CLAMPの漫画『東京BABYLON』(1990~1993)の中で、こんな哀れな老人の話を見た覚えがある。
ある善良なおじいさん(と言っても、孫がまだ幼いので60歳そこそこか)がいた。
彼は、娘夫婦の家に住んでいたが、露骨ではないながら厄介者感扱いで、居心地は悪い。
ある時、娘の子供である幼い2人の孫が、おじいさんに不意に尋ねる。
「おじいさんはいつ死ぬの?」
孫たちは明るく無邪気な顔で悪意はなさそうだが、さすがにおじいさんは戸惑った。
すると、すぐに孫たちの方から、質問の意味を言う。
「お母さんが、おじいちゃんが死んだら、僕たちは部屋を1つずつもらえるって言ったんだ」
ショックを受け、愕然とするおじいさんだが、孫たちは自分たちが言っていることの意味も分からず「楽しみだなあ」と言って笑う。
このおじいさんは、孫たちの母親である娘を、生まれた時からずっと可愛がり、娘の幸せのためなら、何でもやってあげたようだった。
しかし、その娘が、今や、孫に、そんなことを言うようになってしまった。
結局、この作品では、主人公の陰陽師である皇昴流(すめらぎ すばる)は、このおじいさんの娘に間違いを悟らせ、事故で死んだおじいさんの霊は、娘を恨むこともなく微笑んでいたという結末であった。
だが、悪いのは、この娘だけだろうか?
この作品では、そういうことになっていると思って良い。
まあ、おじいさんの欠点を責めたら外道扱いであろう。
おじいさんの非は確かにないが、そんな辛い生き方をしなければならない理由はない。
だから、おじいさんには、非はなくても、確かに、何かが欠けていたのである。
それは個性である。
このおじいさんは、あまりに、どこにでもいるおじいさんで、際立った特徴が何もなかった。
そんな者は、自分を快適にする力を持つことは出来ない。
もっとも、ある優秀な霊能者が言うには、個性のない者の無力さを実感するため、敢えて個性のない人間になって、このおじいさんのように生きる魂もあるらしいが、我々が真似する必要はあるまい。
我々は、単なる善人であってはならない。
そんな小善人よりは、個性のある悪人の方が良い思いをして生きることが出来る。
確かに、宗教家の五井昌久氏も「小善人になるくらいなら大悪人になれ」と言ったが、現実的に悪人になどなれない。
しかし、小善人に留まらない方法を教えてくれない。
その方法は、個性を磨くことだ。
私が、最も個性があると思う人間の1人に、野球のメジャーリーグ最後の4割バッターであるテッド・ウィリアムズがいる。
彼は、少年時代から、起きている時間の全てでバッティングの練習をしたがった。
夜は、親がベッドに押し込まない限り、バッティングの練習を止めなかった。
彼が奥さんにプロポーズした時、奥さんが、
「私を1番に愛してくれる?」
と尋ねると、ウィリアムズは、
「いや駄目だ。1番は野球。2番は釣り。3番が君だ」
と答えたらしい。実に個性的で良い。
これで思い出すのが、ノーベル賞作家アルベール・カミュの傑作短編『異邦人』の主人公の青年ムルソーだ。
若く美しい娘マリーが、ムルソーに、
「結婚してくれる?」
と尋ねると、ムルソーは考えることもなく、
「いいよ」
と答えた。
しかし、マリーが喜んで、
「私を愛してる?」
と尋ねると、
「わからない。でも、多分、愛してない」
と答えた。
なんと個性的で良いではないか?(笑)
私は、このことに限らず、全編を通じて、このムルソーが大好きなのだ。
ムルソーのこの個性は、どうやって育ったのか、とても興味深い。
コリン・ウィルソンも『アウトサイダー』の初っ端あたりで分析していたが、彼の話は曖昧で分かり難い(笑)。
ムルソーは、非道者扱いされることもあるが、私は、彼は途方もなく優しいのだと思う。
途方もなく優しいと言えば、漫画『8マン インフィニティ』(2004~2007。意外に高度な作品)の主人公、光一がいる。
16歳の彼は、人を救うためなら、自分の命を何とも思わない。
何とも興味深い。
とにかく、いろんな、真に個性のある人間を見て、個性について知ると良いと思う。
ある善良なおじいさん(と言っても、孫がまだ幼いので60歳そこそこか)がいた。
彼は、娘夫婦の家に住んでいたが、露骨ではないながら厄介者感扱いで、居心地は悪い。
ある時、娘の子供である幼い2人の孫が、おじいさんに不意に尋ねる。
「おじいさんはいつ死ぬの?」
孫たちは明るく無邪気な顔で悪意はなさそうだが、さすがにおじいさんは戸惑った。
すると、すぐに孫たちの方から、質問の意味を言う。
「お母さんが、おじいちゃんが死んだら、僕たちは部屋を1つずつもらえるって言ったんだ」
ショックを受け、愕然とするおじいさんだが、孫たちは自分たちが言っていることの意味も分からず「楽しみだなあ」と言って笑う。
このおじいさんは、孫たちの母親である娘を、生まれた時からずっと可愛がり、娘の幸せのためなら、何でもやってあげたようだった。
しかし、その娘が、今や、孫に、そんなことを言うようになってしまった。
結局、この作品では、主人公の陰陽師である皇昴流(すめらぎ すばる)は、このおじいさんの娘に間違いを悟らせ、事故で死んだおじいさんの霊は、娘を恨むこともなく微笑んでいたという結末であった。
だが、悪いのは、この娘だけだろうか?
この作品では、そういうことになっていると思って良い。
まあ、おじいさんの欠点を責めたら外道扱いであろう。
おじいさんの非は確かにないが、そんな辛い生き方をしなければならない理由はない。
だから、おじいさんには、非はなくても、確かに、何かが欠けていたのである。
それは個性である。
このおじいさんは、あまりに、どこにでもいるおじいさんで、際立った特徴が何もなかった。
そんな者は、自分を快適にする力を持つことは出来ない。
もっとも、ある優秀な霊能者が言うには、個性のない者の無力さを実感するため、敢えて個性のない人間になって、このおじいさんのように生きる魂もあるらしいが、我々が真似する必要はあるまい。
我々は、単なる善人であってはならない。
そんな小善人よりは、個性のある悪人の方が良い思いをして生きることが出来る。
確かに、宗教家の五井昌久氏も「小善人になるくらいなら大悪人になれ」と言ったが、現実的に悪人になどなれない。
しかし、小善人に留まらない方法を教えてくれない。
その方法は、個性を磨くことだ。
私が、最も個性があると思う人間の1人に、野球のメジャーリーグ最後の4割バッターであるテッド・ウィリアムズがいる。
彼は、少年時代から、起きている時間の全てでバッティングの練習をしたがった。
夜は、親がベッドに押し込まない限り、バッティングの練習を止めなかった。
彼が奥さんにプロポーズした時、奥さんが、
「私を1番に愛してくれる?」
と尋ねると、ウィリアムズは、
「いや駄目だ。1番は野球。2番は釣り。3番が君だ」
と答えたらしい。実に個性的で良い。
これで思い出すのが、ノーベル賞作家アルベール・カミュの傑作短編『異邦人』の主人公の青年ムルソーだ。
若く美しい娘マリーが、ムルソーに、
「結婚してくれる?」
と尋ねると、ムルソーは考えることもなく、
「いいよ」
と答えた。
しかし、マリーが喜んで、
「私を愛してる?」
と尋ねると、
「わからない。でも、多分、愛してない」
と答えた。
なんと個性的で良いではないか?(笑)
私は、このことに限らず、全編を通じて、このムルソーが大好きなのだ。
ムルソーのこの個性は、どうやって育ったのか、とても興味深い。
コリン・ウィルソンも『アウトサイダー』の初っ端あたりで分析していたが、彼の話は曖昧で分かり難い(笑)。
ムルソーは、非道者扱いされることもあるが、私は、彼は途方もなく優しいのだと思う。
途方もなく優しいと言えば、漫画『8マン インフィニティ』(2004~2007。意外に高度な作品)の主人公、光一がいる。
16歳の彼は、人を救うためなら、自分の命を何とも思わない。
何とも興味深い。
とにかく、いろんな、真に個性のある人間を見て、個性について知ると良いと思う。

