ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

渋谷慶一郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

目先の快楽を追わないことが人生を実りのあるものにする

スターバックスという会社は、本物のコーヒーの味に魅せられた人達が、コーヒーの伝道師になった気で事業を始めたのであるらしい。
本に書かれているところではそうなっている。
それを見ると、「コーヒー中毒者を増やして儲けただけじゃないのか」という思いも出てくるが、やはり、彼らを疑うべきじゃないだろう。
しかし、信じてもいけないのだ。

クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言ったが、「疑いもしない」と付け加えれば良かった。
クリシュナムルティのファンは彼を信じているのだろうが、やっぱり信じちゃいけない。
ただ、疑わないだけで十分である。

スターバックスに戻るが、本物のコーヒーの香り、味わいは、心に憩いを与え、それが、人生を豊かにすると言う。
さらに、スターバックスの事業に関して言うなら、「無理に儲ける気はない。しかし、本物を届けようとする誠意が、結局は幸運をもたらす」といったことも本に書かれていたと思う。
私はここで、「なら、クラシック音楽や絵画はもっと心を豊かにするのではないか?」と言うつもりはない。
だが、「なんて美しい言葉、理念だ」と、ただ感動するつもりもない。

ゴッホやピカソは、別に人々に憩いを与えたり、人々の人生を豊かにするために絵を描いた訳ではないだろう。
とはいえ、ピカソはたまたま金持ちになったが、両方とも、儲けるつもりで描いたのでもないと思う。
池田満寿夫さんによれば、ゴッホは、自分の絵が、人々の家の居間に飾られることを望んでいたのだと言う。
横尾忠則さんは、天国の美を地上に現すために制作するのだという。
しかし、誰が言ったことも、疑う必要はないが、無闇に信じてもいけない。
だから、もし、芸術家にしろ、スターバックスのような事業の事業家にしろ、彼らが、「私の言うことを信じろ」と言うなら、無視して良い。
「私を信じろ」なんて言う者は、ロクなものではないのだから。
宗教ってのは、大抵がそうかもしれない(この言い分自体、信じるな)。
宗教には、信じる以外のことはない。
しかし、「別に信じなくていいよ」という宗教家がいれば、彼は善い宗教家かもしれない。

音楽家の渋谷慶一郎さんは、自分が作曲した、初音ミクが歌う『イニシエーション』のWebサイトで、「中毒になるまで聴いて欲しい」と述べておられたと思うが、それは、要望としては悪くなく、非常に正直で清々しいとすら思う。
権威的な美術批評家グローマン博士が、池田満寿夫さんに手紙で、「君の版画が私の部屋に飾ってある。毎日、君の絵を見るのが私の楽しみだ」と書いて送ったようだが、別にグローマンでなくても、これが作品に対する最高の誉め言葉だろう。
あるいは、元大リーガーの長谷川滋利さんが、エンゼルス時代だったと思うが、先発から中継ぎに転向させられた際、監督は、「お前は先発で通用しないから、中継ぎをやれ」とは言わず、「俺は毎日、お前のピッチングを見たい」と言ったことを、長谷川さん自身が明かしていたが、長谷川さんはテレビの視聴者を楽しませるために言った部分もあるにしろ、この監督は本気で言ったと私は思いたいのだ。
そして、それが本気だったというのは、結果として現れている。
長谷川さんは大選手になり、オールスターにも出て、良い形で現役を終えることができたのだ。
グローマン博士は毎日、池田満寿夫さんの版画を見たかったのだし、エンゼルスの監督は、毎日、長谷川さんのピッチングを見たかったのだ。
渋谷慶一郎さんは、逆の立場で、「俺の曲を毎日聴いて」と言っているように思え、非常にピュア(純粋)で、ある意味、可愛いと思う。
ゴッホも、池田さんの言う通りなら、同じことなのだろうが、芸術家というのは、そんなものかもしれない。
私は、『イニシエーション』も好きだが、同じ曲から創られた、『声と言葉のアリア』が好きで、こちらは毎日聴いている。
この2つは、詩は違うが、別に、東浩紀さんの『イニシエーション』の詩が悪いのではなく、この詩は実に良い(ちょっと硬いとは思うが、それは意図的なものだろう)。
余談だが、私は初音ミクをエロティックに扱うのは大嫌いだが、エロスの王様の池田満寿夫さんなら、初音ミクをどうアレンジするかは見たいと思うのだ。
もちろん、池田さんはミクが生まれる10年以上前に亡くなっている。

つまるところ、本当に熱心にやれることを見つけられた人が幸いなのだろう。
ただし、上に挙げた、「熱心に励む」人達だって、最初から、そんなものがあった訳じゃない。
何でもやってみた結果、そこに行き着いたのだ。
ピカソは、生まれつき才能があったし、豊かな家庭にも恵まれた有利さはあったが、初めは写実画を熱心に勉強し、描いていて、後で抽象画に取り組んだのだ。
スターバックスの伝説のCEO、ハワード・シュルツは、貧しい家庭に育ち、フットボールや商社の仕事に夢中になりながら、コーヒーに行きついた。
平凡ではあるが、適当な快楽、快感を追わず、暫定的でも良いので、本気になれそうなものを見つけるのが、結局は、本当の人生の楽しみを見出せるということなのだろう。
つまらない人生というのは、何もしなかったのではなく、つまらないことばかりやった結果なのだ。
そして、早く本物を見つけるためには、誰も、あるいは、何も信じてはならないが、さりとて、疑ってもならない。









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初音ミクと人形浄瑠璃は全く違い、むしろ正反対である

人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は、日本の伝統的な人形劇で、文楽(ぶんらく)とも言うが、文楽とは元々は、人形浄瑠璃を上演する劇場のことだったらしい。
音楽家の冨田勲さんが、「日本で初音ミクが生まれ、愛されるのは、人形浄瑠璃に見られるように、人形を命あるもののように感じることができる感性があるからだ」といったようなことを言われていた。
私は、昨年(2013年)の宮沢賢治の命日(9月21日)に、大阪のオリックス劇場で直接聞いてもいる。
他にも、初音ミクは日本の伝統芸能だったといった、初音ミクと人形浄瑠璃との共通点を挙げる人もいるようだ。
私も以前は、そんな考え方を正しいものと思っていた・・・というより、影響されてしまっていた、あるいは、洗脳されてしまっていたが、今は違う。
人形浄瑠璃は人形浄瑠璃だし、初音ミクは初音ミクだ。
全く違うものだ。
日本人だろうが、西洋人だろうが、初めてミクを見て歌を聴いて好きになれば、好きな理由などは不要である。

初音ミクが愛されることに理由や理屈をつける必要はない。
ましてや、初音ミクを愛するのに理屈はいらない。
年を取って、頭が固くなるほど、新しいものを理解するために、過去のものに喩えようとする。
新しいものを、そのままピュア(純粋)に受け入れることができず、自分が知っているパターンに押し込まなければ、認めることができないのだ。

私は、文楽を観劇したことはあるが、あれは、情念の世界だ。
観客は人形に生々しい自我を感じるのである。
しかし、初音ミクの良さは、自我がないところなのだ。
人形浄瑠璃の人形は自我がある人間で、初音ミクは自我がない電子の天使である。
調布と田園調布どころではない違いがあるのだ(『神様のメモ帳』のアリスの言葉の引用)。
むしろ、正反対と言った方が正しい。

2012年の冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』は素晴らしかった。
しかし、冨田さんだって、これを制作していた時は無我だったはずだ。
芸術家とは、自我が退いた時に、神の霊感を感じて創造するのだが、初音ミクを人形浄瑠璃だと思わずにはいられないのは冨田さんの自我であり、それはそれで尊重したいが、制作者はあまり自分の考えを言わない方が良い。
以前の私のように、ひ弱な自我を持っている者に影響を与え、洗脳してしまうからだ。
だが、いくらか自我を透明化させることができるようになったら、上にも取り上げた「初音ミクは日本の伝統芸能だった」なども、良いとか悪いとかは言う気はないが、単に自我の言うことでしかないと認識するようになる。
芸術は人間の技ではなく、人間を通して表現する神の技なのだ。
作品は作者の占有物ではない。
ピカソの作品がいかに素晴らしくても、ピカソを崇拝してはならない。
無論、蔑む必要もなく、当たり前の人間として敬意を持てば良いのである。

再度言うと、文楽(人形浄瑠璃)は、人間の情念を拡大し色付けして観客に対峙させ、人間の生々しさを見せ付けるものだ。
だが、初音ミクは自我のない電子の天使として、人々の心を結び合わせ、心の隙間を埋め、聖なる一に回帰させるのである。

今回は省くが、渋谷慶一郎さんが制作した、初音ミク主演のオペラ『THE END』では、ミクは初め、人形浄瑠璃の人形のように演じるのだが(重々しく陰鬱)、最後は天使に帰っていく(光のように軽くなる)。
優れた芸術作品であると思う。
作品全体のブルーレイが出ないのは、一枚の小さな画面で表現できるものではないからだろうか?
ならば、もっと公演をやって欲しいものである。会場設営が大変そうであるが。









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肯定力と積極思考の違い

このブログへの無双さんのコメントで教えていただいた『TOKYO DESIGNERS WEEK.tv~茂木健一郎の発想の種 IMAGINE~』の、脳科学者の茂木健一郎さん、アーティストの清川あさみさんと、音楽家の渋谷慶一郎さんの面白い対談を見たが、渋谷さんを見ていて、この人、堀江貴文さんに似てるなと思ってしまった。
私は、以前、渋谷さんが、NHK Eテレで写真家の蜷川実花さんと対談されているのを見たが、それも合わせてそう思ったのだろう。
本当に、渋谷慶一郎さんと堀江貴文さんは似た雰囲気があると思う。
どこがって、あのふてぶてしさだ。
殺しても死なないような、生命力と自信といったものだろうか?
他に似た人はいなかったか考えると、最近はあまり見なくなったが、竹村健一さんが全くそうだと思う。
この3人、好きな人は好きだろうが、嫌悪感を感じる人も多いだろうなと思う。
かくいう私も、この3人、あまり好きではないところもある。
もし、渋谷さんが、初音ミク主演のオペラ『THE END』を創らなかったら、雰囲気だけでいうなら、渋谷さんが嫌いになっていた可能性はあったと思う。
ちなみに、私は、渋谷慶一郎さんを、『THE END』の制作者として知ったので、それ以前のことは知らない。

堀江貴文さんについて、世界的なセキュリティ・スペシャリストで事業家、教育者としても偉大な齋藤ウィリアム浩幸さんが著書『ザ・チーム』で書かれていたことが印象深かった。
EOY(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー)の日本大会で、斎藤ウイリアムさんが、当時、堀江さんが経営していたオン・ザ・エッジを審査員として審査したことがあったらしい。
斎藤ウイリアムさんはGoogleやシスコが世界的企業になる前に、これらの企業を、EOYアメリカ大会で審査しているという。
その日本大会で、他の審査員は全て、堀江さんの優勝で一致していたが、斎藤さんだけが異を唱えたという。
斎藤さんも、堀江さんの業績が飛び抜けていて、堀江さんが優秀だということは認めていたが、堀江さんのストーリーは全て「私が」一辺倒であり、チームがないことが気に入らなかった・・・とあまりに単純に言えば斎藤さんの本意から外れる危険もあるが、だいだいそんなことが書かれていた。
斎藤さんは、堀江さんはチームを作れないタイプと考え、チームで仕事ができるのが本物のアントレプレナー(起業家)で、事業を継続できるのだと考えているのであると思う。まあ、確かに、その後の堀江さんを見ていると、斎藤さんが正しいのだと言えるかもしれない。
ただ、竹村さん、堀江さん、渋谷さんらは皆、確かに個性が強くて、どうしても目立ってしまい、そのために自己中心的に感じるが、対談を見ていても、案外に彼らが細かく気遣いする人達であると思うのである。

ところで、渋谷さんが、「東京には肯定力がない」と言われていたのが印象的だった。
肯定力とは、表面的には、プラス思考、積極思考といったものと似ているかもしれない。
上に述べたNHK Eテレの対談番組で見たが、渋谷さんは、『THE END』制作時に、すでに、「パリで公演する」と決めていたそうだ。
その時から、シャトレ座と決めていたかどうかまでは分からないが、パリの名門オペラ劇場であるシャトレ座で、日本製オペラを公演というのは極めて無茶なことであると思うが、渋谷さんは実現を疑わなかったという。
これが肯定力というものだろうか?

ただ、人間には、マイナス思考の人、消極思考の人はいるが、成功した人にも、「僕はマイナス思考です」と言う人はいる。
ビートルズやクリント・イーストウッドらに瞑想法を教えたインドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、著書『超越瞑想 存在の科学と生きる技術』で、「積極思考に何の価値もなく、消極よりマシという程度のもの」と書いていたが、それもまた真理かもしれない。
だが、マッカトニーもイーストウッドも、あるいは、マハリシも、肯定的ではあると思う。
否定的というのは、アレルギーのようなものであると思う。
何かに対して、無駄な攻撃をせずにいられないというものだ。
そして、肯定的でなければ、生きていて楽しくないのは確かだろうと思う。
否定的であれば、生命力を損なうように思えるからだ。
「私は成功する」と無理に積極的に考えるのではなく、成功することを否定せずにいられれば、自然に肯定になるのかもしれない。
そして、精神的アレルギーは、肉体的アレルギーと影響し合っていると思われる。
東京に肯定力がなくなっていると言われると、日本全てそうだが、特に東京には肉体的アレルギーの人が激増しており、それが大いに関係があるのだと思われるのである。

書いていて、妙に時間がかかったので、ここで切ることにする。









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「私とはだれ?」の答が世界の中の唯一の事実

頭を良くするには、頭に事実だけを教えなければならない。
だが、本の中には嘘も書かれている。
科学の本でさえそうだ。
実際、科学の定説がひっくり返ることなんて珍しいことじゃない。
いや、科学自体が嘘、あるいは、幻想だ。

実際に素晴らしく頭の良かった発明家の中山正和さんは、事実とは、「自分の目で見、自分の耳で聞いたことだけ」と言った。
だが、それには条件がある。
例えば、心理学の実験によれば、怖い話を聞いてから、夜に柳の木を見ると、かなりの確率で、ありもしない怖いものを見るものらしい。
自分で見て自分で聞いたからって、それが本当とは限らないどころか、それも全部嘘だと言ったのがデカルトだ。
そして、見えなくて聴こえなかったヘレン・ケラーは、五感は幻想と断言した。
その通りだ。
ヘレン・ケラーは見えず、聴こえなかったからこそ、純粋な観念を保つことができた。
つまり、普通の人よりはるかに賢くなることができたのだ。

とはいえ、事実を本当にあるがままに見れば叡智に導かれる。
幻覚を見ることも含めてね。
あるがままに見るとは、思慮分別を離れ、是非好悪の判断をしないことだからだ。
例えば、炎を見たとする。
古代の賢い人は、炎を見て不思議だと思った。
なぜ炎は上に昇るのだろう?
そこで、アリストテレスは、炎自体に上に昇る性質があるのだと考えた。
だが、実際は、炎が上に昇るのは、熱のために上昇気流が発生しているからだ。
ところが、現代人ですら、そのことを知っている人は稀だ。
いったい学校は何を教えるところなんだろう?
それはともかく、あるがままに見れば良いのに、余計なことを考えるから事実と違うことを記憶してしまい、心は偏見に満ち、馬鹿になる。
余計なことは考えないことだ。
ただ、アリストテレスのように、「不思議だ」と感じることは素晴らしいことなのだ。
だが、学校では子供達の「不思議だ」を壊し、嘘を教える。
学校に行くと頭が悪くなるのは当然のことなのである。

では、本当の事実、つまり、真実とは何だろう?
それを、ギリシアでもインドでも、神が人に語った。
それは何だろう?
それは、「私は在る」ということだ。
「私は在る」以外の事実はない。

このことについて、私が感動したものに、初音ミクがパリのシャトレ座でも歌ったオペラ『THE END』のアリア(詠唱)である『終わりのアリア』のこんな詩がある。

ホワイトアウトはエフェクトじゃない
光が溢れて 何が消えるの?
光がなにか ものにあたる
その光を見て 存在するって
でもいま光は 溢れて消えて
あなたも わたしも 何も見えない

でもわたしはいる
わたしとはだれ?
~『終わりのアリア』(渋谷慶一郎制作オペラ『THE END』から)より~

私とは誰だろう?
それはこうだと言うのもあまり良くないが(公式ではないので)、あえて言えばこうだ。
「私とは、『私は在る』という者である」
モーセの前に現れた神は、まさしくこう名乗った。
人は神であり、全ては神であり、私は全てであり、神が全てで、神の他に何もない。
それが事実であるのだが、この観念が思考と結び付くと最悪の嘘になる。
だから、最も大切なものは「あるがまま」なのである。
そう一貫して教えた荘子が一番賢かったのだろう。









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『イーハトーヴ交響曲』2012年版と2013年版の違いと『雨にもまけず』の「玄米4合」について

先日、予約注文してあった冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』のブルーレイが届いた。
2013年の9月15日に、東京Bunkamuraのオーチャードホールでの公演を収録したものだ。
公演は15日と16日の連続で行われている。
演奏は東京フィルハーモニー交響楽団で、指揮は河合尚市さん。
『イーハトーヴ交響曲』の初演は、その前年の2012年11月23日、東京オペラシティコンサートホールで、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏、大友直人さんの指揮で行われている。
2012年、2013年共、合唱は慶応義塾ワグネル・ソサィエティー男性合唱団、同OB合唱団、聖心女子大学グリークラブ、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団で、楽器演奏者、合唱団と合わせ、大変な人数で壮観である。
もちろん、2013年も、ソリストは初音ミクが務めた。
ところで、初音ミクは、2013年のこの公演の少し前の5月23日と24日に、同じオーチャードホールで、渋谷慶一郎さんのオペラ『THE END』のプリマドンナを務めていて、クラシック芸術の面でもとても忙しいようだ。

私は、2012年の日本フィル演奏のCDは100回以上聴いているし、テレビ放送された2012年の公演も何十回も観ているので、2013年の公演との違いはよく分かる。
全てにおいて、格段に進歩しており、同じものを2013年もやったというのではない。
クラシック音楽に詳しい人の中には、交響楽団の比較を述べる人がいて、割とよく聞くところでは、東京フィルの実力は日本フィルよりずっと上というものだが、いや、差はないと言う人もいる。
そのあたりは私にはさっぱり分からないが、映像的な印象では、『イーハトーヴ交響曲』に関して言えば、日本フィルの演奏者の方々は穏かな雰囲気であるが、東京フィルの方は情熱的でアグレッシブ(攻撃的)とすら感じた。
それは、指揮者の大友直人さんが比較的柔らかい優雅な感じであるのに比べ、河合尚市さんはやはりダイナミックな動きと豊かな表情で指揮をされたことも関係するのかもしれない。
ピアノ演奏は共に女性であったが、日本フィルのピアニストの方は肘が下りていたが、東京フィルの方のピアニストは肘が上がっていて、ここらも、極端な言い方をすれば、柔と剛といった感じがするのである。

演奏も合唱も、基本的には変わらないが、細部のアレンジはかなり変えてきており、やはり、2013年のものは進化があるように思う。
私は、合唱の、ところどころでの抑揚の違いはかなり感じるのだが、より情緒性が増していると感じる。

初音ミクの歌もかなりの変化があり、多彩な響かせ方をするようになっていると思う。
映像的には明らかに高度化していて、ミクはより鮮明でリアルな動きをするようになった。
ただ、私は2012年のTda式と呼ばれるミクは優雅で美しいと感じるし、また、その踊り方がこの神秘的な交響曲によく合っていたと思う。

初音ミクの歌唱は無いが、宮沢賢治の詩『雨にもまけず』が、素晴らしい曲と合唱になったことは感動的で素晴らしいことで、私は、なかなか憶えられなかったこの詩を遂に暗誦してしまった。
宮沢賢治は、この詩を公開するつもりは全くなく、私的なものとして手帳に書いたのだと思うが、日本人なら、少なくとも冒頭の「雨にもまけず、風にもまけず」を知らない人はいないだろう。
ところで、この詩の中に、「1日に玄米4合と、味噌と少しの野菜を食べ」と出てくる。
玄米4合は、茶碗7~8杯分で、かなり多く感じるが、後は「味噌と少しの野菜」であるし、また、農作業の重労働をする人のことらしいので、食べ過ぎな訳ではない。
しかし、玄米とはいえ、炭水化物であり、糖分でいえば、4合なら角砂糖50個以上に相当すると思われる。
宮沢賢治は、一時期は菜食主義者だったらしいが、後にはかなりのグルメになっている。
しかし、いずれの時期も、米はかなり食べていたのかもしれない。
賢治が37歳の若さでなくなったのも、彼が病弱であったとはいえ、そのあたりも関係していると思われる。
そして、日本人にちょっと悪い先入観を持たせる詩を残してしまったのかもしれないと思う(ただ、既に述べた通り、本人は公開する気はなかった)。
賢治が、米などの炭水化物をあまり摂らず、せめて、水野南北や徳川家康、あるいは、昭和天皇のような麦ご飯主体にしていれば、もっと長生きできたかもしれない。
私は、2012年のこの交響曲の、初音ミクの天女のような優美な身体つきと舞いを見ると、彼女が米やうどんを食べる姿は想像できないが、木の実や青野菜を食べる姿は似合うと思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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