大袈裟な表現をする時、大袈裟とは言っても、自ずと節度を持ち、ほどほどにするか、それとも、どうせなら徹底的に大袈裟に言うだろうか?
例えば、プレイボーイに、「過去に付き合った女性の数は?」と聞き、答が「百人」なら、「大袈裟なことを言うヤツだ」と、呆れながらも、許す気になるかもしれないが、これが「1万人は下らないね」と返事しようものなら、「こいつ、ただの阿呆だ」として、縁を切る者が多いだろう。
ただし、世間ではね。
中国には、「白髪三千丈」という言葉があるが、一丈は3.3333mなので、三千丈なら、9999.9999m・・・ほぼ10kmである。
また、『こきりこ節』という富山県の民謡には、
「向(むかい)の山を担(かづ)ことすれば 荷縄が切れて担かれん」
という歌詞があるが、要するに、「俺は山を担ぐ力はあるが、残念なことにロープが切れてしまうので、担ぐlことが出来ない」と言うのである。
こういったように、世間を超えた大袈裟な方が面白い。
だが、この程度は、大袈裟のうちに全く入らないのが、仏教の経典の世界だ。
もう、大袈裟というのとは全く次元の違う、表現のしようもない、気宇壮大(この言い方も全く不適切だが)な話が満載である。
『法華経』も、『無量寿経』も。
例えば、『無量寿経』で、阿弥陀如来の初めての説法に集まった聖者の数が多いことを、釈迦はこんなふうに言う。
「木蓮のような賢い人達が数限りなく集まり、数限りない時をかけて、ようやく数えられる数を、1本の髪の毛を百本に割り、その1本で救い上げる水とするなら、阿弥陀如来の最初の説法に集まった聖者の数は、大海の水に匹敵する」
もう、馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しい・・・を、どれだけ繰り返しても、表現出来ないほど馬鹿げている。
『法華経』のも凄かったが、思い出すだけで疲れるので、やめておく(笑)。
仏教の経典の、こんな次元をはるかに超えた大きな話を読んでいたら、世間の常識など影も形もなくなり、頭の制約は消し飛び、あまりに凄い天才になる。
ただ、人間が「凄い」と分かる天才は、極めて低レベルな天才であるが、経典を読んで天才になった人は、全く天才に見えず、むしろ、阿呆に見える。
また、あらゆる超能力を持つようになる。
本気で読めばね。
ところで、私は、子供の時から気付いていたが、高熱を出した時、頭の中で、あまりにスケールが大きなことを考えているのである。
例えば、猿が、紙に無造作にインクをなすりつけた結果、偶然に百科事典が出来上がる可能性は、いかに小さくとも、完全にゼロではない。
熱でうなされている時には、そんな様子のシミュレーションを、頭の中で、物凄い高速で行っていて、普段、決して味わうことのない不思議な感覚に包まれるのである。
そんな時、自分は世間を超えた天才を超えた天才を超えた天才・・・になっているのだが、残念ながら、熱が醒め、通常の状態になると、ただの凡人に戻るのである。
だが、経典を何度も読んでいると、しっかりと、自分の枠を広げていけるし、超能力を獲得するのである。
私は、幼い時に、普通に超能力を発揮していたので、超能力に対する違和感はないが、それよりもはるかに大きな力である。
(私の幼い時の超能力については、何度も書いたが、また気が向いたら書くと思う)
良かったら、『法華経』や『無量寿経』を読んでみていただければと思う。
ただし、周囲の人達との差が大きくなり過ぎて、付き合えなくなってしまっても責任は持てない。
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例えば、プレイボーイに、「過去に付き合った女性の数は?」と聞き、答が「百人」なら、「大袈裟なことを言うヤツだ」と、呆れながらも、許す気になるかもしれないが、これが「1万人は下らないね」と返事しようものなら、「こいつ、ただの阿呆だ」として、縁を切る者が多いだろう。
ただし、世間ではね。
中国には、「白髪三千丈」という言葉があるが、一丈は3.3333mなので、三千丈なら、9999.9999m・・・ほぼ10kmである。
また、『こきりこ節』という富山県の民謡には、
「向(むかい)の山を担(かづ)ことすれば 荷縄が切れて担かれん」
という歌詞があるが、要するに、「俺は山を担ぐ力はあるが、残念なことにロープが切れてしまうので、担ぐlことが出来ない」と言うのである。
こういったように、世間を超えた大袈裟な方が面白い。
だが、この程度は、大袈裟のうちに全く入らないのが、仏教の経典の世界だ。
もう、大袈裟というのとは全く次元の違う、表現のしようもない、気宇壮大(この言い方も全く不適切だが)な話が満載である。
『法華経』も、『無量寿経』も。
例えば、『無量寿経』で、阿弥陀如来の初めての説法に集まった聖者の数が多いことを、釈迦はこんなふうに言う。
「木蓮のような賢い人達が数限りなく集まり、数限りない時をかけて、ようやく数えられる数を、1本の髪の毛を百本に割り、その1本で救い上げる水とするなら、阿弥陀如来の最初の説法に集まった聖者の数は、大海の水に匹敵する」
もう、馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しい・・・を、どれだけ繰り返しても、表現出来ないほど馬鹿げている。
『法華経』のも凄かったが、思い出すだけで疲れるので、やめておく(笑)。
仏教の経典の、こんな次元をはるかに超えた大きな話を読んでいたら、世間の常識など影も形もなくなり、頭の制約は消し飛び、あまりに凄い天才になる。
ただ、人間が「凄い」と分かる天才は、極めて低レベルな天才であるが、経典を読んで天才になった人は、全く天才に見えず、むしろ、阿呆に見える。
また、あらゆる超能力を持つようになる。
本気で読めばね。
ところで、私は、子供の時から気付いていたが、高熱を出した時、頭の中で、あまりにスケールが大きなことを考えているのである。
例えば、猿が、紙に無造作にインクをなすりつけた結果、偶然に百科事典が出来上がる可能性は、いかに小さくとも、完全にゼロではない。
熱でうなされている時には、そんな様子のシミュレーションを、頭の中で、物凄い高速で行っていて、普段、決して味わうことのない不思議な感覚に包まれるのである。
そんな時、自分は世間を超えた天才を超えた天才を超えた天才・・・になっているのだが、残念ながら、熱が醒め、通常の状態になると、ただの凡人に戻るのである。
だが、経典を何度も読んでいると、しっかりと、自分の枠を広げていけるし、超能力を獲得するのである。
私は、幼い時に、普通に超能力を発揮していたので、超能力に対する違和感はないが、それよりもはるかに大きな力である。
(私の幼い時の超能力については、何度も書いたが、また気が向いたら書くと思う)
良かったら、『法華経』や『無量寿経』を読んでみていただければと思う。
ただし、周囲の人達との差が大きくなり過ぎて、付き合えなくなってしまっても責任は持てない。
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