「密林の聖者」と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーは、フランス人ということになっているが、その90年の人生のほぼ前半の半分はドイツ人だった。
それは複雑な当時のヨーロッパの事情に因ることだ。
それはともかくだが。
シュヴァイツァーがたどり着いた究極の思想・哲学は「生命への畏敬」だった。
「畏敬(いけい)」とはまた難しい言葉だが、とても印象的に感じるかもしれないと思う。
畏敬とは、「崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと」で、多分、「畏」の文字に馴染みが薄いと思うが、「畏」は、「畏(かしこ)まる」という使い方をする。
「畏」は、うやまう、かしこまるという意味だ。
人間は、畏を失くした時に堕落するが、現代の日本人には、敬い、畏まる気持ちは少ない。つまり、既に、かなり堕落している。
「生命への畏敬」の言葉には、シュヴァイツァーの、「生命とは敬い、畏まるべき究極のもの」という想いが感じられると思う。
畏敬するものを示す言葉に集中すると、心は外に向かわなくなり、内に潜入していく。
いつも述べるが、外の世界への関心を弱め、意識を内部に向けるほど、人間は神に近付く。
それは、万能の知恵・力と融合するということだ。
生命とは自然であり、生命を畏敬するということは、自然を荘厳なものと感じることである。
人間は、荘厳に感じるものを畏敬するのである。
我々は、畏敬し、荘厳と感じるものを、しっかりと持っていれば、いつでも、意識を外の世界から引き上げ、自己の内部を見つめ、神と溶け合うことができる。
だから、真っ直ぐな心を持っていれば、「生命」、「自然」という言葉に想いを寄せるだけで、外部の物質的なものから離れ、内部の霊的なものに同調するのである。
もし、「愛」という言葉に、畏敬、荘厳を感じるなら、愛という言葉を想うだけで、至高の知恵と力に一致していく。
無論、畏敬する言葉、荘厳に感じる言葉を、魔法を行使するための公式にしてはいけないが、事実上はそうなるのである。
だから、使う場合には、荘厳なる公式として使わなくてはならない。
面白半分に、あるいは、自己中心的に使うと大変なことになる。
だが、これらが、力のある言葉、加護の言葉であることも確かである。
それほどおかしなことではないと思うが、困った時には、そのような言葉に集中すると奇跡が起こり、大難は小難に、小難は無難になる。
その言葉に普段から馴染んでいれば、いかなる大難も無難になる。
都合の良い考え方のように思われるところもあるだろうが、実際そうである。
「生命」、「自然」は、程度の違いはあっても、ほとんど誰でも、畏敬し、荘厳に感じる言葉だ。
「自然な」という言葉ほど、人間が安心する言葉がないことからも明らかだ。
ヴァイオリンという言葉が、その人にとって、生命や自然と一体化しているなら、ヴァイオリンという言葉が、その人を「ぐいっと」神に引き寄せる。
それが、オートバイとか、ウルトラマンである場合だってあるだろう。
物質的な名前は確かに本質ではないのだが、それらを通して、心が内部に向かい、外の世界を消し去るなら、それは、その人にとって貴い言葉といえるだろう。
私にも、あるいは、誰にでも、そんな言葉はあるはずだ。
本当は、究極の言葉は「神」であるのかもしれないが、世間での神という言葉はあまりに汚れてしまっている。
だが、神という言葉を純化するなら、至高の言葉になる。
理解しにくいかもしれないが、「私」という言葉も同じである。
神という言葉が輝きを取り戻し、私と一致する時が地球人が宇宙人に飛躍する時なのだろう。
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それは複雑な当時のヨーロッパの事情に因ることだ。
それはともかくだが。
シュヴァイツァーがたどり着いた究極の思想・哲学は「生命への畏敬」だった。
「畏敬(いけい)」とはまた難しい言葉だが、とても印象的に感じるかもしれないと思う。
畏敬とは、「崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと」で、多分、「畏」の文字に馴染みが薄いと思うが、「畏」は、「畏(かしこ)まる」という使い方をする。
「畏」は、うやまう、かしこまるという意味だ。
人間は、畏を失くした時に堕落するが、現代の日本人には、敬い、畏まる気持ちは少ない。つまり、既に、かなり堕落している。
「生命への畏敬」の言葉には、シュヴァイツァーの、「生命とは敬い、畏まるべき究極のもの」という想いが感じられると思う。
畏敬するものを示す言葉に集中すると、心は外に向かわなくなり、内に潜入していく。
いつも述べるが、外の世界への関心を弱め、意識を内部に向けるほど、人間は神に近付く。
それは、万能の知恵・力と融合するということだ。
生命とは自然であり、生命を畏敬するということは、自然を荘厳なものと感じることである。
人間は、荘厳に感じるものを畏敬するのである。
我々は、畏敬し、荘厳と感じるものを、しっかりと持っていれば、いつでも、意識を外の世界から引き上げ、自己の内部を見つめ、神と溶け合うことができる。
だから、真っ直ぐな心を持っていれば、「生命」、「自然」という言葉に想いを寄せるだけで、外部の物質的なものから離れ、内部の霊的なものに同調するのである。
もし、「愛」という言葉に、畏敬、荘厳を感じるなら、愛という言葉を想うだけで、至高の知恵と力に一致していく。
無論、畏敬する言葉、荘厳に感じる言葉を、魔法を行使するための公式にしてはいけないが、事実上はそうなるのである。
だから、使う場合には、荘厳なる公式として使わなくてはならない。
面白半分に、あるいは、自己中心的に使うと大変なことになる。
だが、これらが、力のある言葉、加護の言葉であることも確かである。
それほどおかしなことではないと思うが、困った時には、そのような言葉に集中すると奇跡が起こり、大難は小難に、小難は無難になる。
その言葉に普段から馴染んでいれば、いかなる大難も無難になる。
都合の良い考え方のように思われるところもあるだろうが、実際そうである。
「生命」、「自然」は、程度の違いはあっても、ほとんど誰でも、畏敬し、荘厳に感じる言葉だ。
「自然な」という言葉ほど、人間が安心する言葉がないことからも明らかだ。
ヴァイオリンという言葉が、その人にとって、生命や自然と一体化しているなら、ヴァイオリンという言葉が、その人を「ぐいっと」神に引き寄せる。
それが、オートバイとか、ウルトラマンである場合だってあるだろう。
物質的な名前は確かに本質ではないのだが、それらを通して、心が内部に向かい、外の世界を消し去るなら、それは、その人にとって貴い言葉といえるだろう。
私にも、あるいは、誰にでも、そんな言葉はあるはずだ。
本当は、究極の言葉は「神」であるのかもしれないが、世間での神という言葉はあまりに汚れてしまっている。
だが、神という言葉を純化するなら、至高の言葉になる。
理解しにくいかもしれないが、「私」という言葉も同じである。
神という言葉が輝きを取り戻し、私と一致する時が地球人が宇宙人に飛躍する時なのだろう。
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