ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

生命への畏敬

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

荘厳な言葉の力

「密林の聖者」と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーは、フランス人ということになっているが、その90年の人生のほぼ前半の半分はドイツ人だった。
それは複雑な当時のヨーロッパの事情に因ることだ。
それはともかくだが。
シュヴァイツァーがたどり着いた究極の思想・哲学は「生命への畏敬」だった。
「畏敬(いけい)」とはまた難しい言葉だが、とても印象的に感じるかもしれないと思う。
畏敬とは、「崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと」で、多分、「畏」の文字に馴染みが薄いと思うが、「畏」は、「畏(かしこ)まる」という使い方をする。
「畏」は、うやまう、かしこまるという意味だ。
人間は、畏を失くした時に堕落するが、現代の日本人には、敬い、畏まる気持ちは少ない。つまり、既に、かなり堕落している。

「生命への畏敬」の言葉には、シュヴァイツァーの、「生命とは敬い、畏まるべき究極のもの」という想いが感じられると思う。
畏敬するものを示す言葉に集中すると、心は外に向かわなくなり、内に潜入していく。
いつも述べるが、外の世界への関心を弱め、意識を内部に向けるほど、人間は神に近付く。
それは、万能の知恵・力と融合するということだ。
生命とは自然であり、生命を畏敬するということは、自然を荘厳なものと感じることである。
人間は、荘厳に感じるものを畏敬するのである。
我々は、畏敬し、荘厳と感じるものを、しっかりと持っていれば、いつでも、意識を外の世界から引き上げ、自己の内部を見つめ、神と溶け合うことができる。
だから、真っ直ぐな心を持っていれば、「生命」、「自然」という言葉に想いを寄せるだけで、外部の物質的なものから離れ、内部の霊的なものに同調するのである。
もし、「愛」という言葉に、畏敬、荘厳を感じるなら、愛という言葉を想うだけで、至高の知恵と力に一致していく。

無論、畏敬する言葉、荘厳に感じる言葉を、魔法を行使するための公式にしてはいけないが、事実上はそうなるのである。
だから、使う場合には、荘厳なる公式として使わなくてはならない。
面白半分に、あるいは、自己中心的に使うと大変なことになる。
だが、これらが、力のある言葉、加護の言葉であることも確かである。
それほどおかしなことではないと思うが、困った時には、そのような言葉に集中すると奇跡が起こり、大難は小難に、小難は無難になる。
その言葉に普段から馴染んでいれば、いかなる大難も無難になる。
都合の良い考え方のように思われるところもあるだろうが、実際そうである。

「生命」、「自然」は、程度の違いはあっても、ほとんど誰でも、畏敬し、荘厳に感じる言葉だ。
「自然な」という言葉ほど、人間が安心する言葉がないことからも明らかだ。
ヴァイオリンという言葉が、その人にとって、生命や自然と一体化しているなら、ヴァイオリンという言葉が、その人を「ぐいっと」神に引き寄せる。
それが、オートバイとか、ウルトラマンである場合だってあるだろう。
物質的な名前は確かに本質ではないのだが、それらを通して、心が内部に向かい、外の世界を消し去るなら、それは、その人にとって貴い言葉といえるだろう。
私にも、あるいは、誰にでも、そんな言葉はあるはずだ。

本当は、究極の言葉は「神」であるのかもしれないが、世間での神という言葉はあまりに汚れてしまっている。
だが、神という言葉を純化するなら、至高の言葉になる。
理解しにくいかもしれないが、「私」という言葉も同じである。
神という言葉が輝きを取り戻し、私と一致する時が地球人が宇宙人に飛躍する時なのだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

恋と愛とはどう違う

恋と愛とはどう違うかなんて、昔からよく言われることだが、ちゃんと分かっている人は少ない。
恋とは、心の働きであり、人間には心があるので、人間は恋をすることができる。
「寝ても醒めても」恋することはできない。寝てる者に心は無いからだ。
寝言で「さとみちゃん!」と言う時は、夢を見ているのだ。夢を見ている時というのは心は消えておらず、存在している。だから、恋ができる。夢を見ている時、心は、肉体の身体との関係性を弱め、心で造った仮想の身体と結び付いているのである。心は身体と結び付かずに存在できないからだ。
だが、夢のない完全な眠りの中にも愛はある。
そんな馬鹿なと思うかもしれないが本当だ。
いや、真実を言えば、夢のない深い眠りの中にしか愛はなく、また、深い眠りは愛そのものだ。
人間が愛の状態にある時を言葉で言えば、無心、無我、夢中であり、これらは、いずれも心が無い状態のことを示している。
結論をいうなら、心を持った人間に、恋はできるが、愛することはできない。心が消えた時が愛である。

恋は必ず終る。
愛は決して終らない。
言い換えれば、終るのが恋で、永遠なものが愛だ。
なぜなら、心は変化するというのが、その根本的な性質だからだ。
対して、愛は永遠であるというのが、その本質なのだ。
妻や夫に対し、生涯、恋しようと努力する者がよくいる。それは必ず失敗し、憎みあうようになる。
そんなことは、少し知恵ある者にはあまりに自明であるのだ。

では、この「恋」をどう扱えば良いのだろう?
これは重要なことだ。
キリスト教の牧師は、結婚式で、相手を「いかなる時も敬うか?」と尋ねる。「いかなる時も恋するか」とは絶対に言わない。
キリスト教の結婚式を見ると、恋を敬意に変える重要性を、昔の聖職者は知っていたのだということが分かるのである。
このことを説明する。
「敬う」というのは、心に可能な、最高の機能だ。
そして、恋というのは、「敬意へと導く餌」にしか過ぎないし、そうであってこそ価値があるのだ。
「敬う」というのは、相手を自分より価値が高く、貴いと感じることだ。
神でない人間は愚かであるが、鍛えれば、何とか敬うことだけはできるのだ。
だから、「敬うことができるほどに進歩した時に結婚できる」のである。
敬うということができるほどに心を発達させないまま結婚すると、必ず離婚する。
恋を通じて敬意を学べるよう、一応は、自分より優れていると思う相手に憧れ、恋するように、人間は造られているのだ。

敬意という扉を通して、心は神である聖霊と通じ合う。
すると、心は退き、神にひれ伏す。これを、心が「純粋になった」という。
アルベルト・シュヴァイツァーは、究極の哲学とは、「生命への畏敬」であると言った。
難しい言い方であるが、早い話が、生命である神を敬うということだ。学者のように難しい話をする必要はない。
ルー・テーズという、史上最高のプロレスラーは、家が貧しくて高校に行けなかったが、高校のレスリング部の練習にだけは参加させてもらった。彼は、レスリングを敬っていた。だから、名レスラーだが、弟子を潰してしまうことで知られたジョージ・トラゴスは、テーズだけは可愛がった。他の弟子には、レスリングに対するリスペクト(尊敬)がなかったから、トラゴスはまともに教えなかったし、見込みなしとして壊してしまった。その方がレスリングのためだからだ。テーズは、最高のレスラーとしてのトラゴスを、そして、レスリングを、この上なく尊敬していたことは、彼自身が明かしている。
このように、男女の恋を通さずに敬意を持つ者は、結婚する必要は本来ない。

松下幸之助や本田宗一郎を尊敬しているなんて人は多い。
嘘である。連中は金を敬っているのだ。
もっとはっきり言えば、金がもたらす快感を敬っているのである。
イエスは「2人の主人に同時に仕えることはできない」と言った。つまり、神と悪魔を同時に敬うことはできないのだ。
上辺で松下幸之助を尊敬する浅ましい連中は、悪魔に仕えているのである。
だから、一文無しの松下幸之助であるインドの聖者を軽蔑するのだ。
松下幸之助なら、ラマナ・マハルシが自分にはるかに優ることを知っていただろう。イエスも釈迦も一文無しだったのだ。

敬い合う夫婦は、心が退いているので、恋の欠片もないが、愛が出てきているので、生涯、良い関係でいられる。
夫や妻に、通俗的な意味で、魅力的な「いい男」「いい女」でい続けることを求める者達は、恋はあるが、それだけに心が強く存在し、退かないので、愛が出てこない。そして、心とは変わるものであり、お互い、違う恋を求め、別の「いい男」「いい女」に引き寄せられるのは不思議なことでも何でもない。その時、夫婦の間の感情は、恋から憎しみに変わる。そして、そんな2人は分かれる以外に道はない。実に単純なことだ。
夫婦は、恋をどれだけ早く捨てられるかが大切なのだ。
こんな簡単なことを、なぜ誰も教えないのか、不思議なものである。
「汝敗れたり!我が後方に退けサタン!」
夫婦とは、イエスのこの言葉を実践するためにあるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

あらためて生命の話

私は、平坂読さんの『僕は友達が少ない』という小説が気に入っていて、現在刊行されている7巻までを再読し、アニメも録画を何度も繰り返して見ている。面白いだけでなく、良いお話だとも思う。しかし、どうしても承服できないことがある。
2人の美しいヒロイン、夜空と星奈は、人間的な美点もあるが、根本的には未熟で欠点が多いのは仕方がないところもある。しかし、それでも、この2人が、「殺す」「死ね」という言葉をやたら使うことは(使わせることは)良いことではない。
最近は、若い人に限らず、簡単に、そういった言葉(あるいは、そんな意味を込めた言葉)が使われるように思われる。

密林の聖者と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーが行き着いた哲学は「生命への畏敬」だ。つまるところは、命を何よりも大切なものとして崇拝することであるが、それを権威的に受け入れるのではなく、また、知的に理解するのでもなく、我々は生命の大切さを知らなければならない。
シュヴァイツァーは、文字通り、虫一匹殺さなかった。殺せなかったというのが正しい。彼が診療所を開いていたアフリカの未開地には、病原菌を運ぶハエも沢山いたが、シュヴァイツァーは、紙コップを常備し、部屋の中のハエを捕らえて外に出し、また、実験のため、やむなく蚊を解剖する時も、苦しげな顔で行ったという。

CLAMP(4人組の漫画家ユニット)の1995年頃の漫画作品『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』という作品で、ヒロインの14歳の少女、光(ひかる)が、異世界の青年イーグルの命を救うため、2人とも消滅する危機に陥る場面がある。イーグルは不治の病に冒されており、もう長くはなく、彼は愛する光に、そのことを思い出させて自分を置いていくよう説得する。その時、光が言った、「それでも、せいいっぱい最後まで生きなきゃ」という言葉をよく憶えている。実は、作品のその部分で、著者は、確かに素晴らしいことを沢山書いてはいたのだが、この一言で十分であったと思う。
CLAMPといえば、最近の『BLOOD-C』(共作)でもそうだが、作品の中で、容赦なく大勢の人間を殺すことがある。もちろん、決して殺人奨励ではなく、少し前の『ちょびっツ』では、人型パソコン(アンドロイドと同じ)一体の命すら厳粛に描いて見せるところは、アシモフの『われはロボット』すら彷彿(ありありと想像すること)させ、それがCLAMP作品の本質だとは思う。しかし、やはり、人が簡単に死ぬシーンは精神への刺激が大き過ぎると思う。(実際、私は病状を示した)

最近は、原発の話題が巷に溢れているが、平井和正さんと桑田次郎さんの漫画作品『デスハンター』で、主人公の青年、田村俊夫は、もうすぐ原発が爆発する島を脱出するヘリに乗ることをやめ、島に残ることを決意した。それは、島に残っている、リュシールという少女を見捨てることができないからだった。リュシールは、死んでいるかどうかも分からなかったし、生きているとしても、長くはなかった。テロリスト達の拷問を受け、全身に赤くなるまで熱した鉄の棒の焼きごてを当てられ、顔の皮を剥がれた上、全身に銃弾を撃ち込まれていたからだ。俊夫が島に残ることに、何の意味もなかった。だが、彼はそうした上、さらに、俊夫の仲間の林石隆もそれに倣った。実は、俊夫も林も、それまで、冷酷非情な殺し屋であったのだ。

これらの、理屈で考えると不合理で馬鹿げたことでも、真剣によく考えてみたいと思う。
生命というものは、我々が頭で考えるよりはるかに神秘なものだ。
生命と自然と神は同じものだ。「自然な」ということほど、全てにおける適切な指針がないことに気が付かないだろうか?
「殺す」「死ね」という言葉は、どんな悪人、どんな未熟者が使っても、やはり不自然なのだ。
上にあげた、光や俊夫の行為は、どんなに馬鹿げて見えても自然なのである。
自然な行いをする時、人は神と一致しているのである。奇跡を起こす鍵もそこにあることは、容易く分かると思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード