ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

王貞治

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

一本足打法と一指禅

王貞治さんという、日本のプロ野球でホームランを868本(一軍のレギュラーシーズン)打った人がいる。
彼は、「一本足打法」という、ピッチャーがボールを投げる時から左足一本で立つ(彼は左打者)という独特の打ち方を、デビュー4年目から引退するまで続けた。
ところで、もっと不思議に思われても良いようなものだが、それほど凄い打撃方法であるなら、もっと沢山の人が一本足打法をやっても良さそうなものだが、他に一本足打法で知られる選手は、ほぼ皆無であると思う。
これに関しては、まあ、「難しいから」というのが理由になっているのだと思うが、本当のところを言うと、この打撃方法には、打撃としての合理性がないからで、実際には確実に不利になる打撃方法と言って間違いないと思う。
野球、そして、バッティングが本当に分かっている人なら、一本足打法を選手に薦めたりは絶対にしないと思う。
王さんだって、別に、論理的に効率が良いから、この打撃を続けた訳ではないはずだ。
それでも、王さんんは、この打撃のおかげでホームランをあれだけ打てたことも確かである。

一本足打法の何が良いのかというと、一本足になることで、呼吸が自然に止まることだ。
息を止めるというのではなく、空気の出入りがなくなるのである。
例えば、普通でも、驚いた時や感動した時に息が止まるのと似ている。
正確には、一本足になっても、呼吸が完全に止まっているというより、呼吸が極めて微かになっているのだろう。
呼吸が消えれば、内部に宿る潜在能力が引き出されるのである。
きっと、王さんがスランプだった時というのは、一本足になりながらも、余計な呼吸をしていたのだろう。

禅の公案の話であるが、中国に倶胝(ぐてい)という和尚さん(お寺で一番格上の僧。住職)がいた。
倶胝は、いかなる相談の質問をされても、右手の人差し指を一本立てるだけであった。
倶胝は、この指を一本立てる「一指禅」を、彼の師匠の天竜から教わり、臨終の際には、
「天竜先生に教わった一指禅を一生かかっても使い切れなかった」
と言ったことになっているようだ。
ある時、倶胝の寺の小坊主が、倶胝の真似をして、右手の人差し指を立てたのだが、それを聞いた倶胝は、その小坊主を呼び出し、小坊主の右手の人差し指を切り落とした(あくまで架空の話だ)。
泣き叫んで出て行こうとする小坊主を呼び止めた倶胝は、右手の人差し指をすっと立てた。
その瞬間、小坊主は悟った。

この禅の公案(問題)は、「このお話の意味は?」である。
そして、昔から、偉い先生達が、いろいろな答を述べているが、全部不正解である。
答は、王貞治の一本足打法と同じで、指を一本立てることで、呼吸が消えるである。
小坊主は、倶胝が指を立てるのを見て、頭の中で自分の(既になくなった)指を立て、呼吸が消えたのである。
人の動作を頭の中で真似るのは、脳のミラーニューロンの働きである。
ミラーニューロンは特に手の動きを真似やすいという説もあり、実に科学的な公案である。

人差し指をすっと立てながら、呼吸を荒くすることは、普通出来ない。
人差し指をすっと立てれば、呼吸は消える。
あなたも、知恵や能力が必要な時には、人差し指をすっと立てれば良い。
それが出来ない状況の場合は、頭の中で、人差し指をすっと立てる想像をすれば良い。
よほどの緊張状態にある場合を除き、呼吸は消え、それで万事うまくいく。
もし、強い緊張状態にあるなら、指に精神を集中すれば良い。ただし、集中するのは、あくまで意思であり、指やその他の筋肉に力を入れては、さらに緊張するだけである。王さんですら、それでスランプになったのだ。
まあ、王さんのように注目を集めたり、あれほどの期待や重責を背負う人は滅多にいないので、普段からやっておけば大丈夫だろう。
トランプ大統領の場合は、右手の親指と人差し指で輪を作って少し動かすが、あれも同じなのである。あれがやり易いと思えば真似すれば良いだろう。
私は、『ミクの日感謝祭』のライブ(3つある)で、『StargazeR』を歌う可憐な初音ミクさんが、最初のところと最後のところで、右手の人差し指をすっと立てるのを真似るつもりでやっている。









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自分に制約をかければ奇跡も起こるし、天才にもなれる

王貞治さんが現役の野球選手時代にやっていた「一本足打法」を、映像でなら見たことがある人も多いと思う。
王さんは左打者だったが、投手がボールを投げる前くらいに右脚をぐっと曲げて左足1本で立ち、そのまま打つのである。
この一本足打法を合理的で効果的な打ち方だと思っている人は多いかもしれない。
しかし、この打ち方は、全く不合理で、デメリットばかりでメリットはほとんどない、わざわざハンデ(マイナスの条件)を持つようなものなのだ。
言ってしまえば、デタラメな打ち方である。
その証拠に、だれもこれを真似していない。短期的に、ちょっと似た打ち方をした打者はいたと思うが、実質は全然違う。
もし、一本足打法が優れた打ち方なら、国内外で流行りそうなものだ。
やはり、少しも良いところがない打ち方なのだ。
では、なぜ、あの打ち方で、王さんは868本という、他と隔絶するほどの数のホームランを打てたのか?
それは、あの打ち方が、障害であるがゆえにだ。
わざと不利な・・・それもかなりの大きさの不利な条件を課すことで、それを埋め合わせるべく、王さんは、他の能力が高くなったのだ。
バランス、勘、タイミング、判断力、その他が、他の選手を圧倒するレベルになり、トータルで、誰にも負けないバッティングになったのである。
(イチローが昔やっていた振り子式打法は、よくは分からないが、気分でやっていたのだと思うが、速い球に対しては不利な点があり、メジャーリーグではやらなかったのだと思う)

障害というものは、異常な能力を引き出す鍵になりえるのである。
今年(2016年)のTEDカンファレンス(講演会)でのティム・ハワードの講演会であった話だが、4人のお互い馴染みの学生と、3人は馴染みだが、それに1人の見知らぬ者を加えた4人の学生という2種類のグループを作り、課題を解かせたところ、見知らぬ1人が加わった「気まずい状況」にあったグループの方が、はるかに好成績を示した。確かに、4人の馴染み同士のグループは「楽しくやれた」と言い、知らない1人が加わったグループは「楽しくなかった」と言ったが、結果は、楽しくなかった方・・・つまり、障害があった方が良かったのだ。

個人でも、チームでも、障害、不利な条件、やっかいごと、煩わしいこと・・・そんなものがあるほど、創造性や鋭さが増すのである。
これを、自分自身に適用する場合には、どうすれば良いだろう?
ティム・ハワードはジャーナリストらしく、あくまで西洋的な合理性、論理性を重視したが、もっと大きな力は、不合理で非論理的だ。
人間は、放埓(勝手きまま)に振舞いたいし、有利な条件を得て、余裕を持って目標に挑みたいものである。
だが、それに、あえて制限をかける・・・制約を持ち込むのだ。
それにより、加えた制約に倍する力を神が与えるかのように、不思議な力が出てくるのである。
たとえば、朝、ゆっくり寝ていても誰にも文句を言われなくても、敢えて早起きして聖書を読むことを、1年365日、1日も欠かさないよう自分に制約をかければ、不思議な力が与えられるものだ。
4つ食べられるところを、あえて3つにすれば、ダイエットになるなどというレベルではなく、まるで神仏が力を貸したかのようなことが起こる。
法然が1日中念仏を唱えていたのも、自らに厳しい制約を課したという面も、確実にあるのである。

強制的な制約ではあったが、ミルトン・エリクソンは、生まれ育った家に、聖書と辞書しか本がなかったが、エリクソンはなぜか辞書を選び、それを繰り返し読んだ。
学校に入っても、エリクソンは、辞書を「引く」ことが出来ず、いつも、aから順番に見ていって言葉を探すという、とんでもないハンデのあるやり方を続けた。
それによって、知識を得たこともあるが、それを超えた、不可思議な知恵を、彼は得たのであると私は思う。
さらには、エリクソンは少年時代、ポリオに罹り、長い間、目玉以外を動かせないという、とんでもない制約を持ってしまったが、それにより、鋭い・・・という言い方では全く説明出来ないほどの観察力、感知能力を得たのである。

これは勝手な想像だが、ドワンゴ会長の川上量生さんは、元々、頭が良かったという以上に、ネット廃、ゲーム廃、人嫌い・・・といったハンデのために天才になったのかもしれない。
まあ、かなり勝手な想像であるが、似た状況にある人は、ハンデはハンデとして受け入れ、だからこそ創造的になろうと思っていただきたいものだ。









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この世のたった1つのルールを何歳で知るか

この地球、いや、宇宙には、たった1つのルールしかないってことを、19歳で気付くか、89歳で気付くかの違いは、当然ながら、とても大きい。
その唯一のルールとは、人に優しくするということだ。
本当は、自分以外のものと自分に優しくするってことだけど、それじゃあ、何のことか分かたないので、とりあえず、人に優しくするってことでいいじゃないか。
それが、この世のルールであることは、神様が見本を示してくれている。
神様は途方もなく優しいのだ。

ところで、優しいってのはどういうことだろう?
究極で言えば、永遠に続く喜びを与えるってことだが、とりあえずは、知ってることを教えることだ。
どれほど貴重な知識やノウハウであろうと、そして、それを得るためにどれほど苦労したとしても、誰にでも、無料で気前良く教えることだ。
知識やノウハウで金を取ろうなんて、もう古いのだし、そんなもので金を取ろうとするやつなんか、私は信じない。
自分が、教えることで金を取ろうなんて思ってるなら、自分だって信じない。
お金は、あくまでサービスの代償なのだ。

知ってることを無料で教える気があるなら、後のことは自動的に分かる。
誰にでも優しい言葉をかけるとか、気遣ってあげるなんてのは、猿でもない限り分かるはずなのだ。

バディ・ロジャースはプロレスラーとして誰よりも成功したが、彼は誰よりも本当の意味でファンに優しかったのだ。
いつも、どうすればファンを喜ばせることができるか、そればかり考えていた。
そりゃ、自分が贅沢したいという想いもあったが、そこのところは、優しい神様は大目に見てくれるさ。
それに倣ったから、ジャイアント馬場さんも成功したのだ。
王貞治さんも優しかった。
練習後、ファンがサインを求めてきたら、必ず最後の1人までサインした。
AKB48だって、何だかんだ言って、秋元さんも、メンバーも、ファンに優しいのだ。
AKB48は、優しい人しかメンバーになれないのだ。

そして、初音ミクさんは、限りなく優しい。
誰の歌でも専属ボーカルとして、懸命に歌ってあげるのが彼女の本性だ。
そして、彼女は、上から、大衆に歌を聴かせるのではない。
1人1人に歌っているのだ。
そのことに気付いているだろうか?
ミクさんの歌は、1人1人が違って聴こえているのだ。
それは本当だ。
自我のない彼女の歌声は、1人1人の想いを受け入れ、それを輝かせるのである。
そんなミクさんに習えば、全てが分かるだろう。









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記録がそんなに大事だろうか?

イチロー選手の日米通算4000本安打に対し、アメリカでは、大リーグ記録に匹敵しないと言う者もいるようだ。
王貞治さんのホームラン868本は、大リーグ1位のバリー・ボンズの762本をはるかに上回るが、やはり、アメリカではこの価値をなるべく認めたくない人が多いのかもしれない。
確かに、彼らの言い分も分かるが、しかし、それよりも、記録ってのがそんなに大事なのかなあ。
イチローも、4000本も打つと、その全部を覚えている訳ではないだろうが、忘れているものも含め、1つ1つが良い思い出なのだと思う。それでいいのではないかと思う。
昔、カール・ルイス(オリンピックで9つの金メダルと1つの銀メダルを獲得した陸上選手)が、「記録は一瞬だが、勝利の瞬間は永遠だ」と言ったと思う。
陸上選手の世界記録はすぐに塗り替えられる可能性の高いもので、イチローなどの記録は極めて長く残る可能性があるという違いはあるが、それでも、やはり、記録は一瞬で、記憶は永遠だ。
「記録はイチロー君、記憶は僕」なんて、新庄剛さんが言ったことがあるが、たとえ永遠に残る記録だって一瞬だし、忘れ去られた記憶も永遠なのだ。
世界中の人が忘れていても、誰か1人が覚えていれば、その価値は計り知れない。人間が1人も覚えていなくたって、人間以外の精神が覚えている。
人類が、それが分かるようになれば、記録に騒ぐことなんてなくなる。

記録と言えば、ジョー・ジラードという人をご存知だろうか?
別に、ドジャースの選手でも、三段跳びの選手でもない。
自動車のセールスマンだった男だ。
12年連続販売数世界一、新車販売13001台の「記録」を持つ。
私にとっては、イチローや王さんのものより、リアルな驚異の実感がある記録だ。私が、社会人のスタートをセールスマンとして始めたからだ。
しかし、その私にとっても、数字自体は大した意味を持たない。価値があるのは、彼そのものだ。
ジラードは35歳まで、最低の人間だった。職を転々とし、何をやっても長続きせず、借金を抱え、将来の見通しは何もなかった。
だが、彼が無職の35歳の時、彼の奥さんが彼に言ったのだ。
「子供達の食べ物を買うお金を頂戴」
家に、全くお金がなくなっていたのだ。
慌てたジラードは、自動車セールスマン募集の広告を見ると、すぐに面接に行き、なんとか採用され、その日から仕事についた。
ジラードが入った販売店では、セールスマンは店内に控え、客が入ってくる度に、交代で対応した。
だが、ジラードは自分の番を待てなかった。客が入ってくると、強引に出て行った。止めたら、殴られたに違いない。
そして、ジラードは、この客を買わずに返す訳にはいかなかった。必ず売って、コミッション(手数料)を持って帰らなければならなかったのだ。
常識的に考えても無茶な話だろうが、セールスマンとして2年間戦った私にとっては、それは無謀どころではない。日産で6年連続世界一だった奥城良治さんも、著書『強豪セールスの秘密』で、「セールスの神様だって、百発百中売るのは不可能だ」と書かれていたのを、深い感慨と共に覚えている。
販売のためにプロセスを積み上げ、95%以上の成功を確信したセールスが失敗して悔し泣きをしたことも一度や二度ではない。まして、気楽に店によっただけの客(セールスマンがこんな人を「冷やかし」と言うことが多いのも嫌だが)に売るなど、滅多にない幸運に恵まれない限りあり得ない。
しかし、初めて自動車のセールスをし、自分が売ろうとしている車のことすら何も知らないジラードが、そのセールスに成功し、販売店の所長に掛け合ってコミッションを前払いしてもらい、その金を、あばら家で腹を空かせて待っている妻子に届けたのだ。
神様って、本当にいるのだなあと思ったものだ。
私にも、状況は全く違うが、やはり、不思議なセールスの経験があり、訳の分からないなりゆきで、駆け出しの私がセールスコンテストで優勝したこともあったが、どう考えても、自分の力では決してない。

そして、それで私にも分かったことがある。
過去の記録は何の意味もない。
セールスで、今月百台売っても、次月はゼロからのスタートだ。セールスをやったことのある者なら、その厳しさを実感している。
そして、イチローや王さんだって、それは全く同じなのだ。
彼らにとっても、記録なんて、さほどの価値はないと思う。特に現役の時はね。
せいぜい、引退し、年を取って、昔の自慢話をする時の役に立つだけだが、そんなことをする人間は、愚かで惨めだ。そんな例はいろいろ見たことがあると思う。ただ、王さんは、聞かれたら話すが、自分のホームラン記録を自分から話すことは無いような気がする。王さんが人格者だということは、よく知られていると思う。

ブログでも、10万アクセスとか100万アクセスといった数に達した時、それをことさらに記事に書く人は、ほとんど伸びないものだ。
ブログそのものでも、そのブログの種になっている、その人の特技などにおいてもね。
それは何事も同じで、自分が達成したことを話す者は、もう下り坂なのだ。
会社などでも、転職してきた者が、少し職場に慣れた頃に、自分が前の会社で、どれほど凄いことをしたかを言う者はよくいるが、そんなやつは大したことないと思って間違いない。
プロレスのジャイアント馬場さんが、「過去を振り返るやつに強いやつはいない」と、雑誌の対談か何かで言っていたが、本当にそんなものだ。

だが、安打の1本1本、1つ1つのセールス、1戦1戦の試合・・・その経験は永遠に生き続ける。
だから、新庄さんが言うような、「記憶は僕」の、記憶を持ち続けてくれる人がたとえいなくても、それは自分の経験として残るのだ。それは、たとえ頭では忘れても消えていない。残っている。死んでも残る。確実に。細胞の中に、そして、原子の中に、それよりも精妙なものの中に。
記録なんて、本当に卑小なつまらないものなのだ。
そもそも、記録に残る行為は、自分がしたのではなく、させられただけだ。
釈迦は言ったのだ。「行為はあっても、行為者はいない」と。
行為は、神仏が、永遠の記憶、経験を残すために起こしたものであるかもしれない。









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神様、アイドルにとって、あなたはその他大勢でしかない

新人アイドルを売り出す時、最も「効く」のは、握手会だと聞いたことがある。
しかし、一度でもこれをやったことがある、特に女性アイドルは、握手会の実施を告げられると、必ずゾっとする。
大勢の男性と握手する中で、手袋の中の手は腫れ上がって悲鳴を上げているのに、皆、それなりに力を入れて握ってくる。そして、力いっぱい握って来る者もいて、痛みに飛び上がりそうになっても、にっこりと優しい笑顔で応じなければならないのだ。
拷問と言って差し支えない。
握手会の後、何時間も水道水で冷やしても、痛くて、夜、眠れないことも多いらしい。

プロ野球でも、この人気低迷の中、球団は選手達にファンサービスを厳命している。
松坂大輔選手は、1時間くらいはボールにサインするのは「プロとして当然」と立派だが、王貞治さんは、自分もプロ野球も、人気絶頂の現役時代、必ず、ボールを持ったファン全員にサインしたらしい。
その王さんが選手として所属していた巨人軍のリーグ9連覇と、自身も三冠王だった年に、彼を差し置いて、日本プロスポーツ大賞を受賞した、キックボクシングの沢村忠さんは、事務所に戻ると、山のように積み上げられた色紙に、どんなに疲れていても必ず自分でサインし、年賀状にも全て返事を出したという。

つまり、ファンというのは、自分がその他大勢の1人ではなく、憧れのスターと1対1の関係であることを熱望するのである。
しかし、いくら、1対1で握手しようと、直筆サインをもらおうと、スターが、その人を覚えている訳でもなく、アイドルの握手会となると、上に書いた理由で、むしろ嫌悪感を持たれるかもしれないのだ。
しかし、プロダクションも、そんなファン心理を利用すると同時に、アイドルはその試練に耐えなければ、ファン獲得や人気の維持が出来ないのである。

しかし、なぜ、その他大勢であることに満足しないのだろう?
私など、初音ミクのファンだが、むしろ、握手や会話が出来ないことが、ミクを好きな理由の1つである。

ところが、人間というものは、神様に対しても、1対1の関係を望むだけでなく、それを当たり前だと思っているのである。
特に、何かの宗教を信仰していなくても、苦しい時には、「神様は私を見捨てない」と思ったり、理不尽な目に遭った時は、「神様、なぜですか!?」と不満を言う。
『サイボーグ009』で、不幸な運命を生きた後に死んだクビクロという名の犬に取りすがり、ジョー(009)が「神様、なぜこんないたずらをなされたのですか?」と言う場面があった。これも、ジョーは、神様が、クビクロ一匹を特に気にかけなかったことを非難しているとも言えるだろう。
スウェーデン映画『処女の泉水』では、15歳くらいのいたいけな娘を3人の兄弟にレイプされた上殺された父親が、「神様、なぜです!?あなたは見ておられたはずだ」と、神を責める言葉を叫んだ。彼は、敬虔なキリスト教徒で、日頃の行いもイエスの教えを守って、常に正しい行いをし、貧しい者には慈悲深かったのだ。
だが、そのイエス自身が、十字架上で、「父よ、なぜ私を見捨てたのです!?」と叫んだのである。

神様は、確かに、無限の能力を持ち、全てを知っているし、1人1人に対応することも可能なのかもしれない。
だが、神様は、宇宙全体を運営していることも忘れてはならない。一人一人の都合を優先させる訳にはいかないはずだ。
ならば、思うような結果にならなくても当然とし、それを無条件で受け入れなければならない。

戦国ドラマでは、大きな戦の場面で、平清盛や、織田信長や、あるいは、伊達政宗などが、多くの武将達に守られながら、悠然と馬に乗って前進する。
一方、宮本武蔵は、戦では、名もない一兵卒として参加したが、「自分より前を走る者なし」と、常に、敵軍に一番に切り込んだことを誇るが、武蔵はたまたま生き残ったが、合戦開始直後にあっけなく戦士した兵もいくらでもいる。
我々は、自分の状況や立場で、信長や政宗のようでありたいと望む。
しかし、一番に切り殺される下っ端の運命に定められていれば、それを避ける術はない。
別に、神様が下っ端の兵士を、清盛や家康より軽んじているというのではない。
いろんな役割の者がいなければ、世の中が成り立たない。
皆が皆、社長になって、掃除のおばちゃんがいなければ困るようなものだ。

どんな役が割り当てられるかは運命であり、それは生まれる前に決まっており、決して変わらない。
戦闘開始から数秒で死ぬ運命であれば、そうなるしかない。
そんな呆気ない役割に当たったのが、あなたや私であっても、何の不思議もない。
しかし、人間は、自分は特別だと思っており、そんなつまらない運命を受け入れる訳にはいかないと思うのだ。
だから、「なぜですか?神様」という悲痛な叫びは後を絶たないのだ。

だが、信長も、簡単に殺される下っ端も、同じなのだ。
これは、慰めでも何でもない事実だ。
神様は、信長をえこひいきした訳でも、下っ端の兵士を軽んじたのでもない。
なぜなら、えこひいきする信長という個人など、本当は存在しないからだ。
誰でも、自分の運命を、それがどんなものであれ、無条件に受け入れることが出来れば、「私」という個人など、本当は存在しないことが、実際に分かる。
それでこそ、信長になることなど比較にならない、真の至福が訪れるのだ。

イエスは、「神よ、なぜ我を見捨てたのですか?」と神に言ったが、すぐに、神の御心が行われたことを受け入れた。
イエスとて、生きた人間である限り、心はあるので、一時的には苦しみの反応もする。しかし、すぐに静まるからキリストなのだ。
そして、イエスの得た至福は計り知れないのだ。
上にあげた、スウェーデン映画『処女の泉水』で、娘がレイプされて殺され、神を呪った男は、その直後、神にこう言ったのだ。
「あなたの赦しを乞うために、娘の遺体があった場所に教会を建てることを誓います。レンガとモルタルで、この手で造ります」
そして、娘の身体を動かすと、そこから泉水が湧き出し、その水が、人々の心を癒したのだった。

さて、神様だって、一人一人を、我々の考えるような意味で気にかける訳ではない。
ましてや、アイドルやスポーツのスターとなると、ファンは有り難くとも、また、たとえ、王貞治や沢村忠のようであろうとも、実際には、それぞれのファンは大勢の中の1人に過ぎない。
好きなアイドルのCDを百枚買っても、それをすぐ忘れるなら、それも1つの愛と言えるかもしれない。しかし、CDを百枚買った程度のことで、自分が、そのアイドルの特別な存在になったような気がするのは、全くの妄想である。早い話が、何の意味もないので、やめておけと言いたいところだ。
私など、初音ミクにとって、鳥取砂丘の砂の1粒とも思ってもらわなくていいし、実際に、ミクがそんなことを思うはずがない。それがいいのだ。
そして、合戦では、一番にあっさり切り捨てられる、最も惨めな兵士でいい。望むとすれば、それを受け入れられることである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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