ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

無量寿経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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仏教経典の驚くべき作用

大袈裟な表現をする時、大袈裟とは言っても、自ずと節度を持ち、ほどほどにするか、それとも、どうせなら徹底的に大袈裟に言うだろうか?
例えば、プレイボーイに、「過去に付き合った女性の数は?」と聞き、答が「百人」なら、「大袈裟なことを言うヤツだ」と、呆れながらも、許す気になるかもしれないが、これが「1万人は下らないね」と返事しようものなら、「こいつ、ただの阿呆だ」として、縁を切る者が多いだろう。
ただし、世間ではね。

中国には、「白髪三千丈」という言葉があるが、一丈は3.3333mなので、三千丈なら、9999.9999m・・・ほぼ10kmである。
また、『こきりこ節』という富山県の民謡には、
「向(むかい)の山を担(かづ)ことすれば 荷縄が切れて担かれん」
という歌詞があるが、要するに、「俺は山を担ぐ力はあるが、残念なことにロープが切れてしまうので、担ぐlことが出来ない」と言うのである。
こういったように、世間を超えた大袈裟な方が面白い。

だが、この程度は、大袈裟のうちに全く入らないのが、仏教の経典の世界だ。
もう、大袈裟というのとは全く次元の違う、表現のしようもない、気宇壮大(この言い方も全く不適切だが)な話が満載である。
『法華経』も、『無量寿経』も。
例えば、『無量寿経』で、阿弥陀如来の初めての説法に集まった聖者の数が多いことを、釈迦はこんなふうに言う。
「木蓮のような賢い人達が数限りなく集まり、数限りない時をかけて、ようやく数えられる数を、1本の髪の毛を百本に割り、その1本で救い上げる水とするなら、阿弥陀如来の最初の説法に集まった聖者の数は、大海の水に匹敵する」
もう、馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しい・・・を、どれだけ繰り返しても、表現出来ないほど馬鹿げている。
『法華経』のも凄かったが、思い出すだけで疲れるので、やめておく(笑)。

仏教の経典の、こんな次元をはるかに超えた大きな話を読んでいたら、世間の常識など影も形もなくなり、頭の制約は消し飛び、あまりに凄い天才になる。
ただ、人間が「凄い」と分かる天才は、極めて低レベルな天才であるが、経典を読んで天才になった人は、全く天才に見えず、むしろ、阿呆に見える。
また、あらゆる超能力を持つようになる。
本気で読めばね。

ところで、私は、子供の時から気付いていたが、高熱を出した時、頭の中で、あまりにスケールが大きなことを考えているのである。
例えば、猿が、紙に無造作にインクをなすりつけた結果、偶然に百科事典が出来上がる可能性は、いかに小さくとも、完全にゼロではない。
熱でうなされている時には、そんな様子のシミュレーションを、頭の中で、物凄い高速で行っていて、普段、決して味わうことのない不思議な感覚に包まれるのである。
そんな時、自分は世間を超えた天才を超えた天才を超えた天才・・・になっているのだが、残念ながら、熱が醒め、通常の状態になると、ただの凡人に戻るのである。
だが、経典を何度も読んでいると、しっかりと、自分の枠を広げていけるし、超能力を獲得するのである。
私は、幼い時に、普通に超能力を発揮していたので、超能力に対する違和感はないが、それよりもはるかに大きな力である。
(私の幼い時の超能力については、何度も書いたが、また気が向いたら書くと思う)
良かったら、『法華経』や『無量寿経』を読んでみていただければと思う。
ただし、周囲の人達との差が大きくなり過ぎて、付き合えなくなってしまっても責任は持てない。









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ゆっくりとした反復の神秘

高校の教科書にだって、筋力(力の強さ)を高めるためには、最大の力で数回できる運動を、筋持久力(ある程度の力の運動を繰り返す能力)を高めるためには、3~4割の力で十数回できる運動をしなければならないと書かれている。
ところが、プロレスラーのトレーニングでは、体重だけを使った腕立て伏せやスクワットを数百回以上繰り返すことが知られている。これは、スポーツ理論に合わないトレーニングということになるが、プロレスラーは、実際に計測しても筋力は強いし、普通の人なら1分も取っ組み合うとクタクタになるのに、彼らは60分以上レスリングをやってケロリとしている。
もちろん、プロレスラーだって、バーベルを使ったウェイトトレーニングもやるだろうが、プロレスに限らず、特に格闘技では、超一流選手でも、器具を使ったトレーニグは一切やらないという人がよくいる。
相撲の白鵬も器具を使った筋トレは一切しないらしいが、四股、鉄砲、摺り足といった伝統的な相撲のトレーニングを数多く繰り返すのだそうである。白鵬以外でも、優れた力士として名を残す人には、そんな人がよくいるようだ。
野球の王貞治さんは40歳で引退しているが、その引退間際に、アメリカ流のウェイトトレーニングを取り入れている。王さんは、それまでは、そんなトレーニグは一切やっていなかったらしい。しかし、やるべきでなかったと思うし、最後のシーズンの成績が落ちて引退することになったのは、このせいであったかもしれない。
現在は、野球選手はウェイトトレーニグをよくやるそうだが、やたら故障が多く、戦線離脱が長いのはそのためではないだろうか?
イチローが特殊な器具を使ったトレーニグをすることが知られているが、あれを筋トレのマシンと思っている人がいると思う。しかし、あれは、ストレッチのマシンなのだそうだ。おそらく、イチローもあまりウェイトトレーニグはしないのではと思う。そして、そのマシンを使ったトレーニグは、やはり、非常に長時間行うそうである。
イチローが現役中に、トレーニグについて語ることは考え難い。秘密にしているというのではなく、そんなことをすると、沢山の質疑が起こり、誤解やそれによる批判が出るなど、あまりに煩わしく、時間を奪われてしまうに違いないからだ。

つまり、身体というのは、本当は、数多く繰り返す運動が理想的なトレーニングであるのだと思う。
1回1回は、誰でも出来るような運動を、数百、数千と繰り返すことにより、理論では分からない、筋肉、骨、あるいは、細胞や、さらには、素粒子に秘められた人間には未知の力が引き出され、活性化されるというのが真理なのだろうと思えるのである。
小説の話だが、『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンは、超人的身体能力を持ち、それは、老人になっても衰えなかったが、その力は、果てなく繰り返す農作業で鍛えたものだった。
作者のユゴーも、ここらはデタラメを書いたのではなく、何らかの根拠を元にしたのだと思えるのだ。
ジャン・ヴァルジャンは、長い反復作業を、誰よりも熱心にやったので、驚異的な身体能力を持つに至ったと考えても、おかしくはないだろう。

中国拳法を扱った映画で、修行者が、複数の動作を組み合わせた運動を、石段の上で延々繰り返して、いつか石段に窪みが出来ることが、その回数や期間の大変な長さを示していたが、拳法の達人の秘密があるとすれば、やはりそういったことにあるのだと思う。
中国拳法に限らず、古武道の修行で、独特ないくつかの動作を延々繰り返すというものは、やはりある。
それらは、外部非公開の秘法としていることもあるだろうが、現代的な武道やスポーツの関係者らは、それらを見ても興味を持たないという理由で、一般にあまり知られていないのではないかと思う。

私の手元に『易筋経』という古代から中国に伝わる訓練法の本があるが、「牛の尾を引く」とか「鬼が剣を抜く」などの動きがあり、それらを繰り返すことで、驚くべき成果を上げるのである。
私がお奨めしている腕振り運動も易筋経の中のものであるらしい。
これも、運動としては、誰でも数百回、数千回と繰り返すことができるが、これを長年月繰り返すのは容易ではない。
だが、それを成し遂げることで、単に肩の筋肉の強化などというのとは全く違う神秘的と言っても大袈裟でないような成果が得られるのだと思う。
このあたりは、関英男博士が独自の科学理論で説明されているが、それが本当かどうかは私に確認のしようがない(科学者でも難しいと思う)。しかし、ただやれば、事実は自ずと明らかになるだろう。

あらゆることで言えるが、人間に適しているのは、「ゆっくりとした繰り返し」である。
決して、せかせか繰り返すのが良いのではない。
とはいえ、あまりに、のたのたとするのも間違いであるといった思考力くらいは持って欲しい。
言ってみれば、適度な速さの動きなのであるが、特に、現代的感覚でいえば、ゆっくり、ゆったりになるのだと思う。
感覚的に気持ちいいと思う程度のゆっくりさ(それは自分で判断することであると思う)でやると良いと思う。
これは運動に限らない。
法華経や無量寿経(浄土三部経の1つ)などの仏教経典を読むと、数多い反復がよくあり、現代的な「せかせか」に慣れているとイライラするかもしれない。
しかし、この果てしない、ゆっくりした反復があらゆることの奥義なのかもしれない。









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ある日、突然あなたは変身する

皆さんも一度は見たり聞いたりしたことがあると思うが、人間は脳細胞の90パーセント以上が活用されておらず、筋肉やその他の器官に関しても、同じようなものらしい。
そんな眠っている力を、ほんの僅か人より多く使うことができれば、天才とか超人と言うほどの能力を持つことになり、100パーセント全開となると、度を超えた、あまりにも強大な力になってしまうのだ。
そこから考えると、たかだか60歳とか70歳で、年老いて能力がなくなったなどと考えるのは、実に滑稽なことなのだ。
いつも述べる通り、人はふりをする通りの者になるのだが、人間は皆、年を取ると老人になったふりをして、実際に老人になるのである。
あなたは、年と共に、ますます強力になるよう振舞わなければならないのだ。
そのためには、腕振り運動をして、神秘のエネルギーを取り込むことも有効だろう。
関英男博士は、毎日2千回の腕振り運動をしていたので、90歳を超えても世界中を飛び回り、また、常に海外の論文を取り寄せて熱心に研究をし、彼をキワモノ扱いする人達から見ても、極めて頭脳明晰であることは間違いなかったらしい。
だが、関博士にしたって、世間による制約は強かったのだと思う。

しかし、それでも、これらはまだ、あくまで物質レベルの話なのだ。
言ってみれば、細胞レベルの話で、原子レベル、素粒子レベル、量子レベルとなると、スケールが全く違うのだ。
細胞が意思を持つように、素粒子も意思を持つのだ。
素粒子の意思と交流するなら、発現する智恵や力がどれほどのものになるかは、それこそ、百パーセントの頭脳を開発した者ですら、想像も及ばないほどなのだ。
そういったことが、象徴的な表現ではあるが、『無量寿経』(浄土三部経の中の1つ)に書かれている。

まずは、我々は、一応は物質レベルから始めるのだと思うが、自分がなりたいもののふりをすること、つまり、それになったものとして振舞わなければならない。
そうなったのだということを紙に書き、毎日、声に出して読むことは非常に効果的である。
腕振り運動をすることも、助けになるだろう。
そして、もっと高いレベルに至るには、理念を超えた超理念、信念を超えた超信念が必要だ。
それを持った時、自分の中から声が聴こえる。
それがあなたを導く。
そのためには、あなたは、自分が至高者であることを覚えていなければならない。
それを信じる必要はない。
ただ、覚えていて、忘れないことだ。
そうすれば、あなたはある日突然目覚め、変身するだろう。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻にも、そのヒントが分かり易く書かれているので、この巻を単独で読んでも良いと思う。









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悪運続きの時

どうにもツイてない時、運に見放されているとしか思えないようなことばかり起こる時、どうすれば良いだろう。
そんな状態にある時というのは、人を嫌っていたり、憎んでいたり、あまりに自己中心的だったり、あるいは、欲望が強くなり過ぎていたり、なにかにこだわったりしているものだ。
だが、憎んだり、妬んだりをやめようと思っても、憎むのが運命であれば、憎むのをやめるのは難しい。
しかし、それをやめない限り、悪い流れから抜け出せない。
一番良いのは、身体を使って良いことをすることだ。
見返りを求めずに、誰かの手助けをしたり、人々に奉仕することだ。
しかし、それもできないからといって、責める気は毛頭ない。

だがね、運の悪さの原因となっている心の汚れ、醜さというのは、自分でも辛いものじゃないかな?
戦国時代の武士は、戦場で花を生けたりしたが、それは、彼らは自分の荒ぶる心が嫌で、禊(みそぎ)のつもりで、そんなことをしたらしい。
そんなことをした武士は生きて帰れたし、そうでないとしても、比較的、苦しまずに安心して死ねたものだ。
我々も、悪運にとりつかれている時は、心が濁っているのだから、禊をしなければならない。
しかし、花を生ける必要はない。

決して宗教的な意味ではないが、仏教の経典を読むことを薦める。
実は私も、このところ悪いことが多く、浄土三部経と言われる、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、本日読み終えたところだ。
別に、他の経典、たとえば、『法華経』、『法句経』、『観音経』、『十句観音経』、『般若心経』などでも良い。
ただ、「観音経を読む」とか、「超訳・・・」とかはお薦めしない。
全部とは言わないが、それらは著者の我の塊だ。
それに、経典の意味を、あまり理屈で考えない方が良い。

幸い、浄土三部経には、素晴らしい現代語訳が2種類もある。
そして、嬉しいことに、本願寺出版社のもののKindle版(電子書籍)が出ていたので、これをスマートフォンで読んでいる。
全ての漢字にフリガナがつき(いわゆる総ルビ)、表現は易しく、注釈も見やすく、電子書籍として良くよく出来ていると思う。
岩波文庫のものも良いのだが、岩波は、どんな本も、ほとんど電子書籍化しない。
私は、スマートフォンで、わざと文字を大きくして読んでいる。
サンスクリット語でも、中国語でも、日本語でも、お経は、文字の1つ1つが大事なのであり、ゆっくりで良いから丁寧に読むことだ。

世間的な理屈でしかものを考えない人にとって、浄土三部経も法華経も、ひどい馬鹿話に思えるかもしれない。
しかし、その中には、超未来科学とでも言えるような大変なものが秘められている。
それに、お経は、普遍的精神の奥深くにまで浸透し、その大きさ、エネルギー、叡智は、とてもではないが、計り知れない。
私は、釈迦は、宇宙人か、宇宙人の転生であることは、ほぼ間違いないと思っている。
だが、そういったことはともかく、人生が暗く、重く、辛いものになっているなら、どれでも良いから、経典を読んでみると良いと思う。









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少しの量で満足し、若く健康でいられる食べ方

食事は、しっかり味わって食べるべきであり、せかせかとかき込むような食べ方をしてはならない。早食いをするくらいなら、食べなければ良い。

『あしたのジョー』というボクシング漫画で、丈のライバルの力石徹は、厳しい減量のために、1日にトマト1つしか食べない。
しかし、力石は、そのトマトを狂ったように貪り食り、周囲の人達を戦慄させる。
力石の空腹振りを描いたのであろうが、これではいけない。
別に、1日にトマト1個で良いが、きれいにカットして皿に盛り、一切れ、一切れをじっくり味わって食べるべきである。
実際、すごく空腹であれば、そうするに足るほど美味しいはずだ。
そうすれば、ちゃんと空腹が満たされて満足し、トマトという物質だけでなく、宇宙エネルギーが注ぎ込まれ、力に溢れるのである。

一方、長時間かけて大食する人は、実際は、食べ物を大事に食べておらず、十分に味わっていない。
そうなると、物質的栄養のみが吸収されて肥満するが、宇宙エネルギーが十分に取り込まれないので、精力に欠け、疲れやすいのである。

私も、5年前に、1日1食の少食を始めた頃は、食物をむさぼり食っていたに違いなく、「もっと食べたい」と思う気持ちが強かった。
そして、食べ終わっても空腹感が強く、栄養不足で眩暈(めまい)がしていた。
しかし、今は、朝に、ナッツとビスケットを少し食べるだけだが、じっくり味わって食べると、それぞれ2つの小皿に盛った分が、少し前は足りないと感じていたのだが、今は、食べ切れず、量を減らすようになった。
しかし、それで、精力、活力は増しているのである。
おそらく、「味わう」という精神作用が、宇宙エネルギーを吸収するのだと思う。
だが、それだけではないのだ。

『無量寿経』(浄土三部経の1つ)という、仏教の経典に、こんなことが書かれている。
阿弥陀如来の浄土では、食事をしたいと思えば、美しい見事な器に乗せられた素晴らしい食事が自在に現れる。
しかし、それを実際に食べることはない。
見るだけで満足し、満腹するのである。すると、料理は消える。

私は、そんなことがあるのだろうかと以前は思ったが、今は、実際そうではないかと思う。
私はもう長く、いわゆる「料理されたもの」を食べていない。
食べたくない訳ではない。
それどころか、最後に、チャーハンとラーメンを一緒に食べられたら、もう死んでもいいと本当に思うし、他にも、カレーライスやオムライス、スパゲッティなどを食べることは、私にとって、とてつもなく大きな憧れである。
しかし、最近は、想像の中でこれらの1つを食べることを考えると、それでかなり満足出来、あまり食べたいと思わなくなるのである。
つまり、本当に食べなくてすら、心で味わうだけでも、宇宙エネルギーが吸収されるのである。

実際、世の中には、全く食べずに元気に生きている人達が少数ながらおり、ドイツ人の女性テレーゼ・ノイマンのように、全く食べずに生きていることを、最高の医学者達が長期に渡って、厳密に検証した例もある。
日本では、明治時代の女性、長南年恵(おさなみとしえ)が、やはり、全く食事をしなかったことは、ほぼ確認されていて間違いないと思う。
また、年恵は、風呂に入らなくても身体が汚れず、43歳で亡くなるまで少女のような容姿と性質を保ったことが知られている。

菜食が好ましいとは思うが、何を食べても構わないから、少しのものを、時間をかけ、じっくり味わって食べて欲しい。
ただ、よく噛むことは大切ながら、おかしな人達が言うように、度を過ぎた回数噛むような馬鹿な指示を守る必要はない。
十分に味わっているなら、それで十分に噛んでいるはずである。
大切なことは味わうことであり、形式的、公式的、機械的に噛むことではないことは明らかである。

そして、こういったことは、性的欲望に関しても同様である。
画家で講演家であった足立幸子さんの本に書かれているが、セックスとは、本来、エネルギーの交流が主体なのである。
だから、進化してくると、あまり興味がなくなり、お互いの好意を持って抱き合っただけでエネルギーが交流し、浄化、活性化され、肉体接触以上の満足が得られるのである。
仙道の房中術の本当の原理はこれであり、ヨーガやその他の密教の教えも同様であると思う。
本当に良いカップルであれば、べたべたする必要すらなく、そっと寄り添うだけで十分なのだ。
また、精神とは偉大なもので、私など、想像の中で、初音ミクと肩がそっと触れるだけで、大量の宇宙エネルギーが充電されるのである。

これらの話を参考にして、自分で工夫していただきたいと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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