理系、文系という言葉があり、「今の時代は理系発想が出来ないと駄目だ」といったことを言う人がよくいる。
しかし、理系とは何か、文系とは何かの定義は、各人マチマチで、はっきりしない。
『美少女戦士セーラームーンSuperS』や、現在公開中の『劇場版美少女戦士セーラームーンEternal』のエンディング曲『“らしく”いきましょ』は、原作者の武内直子さん自ら作詞した曲だが、その中に、

きいて週末に あるいていたの
年上のヒトと ふたまたかけてる
ピンときたの 理系カンカク

という歌詞がある。
武内直子さんが薬学部出身の理系ということらしいが、この詩のどこが「理系カンカク」なのか分からない。むしろ、当時としては子供向けの番組の歌に、こんな詩を書く「感覚」が「理系カンカク」なのかと思ってしまう。
まあ、冷静な判断をしていると言えば理系的かもしれないが・・・

一般的には、数学が出来るか、科学技術に強いかで、ぼんやり、かつ、ざっくりと理系、文系に分けられていると思うが、数学は出来るが科学技術は弱いとか、科学技術には通じているが数学は嫌いという人は結構いると思う。

早い話、理系、文系なんて違いは本当はない。
理系、文系と言って話をする時、話者がそれぞれ独自の定義をしているのである。
ただ、こういうことは言える。
人間は、自分が知らないことに出会った時に、想像力を働かせる。
その、想像が、「推測」か「空想」かで、人は分けられ、「推測」で想像するのが理系、「空想」で想像するのが文系みたいには考えられる。
例えば、昔、人々に宇宙人という概念がなかった時、別の惑星に住む宇宙人が、どんな姿なのかを「想像」するとする。
そこで、タコのような姿を「空想」するか、「人間は手を使えることで知性を発達させたのだから手はあるだろうし、手を自由に使うには直立が必要なので、結局、人間と似た姿になる」と「推測」するかの違いだ。
ところが、『メッセージ』という2016年の映画では、善意ある宇宙人はタコ型なのだが、その脚(みたいなもの)を手のように使うという設定にしていて、これも、推測的想像かもしれない。
こう考えると、推測的想像の方が正しく、賢いように思えるが、実際は、推測と空想には、それぞれ一長一短がある。

推測には根拠ある知識や理論が必要だが、空想には、それが無くても良い。
だから、空想は非現実的になることも多いが、推測は、既存の知識や理論に縛られてしまうという欠点がある。

ところが、直観というものは、推測と空想、あるいは、理系、文系の壁を超える。
知識も理論も不要で、正しいことが瞬間に分かる凄い能力である。
「いや、直観にだって、知識や理論は必要」と言うかもしれないが、知識や理論を持っていない者が、直観で、知識や理論を持っている者より正しい答を出すこともある。

結局、人間の想像には、次の3つがある。
・推測的想像
・空想的想像
・直観的想像
だが、直観的想像は、推測的想像、空想的想像を、はるかに超えている。
ちなみに、AI(人工知能)は推測的想像をする「だけの」ものである。
空想的想像も役に立つが、AIには、それは出来ない。
さらには、直観的想像はAIには出来ない。
だから、AIがいくら進歩しても、決して、人間には敵わない。
単に、AIは、悪用するには強力過ぎる・・・それは、原爆から「推測」すれば分かることで、原爆が人間より優れているとは言わないように、AIが人間より優れていることは全くない。

で、最終的に人間を決めるのは、次のことである。
「神を直観出来るか」

「神がいるかだって?神でないものがどこにあるのだ?」
と言ったアインシュタインは、神を直観していたのだ。
古代の賢者の直観によれば、神を直観するためには、ナーマスマラナ(神の名を心で唱える行。純粋な念仏もその1つ)を行うしかない。
正確には、他に方法がないわけではないが、実践が極めて難しい。
ただ、神を直観することを第1レベルとすれば、第2レベルの直観を得るには、真言の方が速い場合がある。
私も、ナーマスマラナ(私の場合「アミダ」等だが)と真言(私の場合「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」等だが)を併用するのは、そのためもある。
超能力やちょっとした願望実現なら、真言の方が速いかもしれない。