ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

漫画

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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傑作文学は引き寄せの秘法書

傑作文学というものは読んでおくべきと思う。
私は、子供の頃はあまり本を読まなかったし、中学生くらいになると、実用主義に偏ったこともあるが、「フィクションを読んでも賢くならない、ノンフィクションを読め」という論調の話を見たり聞いたりすることが多かった。さらに、中学生の頃には、理系は文系より価値があるという偏見を持ってしまったこともあり、文学を馬鹿にしているようなところがあった。
この理系と文系の話で言えば、少なくとも両方必要という理解は必要だし、本当のことを言えば、理系と文系に明確な違いがあるわけではない。
世の中には、理系か文系に偏っているというか、むしろ、全体の中から「文系と思えるもの」「理系と思えるもの」を排除することで変な考え方を持つようになってしまった変な人が多いのである。

日本では、心理学という学問が、大学で文学部の中に入れられているというのは別に構わないと思うが、文学部の中で科学を排除するようなところがあるのは非常に問題である。まあ、理系学問をやる者が「理系は難しくて、頭が良い俺のようでないと出来ない」みたいな「頭の悪い人間」特有の空気を出していたことも、文学や心理学の中に科学を持ち込み難い原因だったかもしれない。
また、ユング心理学の大家、河合隼雄が「僕は数学が苦手で」と余計なことを言ったのを真に受けた人もいたが、彼は京大の数学科を卒業し、高校の数学教師をしていたのである。

なぜ文学が重要かというと、もちろん、一言で言い表せないほど価値があるが、今回、1つ言うと、優れた文学は最高の引き寄せのテキストである。
大漫画家の石ノ森章太郎が、漫画の描き方みたいな易しい本を書いていたが、その中で、漫画のストーリー展開、つまり、「起承転結(きしょうてんけつ)」について書いていた。当時の漫画は、かなり子供向きなところが大きかったので、文学との差異も感じるが、根本的には違わない。
起承転結・・・物事が「起こり」、それを受けて「発展し」、それが「変化していく」。
そして、それらが形になって終わる。
これらは全て、引き寄せである。
それらの展開は、全て偶然と言えば偶然であるが、必然と言えば必然であり、いずれにしても引き寄せなのである。
次のようなお話の例が分かり易い。
ある紛争地域で、ある男が列車に乗っていた。これが起承転結の「起」である。
男はトイレに行ったが、使用中であったので、別の車両のトイレに行く。これが起承転結の「承」である。
すると、この列車の、その男が元々いた車両が爆撃機の空爆を受ける。これが起承転結の「転」である。
結果、男は命拾いしたのだが、男は、自分は偶然に助かったと強く感じたことから、この世の全ては偶然であると悟る。これが起承転結の「結」である。
表向きのストーリーを見れば、ただの偶然の物語であるが、物語の中に、この展開を必然と感じさせるものがあるから文学になり、それは案外に科学であり、それが、引き寄せである。

『ロリータ』は、実は、大文学者のウラジミール・ナボコフの作品であるが、ナボコフ自身は喜劇のつもりで書いたと言う。
しかし、文豪はいつもそう言うのだ。
イタリア文学最高峰の『神曲』も、実は、元々のタイトルは『喜劇』で、それを一応、『神聖なる喜劇』としたが、日本語訳の際、森鴎外という目立ちたがり屋のエゴイストが『神曲』などという愚にもつかないタイトルをつけてしまったのである。
『ロリータ』の主人公の変態おじさんハンバートは、若い頃から女児好きで、長い年月をかけ、ロリータ(ドローレス)という、全く彼好みの11歳の少女を引き寄せた・・・つまり、彼自身がロリータを世界の中に創造したのだが、彼は変態で歪んでいたので、魑魅魍魎とも言うべき、いろんなものを一緒に引き寄せてしまったので、ロクでもない結末になったのである。
この作品を恋愛文学だなどと言う者は、こんなことが全く分からないIQが低い者である・・・と私は勝手に思っている(笑)。
ハンバートには、少年時代、アナベルという名の同い年くらい(14歳)のガールフレンドがいた。
ハンバートとアナベルがお互いの日記を見せ合うと、同じ日に、部屋の中に小鳥が飛び込んでいたという「偶然」の話があり、ここらに、ナボコフは、シンクロニシティ(共時性)の出来事を通じて、引き寄せとは言わないが、世界が作り物っぽいものであることを匂わせている。
まあ、なんで『ロリータ』のアナベルの話を持ち出したのかというと、つい先日、私は『BEM(ベム)』というアニメを見て、妖怪人間の1人ベラが、普段はアナベルという名の美少女女子高生をしていたからで、これも偶然であるが必然かもしれない。

ニンフェット
AIアート619
「ニンフェット」
Kay


ドストエフスキーの『賭博者』も、まさに引き寄せの教科書になる。
初めてルーレット賭博をした老女は0に賭け続けて大勝するが、次は同じことをやって大敗する。
その理由に、引き寄せの秘訣があるかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ)
(2)ロリータ[Blu-ray] ※スタンリー・キューブリック監督版
(3)賭博者 (ドストエフスキー。光文社古典新訳文庫)
(4)賭博者(ドストエフスキー。新潮文庫)
(5)石ノ森章太郎のマンガ家入門 (秋田文庫)
(6)マンガ家入門 (石ノ森章太郎デジタル大全)
(7)BEM(Amazon Prime Video)

現実創造ツールとしての漫画

非常に沢山の賢者達が、世界を思うがままに創造することが出来る精神を持つために最も有効な訓練は「自己観察」だと述べている。
これは、「自分を他人のように観察する」訓練だ。
自分が、空に浮かぶ大きな目にでもなったつもりで、あるいは、壁の目とか、自分の身近にいる幽霊にでもなったつもりで自分を観察するのである。
冷徹な科学者のように、ただただ、無批判に自分を観察する。身体も思考も行動も反応も全てである。

このような話を見たり聞いたりした人は多いと思う。
そりゃ、賢者の本には、大抵書かれているからね。
やってみたことがある人もいるだろう。
でも、誰も、超人にも、魔法使いにも、神様にも、無敗のナンパ師にも(笑)なっていない。
なれるはずなのに。

19世紀のスイスで、教師であり、作家であり、政治家であり、そして、画家であったロドルフ・テプフェールは、1枚の紙を4つほどのコマに分け、各コマに簡易な絵と説明を書く、新しい形の表現を発明した。
小説では、文章の中に挿絵があるが、それをひっくり返し、絵の中に「挿文」を入れたのだ。
漫画の誕生である。
漫画は「絵画言語」とも言われる。つまり、「語る絵」なのである。
テプフェールは、今日では一般的な、吹き出しの中にセリフを書く手法は使っていないが、テプフェールこそが漫画の発明者と考えて良いと思う。
セリフの吹き出しは、誰が始めたのかは分からないと思うが、日本で初めて、セリフの吹き出しが使われたのは、画・樺島勝一、作・織田小星の『正チャンの冒険』と言われている。
そして、漫画は、宿命的に低俗なものと蔑まれることも多い中で、世界的に人気を得、さらに発展している。
私は、漫画ほどに、人類を前に進めた発明は滅多にないと思う。

「漫画の王様」と言われる手塚治虫の、漫画への貢献は偉大であった。
その手塚治虫は、漫画の絵は記号であるとよく言っていた。
手塚治虫が中学時代に描いた絵を見たら「天才か」と思うほどの腕前であるが、その腕を敢えて隠し、シンプルな線で描いた記号である漫画絵は極めて雄弁である。
人間の創造力ゆえに、読み手の数だけの宇宙が創造されるのだ。

賢者達が勧める自己観察の行は、自分を漫画のキャラクターと考えるとうまくいく。
なぜなら、人間の脳は、まさに、そのやり方に適合しているからだ。
つまり、シンプルなものに対してこそ、深く多様な想像力を発揮するのが脳なのである。
自分の状況を、心の中で、漫画の1コマに変換して眺めると、その瞬間が生き生きと浮かび上がり、的確な観察が出来るだけでなく、ストーリーの流れまで読める。
例えば、自分は面白くない学生生活や会社員生活を送る平凡なつまならい人間というコマがここにある。
その中で、自分が、どんな気持ちでいるかも分かる。
例えば、クラスの中や、会社の同じ部署の中に、可愛い女の子がいて、何とか彼女と仲良くなれないものかと考えているキャラクターとしての自分が存在する。
それなら、続きは、彼女と仲良くなって、あんなことやこんなことをしている(笑)漫画にすれば良い。
漫画なんだから。

『ザ・シークレット』、あるいは、DVDの『THE SECRET』で、世界的作家のニール・ドナルド・ウォルシュは、同じことを「神の黒板」を使って説明している。
現状が、例えば、「21世紀の初頭、ニール・ドナルド・ウォルシュというハンサムな男がいた」と、黒板に書かれていて、後は、自分の好きなように書けば良いと言うわけだ。
しかし、よほど想像力がないと、黒板では、ちょっとやり難いのである。
だが、最も優れた「想像の道具」である漫画を使えば簡単だ。
まずはあせらず、自分の現状を、心の漫画として、絵、説明文、必要なら、セリフの吹き出しを使って表現し、客観視することだ。
そして、望む展開を、絵や説明文やセリフで思い描くと良い。
ただし、いきなり、可愛いあの子と、あんなことやこんなことをしているコマを考えると、なぜかうまくいかない。
なぜなら、現実という漫画は確かに心が作るが、心は魂から生まれたものであり、魂は生命であり愛であるからだ。
だから、モラルや良心のないコマは、生命力を持たない。
確かに、宇宙には、マイナスの魂という存在もあり(『エメラルド・タブレット』参照)、その力を集めてインモラルな欲望を叶えた者もいるが(ヒトラーやスターリンなど)、その代償は自分の魂であり、しかも、叶う夢も春の世の夢のごとく儚いものである。








願いを叶え易い漫画イメージ法

願いが叶った様子をイメージすれば叶うと言う。
イエスは、「願いがあれば、叶ったと思え。そうすれば叶う」と述べたと福音書に書かれている。
しかし、願ったことが実現したイメージとか、あるいは、叶ったという思いは、1つの願いであったとしても、複雑だったり、不明確だったり、気分によってコロコロ変わったりで、実際のところ、手に追えないのではと思う。

ところで、最近、私が気に入っている考え方は、「自分は漫画のキャラクターだ」というものだが、実際に、その通りだと思っても良いと思う。
もちろん、自分は、映画の登場人物だとか、アニメのキャラクターだと思っても良いし、「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは劇を演じている役者だと言った。
だが、これらの中で、漫画が格段に単純でイメージし易い。
映画やアニメや劇は、自分が望む情景を動きや、時間の推移の中でイメージしなければならない。
一方、漫画は、1コマの絵(静止画)で済んでしまうのだ。
そして、漫画をよく読む人なら、漫画の絵は動かなくても、心によって、音や動きを感じ、映画や、あるいは、現実世界より生き生きとしていることだってあると思う。
ならば、願いが叶った様子を漫画でイメージすれば良いのである。

例えば、高収入になった様子を、映画や、アニメや、劇でイメージしようとしたら大変だ。
1つの場面では意味をなさず、場面の移り変わりと動きの中でイメージしなければならず、そもそも、お金が沢山入って来ることを、どうイメージすれば良いか難しい。
しかし、漫画であれば、たった1コマで良いのだから簡単だ。
例えば、ポルシェの運転席に座ったり、飛行機のファーストクラスに乗ったり、高い服を着ている1コマの絵で十分だ。
そして、コマ内に、「高収入になり、ポルシェを買った」などと書いておけば、さらに明確になる。
あるいは、ゆったり落ち着いてソファに座っている自分を描き、「高収入になった」の一行を足せば良い。

私が、小学校5年生の時、学校の図書館で、シーラカンスの本を読んだことがあった。
その時、頭の中で、自分がテレビを付けたら、シーラカンスの映像が出る漫画の1コマを思い描いたことがある。
家に帰る頃には、そんなことは忘れていたが、家に帰った後、何の気なしにテレビを付けたら、何やら、大きな魚が泳いでいる映像が映っていたが、それはシーラカンスだった。
このようなことは、何度も書いたと思うが、頻繁に起こしている。
世界って、本当に漫画なのである。

手塚治虫は、漫画は絵ではない、記号だと言ったが、それはやはり、漫画では、ものごとを単純に表現出来るということだ。
そして、さっきも述べたが、想像力があれば、単純な記号であっても、十分にリアルなのである。
それは、空の雲がお菓子や動物に見えたり、壁のシミがオバケに見え、しかも、それが心を大きく動かすことと同じなのである。

上で述べた「漫画イメージ法」を使えば、世の中に大きな影響を与えることでなければ・・・つまり、個人の潜在意識の範囲のことなら簡単に叶う。
そして、やがて、世界を動かすことも出来るようになる。
その際に、重要なことは、欲張らないことと、モラルを持つことである。
なぜなら、欲張ると、自分が責任を負えないようなことを望み、もし叶ったら、大変な目に遭うからだ。
そして、モラルがないと、世界からの反発を受け、叩きのめされることになるのである。








「日本は応用が上手い」で良いじゃないか

私が小学校の3年生くらいのことだったと思うが、図書館で読んだ、第二次世界大戦に関する本に、こんなことが書かれていたことを、ずっと忘れなかった。
それは、日本人というのは、オリジナルの発明はできないが、外国にあるものを良いものにする能力が非常に高いというものだった。
そんなことが、第二次世界大戦の時の時に既に言われていたのは、それ以前にそういった「複製を発展させた」実績があったということだろう。
私は、大いに納得したような気がしたが、それは、本当に同意したのか、子供らしい、「大人の言うことを信じてしまう」ということだったのか、自分のことながら、いまだ謎だ。
そして、今に至るも、「応用は上手いが、発明はできない」というのが日本人の特徴と思われているのだと思う。
ところで、その本には、日本は、飛行機ということに関しては、確かに複製から始めたが、「零戦(ゼロ戦)」という飛行機は、アメリカの飛行機にはないオリジナルの発想で創られた優れた戦闘機だったという論が書かれていたように思う。

芸術においても、複製も優れたものは立派な芸術であるが、科学技術も、応用が発明に劣る訳ではないはずだ。
それに、日本にも、科学技術におけるオリジナルな発明は沢山あると言う人もいるだろう。
その一方、やはりそれらは基本的には西洋の真似なのだと言う人もいる。
はてさて、どっちが正しいのだろう?
ところで、いかにオリジナルの発明といったところで、実は、自然の模倣でないものなど、1つもないのである。
だから、人間が純粋な発明をしたことなど、実は全くない。
発明は全て神が行ったのであり、人間はそれを真似しただけなのであると言うのが真実ではないだろうか?

日本の漫画、アニメが高く評価され、これは日本のオリジナルだと西洋ですら認められていると思われているかもしれないが、漫画、アニメ自体は、やはりオリジナルは西洋であり、日本人は西洋に元々あった材料を使っただけだ。
日本は、明治維新と第二次世界大戦敗北で、2度、独自の文化を否定され、実はもう日本独自の伝統など存在しない。
・・・といったことが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』に書かれていたが、そういうことも言えるのかもしれない。
日本のアニメを見たアメリカ人は、「何だ!日本ってアメリカじゃないか?」と思っているのかもしれない。
つまり、今の日本には、アメリカ人から見ても、ちっともエキゾチック(異国情緒)さがないのだと思うのだ。

日本人で、日本の大学で国文学を出ても『古事記』を読んだことがないというのは珍しいことではなく、むしろ、普通かもしれない。
子供達に無理矢理、和太鼓を叩かせて、「日本の伝統を守ろう」なんてやっている地域もあると思うが、度を越すと、その子供が歪んでしまう。
伝統というものは無理に守るものではない。
伝統は、その地域の自然環境の影響を受けて構築された部分が大きいのだから、むしろ、柔軟さを持っていた方が、良い形で伝統は残る。
また、消えた方が良い伝統だって、実際にはある。
極端に言えば、中国の纏足(女児の足を縛って、足が大きくならないようにした)がなくなったのは良いことだが、世界には、現在も、似たような伝統を守っている国もある。

それに、日本人だ、アメリカ人だ、中国人だという区別は、もし、未来においても人類が存続するのであれば、そんなものはなくなっているだろう。
厳然と国境が残るなら、人類が滅びることを意味するかもしれない。
無論、自然環境や、趣向の違いによる文化の違いは残ると思うし、そうでなければ、潤いもないというものかもしれないが、そのあたりはよく分からない。
ただ、認識すべきは、人間が独自のものを創るなんてことは実際にはなく、全て、自然のコピーなのだということだ。
だから、日本人が応用が上手いというのなら、それは何も悪いことではなく、全く良いことだ。
伝統というものは、強制的に踏襲しなければならないものではない。
それが、伝統的であろうが、世界の常識と言われるものであろうが、押し付けは良くないということだ。
これまでの世界は、そういった「やってはならない」ことが横行してきたのである。









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日本の漫画の美少女の瞳の大きさの秘密

日本の漫画の顔の描き方には、深い秘密がある。
いまや、日本の漫画は海外でも人気が高く、海外の漫画作家が日本作品を参考にして作品を制作することも多いが、人物の顔を日本の漫画と同じように描くことは少ない。
それはなぜだろうか?

ご存知のように、日本の漫画では、特に美しい少女の場合が顕著なのだが、目が非常に大きく、対して、口、鼻が小さい。
口や鼻は、小さいどころか、描かれない場合も珍しくは無いほどだ。
また、耳も、口や鼻ほどではないが、小さいと思う。
このような描き方がされるようになった様々な理由を述べる人もあるだろうが、それは、日本に必然的に生まれたものだと思えるのだ。
そのような絵は、日本人には簡単に馴染むが、海外の人たちは、我々日本人とはかなり異なった印象を持つのだろう。それは、単に、慣れの問題ではない。

日本の漫画の美少女達の顔に、何を感じるべきなのだろうか。
まず、口が小さいことは、その口が食べるための機能をほとんど果たさないことを意味している。
日本の美少女は、本質的に極めて少食である。
鼻が小さいこともまた、食べることへ欲望の少なさを表している。食欲とは、美味しそうな匂いで刺激されるからだ。
また、耳も比較的小さいのは、食べ物ほどではなくても、やはり、彼女達が外的なものへの関心をあまり持っていないことを表している。これは、上等な品物に魅かれないといった意味だけではなく、人やその他のものの外的な美醜を気にかけないことも示している。彼女達は、恋したとしても、必ずしも男性の外見を重視しないのだ。また、世間的には、醜いとか恐いとか感じるようなものでも、彼女達は厭わず、恐がらず、それどころか、愛しく思ったり、可愛いと思ったりするのだ。耳が小さいというのは、世間の声を重視しないという意味である。
つまり、日本の漫画の人物は、特に美少女がそうであるが、外的なものへの関心は高くはなく、また、表面を見ず、その意識は内面に向いていることを、その姿が示唆しているのである。

しかし、漫画の美少女達は、目だけは極端に大きい。これはどういう訳だろう?
もちろん、目が大きく、輝いていることは、顔全体を美しく愛らしく見せる効果があるのだが、普通は、「過ぎたるは尚、及ばざるがごとし」で、逆効果になりかねず、実際、海外の読者にはそう感じる場合もあると思うが、日本人だけはそうではない。

その目には別の、特別な意味があるのだ。
日本の漫画の、特に美少女の目は、必ずしも見るための器官であることを意味しない。
その目は、光が強調して描かれるのである。その光は、曇りのない鏡が、太陽や月を反射する光のようなものなのだ。
昔の少女漫画では、美少女の目の中に、沢山の星が描き込まれることも多かった。それは、彼女達の目が、美しい星をそのまま映すことで、心の純粋さを証していたのである。
日本の漫画の美少女の目は、視覚器官ではなく、内面を表すもの、つまり、心の鏡なのである。その一点の曇りもない瞳は、静止した美しい湖が星や月を綺麗に映すように、彼女たちの内面の美しさを、忠実に映すのである。
だから、ヒロインの美少女の目は、手間をかけてでも、特に念入りに美しく描く必要があるのだ。

では、海外の漫画やアニメのヒロインの顔はどうだろう?

私は、まだ偏見が少なかった幼い時でさえ、ディズニーの漫画やアニメの登場人物の顔を恐く感じ、どうしても好きになれなかった。
ミッキーマウスに熱狂し、あれを可愛いと言う者が信じられなかった。
私には、ミッキーマウスの顔が恐ろしかった。
ミッキーマウスの顔の特徴は何だろう?
口も鼻も耳も、特大だ。
対して、目は、小さく、光沢はなく、ほぼ黒一色だ。
これはまず、食べることへの貪欲さを強く感じる。
そして、外物への関心が非常に強く、物質的世界を貪欲に動き回る性質が強く表れている。
だが、その小さくシンプルに表現された目は、内面への無関心を示している。
それは極端な物質主義を象徴しており、まさにアメリカのアイドルに相応しい。
私は、耳まで裂けた口で笑うミッキーマウスにぞっとするのである。

ミッキーマウスほどではなくても、ディズニーアニメのヒロインとしての白雪姫も、シンデレラも、『美女と野獣』のベルも、私には恐ろしく感じられ、美しいと思ったことは一度も無い。
ベルはフランス語で「美しい」という意味だが、私には不気味でしかないのだ。
それは、あの真っ赤な大きな口、大きな高い鼻、対して、落ち窪み、やはり単色で描かれた、何も映さない目のためだ。
日本のアニメのヒロインの少女達と比べ、ディズニーアニメのヒロイン達が、おばさんに見えるのは、それらの特徴が、彼女達が、外的なものに強い執着を持っており、その対極にある無垢さを全く持ち合わせていないことを感じさせるからだろう。
私は、子供の頃、ディズニーの『シンデレラ』を見た夜、シンデレラ役の女が演技を負え、宝石の付いた豪華なドレスを身にまとい、高級車で引き上げる夢を見たものだった。

今からほぼ1年前の、2011年7月2日に、アメリカ、ロサンゼルスのノキア・シアターで行われた初音ミクのコンサートで、ミクが日本と同じ姿で登場したのは嬉しいことだった。
大きな輝く瞳は、瞬きしても、ウインクしても可愛かった。
日本の漫画でも、叫ぶときなどは、美少女でも口が大きくなることがあるが、ミクやルカの口は常に小さいままだった。
アメリカ人が描いたミクは、やはり、口や鼻が大きく、目が小さい、欲望に満ちた顔であるが、これはミクではない。
欧米の人々で、日本のままの姿のミクを愛する人達は、西洋式の物質主義を捨てようとしいているのである。

『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナはアルジュナ王子に、欲望への執着を絶つことが、真の自己として統合され、至福に至るためには、絶対的に必要であることを説いた。
そのためには、外物に対する感覚を引き上げ、内面に向かわなければならないと教えた。

『老子』では、聖人の統治とは、人民の目を貴重な宝(外的な富)から逸らせ、内面を充実させるよう導くものだと述べられている。

そして、本来であれば、日本人は、特にそういったことを教えられなくても、人々は万物の背後に潜む神を見、それをとても身近に感じていたのだ。
すなわち、肉眼に映る外物の形ではなく、神である自然を畏敬する澄んだ心に映る、万物の実相を見ていたのである。
インドや中国の人達が、修行をしてようやく得られたものを、日本人は本然(もともとの姿)として備えていたのだ。

『古事記』において、黄泉の国から逃れたイザナキは、着ているもの、身に付けているものを全て脱ぎ捨て、取り去り、海の水で禊をして穢れを祓い、そして、最後に、その目を洗った時、左目から日の女神(アマテラスオオミカミ)、右目から月の神(ツクヨミノミコト)が生まれたのである。
一方、すっかり心を祓(はら)われたイザナキですら、その鼻から生まれたスサノオノミコトは、まだ外物への執着があり、粗暴であった。

日本の漫画の美少女の瞳は、太陽や月、あるいは、星を映す澄んだ水である。
その鼻や口がほとんど無いのは、人間の最大の欲望である食欲にすら執着を持たないことを表している。
彼女達を見ていると、こちらも食を慎みたくなり、その無垢で純粋な瞳は性的関心も消し去ってくれる。
それは、元々、日本人が目指した最も高貴な姿を表しているのであり、それを我々日本人が愛して止まないのは当然のことである。
そして、今や、苦痛に満ちた物質主義文明は終焉を迎え、光に満ちた進化の時が近付く中で、海外の人達も、それに惹かれるようになったのも、自然なことであると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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