ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

白い家の少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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本当の個性

学校や会社、それに、テレビなどの「世間」は、我々に、皆と同じ平凡であることを強要する。
こう言えば、
「そんなことはない。学校も会社もテレビも、生徒や社員や国民に『個性的であれ』って言ってるじゃないか?」
と反論する人がいるだろう。
そうなのだ。
学校などは、下らないことで個性を持って満足しろと言っているのだ。
それで、重要なことで個性を持つことをタブーにさせているのだ。
だって、本当に個性的なら、学校になんて行かないからね。

たとえば、以前、テレビで、「納豆はかき混ぜてからタレをかけるか、タレをかけてからかき混ぜるか」という話題を取り上げ、それを、さも重要なことであるように、大真面目に熱く語り合っていた。町行く人々に、「あなたはどっち?」と聞き、「僕は絶対こっちですね」と気合が入った答え方をする人にスポットライトを当てたりもしていた。
そんな下らないことにテレビ放送枠を取ることで、そういったどうでもいいことを個性と感じるよう洗脳しているのだ。
そりゃ、どちらかの食べ方が好きな人はいるだろうし、味が違うと感じている人もいるかもしれない(ちなみに、私は味の違いが分からないが)。
しかし、そんなの、自分の好きにやれば良い・・・以外の、どんな考え方が必要だろう。
ところが、テレビの中で、食の専門家みたいな人が「先にタレをかける人は人生を半分損してます」と言う、超阿呆なことを言うのを、わざわざ流すのである。
こんな馬鹿げたことを考えるようにさせることで、本当に大切なことは「どうでもいい」と思わせるのである。
本当に大切なことは、少々難しい場合が多く、難しいことに取り組むのはダサいことだと感じるよう工夫もしているのだろう。

中高生では、スカートやズボンの丈の長さ、セーターの着方、帽子の被り方、小物の種類など、やはり、下らないことを個性だと主張する「訓練」をさせ、重要なことには目が向かないようにさせているのである。
そういった、どうでもいいことは好きにすればいいのに、そういったことで、流行に合っていないことがダサいと思わせ、流行という狭い枠の中で、どうでもいいことを個性と言ったりして、そういった馬鹿馬鹿しいことを個性として競うような馬鹿な頭を作るのである。

学校の課題図書なんてのも、同じような手法だろう。
皆が同じ本を読む必要性などどこにもないし、そもそも、課題図書に選ばれる本は下らない本が多い(それこそ洗脳用途の本?)。
「生徒の個性を考え、課題図書を複数用意しました。生徒は自由に選べます」などと言われても、本なんて無限にあるのだから大きなお世話である。
本一冊読むのには、そこそこ時間がかかり、一冊の本を読んでいる間、別の本は読めない。
つまり、下らない本を読ませることで、その人にとって本当に重要な本が読めないのである。

流行語大賞も、国民洗脳のイベントである。
重要な言葉など、他にも、そして、おそらくは、もっと重要な言葉があるし、個人にとって重要な言葉など無限だ。
それを、エントリーされた、多くはどうでも良い言葉に注目させ、「今年はこの言葉が重要でしたね」という、よほど頭が悪い者でないと喜ばないことを言い、確かに多くの者が喜ぶのを確認することで、国民の愚昧さが分かってほくそ笑んでいる者がいるのである。

『白い家の少女』(1976。カナダ、フランス、アメリカ合作)という、当時13歳だったジョディ・フォスターが主演した映画がある。
主人公は、イギリスからアメリカに移住して来たリンという名の美少女で、10月31日のハロウィンに彼女が14歳の誕生日を迎えるところから始まる。
彼女は、家具付きの立派な借家に住んでいたが、ある時、大家の女性が訪れる。
そして、リンと話をする中で、「あら、この家具はここじゃなく、ここに置くのよ」と言って、勝手に家具を移動させる。
リンが反発して「好きなようにさせて頂戴」と言うと、大家の女性は、「まあ、なんて生意気な子かしから」と怒って威嚇した。
リンは、もっと子供の時、父親にこう教わっていた。
「大人達は、賢くて個性的なお前を認めず、従わせようとするだろう。そんな時は戦うんだ。負けるな」
リンの父親は、リンを賢く育て、また、賢くある方法をちゃんと教えたのだろう。
だが、リンの戦い方は、あまり良いとは言えず、彼女の父親は賢い人ではあったが、どこか欠けていたのだと思う。
しかし、教えの精神は悪くない。
我々は、世間と戦うこともあるだろうが、その時は賢く戦うのだ。
SNSで政府や政治家に罵詈雑言を浴びせるだけでは、良い戦い方とは言えない。
また、当たり前に戦っても、権力に対して、絶対に、万に一つも勝ち目はない。
良い戦いとは、深い精神で戦うことだ。
そうすれば、行動が必要な時は、自ずと最良の行動に導かれる。
そのために、正しい意味で個性的に、真の意味で特別な存在でなければならない。
元々特別なのだから。
だが、皆でニコニコと「元々特別なオンリーワン」なんて歌って没個性になっているようでは、やつらの思うつぼである。








2種類の賢い人

今日(10月31日)はハロウィンで、ハロウィンとは何かと言うと、一般的認知ではオバケの仮装をする日だ(笑)。
ハロウィンはキリスト教とは関係がない。
最も簡単には、ハロウィンはケルト人の大晦日(1年の終わり。年の暮れ)である。
ところが、ケルト人とは何かという定義は難しい。
ところが、ところが(笑)、ケルト文化という確固としたものがあり、自分はケルト人だという強いアイデンティティーを持つ人は少なくないと思う。
そして、ケルト文学、ケルト音楽、ケルト神話、その他ケルト式の様々な工芸、芸術などのケルト文化があり、それらは愛好者が多く、実のところ、私も大好きである。まあ、あまり詳しくはないが。

私がハロウィンと聞いて、すぐ思い出すのは、レアード・コーニクの小説『白い家の少女』(1974)で、1977年に、当時14歳だったジョディ・フォスターの主演で、この小説にほぼ忠実に、カナダ、フランス、アメリカの合作映画が作られ、1977年に公開されている。
『白い家の少女』は、小説も映画も、リンという名の少女(映画ではジョディ・フォスターが演じた)の14歳の誕生日から始まるが、それが、10月31日のハロウィンの日だった。
イギリスから、作家の父親と共に移住してきたリンは、ハロウィンの習慣を知らなかった。
まあ、イギリスといい、アメリカ、その他の国といい、ハロウィンのイベントやパーティーの習慣のある場所もない場所もあり、当時は、インターネットなどない、世界事情はテレビや書籍でしか知ることが出来なかった時代である。

リンは、美少女という以外は、外見は普通だが、普通の少女・・・いや、少年も含め、普通の14歳とはかなり異なるところがあった。
それは、彼女が聡明だということだが、それは、学校の成績が良いなどといった意味ではなく、もっと根本的な意味でだ。
高名な作家であるリンの父は、高い知性を持っていたと思われるが、リンも遺伝的に頭が良いのだろう。
だが、それだけではない。
リンは学校に行っていなかった。
それは、父親がそうしたのだと思われるが、父親は、リンにその理由を話し、リンもそれを十分に納得していた。
リンのように賢い子にとって、学校は、害悪でしかない。
いや、別に賢い子でなくても、学校は、害の部分の方が大きいのだが、賢くない子にとっては、学校に行くのは、やむを得ないことかもしれない。
そして、リンの父親は、リンに学校が必要ないということ以上に、リンが学校に穢されて欲しくなかったのだろうし、今や、リン自身がそう思っている。

岡本太郎は、小学生の時、授業中、両耳を堅く両手で塞ぎ、自分の崇高な頭脳に、穢れた教師の言葉が入って来ないようにしたと言うが、リンは、両手で耳を塞ぐ以前に、学校に行かなかったのだ。
リンも岡本太郎も正しい。
馬鹿以外は、学校に行くべきではない。
学校に行けば(正確には学校に馴染めば)馬鹿になることは確実である。
アインシュタインも授業を聞かず、教師に返答を求められても黙っていたという。

そして、リンや岡本太郎やアインシュタインのような、賢くて個性的な子供を、大人は許さない。
学校は、彼らを徹底的に攻撃し、改造しようとする。
岡本太郎やアインシュタインは、それで苦しめられたが、リンの父親は、リンを、そんな目に遭わせたくなかった。きっと、自分がそんな目に遭ったのだろう。
そして、リンに「大人と戦え」と言ったのだ。「負けるな」ともね。
しかし、それは無謀というもので、リンは、いろいろ大変なことになってしまう。

リンの父やリン、そして、『白い家の少女』という作品には、欠けていることがあるのだ。
それは、高次の力・・・一般的には、神の力の活用法だ。
リンも、リンの父も、『白い家の少女』の作者も、そんなものに頼りたくなかったのかもしれない。
しかし、仮に天才としても、1人の人間の力など、たかが知れている。
岡本太郎もアインシュタインも、「高い力」のことは十分に認め、そして、助けを得ていたのだと思う。
レアード・コーニク(Laird Koenig)は、Wikipedia(英語版)によれば、94歳で存命のようだ。








最後までふてぶてしく

良い本を沢山読んでいるのに駄目なやつっていうのは多い。
どういうやつかというと、すぐに不安になるやつだ。
言い換えれば、後ろ向きなやつ、マイナス思考のやつだ。
そういうのを一言でまとめると「心が弱い」になると思う。
そんなやつは、ちょっとうまくいかないと、あるいは、ちょっと悪い状況になると、たちまち不安になり、攻撃的になったり、周囲に親切そうな人がいると哀れっぽく頼ろうとする。
最近まで日本では、そんな状況には滅多なことではならなかったが、数ヵ月、お金が入ってこず、3日も食べられない状態になると、もうすっかりうろたえてしまう者が多い。
そして、今後は、日本でも、そんな者が多くなるかもしれない。
実際、今は、日本でも餓死する人が、年間で数百人もいるらしい。
だが、特殊な場合は別として、そんな人達は、餓死するより先に、不安に殺されているのだ。

イエスは、「鳥は働かないが、神はこれを養う。まして、お前たちは鳥よりもずっと値打ちがあるのだから、神が面倒を見てくれないはずがない」と言った。
私は餓死しかけたことはないが、どうにも困った状況になっても、いつも不思議に何とかなり、イエスの言うことは本当だなあと思ったが、当然、誰でも同じと思う。

楽天家を装ったり、引き寄せの法則を肯定しているようでいても、苦しくなると、すぐに挫けてしまうようであってはならない。
何とかなるのだ。

名女優のジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。
この映画のラストでは、ジョディが演じるリンという名の少女の美しい顔がずっと映される。
この若さで、表情だけで演技するジョディを見て、私は、つくづく、彼女は天才だなあと思ったものだ。
ちょっと、この映画のその状況を説明する。
リンという名の美少女は、ロリコンの変態のオッサンに、決定的な弱みを握られる。
それで、リンは、これまでは、そのオッサンを徹底的に避け、はっきりと強い敵意も見せていたが、逆らうことも、無礼な態度を取ることも、警察に頼ることすら出来なくなった。
ロリコンのオッサンにすれば、まさに、天国という状況だった。
オッサンは、ここまでくれば焦ることはないので、少女が一人っきりの家で、どっかりとソファーに座り、ご主人様気取りで、リンにお茶を入れさせる。
すると、ロリコンとはいえ、頭が良いオッサンは、リンが持って来た2つのお茶(紅茶)を、リンの前で入れ替える。毒が入っているかもしれないが、所詮、子供だ。
悠然とお茶を飲むオッサン。お茶を飲み終わったら、あんなことやあんなことを・・・と考えているのだろう。
その時のリンの顔が、ずっと映されるのだ。
リンの顔はさぞや怯えているかというと、リンの顔には何の不安もなく、微笑んですらいる。
まるで、今のトランプ大統領のふてぶてしさ、心の強さだ。
リンは、最初から微笑みを持っていたのだ。
『マスターの教え』で、マスターが言ったように、「正しい態度でいれば状況を支配出来る」のである。
私は、このリンの素晴らしい微笑みを忘れないようにしている。








身体と心を超える

4日前の日曜日、アレルギーの疑いのあるピーナッツを多量に食べたところ、その翌日の月曜に身体の広域に皮膚にアレルギー反応が出た。
ピーナッツのアレルギーは以前から疑ってはいたが、はっきりしなかったので、わざと多くに食べてみたのだったが、ここまでになるとは思わなかった。
私は、幼い頃から、アトピーか乾癬かは分からないが重度の皮膚病であるが、これまではなかった症状である、まぶたが腫れ、額や鼻の皮膚まで剥がれる始末だった。
特に首、肩、背中あたりは、赤黒く変色し、乾燥すると、紙やすりのように硬くザラザラだった。
抗ヒスタミン剤のおかげで、死ぬほどの痒みは免れているが、気味の悪い感覚で落ち着かない。
一昨日の火曜日も状況はほとんど変わらず、一昨夜は2~3時間しか眠れなかったが、昨夜は会食の約束があったので、午後8時から料亭に行った。予約されていた高級料理は、美味であったので文句はないが、アレルギーを起こしそうなものもあったし、長く食べていなかった米の寿司も食べた。
それでも早めに帰れたので、肌を乾燥させないために、風呂はやめてシャワーにしたが、背中や肩は岩のように固まり、不気味な感触に包まれた。まるで、皮膚の中に虫が這い回っているようだ。
全く搔かないように気をつけたまま、昨夜は遂に一睡もできなかったが、意識がやや朦朧(もうろう)とした時に、首と肩を激しく搔いてしまった。
そして、本日は、ややハードなスケジュールだ。
このくらいになると、もはや体調とか気力といった問題ではなく、肉体や心を超越した力を発揮する必要がある。
それを発揮できるチャンスとなった訳である。
心は澄み渡り、勝利の歌を奏でるために生きるというのは楽しいことである。

一週間前から、私は、『神様のメモ帳』(杉井光著)という小説を電子書籍(Kindle)で読み始め、昨日から3巻に入った。
アリスと名乗る外見は12歳くらいの、人形と見紛うような顔立ちで肌が真っ白な、黒い長い髪の少女が登場するが、この子は大人以上に賢い。放っておいたら、ドクターペッパー(原料非公開の1885年発売の炭酸飲料。アメリカ)以外のものを口にせず、1日1時間しか眠らない。
見かけの年齢よりはるかに大人びた賢い少女が登場する小説作品といえば、私は、ジョディ・フォスターが少女時代に主役を演じて映画化された『白い家の少女』を思い出す。
主人公の少女リンの14歳の誕生日であるハロウィーン(10月31日)から物語は始まる。
また、漫画『8マン』の正統な続編である『8マン インフィニティ』に登場する、外見は11~12歳くらいだろうか、マシナリー(超高度なアンドロイド)のボディーにインストールされた電子知性体アンナは、ほとんどアリスと同じような雰囲気がある。
ところで、『神様のメモ帳』の主人公の藤島鳴海(ふじしまなるみ)の誕生日は、リンと同じ10月31日だが、私の誕生日も同じである。
小説『白い家の少女』を翻訳したのは、若い時の加島祥造さんで(1977年刊)、私はこの数年、彼の、老子や荘子、イェイツ(イエーツ)に関する本をよく読んでいたが、この昔読んだ『白い家の少女』の翻訳が彼によるものとは長く気付かずにいた。

年齢を超えた知性を持つ子供というものは存在する。
それは、意識の持ち方次第なのであり、子供は無限の叡智と融合しやすいのだ。
だが、世間は、子供がそのようであることを好まない。
だから、リンは大人達と戦わなければならなかったし、それはアリスも同じことなのだろう。
そして、国家も、その裏の支配者も、人々が賢くあることを許さない。
それで、世間の教義や信念に従わない者を迫害し排除する仕組みを作ったのである。
しかし、我々は、今自分が思っているよりはるかに強い。
これらの作品を読んで参考にし、私が挑もうとしているように、身体と心を超えてみてはどうだろう?

















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これが最後のハロウィンなのか?

今日、10月31日はハロウィンといって、死者の霊が家族を訪れるとか言われているから、日本で言えばお盆のようなものか?
ただ、それと共に、精霊や魔女も現れると言われている。
ケルト人の伝統行事に起源を持つものらしいが、ケルトでは1年の終わりが、本日、10月31日であるらしい。その意味では、日本の大晦日でもある。
日本では、「盆と正月が一緒に来た」というのは、めでたいことなのだろうから、一応、そう思っても良いかもしれない。
ジョディ・フォスターが少女の頃に主演した映画『白い家の少女』は、ジョディ演じるリンという名の美少女の14歳の誕生日から始まるのだが、その日が、ハロウィンである10月31日だった。
リンは、1人で手作りのケーキを作り、1人で自分の誕生日を祝うつもりだったのだ。
リンはとても利発な少女で、父親は有名な詩人だった。父はリンに、「大人達は個性的なお前を認めないだろう。お前を攻撃し、押さえつけ、従わせようとするだろう」と言った。そして、そうなったら戦えと教えて死んだ。
さて、リンの父親は、彼女に勝ち目があると思ったのだろうか?
そうではあるまい。
岡本太郎も言っていたが、芸術家というのは、世間に対して言いたいことがあるものなのだ。
それは、まず、自分が世間に迎合したくないからだし、自分の可愛い娘が、世間のいいなりになるのは耐えられないことに違いない。
世間の教義と信念にひれ伏すくらいなら、傷付き倒れることを選べと言ったのだろう。それも愛というものだ。

ところで、1年の終りというのとスケールが違うが、古代マヤ暦が今年の12月中に終ることから、終末論が聞かれることがあり、ちょっと楽しみにしていたのだが、今はまだ、随分と静かに感じる。
何があるかは、人の言うことではなく、自分の直感で感じるものだ。
それで言うなら、破滅のようなことが起こるというのではないが、とても変わったことは起こるように思う。
1990年代に足立育朗さんが書かれた『波動の法則』では、特に今年と書かれていた訳ではないが、地球が別の場所にテレポートするとあった。
我々が言うクォークとはちょっと違うのだが、全ては、やはり最も基本的な構成単位であるクォークの状態になり、テレポート先で復元されるのらしい。ただ、その際、魂の成長度が低い者は、再び物質化されないという。
しかし、何が起こったとしても、その5分後には、ごく当たり前に感じる世界の中に当たり前に生きていて、何が起こったのかなんて誰も気付いていないかもしれない。
ひょっとしたら、1999年に地球は滅び、新しい世界が始まっているのかもしれないが、誰もそれに気付かず、「ノストラダムスの預言は外れた」なんて言っているのかもしれない。そう言ったら、「ああ、そうえいば・・・」と思う者もいるだろう。
そんなことを心において備えていれば、面白い体験になるかもしれないと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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