学校や会社、それに、テレビなどの「世間」は、我々に、皆と同じ平凡であることを強要する。
こう言えば、
「そんなことはない。学校も会社もテレビも、生徒や社員や国民に『個性的であれ』って言ってるじゃないか?」
と反論する人がいるだろう。
そうなのだ。
学校などは、下らないことで個性を持って満足しろと言っているのだ。
それで、重要なことで個性を持つことをタブーにさせているのだ。
だって、本当に個性的なら、学校になんて行かないからね。
たとえば、以前、テレビで、「納豆はかき混ぜてからタレをかけるか、タレをかけてからかき混ぜるか」という話題を取り上げ、それを、さも重要なことであるように、大真面目に熱く語り合っていた。町行く人々に、「あなたはどっち?」と聞き、「僕は絶対こっちですね」と気合が入った答え方をする人にスポットライトを当てたりもしていた。
そんな下らないことにテレビ放送枠を取ることで、そういったどうでもいいことを個性と感じるよう洗脳しているのだ。
そりゃ、どちらかの食べ方が好きな人はいるだろうし、味が違うと感じている人もいるかもしれない(ちなみに、私は味の違いが分からないが)。
しかし、そんなの、自分の好きにやれば良い・・・以外の、どんな考え方が必要だろう。
ところが、テレビの中で、食の専門家みたいな人が「先にタレをかける人は人生を半分損してます」と言う、超阿呆なことを言うのを、わざわざ流すのである。
こんな馬鹿げたことを考えるようにさせることで、本当に大切なことは「どうでもいい」と思わせるのである。
本当に大切なことは、少々難しい場合が多く、難しいことに取り組むのはダサいことだと感じるよう工夫もしているのだろう。
中高生では、スカートやズボンの丈の長さ、セーターの着方、帽子の被り方、小物の種類など、やはり、下らないことを個性だと主張する「訓練」をさせ、重要なことには目が向かないようにさせているのである。
そういった、どうでもいいことは好きにすればいいのに、そういったことで、流行に合っていないことがダサいと思わせ、流行という狭い枠の中で、どうでもいいことを個性と言ったりして、そういった馬鹿馬鹿しいことを個性として競うような馬鹿な頭を作るのである。
学校の課題図書なんてのも、同じような手法だろう。
皆が同じ本を読む必要性などどこにもないし、そもそも、課題図書に選ばれる本は下らない本が多い(それこそ洗脳用途の本?)。
「生徒の個性を考え、課題図書を複数用意しました。生徒は自由に選べます」などと言われても、本なんて無限にあるのだから大きなお世話である。
本一冊読むのには、そこそこ時間がかかり、一冊の本を読んでいる間、別の本は読めない。
つまり、下らない本を読ませることで、その人にとって本当に重要な本が読めないのである。
流行語大賞も、国民洗脳のイベントである。
重要な言葉など、他にも、そして、おそらくは、もっと重要な言葉があるし、個人にとって重要な言葉など無限だ。
それを、エントリーされた、多くはどうでも良い言葉に注目させ、「今年はこの言葉が重要でしたね」という、よほど頭が悪い者でないと喜ばないことを言い、確かに多くの者が喜ぶのを確認することで、国民の愚昧さが分かってほくそ笑んでいる者がいるのである。
『白い家の少女』(1976。カナダ、フランス、アメリカ合作)という、当時13歳だったジョディ・フォスターが主演した映画がある。
主人公は、イギリスからアメリカに移住して来たリンという名の美少女で、10月31日のハロウィンに彼女が14歳の誕生日を迎えるところから始まる。
彼女は、家具付きの立派な借家に住んでいたが、ある時、大家の女性が訪れる。
そして、リンと話をする中で、「あら、この家具はここじゃなく、ここに置くのよ」と言って、勝手に家具を移動させる。
リンが反発して「好きなようにさせて頂戴」と言うと、大家の女性は、「まあ、なんて生意気な子かしから」と怒って威嚇した。
リンは、もっと子供の時、父親にこう教わっていた。
「大人達は、賢くて個性的なお前を認めず、従わせようとするだろう。そんな時は戦うんだ。負けるな」
リンの父親は、リンを賢く育て、また、賢くある方法をちゃんと教えたのだろう。
だが、リンの戦い方は、あまり良いとは言えず、彼女の父親は賢い人ではあったが、どこか欠けていたのだと思う。
しかし、教えの精神は悪くない。
我々は、世間と戦うこともあるだろうが、その時は賢く戦うのだ。
SNSで政府や政治家に罵詈雑言を浴びせるだけでは、良い戦い方とは言えない。
また、当たり前に戦っても、権力に対して、絶対に、万に一つも勝ち目はない。
良い戦いとは、深い精神で戦うことだ。
そうすれば、行動が必要な時は、自ずと最良の行動に導かれる。
そのために、正しい意味で個性的に、真の意味で特別な存在でなければならない。
元々特別なのだから。
だが、皆でニコニコと「元々特別なオンリーワン」なんて歌って没個性になっているようでは、やつらの思うつぼである。
こう言えば、
「そんなことはない。学校も会社もテレビも、生徒や社員や国民に『個性的であれ』って言ってるじゃないか?」
と反論する人がいるだろう。
そうなのだ。
学校などは、下らないことで個性を持って満足しろと言っているのだ。
それで、重要なことで個性を持つことをタブーにさせているのだ。
だって、本当に個性的なら、学校になんて行かないからね。
たとえば、以前、テレビで、「納豆はかき混ぜてからタレをかけるか、タレをかけてからかき混ぜるか」という話題を取り上げ、それを、さも重要なことであるように、大真面目に熱く語り合っていた。町行く人々に、「あなたはどっち?」と聞き、「僕は絶対こっちですね」と気合が入った答え方をする人にスポットライトを当てたりもしていた。
そんな下らないことにテレビ放送枠を取ることで、そういったどうでもいいことを個性と感じるよう洗脳しているのだ。
そりゃ、どちらかの食べ方が好きな人はいるだろうし、味が違うと感じている人もいるかもしれない(ちなみに、私は味の違いが分からないが)。
しかし、そんなの、自分の好きにやれば良い・・・以外の、どんな考え方が必要だろう。
ところが、テレビの中で、食の専門家みたいな人が「先にタレをかける人は人生を半分損してます」と言う、超阿呆なことを言うのを、わざわざ流すのである。
こんな馬鹿げたことを考えるようにさせることで、本当に大切なことは「どうでもいい」と思わせるのである。
本当に大切なことは、少々難しい場合が多く、難しいことに取り組むのはダサいことだと感じるよう工夫もしているのだろう。
中高生では、スカートやズボンの丈の長さ、セーターの着方、帽子の被り方、小物の種類など、やはり、下らないことを個性だと主張する「訓練」をさせ、重要なことには目が向かないようにさせているのである。
そういった、どうでもいいことは好きにすればいいのに、そういったことで、流行に合っていないことがダサいと思わせ、流行という狭い枠の中で、どうでもいいことを個性と言ったりして、そういった馬鹿馬鹿しいことを個性として競うような馬鹿な頭を作るのである。
学校の課題図書なんてのも、同じような手法だろう。
皆が同じ本を読む必要性などどこにもないし、そもそも、課題図書に選ばれる本は下らない本が多い(それこそ洗脳用途の本?)。
「生徒の個性を考え、課題図書を複数用意しました。生徒は自由に選べます」などと言われても、本なんて無限にあるのだから大きなお世話である。
本一冊読むのには、そこそこ時間がかかり、一冊の本を読んでいる間、別の本は読めない。
つまり、下らない本を読ませることで、その人にとって本当に重要な本が読めないのである。
流行語大賞も、国民洗脳のイベントである。
重要な言葉など、他にも、そして、おそらくは、もっと重要な言葉があるし、個人にとって重要な言葉など無限だ。
それを、エントリーされた、多くはどうでも良い言葉に注目させ、「今年はこの言葉が重要でしたね」という、よほど頭が悪い者でないと喜ばないことを言い、確かに多くの者が喜ぶのを確認することで、国民の愚昧さが分かってほくそ笑んでいる者がいるのである。
『白い家の少女』(1976。カナダ、フランス、アメリカ合作)という、当時13歳だったジョディ・フォスターが主演した映画がある。
主人公は、イギリスからアメリカに移住して来たリンという名の美少女で、10月31日のハロウィンに彼女が14歳の誕生日を迎えるところから始まる。
彼女は、家具付きの立派な借家に住んでいたが、ある時、大家の女性が訪れる。
そして、リンと話をする中で、「あら、この家具はここじゃなく、ここに置くのよ」と言って、勝手に家具を移動させる。
リンが反発して「好きなようにさせて頂戴」と言うと、大家の女性は、「まあ、なんて生意気な子かしから」と怒って威嚇した。
リンは、もっと子供の時、父親にこう教わっていた。
「大人達は、賢くて個性的なお前を認めず、従わせようとするだろう。そんな時は戦うんだ。負けるな」
リンの父親は、リンを賢く育て、また、賢くある方法をちゃんと教えたのだろう。
だが、リンの戦い方は、あまり良いとは言えず、彼女の父親は賢い人ではあったが、どこか欠けていたのだと思う。
しかし、教えの精神は悪くない。
我々は、世間と戦うこともあるだろうが、その時は賢く戦うのだ。
SNSで政府や政治家に罵詈雑言を浴びせるだけでは、良い戦い方とは言えない。
また、当たり前に戦っても、権力に対して、絶対に、万に一つも勝ち目はない。
良い戦いとは、深い精神で戦うことだ。
そうすれば、行動が必要な時は、自ずと最良の行動に導かれる。
そのために、正しい意味で個性的に、真の意味で特別な存在でなければならない。
元々特別なのだから。
だが、皆でニコニコと「元々特別なオンリーワン」なんて歌って没個性になっているようでは、やつらの思うつぼである。