ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

玄奘三蔵

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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三蔵法師の奇跡

『西遊記』の登場人物である三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は中国の僧で、若い日に、インドの仏教の経典を手に入れるため、チベットを超えてインドに行こうとしていた。
これは、登山のプロにも過酷なコースで、成功の見込みは薄く、死を覚悟しての挑戦だった。
だが、インドから来た老僧に身をやつし(みすぼらしい恰好をし)ていた観世音菩薩は、三蔵に般若心経の呪文を教え、常にこれを唱えていれば安全であると言った。
三蔵は、言われた通り、この呪文を唱え続け、山賊、猛獣、雪嵐などの苦難をことごとにかわし、ついにインドにたどり着いた。
すると、三蔵の前に、あのインドの老僧が現れ、驚く三蔵に、「私は観自在菩薩である」と告げて消えた。
その後も、三蔵は無事、657部の経典を入手し、インドの言葉も学び、中国に経典を持ち帰ると、翻訳に生涯をかけた。
般若心経の呪文は、ご存じの方も多いと思うが、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。

森の囁き
AIアート114
「森の囁き」
Kay


このお話が事実であったとは言い難いが、重要な真実は含んでいる。
三蔵は、この呪文をひたすら唱えることで思考を消したので、不可能に近いことを悠々やり遂げたのである。
もし、そうではなく、頭で考えて山賊や猛獣に怯え、雪嵐を恐れていたら、あっという間に殺されるか転落死していただろう。
思考が消えた人間は、全能の魂が表に現れ、不可能はない。
ただし、思考が消えたフリでは駄目で、三蔵は、本当に絶え間なく呪文を唱えて心を消していた・・・無になっていたのだ。
そして、重要なことは、唱えるのは別に般若心経の呪文でなくても、何でも良かったのだ。
念仏でも、阿弥陀如来真言でも、大日如来真言でも、クリシュナでも、ラーマでも、アジマリカンでも、トホカミエミタメでも。
効果に優劣などあるはずもなく、あるとすれば、続けやすいものが良いというだけである。
般若心経の呪文は、唱え方によってはリズムが良く、没入し易いものである。
このように、呪文でも、真言でも、あるいは、現代のアファーメーションでも、常に唱え、思考、あるいは、心を消せば、誰でも、三蔵のような奇跡を起こすことが出来る。
たとえ三蔵のように、常に唱えることが出来なくても、唱えた数に応じて思考が消え、いくらかの魂の力は発揮出来る。

そして、最も簡単に思考を消す言葉が、いつも言う通り「私は誰か?」で、これを自分に問えば良い。
私は、昔から慣れている阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をよく唱えるが、それで「私は誰か?」と問い易くなっているのである。








アファーメーションの歴史は人類の勝利の歴史

アファーメーション(肯定的な断言)は、野球のバッターの素振りのようなものだと感じる。
バッターの力は、バットを振った回数で決まる。
イチローは誰よりも多くバットを振ったから最高のバッターだったのである。
サッカー選手の場合は、ボールを蹴る数で、剣士の場合は剣(通常は木刀や竹刀等)を振る数で優劣が決まる。
だから、サッカー王国では、子供の時からサッカーボールを常に身近に置くし、宮本武蔵は生涯、木刀を肌身離さなかった。
そして、実は、彼らは、空想の中でも、バットを振り、ボールを蹴り、剣を振っていたのである。

この世界には、繰り返せば強くなるという法則がある。
この世界での最大の力は、心が世界を創造する能力で、これは、引き寄せと呼ばれる、3つの言葉で言い表せる力である。
即ち、「思考は」「現実に」「なる」だ。
そして、引き寄せの力を高めるには、繰り返しを行う必要がある。

インドから多数の仏典を持ち帰って翻訳したことで知られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう。602~664)の、興味深いエピソードがある。
おそらく、作られた話だとは思うが、意味のない話ではない。
当時、中国からインドへ行くのは、チベットの険しい山を歩いて越えるしかなく、命懸けと言うよりは無謀だった。
だが、玄奘は仏典を持ち帰ることを強く願った。
すると、インドから来た僧が、玄奘に、般若心経の呪文を教え、これを常に唱えていれば、あらゆる難を逃れると保証した。
玄奘は、言われる通りに、常に呪文を唱えた。それで、繰り返し襲い来る、野獣、盗賊、病魔、厳しい自然に打ち勝った。
(呪文は、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」)
般若心経の呪文自体に特殊な力があるのかどうかは分からない。
しかし、そんな力があると信じて、それを常に唱えることが、強力なアファーメーションであり、無意識の中の強大な力が味方するので、不可能はない。
『法華経 』 の中では、観世音菩薩の名にそんな力があるとされるので、やはり、信じて唱えるなら、『法華経』の中の『観音経』に書かれているような威力が発揮される。
(唱える言葉は、「南無観世音菩薩」と訳されることが多いが、「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラ」等が考えられる)
念仏には、極楽往生の力のみがあると言われるが、『華厳経』という古い仏典の中に、仏の名を唱えることの万能の力について書かれており、親鸞が言ったように、念仏に現世利益を含めたあらゆる効能があるというのは間違いではなく正しい。

アファーメーションの歴史は、人類の勝利の歴史である。
王家では、幼い時から、周囲の者達が「あなたは偉大な王だ」と言われ、それが自然に、頭の中のつぶやき(私は偉大な王だ)になり、実際に偉大な王に成長する。
国を潰す王は、それがしっかりなされなかった王である。
我々庶民は、言葉そのものはいろいろだが、幼い頃から、お前は奴隷のようなものだと言われ続け、それが頭の中のつぶやきになり、実際に奴隷のようなものになっているのである。
だから、我々は、自分の意思でアファーメーションを行い、奴隷の呪文を消し、王の呪文と取り換えなければならない。
そして、どんな言葉を選ぶかは自由自在であり、思った通りのものになり、思った通りのことが出来るのである。
イチローの素振りのように、数多くやりさえすれば。
今、実際に使っているかどうかは別だが、私が一番好きなアファーメーションは、七田眞氏の著書『奇跡の超「右脳」開運法』に書かれている、「神様の奇跡が起こる」である。








心配事多い人達へ

『西遊記』の三蔵法師(さんぞうほうし)のモデルは、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という、多くの有名な経典を漢訳した高名な僧侶だ。
『般若心経』の代表的な訳も三蔵のものだ。
実在の三蔵は、仏教経典を求めて中国からインドに行ったのである。山路でチベットを越えてインドに行くのは危険だと言われているが、本当に半端なく危険であるようだ。
それは専門の登山家でも困難で、三蔵のような登山の素人が無事たどり着くのは奇跡かもしれない。
私は、マード・マクドナルド・ベインの『解脱の真理』(霞ヶ関書房)を読み、もし、これに書かれていることが本当ならだが、これでチベットの山路の恐ろしさを感じたものだ。
一難去ってまた一難・・・いや、一難が終わらないうちに難が群をなして襲って来る感じだ。

ところで、伝説によれば、玄奘は、インドに向かおうとした時、インドから来た僧が病気で倒れているのに出会った。
先を急ぐ玄奘ではあったが、見捨ててはおけず、献身的に介護し、インドの僧は無事回復する。
すると、インドの僧は玄奘に般若心経の呪文を教え、この呪文を唱えれば難が去ると言う。
まあ、病気で寝込んでいた層が言っても説得力がないと取るか、玄奘のような慈悲深い人間に出会って介護してもらえたから本当だと取るかは自由だ。
玄奘は信じ、その呪文「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」を唱え、危険な山道、雪崩、野獣、盗賊などの難を次々切り抜け、無事にインドに到着する。
すると、そこに、あの病気だったインドの僧がいた。
驚く三蔵に、インドの僧は「私は、アヴァローキテーシュヴァラー(観自在菩薩:観世音菩薩)である」と言って消える。

般若心経の呪文そのものに力があるかどうかは私には解らないが、呪文を唱えることで、余計なことを考えないことだけでも偉大な効果があることは間違いない。
だから、お気に入りの呪文や念仏を持っているのは良いことで、最も効果的な唱え方を知っておくと、さらに良いだろう。
仏教では「幕妄想(まくもうそう)」、つまり「妄想をするな」と言い、妄想でしかないことを考えることは、不幸不運を呼ぶ愚かなことで、現代的に言っても、妄想は「コスパが悪い」ことは確実であると思う。つまり、どう考えても、否定的な妄想はするだけ損だ。
イエスも「汝、思い煩うことなかれ」と同様のことを言っていた。
ではそうすれば・・・と言えば、イスエの場合は「神を信用して安心しろ」と言ったのだと思うし、釈迦も、似たことを教えたかもしれない。
だが、伝統的に、仏教では、ヒンズー教の伝統を取り入れた部分もあるだろうが、神の名を唱えることが奨められ、仏教では念仏という形になっているのだと思う。

個人的には好きな人ではなかったが、船井幸雄氏が経営コンサルタントとして超一流であったことは間違いない。その彼が教えた経営のコツは一言で言えば「心配しない」ことなのだと思う。
イエスもきっと、良い経営コンサルタントになれたことだろう。
私も、経験上、心配をし過ぎた時には拙い結果になり、逆に、心配をやめてしまうと、それなりにうまくいくのだと解る。
あまりに極楽トンボなのはいけないが、そのさじ加減に関しては、スーフィーの格言、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
にうまく表現されている。
そして、神の名や念仏や、あるいは、肯定的な言葉を丁寧に唱えれば、そのような心構えにもなれるだろう。
念仏、呪文の効果を知らないために、多くの人が大変な苦労をしているし、失業して落胆したり、ニートは未来に絶望する。
アメリカの海軍特殊部隊ネイビー・シールズの世界一過酷な入隊テストに耐える若者達が、頭の中で肯定的な言葉を唱えているという研究報告もあるくらいだ。
ただ、例外もある。
一流の将棋棋士は対局中、頭の中に言葉がなく、特殊なイメージが自動的に流れるそうだ。
だが、念仏や呪文を長年続けると、ふとそのような状態になることがある。
いずれにしろ、余計なことを考えないことが大切であるようだ。









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般若心経の呪文

こんな話をちょっと思い出した。
玄奘三蔵という中国の有名な僧が若い時、いよいよインドに行こうとしていた。
当時、中国からインドへの旅は極めて困難で、生きて帰れる可能性はほとんどなかったらしいが、三蔵は仏教の経典を求めて危険を冒す覚悟だった。
ところがそんな時、インドから来た僧が重病に陥っているのを見つけ、三蔵はそれを見過ごさずに熱心に介護した。
やがて回復したインドの僧は、三蔵に、般若心経の呪文を教え、これを常に唱えれば、事故にも遭わず、病気にもならず、無事にインドに着けると言った。
三蔵は、言われた通り、その呪文「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」を唱えながら旅をしたが、あらゆる危機を乗り越え見事、インドに到着する。
するとそこで待っていたのは、あのインドの僧だった。
インドの僧は、「私は観自在菩薩である」と言って姿を消した。

この話を見た時、私は、
「呪文を唱えれば病気にならないとか言って、インドの僧自体が病気で苦しんでるじゃないか?」
と思ったものだ。
それでも信じた三蔵はアホではないかと思ってしまったのだ。
しかし、今ならこう思う。
今が盛りの大金持ちの成功者が、「こうすれば成功するぞ」と言うものの方がずっと怪しい。
なぜなら、成功するためには、それに見合った代償と責任が求められる。
その代償と責任を負う覚悟のない者に、本当に成功する方法を教えられるはずがない。

三蔵は、インドへ行くという危険を進んで冒す覚悟があったし、すぐに出発するつもりだった。
つまり、代償を払うことに関しては合格である。
だが、仏教の僧である限り、インドから来た僧の苦難に手を貸す責任がある。
その責任を放棄しなかったことで、三蔵は成功の条件を満たしたのだ。

アラジンの魔法のランプは、誰でも得られる。
しかし、ランプの魔神は、願いに対し、代償を払い責任を負う覚悟を求める。
覚悟が出来た・・・つまり、代償を払い責任を負う決心をした時、魔神は現実を改変してでも、あなたの願いを叶える。
現実ハッキングの代償と責任は重い。
そして、魔神はあなたの潜在意識なのであり、魔神はあなた(顕在意識)と共同で事を行うのである。
般若心経の呪文は、代償と責任を負うことの宣言であり、それを担保に、雑多な負債は肩代わりしてもらえる・・・つまり、いかなる困難も突破出来る。
うかつに唱えて良い呪文ではないかもしれない。









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まるで駄目男君はなぜ魔法が使えないのか

魔法の杖とか、魔法のランプがこの世にあるのかというと、確実にある。
しかし、だからといって、それらが「はい」と簡単に与えられる訳ではない。
古代から伝えられている全ての物語や、それをモチーフに作られた新しい物語の通り、人間が成長して、必要な条件が満たされた時に、それが与えられる。

玄奘三蔵の伝説がそれを表している。
インドに行こうとしていた三蔵だが、インドから来ていた僧が病気で苦しんでいるのに出会い、放っておけずに親切に看病した。
すると、そのインドの僧は、三蔵に魔法の呪文を教えた。
中国から、チベットの山々を越えてインドに行くだけでも絶望的に難しいのに、野獣、山賊、食料の入手困難、寒さや病気と、ありとあらゆる障害が三蔵に降りかかる。
しかし、魔法の呪文のおかげで、三蔵が無事インドに着くと、あのインドの僧がそこにおり、自分は観世音菩薩だと告げる。
その呪文が、般若心経の呪文である、「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
三蔵が理屈っぽい人なら、呪文を教えられても、
「いや、その呪文を知っているアンタが病気で苦しんでるじゃない。呪文の効果はないじゃないの?」
と思うだろう。
しかし、自分がこうして看病して、このインドの僧は良くなりつつあるのだから、やっぱり呪文は効果があるんだと三蔵は思ったに違いない。
そんな者でないと、魔法は与えられない。

有名な俳優だった丹波哲郎さんも、若い時から魔法の杖を持っていた。
だから、戦争に行き、若い二等兵(最下位の兵隊)が誰もがやっていた、上官の世話(洗濯や使い走りその多)なんか一切せず、好き勝手やってても、誰もが腹を減らしていた時に、安全な場所でたらふく食べ、欲しいものは豊富に手に入れ、あまつさえ、女にも不自由しなかった。
そりゃ、苦しいこともあったろうが、基本的には、何の苦労もなく、すいすいと大俳優になっていったが、彼は最後まで、好きなことしかしなかった。
丹波さんの魔法の杖とは何かというと、ものにこだわらないということと、後はやはり、とどのつまりが・・・彼は人に優しかったのだ。
と言っても、いつもベタベタと他人に親切にしていた訳ではないが、最後には、冷酷になれずに人情が勝ってしまう・・・そんな人なんだと思う。
私が、若い時から、丹波さんの真似をして、会社の中でいつも、かなりの無茶振りをやっていたが、やはり、うまくいってしまった。
それはつまり、人生では戦いは避けられないが、「最後は許す」という、この一点があるかどうかだけで決まるような気がする。

私は、まるで駄目男君に魔法の杖を与えようとしてきたが、彼はそれを持てない。
昔、嫌な目に遭わされた相手を許すことが出来ないからだ。
だが、たとえ、許せば魔法が与えられると理解しても、それを実践するのは難しい。
私も、丹波さん並に許せば、丹波さん並に成功するが、まだまだだ。
しかし、昨夜も書いたが、トイレを我慢するという、不快さを耐える修行をしているうちに、寛容の心が強くなったようだ。
実は、どうしても許せなかった相手を、コロっと許してしまったのだ。
魔法は、本当は、誰もが心の中に持っているが、寛容の力を持つごとに、その力がレリーズ(封印解除)される。
ヒトラーは、実は、超人的に寛容な部分もあったのだが、どうしても許せない者達がいたので、最後は哀れに滅んでしまった。
結局、彼は修行不足だった。
我々は、苦しみに一人でじっと耐え、心を磨き、寛容を育てなければならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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