう言うと、それなりに当たっているだけに非難されるのである。
ところが、ソクラテスは、「私には知恵はない」とも言っているのだ。

こういうことだった。
ある高貴な巫女がソクラテスに、「あなたは人間の中で最も知恵がある」と言った。
私なら、「おお!やはり!」と思うかもしれないが(笑)、ソクラテスは、「そんなはずはない」と困惑した。
当時の巫女の超能力は凄いものだったから、ソクラテスは「そんな馬鹿な」と驚いてしまったのだ。ソクラテスは、そのくらい謙虚だった。
だが、高貴な巫女の神託に逆らうことは出来ない時代だったので、ソクラテスは、とりあえず、自分より知恵のある人を1人でも見つけ、巫女に、その神託の真意を問おうとしたのだ。
そこで、誉れ高い知恵者達・・・詭弁家、作家、芸術家、技術者などを、片っ端から訪ねた。
すると、おかしなことになった。
自分より知恵のある人間が、どうしても見つからないのだ。
ソクラテスが、それらの人達に知恵があるかどうかを判定した方法は、彼らが、自分の能力をどう思っているかだった。
皆、その高い能力を、自分が身に付けた自分のものだと思っていた。
だが、ソクラテスには、そうではないことが分かっていた。
彼らの能力は、彼らの霊から来ている。今でいう潜在意識だ。
彼ら自体には、何の能力もなかった。
そして、ソクラテスは、自分についても、そのことを理解していた。
だが、ソクラテスのように理解している者は1人もいなかったのだ。
それを分かっているというだけで・・・つまり、自分には何の能力もないと分かっているだけで、ソクラテスは、自分は誰よりも知恵があると確信した。それだけのことだった。

確かに、世間で評判の知恵者達も、その能力が霊(潜在意識)から来ていることを自分では気付かなくても、確かに有能だった。
しかし、ソクラテスのように、2500年経っても崇拝されるほどではない。

ソクラテスの態度は、UFO研究家の矢追純一さんが、「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言ったのと同じだと思う。
そうやって、潜在意識にまかせれば(矢追さんは「大きな流れに乗れば」と表現したが)、引き寄せがうまくいくのだと思う。
まあ、ソクラテスは、「貧乏だった」「悪妻に苦しんだ」と言われ、最後はご存じのように死刑になったのだが、働きもせずに元気で長命だったし、優秀な弟子達だけでなく、ファンは大勢いて、町を歩けば、ファンの行列が出来るほどだった。
ただ、彼は論争好きで余計な頭を使い、人を憎むこともあり、争いもしたなど、当時の時代の影響もあったのだろうが、引き寄せに必要な気楽さがなかったかもしれない。
自分に知恵がないことを知りつつ、論争を止められなかったのだ。
その点、師の欠点に学んだプラトンも、その弟子のアリストテレスも豊かだった。
それに、ソクラテス自体も、先程も述べたが、当時としては、悪い人生ではなかったはずである。
我々も、自分の頭が大したことはないことを悟り、潜在意識にまかせてしまうことで豊かで楽しい人生を送れるのであると思う。








蜘蛛の巣にかかった蝶を助けるか?

思考停止・・・つまり、考えないことが悪いのではなく、悪い考え方をすること、悪いことを考えることが良くないのである。
たとえば、専制国家では、国民にものを考えさせないから悪いのではなく、専制君主が決めた通りの考え方を国民にさせるから悪いのである。
テレビは、国民の思考を停止させているのではなく、国民が愚かな考え方をするようにさせているのである。

上のように言える理由は簡単で、まず、人間の頭は考えることを止めないからだ。
そして、その思考は、自分で作っているのではなく、強制的、自動的に行われるのである。
頭に、「白人は尊い、黒人は卑しい」と最初に刷り込むと、強制的に、白人が尊く、黒人は卑しいという思考が起こるのである。

性善説と性悪説のこんな論争が有名だ。
溺れている子供がいたら、助けようという気持ちが起こるから、人間の本性は善だというのが性善説だ。
しかし、性悪説では、溺れている子供を助けるのは、何らかの思考が働くからだという。たとえば、助けたら、自分の評判が上がるからとか、逆に、助けなければ、自分の評判が下がるから、あるいは、助けた子供の親から礼をもらおうと考えるからとか、何らかの考えがあって助けるのだという。
実際、日本の話ではないが、溺れている子供を前に、子供の親に対し、「助けてやるから、これだけのお金を払え」と交渉していたという話があり、それは、その国では珍しくないことと見なされるらしい。
納得しない人もいるだろうが、考えない時に、人は正しい行動をする。それは、必ずしも、子供を助けるということではないかもしれない。しかし、助けないということでもない。
いつも助けることが正しいというのではないし、正しくないというのではない。
考えなければ、その時々で正しい行動をするのである。

私は、子供の時、ある問題に悩んだことがあった。
蝶が蜘蛛の巣にかかっているのを助けるかどうかである。
これに対し、2人の年長者が異なることを言った。
1人は、「助けたら、蝶も蜘蛛も生きられる。よって、私は助ける」だった。
私は、これを聞いて感動し、同意した。
しかし、もう1人は、「自然のままにまかせるのが良い。よって、私は助けない」だった。
当然、後者が正しい。
そして、後者は思考しておらず、前者は思考したのだ。考えたから間違えた。
私も、子供の時に、すでにおかしな考え方を、親や学校やテレビに叩き込まれていたのである。

『銀河鉄道の夜』に、蠍(さそり)の後悔の話がある。
イタチに追いかけられた蠍は必死に逃げ、結果、両方、穴に落ちて死んでしまう。
蠍は、黙ってイタチに自分の身体を差し出さなかったことを後悔した。
ジョバンニは、蠍の心が美しいと言うが、それはないだろう。
両方死ぬことになったのは、たまたまだ。
どんな結果になろうが、イタチは追いかけるべきで、蠍は逃げるべきである。
そして、その通りにしたのだから良いのである。
余計なことを考えたのはジョバンニである。蠍が本当に後悔したりなどしない。

溺れている子供がいれば、何も考えなければ、自分の能力で助けられると感じれば勝手に助けるし、男に襲われている女性がいる場合も同様である。

今の日本の学校は、教育者が思考停止しているから、教育の仕方が最悪で、無能な大人が作られてるのだという。
そうではない。教育に関わる者達が悪いことを考えた結果、最悪になり、さらに悪くなっているのである。
アメリカの教育が良いかというと、一時はそう見えたこともあったが、全くそんなことはない。考えに考えた結果、教育格差が広がっただけでなく、良い方に入ったはずの子供も馬鹿になる危険が高くなっているのである。そして、日本の教育のやり方も、案外良い部分もあるのである。

個人に関しても、考えなければうまくいく。
よく取り上げるが、UFO研究家の矢追純一氏は「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言うが、結果、何もかもうまくいったのである。
本当の意味で頭の良い人間なんていない。
矢追氏は、人間の頭はパソコンみたいなもので、それも、大した性能のパソコンではないと言う。だから、人間は何も出来ないのだから、大きな流れに乗ればうまくいくと言う。
別の言い方をすれば、人間は大したことのないパソコンだから、考えることはスーパーコンピューターに任せれば良い。そして、潜在意識がスーパーコンピューターだ。
もちろん、人間の頭がパソコンで、潜在意識がスーパーコンピューターだというのは単なるたとえで、実際の能力差は、それとは比較にならないほど大きいだろう。

人間は、潜在意識に面倒を見てもらえば、何でもうまくいくのである。
これは、キリスト教で言えば、羊である我々は、羊飼いである神に面倒を見てもらえば良いというのと同じだ。
羊は、ただ、神に、しっかり面倒を見てもらえば良いだけである。
中国出身のアメリカの著名な女性作家で実業家であるチン・ニンチュウは、これに気付いた時、涙が止まらなかったという。

では、どうすれば、神、あるいは、潜在意識に面倒を見てもらえるのか?
荘子は、「是非好悪、思慮分別を捨て、なりゆきにまかせろ」と一貫して述べている。
矢追純一氏やチン・ニンチュウも全く同じであるのだと思う。
考えることを止めることだ。
それには、今を生きることである。
目の前のことに全集中し、過去の後悔や未来の不安を消してしまうことだ。
これが分かるかどうかが、人間としての運命の分かれ道である。
最高の呪文は「今、今、今、・・・」かもしれない。








大志は抱くものではなく起こるもの

初音ミクさん誕生の地、北海道の札幌で現在の北海道大学である札幌農学校を開校したウィリアム・スミス・クラーク・・・通称クラーク博士が、9ヵ月日本に滞在した後、札幌農学校の一期生との別れの際に発した、
「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」
という言葉がよく知られている。
確かに、この言葉には、いろんな説があり、クラーク博士が実際はどう言ったのか、どんな意味で言ったのかは様々な説があるが、このような言葉で学生達を激励したことは間違いがないようだ。

「少年よ大志を抱け」
普通には、「野心的であれ」という意味と考えられているが、何が「大志」で何が「野心」かは、人それぞれの考え方だ。
そして、大志、あるいは、野心を抱くことが、良いか悪いかは、一般的に良いとされていると思うが、これもまた、人それぞれの考え方だ。
だが、実際は、誰も大志(あるいは野心)を抱くことは出来ない。
大志を抱いたかのように見えても、実際は抱かされたのである。

大志と思えるものが起こったとしたら、それはエゴの大志か、潜在意識の大志かだ。
エゴの大志には、プロサッカー選手になりたいとか、女優になりたい、金持ちになりたいなどといったものが多いと思う。
つまり、エゴの大志は、単に、優越感や安心感を目的とした偽物だ。
本物の大志は潜在意識から出てくるが、それは、思考やエゴ(この2つは同じだが)とは何の関係もなく、現れる時は自動的に勝手に現れる。
エゴの大志を消したら、本物の大志が出てくるか、出てこないかは分からないが、エゴの大志が消えない限り、本物の大志は出てこない。
しかし、やはり、本物の大志が出てくるかどうかは、エゴである自分が決めることではない。
そういえば、初音ミクさんの会社のクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が、何かのインタビューだったかで「夢に人生を賭けるな」みたいなことを言われていたが、この「夢」はエゴの大志みたいなもののことだろう。

別に、エゴの大志も捨てる必要はなく、それはそれで、それに向かって楽しくやれば良い。
言い換えれば、楽しくないなら止めれば良い。
伊藤博之社長も、このことを、「好きでないと続かない」と講演で言われるのを聞いたが、つくづく、エゴの大志というのは厄介であると思う。

矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言ったのが良い生き方であると思う。
矢追さんは、目標自体は、その都度持ったらしい。
例えば、高校生の時に妹2人を自分で養うとか、大学進学とかだが、それらも、矢追さんが考えて立てた目標ではなく、潜在意識からの目標で、だから、勝手にうまくいったのだろう。
その後、矢追さんが、日本テレビに入って、UFO番組みたいなものを作ったのも、潜在意識からの指令のようなもので、矢追さん本人からすれば、なりゆき以外の何物でもないだろう。
自分のちっぽけな頭で考えることを止めれば、大志かどうかはともかく、潜在意識が目標を出してくるのだと思う。
ただ、心配しなくても、楽しいことはやって来る。
政木和三さんのようにな真面目で堅物な人物でも「お金も女も、来るものは仕方がない」と思えば来る。そんな世界なのだと思えば良いのであると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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