ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法華経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

聖典の意外な読み方

『法華経』を読もうとすると、冒頭の大量の仏、菩薩、神の名を見て疲れてしまう。
これは『古事記』も似たようなものだが、『新約聖書』の『福音書』でも、イエスの家系がずらずら説明されていて退屈になる。
『バガヴァッド・ギーター』では、戦士らの名が長く述べられる。
こういうことは、他の聖典にもある。
そこで、これらの、一般読者にとって退屈な部分を、なるべく簡易化して書く著者もいるが、さすがに完全に取り除くことはない。
しかし、簡易にしたものも含め、これらの冒頭の部分を飛ばし読みする読者がおり、特に、再読の際は読まない人も多くいるかもしれない。

結論を言うと、実は、それら冒頭の名前の羅列に霊的な力があり、聖典を読んで神秘な力を得た者は、そこを淡々と読んだ人達だ。
それに、子供に読ませると、冒頭部分を別に苦痛なく読むものである。
さらに驚くべきことに、それらの冒頭部分のみを読んでも、高次の力を得ることが出来るのである。
冒頭部分をやや簡易化したものであっても、かなりの効果がある。
なぜそうであるのかの説明は難しい。
神仏の名などは、日本語に翻訳された時点で、元の名とはかなり違ったものになっているし、仏典であれば、サンスクリット語から中国語に翻訳される時に、全く別の名になった名前が大半である。
それでも威力があることは、経験的に語るしかない。

花と夜景
AIアート565
「花と夜景」
Kay


今は少ないが、昔の本では印刷が不鮮明であったり、時の経過と共に印字が薄れて、特にフリガナが見えなくなる場合が多い。
そんな場合でも、見える範囲の文字だけ眺めていても何かの力を感じるのである。
天才的な発明家であった中山正和さんは、『法華経』を文字を読解せず眺めているだけでイメージが湧くのは、漢字が象形文字であるからかもしれないと書かれていたことがあったが、それもあるかもしれないが、やはり別の霊的な力がある。

信じなくてもいいが、そんなこともあるかもしれないと思いながら聖典を読むと、新しい発見や体験があるかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)日本語の法華経(江南 文三)
(2)古事記物語(鈴木 三重吉)
(3)新約聖書 福音書(塚本 虎二)
(4)神の詩―バガヴァッド・ギーター(田中 嫺玉)

法華経の中の勇気が出る話

全ての賢者は、世界は自分が作っていると言っている。
その中でも親切な賢者達は、たとえ話を使って、このことを誰でも分かるよう話そうとしたのだが、なんでみんな、あんなに説明が下手なんだろうと思う(笑)。
もちろん、本当は事情があって、あんなふうに分かり難い表現を使ったのだ。
しかし、言っていること自体は全く同じなのである。

自分が世界を作っているとは、
「自分(自我)の思い込みを、内なる神(真我。本当の自分)が世界として創っている(世界というスクリーンに投影している)」
ということである。

ところが、思い込み通りにならないことがある。むしろ、それはザラかもしれない。
たとえば、受験をして、絶対に合格だと思っていたのに不合格だったり、逆に、絶対不合格だと思っていたのが合格していたりする。
いわゆる「予期せぬ出来事」だ。
予期せぬ出来事はなぜ起こるのか?
これについては、エマーソンが『自己信頼』の中で述べている。
路上で酔っ払って寝ている男を(別に女でも良いが)、公爵の屋敷に連れていき、身体を洗い、高級な衣服を着せ、豪華なベッドに寝かせる。
目覚めて驚く酔っ払いだが、執事や使用人達はうやうやしく仕える。
どういうことかと言うと、この男は本当に公爵なのに、酔っ払って、自分が公爵であることを忘れ、貧しい庶民だと思い込んでしまったのだ。
そして、エマーソンは、それが普通の人間の状態だと言う。

『法華経』の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」も、全く同じ話だ。
「長者窮子」とは、長者(大金持ち)の窮子(困窮した子供)という意味で、その窮子は困窮する必要など全くないのに、それに気付かないことを言っている。
イエスの「放蕩息子」の話も、本質は同じ話だ。

まちかど
AIアート525
「まちかど」
Kay


つまり、釈迦もイエスもエマーソンも同じことを教えている。
良かったら『法華経』の「長者窮子」の話を楽しみ、この窮子はあなたのことだと認識して欲しい。
勇気が出るぞ。多分(笑)。
「長者窮子」の話は、『法華経』第4章「信解品」の中にある。

私は、下記ご紹介の本は全て読んだが、それぞれに良さがあり、外れはないと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳
(2)現代語の法華経
(3)現代日本語訳 法華経
(4)自己信頼(紙の本)
(5)自己信頼

「私は誰か?」と問うべき壮大なお話

何歳になった人だって、夢の中で、自分が高校生や、あるいは、小学生になっていることがある。
そんな夢の中で、自分は本当はいい大人で、高校生や小学生ではないと分かっている場合もあるが、自分が本当に小学生だと思っている場合もある。
あるいは、自分がお城に住む王子様やお姫様だと思っていることもあるかもしれない。

だが、現実の自分も、これらのような夢を見ているのと全く変わらないのかもしれないのだ。
今、認識している自分は、本当の自分とは似ても似つかない。

小学生になっている夢の中で「私は誰か?」と問うと、現実世界の自分であることを思い出すかというと、そうではない。
「私は誰か?」と問うと、思考は消え、自分が小学生であるという想いがなくなるだけだ。
それは現実世界でも同じで、「私は誰か?」と問うと、現実世界での身分の認識が消え、さらに数多く「私は誰か?」と問うと、だんだんと本当の自分が誰かを思い出す。

エマーソンが好んだお話に、大きな権力も財産もある公爵が、酔っぱらうと自分が公爵であることを忘れ、貧乏な庶民であると思い込むというものがある。
このお話の真意は、我々は今現在、酔っぱらって、自分を人間だと思い込んでいるということだ。

野の花
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「野の花」
※ゲーテの詩より
Kay


『法華経』の「長者窮子の譬え」が、これらのようなことを壮大に語ったものだ。
世界一の金持ちの息子が、子供の時に行方が分からなくなったが、その子供は貧しい庶民として50年以上過ごし、自分は貧しくて卑しい人間であると思い込んでいた。
やっと息子を発見した父親は、心がねじけた息子を、自分が父親であると告げないまま、あの手この手で導き、20年以上かけて、息子の心を真っすぐにし、死の直前、息子と主だった者達を枕元に呼び寄せ宣言する。
「これは私の実の息子である。私の全財産をこの息子に譲る」
もちろん、この大金持ちは仏の喩えで、その息子とは我々のことである。
我々は、仏(ブッダ、如来)の正当な後継者で、仏なのであり、キリスト教的に言えばキリストで、父なる神と等しい存在である。

上に挙げた、いわば「記憶喪失状態」の者・・・夢の中で小学生になった自分、酔っぱらって自分を貧しい庶民と思っている公爵、心がねじけ、自分を貧しく卑しい人間であると思っている世界一の大金持ちの息子といった者達は皆、1つの方法で、真の自分を思い出すことが出来る。
それは「私は誰か?」と自分に問うことだ。
1度や2度問うだけでは思い出すことはないだろう。
しかし、たゆまず続ければ、それで必ず思い出す。
それは、自分が正気で、現実の自分こそが自分なのだと「思い込んでいる」我々も同じなのだ。
我々は記憶喪失であり、自分を虫けらのような惨めな存在であると思い込んでいる。
だが、「私は誰か?」と問えばどうなるか、上のお話の中で最も近いのは、『法華経』の「長者窮子の譬え」である。








『老子』第18章を一言で言えば「思い出せ」

今回は、『老子』第18章である。
この章を一言で言えば「思い出せ」だ。

あなたの現状をたとえて言えば、こんな感じになる。
あなたは4歳か5歳まで、広大で強大な王国の王子、あるいは、王女で、王位の唯一の継承者だった。
だが、王国を離れてしまい、平民として暮らすようになり、そのまま現在に至る。
あなたは、幼い頃にはお城にいたことをぼんやりと憶えているが、あまりに微かな記憶だ。
しかし、ある時、誰かが「あなたは王子(王女)なのだ」と言う。
だが、思い出せない。
けれども、どうしても思い出す必要があると感じ、あなたは「私は誰か?」と自分に問う。
王子(王女)であるらしいことは分かっている。
それを思い出すために「私は誰か?」と問うのである。
たゆみなく「私は誰か?」と問ううちに、だんだん、自分が王子(王女)であることを思い出し、ついに、はっきり思い出した。
王子(王女)である記憶が戻れば、神秘力も戻って来る。
よって、あなたは、堂々とお城に入り、自分が王であることを宣言し、王位につく。

イエスは、「お前の国はどこだ?」と尋ねられた時、「私の国はこの世のものではない」と答えた。
そんなちっぽけなものではないからだ。
だが、その気になれば、この世とて簡単に支配出来るのである。
イエスは、十字架上で、ナザレのイエスの身体を離れ、すぐに、別の身体に入った。
だから、新たな身体に入ったイエスを見ても、弟子達の誰も、それがイエスだと分からなかった。
イエスは、いつでも、肉体から離れることも、新たな肉体に入ることも出来るのだった。
これは、我々にも出来ることである。
ただ、上のお話のように、自分が誰か忘れ、そんな力はないと思い込んでいるので、今は出来ないのである。

『老子』第18章でも、我々が本当のことを忘れてしまったので、力を失い、ロクでもない状況になってしまったことが書かれている。
そこで、我々は、自分が神であることを思い出すために「私は誰か?」と自分に問わなければならない。

尚、初めの話と同じような話が、『法華経』の第4章『信解品』にある『長者窮子の譬え』である。








「私は誰か?」の有意義な問い方

くどい文章を避けるため、大雑把な表現を使って書こうと思う。
よって、極端な解釈をしないで欲しいが、わずかな許容の精神があれば大丈夫で、それで最大の恩恵が得られると思う。

我々の唯一の目的は、我々が元々そうであったように、神のようなものになることである。
そのための最良の方法は「私は誰か?」と自分に問うことである。
これ自体は、インドの聖者ラマナ・マハルシが言ったことであるのだが、ただ単純に、「私は誰か?」と自分に問うというだけでは、おそらく、全くうまくいかない。

最も良いのは、『エイリアンインタビュー』を読み、自分が誰であるかの概要を理屈で掴んでおくことだ。
ただ、私はそうではなかったが、これをやることで、かえって誤解を持ってしまうこともあるかもしれない。
そこで、『バガヴァッド・ギーター』にも、我々が誰か、あるいは、何であるかが書かれているので、そちらを見るのも手である。
(しかし、一般的には『エイリアンインタビュー』の方が圧倒的に分かり易いと思う)
これらを読んでも、自分がそこに書かれている通りのものであることを実感することは出来ない場合が圧倒的に多いはずだ。
現在の人間の魂の状態が、それを実感出来ないような状態であるからだ。
そこで、『エイリアンインタビュー』や『バガヴァッド・ギーター』を読み、自分が何であるかを、大雑把でいいから把握し、それを信じられなくても、否定しないという心でいる。
そして、自分が本当にそれ(『エイリアンインタビュー』や『バガヴァッド・ギーター』に書かれているようなもの)であるか、あるいは、別の何かであるかを確認するつもりで「私は誰か?」と自分に問うのである。
すると、答は自ずと明らかになる。

我々は、ただ「私は誰か?」と問うと、特定の人物としての誰であるかと考える傾向が強い。
すると、「私は山田太郎だ」とか「〇〇大学△△部の学生だ」とか「私は営業社員だ」などという結論に囚われてしまう。
そこで、答の範囲を、世間的なものを超え、大きな範囲に広げるために、『エイリアンインタビュー』や『バガヴァッド・ギーター』を読むのである。

また、『法華経』の第4章「信解品(しんげぼん)」の「長者窮子の譬え」に、自分が誰か忘れてしまったまま、何十年も苦労している男の話があるが、この男がまさに我々である。
これを読み、この男と自分が同じようなものであると思い、では自分は誰かと自分に問うつもりで「私は誰か?」と問うのも良いと思う。
この話を読んだだけで魂の力を回復させた人もいるのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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