身体、精神、さらには、霊的な向上のための最上のメソッド(手法)の1つである深呼吸と足踏み四股でも、自分の好きなようにやれば良いのだと確信した。
心がけるべきことは、「楽で気持ちいい」ことだけである。
突出した人間は皆、我流なのである。
アインシュタインは学校の授業や大学の講義を全く聞かず無視した。
ただ、彼も、大学予備校(そこで学ぶと無試験で大学に入学出来た)の科学の教師の教え方が非常に良いと思い、それだけは聞いていたらしい。
我々も、何でもかでも拒否するのではなく、良いと思うもの、それこそ、聞いていて(あるいは教わっていて)楽で気持ち良ければ聞けば(教われば)良いのである。
とはいえ、やはり、アインシュタインは大学の講義は一度も受けていない。
また、「悪魔に魂を売って演奏技術を手に入れた」とまで言われた天才ヴァイオリニストであるバガニーニも、演奏技術は全て独学だった。
いかなることでも、最上の教師は自分の内にいるのである。それは、魂とか神とか真我とか言われるものである。
人から教わるのは、あくまで、内なる神に通じ易くするためであり、その目的のためには昔から、学ぶより盗めとか慣れろと言われている。
だから、良い師は、あえて教えないのである。
佐川幸義だって、四股のやり方を丁寧に教えたことはないと思う。
笹沢佐保の時代劇小説『木枯し紋次郎』で、流れ者の渡世人(博打打ち)である紋次郎の剣法は、勘と度胸の喧嘩剣法であり、全くの我流で、確かに、本格的な剣の修行をした達人には全く敵わないことが何度も語られる。
しかし、それは、剣の達人達が剣の修行に多くの時間を注ぐことが出来ただけのことである。
一方、貧しい農家の出で、しかも、10歳で村を出た紋次郎は、生きるだけで精一杯であった。
だが、それでも、剣の達人達に、紋次郎は一度も負けなかった。どんな手を使ってでも勝ったのである。
むしろ、剣の達人達は、剣の腕に囚われて紋次郎に後れを取ったのである。
さて、我流の凄さについて、私自身が経験したことがある。
私は、走り高跳びで一度も負けたことがない・・・というよりは、一度も失敗したことがなかった。
極端に言えば、バーの高さが3メートルでも、妖精的、仙人的、天狗的、あるいは天使的に飛べたかもしれない。
中学1年生のある日までは。
ところが、私は、自分がどんな飛び方をしていたのか、全く分からないのである。
ただ、他の子達とは飛び方が全く違うことだけは確かだった。
小学校では普通、バーに対し、斜めに走って来る「はさみ飛び」で飛ぶ。授業ではこのはさみ飛びを教えるので、それをやらなかった私は、教師の教えを無視したのだろうが、なぜか、このことで教師に文句を言われた覚えは一度もない。不思議なものだ。
ひょっとしたら、教師に文句を言われたのかもしれないが、飛べてしまうのだから教師も何も言わなくなったのかもしれない。
それで、私はずっと走り高跳びのキングだったが、中学1年生の時、全校生徒で行う陸上競技大会で、私は当然のように走り高跳びに出たが、なぜかその時、自分の飛び方が他の子と違うことが気になってしまい、私もはさみ飛びでやってしまった。それで、予選敗退してしまった。
その後も、はさみ飛びで、クラス内程度ではいつも一番だったが、飛び抜けたというほどの能力ではなくなってしまった。
いまも、私は、以前の自分がどんな飛び方をしていたのか、全く分からない。
何も考えず、閃きのまま飛んだのだろう。
このように、思考を消してしまえば、何ごともうまくいくのである。

AIアート516
「捧げる」
Kay
思考を消すためには深呼吸が一番であるが、さらにその根本には「楽で気持ちいい」があるのである。
深呼吸だって、楽で気持ちいいようにやるから、良い深呼吸になる。
足踏み四股や腕振り運動もそうで、それこそ、アインシュタインの物理学やバガニーニのヴァイオリンも同じであるはずだ。
だが、名声を獲得し、本人が言うところでは「珍獣のように有名になった」アインシュタインは、楽で気持ちいいことが出来なくなり、苦しくて気持ち悪いことをしなければならなくなった。それで、彼は天才でなくなった。それは彼が42歳頃のことと思う。
楽に気持ち良く深呼吸や足踏み四股をすることで、魂の力を発揮するコツをさらに掴んでいただきたい。
「気持ちいいことは何をしても良い」は、医師で整体家であった橋本敬三のポリシーであった。
(度々言うが、ここで言う「気持ちいい」で、アルコール、ドラッグ、性的快感等を持ち出すのは馬鹿な人間である)
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)からだの設計にミスはない―操体の原理
(2)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
(3)人生を思うように変える呼吸法
(4)木枯し紋次郎(一)
心がけるべきことは、「楽で気持ちいい」ことだけである。
突出した人間は皆、我流なのである。
アインシュタインは学校の授業や大学の講義を全く聞かず無視した。
ただ、彼も、大学予備校(そこで学ぶと無試験で大学に入学出来た)の科学の教師の教え方が非常に良いと思い、それだけは聞いていたらしい。
我々も、何でもかでも拒否するのではなく、良いと思うもの、それこそ、聞いていて(あるいは教わっていて)楽で気持ち良ければ聞けば(教われば)良いのである。
とはいえ、やはり、アインシュタインは大学の講義は一度も受けていない。
また、「悪魔に魂を売って演奏技術を手に入れた」とまで言われた天才ヴァイオリニストであるバガニーニも、演奏技術は全て独学だった。
いかなることでも、最上の教師は自分の内にいるのである。それは、魂とか神とか真我とか言われるものである。
人から教わるのは、あくまで、内なる神に通じ易くするためであり、その目的のためには昔から、学ぶより盗めとか慣れろと言われている。
だから、良い師は、あえて教えないのである。
佐川幸義だって、四股のやり方を丁寧に教えたことはないと思う。
笹沢佐保の時代劇小説『木枯し紋次郎』で、流れ者の渡世人(博打打ち)である紋次郎の剣法は、勘と度胸の喧嘩剣法であり、全くの我流で、確かに、本格的な剣の修行をした達人には全く敵わないことが何度も語られる。
しかし、それは、剣の達人達が剣の修行に多くの時間を注ぐことが出来ただけのことである。
一方、貧しい農家の出で、しかも、10歳で村を出た紋次郎は、生きるだけで精一杯であった。
だが、それでも、剣の達人達に、紋次郎は一度も負けなかった。どんな手を使ってでも勝ったのである。
むしろ、剣の達人達は、剣の腕に囚われて紋次郎に後れを取ったのである。
さて、我流の凄さについて、私自身が経験したことがある。
私は、走り高跳びで一度も負けたことがない・・・というよりは、一度も失敗したことがなかった。
極端に言えば、バーの高さが3メートルでも、妖精的、仙人的、天狗的、あるいは天使的に飛べたかもしれない。
中学1年生のある日までは。
ところが、私は、自分がどんな飛び方をしていたのか、全く分からないのである。
ただ、他の子達とは飛び方が全く違うことだけは確かだった。
小学校では普通、バーに対し、斜めに走って来る「はさみ飛び」で飛ぶ。授業ではこのはさみ飛びを教えるので、それをやらなかった私は、教師の教えを無視したのだろうが、なぜか、このことで教師に文句を言われた覚えは一度もない。不思議なものだ。
ひょっとしたら、教師に文句を言われたのかもしれないが、飛べてしまうのだから教師も何も言わなくなったのかもしれない。
それで、私はずっと走り高跳びのキングだったが、中学1年生の時、全校生徒で行う陸上競技大会で、私は当然のように走り高跳びに出たが、なぜかその時、自分の飛び方が他の子と違うことが気になってしまい、私もはさみ飛びでやってしまった。それで、予選敗退してしまった。
その後も、はさみ飛びで、クラス内程度ではいつも一番だったが、飛び抜けたというほどの能力ではなくなってしまった。
いまも、私は、以前の自分がどんな飛び方をしていたのか、全く分からない。
何も考えず、閃きのまま飛んだのだろう。
このように、思考を消してしまえば、何ごともうまくいくのである。

AIアート516
「捧げる」
Kay
思考を消すためには深呼吸が一番であるが、さらにその根本には「楽で気持ちいい」があるのである。
深呼吸だって、楽で気持ちいいようにやるから、良い深呼吸になる。
足踏み四股や腕振り運動もそうで、それこそ、アインシュタインの物理学やバガニーニのヴァイオリンも同じであるはずだ。
だが、名声を獲得し、本人が言うところでは「珍獣のように有名になった」アインシュタインは、楽で気持ちいいことが出来なくなり、苦しくて気持ち悪いことをしなければならなくなった。それで、彼は天才でなくなった。それは彼が42歳頃のことと思う。
楽に気持ち良く深呼吸や足踏み四股をすることで、魂の力を発揮するコツをさらに掴んでいただきたい。
「気持ちいいことは何をしても良い」は、医師で整体家であった橋本敬三のポリシーであった。
(度々言うが、ここで言う「気持ちいい」で、アルコール、ドラッグ、性的快感等を持ち出すのは馬鹿な人間である)
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)からだの設計にミスはない―操体の原理
(2)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
(3)人生を思うように変える呼吸法
(4)木枯し紋次郎(一)