ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

無我

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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天才医師の秘密

天才医師と呼ばれる人々がいる。
主には手術の天才なのだが、技術が高いとか凄い腕前とかいった言い方ではまるで足りない、神業的な手術をする・・・そう、まるで神様がその医師に降りてきて、あるいは、神様が代わって手術でもしているような奇跡の手術をするのである。
もちろん、彼らは、才能がある上、勉強や訓練を十分にやり、豊富な経験もあるのだろうが、やはり、人間業とは思えないのである。
で、そんな医師らが、そんな手術が出来る秘密の一端を語っている本をいくつか見たことがあるが(どの本だったかは分からない)、彼らはほぼ全員、何か特別なことを1つしている。
それは、たとえば、手術中に頭の中で賛美歌が流れているとか、手術の前に祝詞を上げるとか、面白い例では、手術中ずっと、頭の中で、ある教会の鐘の音が響いているという医師もいた。
これをもって、宗教的に解説する人がいる。
その医師が上げる祝詞や祈り言葉に霊力のような神秘的な力があるとか、その医師の、人を救いたいという気持ちが神様に通じる・・・といった解説である。

華道
AIアート164
「華道」
Kay


そうではない。
彼らの力の理由は明らかだ。
祝詞か賛美歌かといったことは、たまたまそれらの医師が採用しているだけであり、それ自体に何か特別な意味があるのではなく、どれも同じである。
肝心なことは、それをすることで思考が消えることである。
この思考が消えることを、自我が消える、無我になる、無になるという言い方をすることが多いが、やはり、分かり易くシンプルに言えば、単に思考が消えているだけのことである。
もう少し丁寧に言えば、意識があるまま思考が消えている・・・あるいは、心が消えていると言っても良い。
私がいつも述べるように、思考が消えれば、人間は全知全能であり、神のようなものである。
そして、最も直接的に思考(あるいは心)を消す方法は「私は誰か?」と自分に問うことである。
それが難しければ、「私は何も考えない」あるいは「われ思わず」という世界コマンドを唱えると、ある程度思考が消えるだろう。
また、上で述べた、ある女性医師のやり方だったと思うが、手術中、頭の中で教会の鐘の音が響いているというのも面白い。
私も、よく、頭の中で、僧たちが合唱する阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を響かせている。
別に、この真言に特別な力があるわけではない。
単に、私のこれまでの育ちや生活のために、これが合っているというだけのことである。
ある時期は、私は、『クリムゾン・コレクション』のマントラの詠唱を気に入っていたことがある。ケルトハープとエンジェルボイスと呼ばれる素晴らしい歌声で、なかなかのものであると思う。








未熟者の最後の手

人間の能力に関する真理・・・いや、宇宙の真理を一言で言えば、
「無になれば不可能はない」
ということだ。
そして、無になるとは、自我・・・早い話が心を消すことだ。
ただし、それは、眠っていたり、失神している状態ではない。
それどころか、「〇〇さん」と呼びかければ、「はい」と返事をするし、「ご注文は?」と尋ねれば、「カフェオレを」と答えもする(ただし、そうでない場合もある)。

自我がある状態が薪(まき)なら、無(無我)の状態は灰だ。
なら、薪が燃えれば灰になるように、自我を燃やせば無我になる。
自我を燃やす方法は、よく知られており、どれも間違いではない。
例えば、念仏を唱える、真言を唱える、坐禅を組む、断食をする、滝に打たれる・・・などだ。
ただ、無我になるまでに命を落としてしまう可能性がある危険な行をやる時は、ちゃんとした指導者の下でやらないといけない。
念仏を唱えていれば、いつかは無になる。
しかし、普通の人は、薪にたとえれば、水分が多い薪なので、なかなか燃えて灰にならない。
それでも、粘り強く燃やしていれば、いつかは燃えて灰になる。
つまり、粘り強く念仏を唱えれば、いつかは無になる。
しかし、我の強い未熟な心の場合、何十年もかかってしまう可能性が高く、無になる前に命が尽きることもあり得る。
そこで、早く、燃える乾いた薪のような自我にするために、「嫌いな人の機嫌を取る」「嫌いな人に従う」「耐え難きを耐える」などが効果的で、これはまさに、社会で文句を言わずに真面目に働くことであるから、立派に働くことが、いかに効果的かが分かる。
まあ、実際は、ある程度、しっかり社会で働きながら、念仏を唱えるなどをするのが良い手である。
しかし、そんなの、まっぴらだという人も多いだろう。
そう思うことがまさに我の心で、それこそが、無になる最大の邪魔者であるのだが、嫌なものは仕方がない。
そこで、W.B.イェイツの自伝的小説『まだらの鳥』に、少年時代のイェイツを投影した少年マイケルが、短い期間で無になった方法がある。
それは、食事を出来るだけ摂らないことだ。
とはいえ、これをそのままやるのは健康上良くないので、無理のない範囲で少食にし、その上で、何か行をすれば良いだろう。
度々、引用する、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えたホームレスは、元々、沢山食べるお金もないので、あまり食べずに、その言葉を唱えたから、わずか2週間で無になれたのだろう。
本当は、強制的に少食にさせられるより、自主的に少食にする方が効果があるが、そのホームレスは、本当に1日中、その言葉を唱えたから上手くいったのである。
だから、その気になれば食べられるのに、自分の意思で食べずに行に励めば、より早く達成出来るかもしれない。








生きるための願いは叶い易い

思考停止というのは、何も考えないということではなく、「教えられた通りに考える」ということだ。
劣悪な考え方をしっかり教えられた者は劣悪な考え方をするだろう。
専制国家やカルト宗教の教えは極めて偏っているだろうから、そんな教えを叩き込まれた者は、やはり、非常に偏った考え方をする。
では、どんな教えを習得すれば、偏見のない、優れた考え方が出来るのだろう?
それに対し、それが、「我が国の理念だ」「わが宗教の教義だ」「わが社のポリシーだ」「わが校の精神だ」だと言う者が沢山いるだろうが、それは全部嘘だ。
「いや、全部ではないだろう。良いものだってあるかもしれない」と言いたい人もいると思うが、断言するが、全部駄目である。
聖書も仏典もそうである。
権威ある賢者の書もそうである。
数学や物理学もそうだ。
これらは全て、思考のための道具であり、それで考えてはいけない。
どんなことでも、数学の理論や聖書を当てはめて、奇妙なことを言うおかしな人のことを考えれば分かると思う。

良い考え方は、「生命、愛、平和」を指向するが、個人の心による考え方は、「死、利己主義、争い」を指向する。
そして、良い考え、想いは、魂の中にある。
心が静まった時、魂の声が聞こえる。それが、真に良い考えを示す。
よって、心を消してしまえば良いのである。
最も簡単には、息を吸って止めれば心が消えることが分かると思う。
息を吸って止めた瞬間、人間は何かを考えることは出来ない。
その時、強い願いがあれば、叶ってしまう。
人間の最も強い願いは生きることなので、息を吸って止めると、生命力が高まる。
愛と平和に関しては、本当にそれらを求めている人は、あまり多くないが、本当にそれらを強く求めていれば、魂から啓示が聞こえるはずである。それに従えば、愛と平和を実現出来る(どのくらい時間がかかるかは分からないが)。
愛と平和に関しては難しいが、生命力であれば息を吸って止めれば高まる。
そして、生命力には、不安の解消や、経済力も必要なので、それらも実現する。
だが、息を吸って止めるだけでは、心が消えている時間が短く、すぐに心が帰ってくる。そうすると、また限定思考に、つまり、思考停止になり、大きな願いは遠のき、叶い難い。
それなら、腕振り運動を淡々とやって心が消えた状態を何度も起こせば、魂と親しくなる。
あるいは、魂と呼応する言葉を、普段から使えば、特にピンチの時など、自動的に心が退き、魂が現れて奇跡を起こすことがある。
「神様の奇跡が起こる」や「生命、愛、平和」などの言葉は、魂と共鳴し合うのである。








神のようになる

無になるとは、言い換えれば、「無我」「忘我」「没我」の状態になることと言えるが、どれも同じことだ。
つまり、我(われ)がない、我を忘却した、我が没した状態で、個人的な心がないことだ。
そして、無になれば、天才だし、幸運がやって来るし、超能力者だし・・・まあ、神様みたいなものかもしれない。
だが、無になるためには、長い厳しい修行が必要だ。

ところが、実を言えば、一瞬、無になるだけなら、簡単に出来る。
そして、一瞬であろが、神様なのだから、その力は計り知れない。
では、どうすれば、一瞬、無になれるのかというと、単に、息を吸って止めれば良い。
息を吸って止めれば、よほど無理に何かを考えようとしない限り、何も考えていないことが分かると思う。
つまり、それで無になっているのである。
その一瞬、心配事は消えているし、欲望もないし、誰かを恨むこともない。
適度に吸って止めれば良いが、万一うまくいかないなら、多めに息を吸えば良い。

息を吸って止めれば、無であり、それは即ち、神なのだから、全て思うがままになる。
「いや、思うがままって、思ったら無じゃないじゃない?」
と思うかもしれないが、そうではない。
自我の思いはないが、神の思いがあるのである。
たとえば、「富」という言葉を心で言えば、必要なお金がやってくる。
全ては神の意思で起こるのだから、別に不思議なことでも浅ましいことでもない。
ただし、願いを表す言葉が言えるのは一瞬だけだ。
とはいえ、流れ星が流れる時間よりはずっと長く、「富」とか「成功」とか、「富、成功」と言う時間はちゃんとあるし、3回くらい言えるかもしれない。
全ての願いに対して、「成った」と言っても良いのである(と言うより、これが良いかもしれない)。
息を吐いたら、神の思いを自我の思いで穢さぬよう、直後は忘れる・・・つまり、願いについて考えないことだ。
そのためには、息を吐く時、細く長く吐くと良い。息を吐いている間は、自我が帰って来ないからだ。
とはいえ、絶対にそうしなくてはならないわけではなく、息を吐いて、しばらく忘れれば良いのである。

何度か言ったが、例えば、前世での業による宿命みたいなものを背負っていると、なかなか願いは実現しない。
その場合、真言、念仏、神仏の名、お経、祝詞、祓詞などを、悪業が消える、あるいは、弱くなるまで唱えると良い。








純粋意識の掴み方

『BLOOD-C(ブラッド・シー)』というアニメに、「光の先」というものが出て来くるが、これは、『BLOOD-C』自体と関係なしでも面白いので、ちょっと取り上げる。
原作小説では、単に「光」と書かれている。
小夜(さや)という名の、女子高生であり神社の巫女である主人公が祈っていると現れる見えない光。
もう少しで掴めそうなのに掴めない光。
小夜が、その光を掴んだのは、ほぼ同じ内容の原作小説とテレビアニメの最後のあたりで、小夜が、ある強敵と戦った時だ。
小夜も恐ろしく強いが、その敵は、小夜以上だった。
小夜は追い詰められ、絶体絶命となる。
小夜は、ここで負けて死ぬはずだった。
しかし、その時、光が現れる。
光が何かしたわけではない。ただ、現れた・・・というか、小夜がそれを感じただけだ。
その刹那、勝負は逆転し、小夜は一瞬で敵を倒す。

この光は、謎でも何でもない。
また、小説でも「見えない光」と書かれていた通り、光と言ってもライトではない。仮に光と呼ぶだけだ。
この光は、純粋意識だ。
誰でも持っている・・・いや、人の実体そのものだ。
小夜は、なぜ、この光を掴めたのか?
小夜の意識(表の意識、自我)が消えたからだ。
では、なぜ、小夜の意識が消えたのかというと、敵を殺すことを決意したからだ。
小夜には、この敵を殺したくない事情があった。
しかし、ここで負けて殺されるわけにはいかない、つまり、敵を倒すしかないと覚悟を決め、殺すことを決意したのだ。

要するに、誰でも、意識を消せば・・・無になれば、純粋意識が現れる。
重要なことは、意識と純粋意識が同時に現れることはないということだ。
どちらかが現れれば、どちらかが消えるのだ。
だから、自我が消える・・・無、無我、忘我、没我になれば、純粋意識が輝きながら現れる。
これは、純粋な科学だ。
そして、無になれば、即ち、純粋意識が現れれば、不可能はなくなり、全てが決意した通りになる。

だから、無になる方法、自我を消す方法を知っておいた方が良い。
それは、決して、公式的なインスタントなものではないが、少しも難しいことでもない。
何と言っても、光・・・純粋意識が人間の本体で、いわば、自我の方が偽物なのだからだ。
偽物を除けば、本物が現れる。それだけのことである。

同じカップでも、好きなキャラクターが描かれていたら、倍の値段でも買う。
それは別に悪いことではない。
人間には、そんなことも必要だ。
しかし、それが本当に必要なわけでもないことを知り、いつでも、キャラクターがついていないカップを平気で買うことが出来る。
そんな者は光に近いのである。
逆に、それが出来ない者には、何を話しても光は掴めない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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