ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法然

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

本当に偉い先生と駄目な先生の大きな違い

法然や親鸞の偉いところは、念仏以外に何もしなくて良いと言ったことだ。
そして、さらに偉いところは、念仏以外に何もしなくても良いのではなく、念仏以外に何もしてはならないと言ったことだ。
ただ、法然が、起きている間中ずっと念仏を唱えよと言ったのに対し、親鸞は一生に一度だけでも念仏を唱えれば良いとか、一度も唱えなくても、唱えようとする気があれば良いと言って師の法然に怒られている。
確かに、親鸞は余計なことを言って信者達を混乱させたところもあるのだが、親鸞は庶民をよく知っていたのだろう。
普通の人は、法然が言うように起きている間中ずっと念仏を唱えるどころか、1日に10分唱えることも難しいというか、実際はほとんど誰も出来ない。岡潔博士が熱心に念仏を唱えていたといったところで、毎朝1時間で、それでも凄いと言えるのだから。

ところで、法然や親鸞と違い、偽物の指導者は、非常にたちが悪い。
「これを絶対にやりなさい。それから、これをやりなさい。そして、これもやりなさい。これもやるべきです。また、これもやるといいです」
と、あれもこれもと言い、教えを受ける方は、結局、何もしないのだ。
こんな指導者は、そもそもIQが低いので、相手にしてはならない。
教えが本一冊になった時点で、もう実践不可能なのだから、教えを本に書いている指導者は駄目と言って良いだろう。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」以外の想念を起こしてはならないと言った・・・つまり、「私は誰か?」と自分に問いさえすれば良いと教えたが、他にも、人生を神に明け渡す道もあることを認めた。
ただし、どちらか1つをやれば良いのであり、決して両方やれとは言っていない。
ただ、問われるままに、僅かながら返答しているうちに、その返答まで、マハルシの教えということになってしまった。
そんな感じで、マハルシは、「採食にしなさい」とか「バガヴァッド・ギーターを読め」とかいろいろ言ったが、それらはあくまで二次的なことであり、特にしようとしなくて良い。
ただでさえ、「私は誰か?」と問うことすら続かない人が大半なのに、余計なことを教えても仕方がない。
親鸞が「念仏を唱えなくて良いから、唱える気持ちだけ持っていろ」と言ったのも、そんなふうに「まずは唱えることを憶えている」ことが凡人には必要だと分かっていたからだ。

妖精のフリ
AIアート215
「妖精のフリ」
Kay


真似させてもらえば、私も、「私は誰か?」と問いさえすれば良いと言いたい。
ただ、マハルシと違い、その意味は思考を消すことで、意識があるまま思考を消せば神になったも同じと言うのである。
ただ、思考を消せば良いという理由で、微かな呼吸をするのでも良いと言うのである。
そして、思い出すごとに、「私は誰か?」と問うか「微かな呼吸」をするかをすれば良い。
もちろん、どちらか一方で良い。
そのためにも、まずは、それをすることを憶えていないといけない。
思考が消えるにつれ、IQは上がり、幸運に恵まれ、引き寄せ能力が高まり、完全に思考が消えれば神になる。
だが、そんな余計なことは忘れ、「私は誰か?」と問うか、微かな呼吸をするかのいずれかを憶えておくと良い。
あるいは、他のことでも良いから、何か1つだけ、必ずやることを憶えていて、なるべく多く思い出し、なるべく多くやれば良いのである。








『老子』第33章を一言で言えば「自分自身を知れ」

今回は『老子』第33章である。
この章を一言で言えば「自分自身を知れ」である。

ギリシャのデルフォイ島にあるアポロン神殿の扉に書かれた「グノーティ サウトン」という言葉は、「汝自身を知れ」と「身の程を知れ」の2通りに訳されるが、どちらかというと、後者の「身の程を知れ」という、いわば、「己惚れるな」という意味に捉えるのが一般的と思える。
徳川家康も、天下取りの秘訣は、「身の程を知れ」あるいは「上を見るな」だと言ったという。
だが、『老子』第33章は、「汝自身を知れ」と同じことを一人称で言った「自分自身を知れ」と言っているのだと思う。

『エイリアンインタビュー』の中で、宇宙人エアルは、老子は悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響を脱した人間の1人だと述べているが、この章がまさに、老子が、それを成し遂げた秘訣を述べている。
その秘訣は4つである。
ただし、それは、法然が『選択本願念仏集』で述べたように、いくつかの劣った方法を示すことで、たった1つの真に優れた方法を際立たせたのであると考えられるのである。
老子が示した4つの方法は、
(1)満足を知る
(2)全力でやる
(3)信念を貫く
(4)自然である
であるが、始めの3つは、最後の1つを際立たせるためのものであり、『選択本願念仏集』の言い方を借りれば、最後の1つだけを取るために、始めの3つを捨てるのである。
つまり、ただ自然であれば良い。
だが、そのやり方が具体的に書かれていない。
老子は、始めの3つを行うことで、最後の1つを成し遂げよと言うしかなかったかもしれない。
しかし、老子の時代から2500年も経っており、20世紀初頭には、ラマナ・マハルシが、真の意味で自然に帰る方法を教え、それは、『老子』第33章の主題であり、『老子』全体の主題でもあるとも言える「自分自身を知る」方法である。
それが、いつも言う「私は誰か?」と自分に問うことである。
人間は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の働きで、真の自分を忘れ、偽りの記憶を与えられたことで悲惨な状態にある。
そんな中で、幸福など実現出来るはずがない。
本当の自分は、全知全能の魂、即ち、神(のようなもの)であることを思い出すことで、初めて幸福になれる。
そのために、「私は誰か?」と自分に問うのであると知れば、これを行うことは楽しく、やりがいを感じるに違いない。








呪文、大いに唱えるべし

改めて思うと、一番偉かったのは法然であると思う。
法然の教えを難しく言う「センセー」がいっぱいいる。
法然の教えは、『選択本願念仏集』に込められていると思われるが、この本を難しく解説したがるエゴの強い人が多いのだと思う。
法然の教えは、むしろ、彼の遺言である『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』という、文字通り、一枚の紙に書かれたものだ。
しかし、『選択本願念仏集』も『一枚起請文』も、書かれていることはただ1つ。
「念仏しろ」
である。
法然の教えは他に何もない。
ところで、『選択本願念仏集』には、なぜ念仏を唱えることが良いのか書かれている。
私は、そこに書かれていることは、全部、「こじつけ」と思う。
法然は『選択本願念仏集』を、世話になっている人の要請で書いたが、その中に、「読んだら捨てよ」と書いている。
なぜそう書いたかを、当時は念仏が幕府に禁止され、こんな書が発見されたら、世話になっている人に危害が及ぶからと言う人がいるが(この見解が一般的かもしれない)、私は、法然は、やっぱりこれは意味のないこじつけだと分かって書いたのだと思う。

正直、今の時代に念仏は無理がある。
なぜ無理があるかというと、葬式用になってしまったからだ。
それに、宗教の手垢もつき過ぎた。
だが、別に念仏でも良い。
しかし、唱えるのは、念仏でなくて何でも良く、それで法然の意図に合うのだと思う。
たとえば、「神様の奇跡が起こる」でも「お金がある」でも全く同じである。

法然の弟子で一番名高い・・・と言うより、法然より名高いかもしれない親鸞の教えは複雑だった。
「念仏は1回でも良い。いや、唱えようという気持ちがあれば良く、1回も唱えなくていい」
などと言った。
そして、その理由の解釈をまたあれこれ言う人達がいっぱいいて困るのだ。
確かに、親鸞には親鸞の想いがあったのだろう。
しかし、そんな曖昧な難しいことを言っても、庶民には分からない・・・どころか、学者や僧の間でも見解が分かれているではないか?
いったい何のための教えだバカヤローと言いたい(笑)。

ラマナ・マハルシは「私は誰か?」を呪文にしてはいけないと言ったらしい。
それで、マハルシ本人が言ったのかどうかは分からないが、「私は誰か?」の意味をあれこれ言う人達がいっぱいいて、「私は誰か?」がつまらないものになってしまった。
呪文で良いのである。
そして、マハルシも「私」という言葉をずっと唱えろと、呪文を奨めているのである。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、現代(と言っても19世紀だが)に出現したイエス・キリストは「他のことは忘れて良い」として、「神という言葉を出来るだけ多く使え」と言ったらしい。
だが、著者のベアード・T・スポールディングは、やっぱり「神を呪文にしてはいけない」と書く始末だ。
呪文で良いんだ。
だが、イエスもまた「このことを公式にしてはいけない」と、これまた曖昧な抽象的なことを言ったことになっている。
もし、本当にそんなことを言ったのなら、やっぱり余計なことだと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で、ロンドンのロースン(ローソン)という男が、「There is nothing but GOD(神の他に何もない)」と唱えることで奇跡を起こす場面がある。
ロースンが、この言葉を呪文のようにしていたとは書かれていないが、私は呪文で良いと思う。もちろん、日本人なら「神の他に何もない」あるいは「ただ神だけがある」と唱えれば良い(『ヒマラヤ聖者の生活探求』では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と翻訳している)。
また、この本の中では、「生命、愛、平和」という言葉が起こす奇跡についても書かれている。
何でも良いのだ。
良い言葉なら・・・いや、良いと思う言葉なら。
お金が好きなら「富」とか、ロリコンなら「聖なる乙女」とか。もちろん、あくまで一例だが。

「トホカミエミタメ」も「アジマリカン」も良い。
だが、これらの言葉を普及させている者が「この言葉が一番だ」とか「こっちが上だ」と言っていたら、さっさと見放せ。
よく憶えていないが、「トホカミエミタメよりアジマリカンが優れている」とか「トホカミエミタメは南無阿弥陀仏と比較にならないほど威力がある」と述べ、そのしょーもない理由を並べているのを見た記憶がある。
そんなことを言う者は我の塊か、人々を騙して儲けようと思っているだけであり、そもそも必要なのは言葉だけだ。

私は、今は、今を意識する「今今メソッド」しかしていないが、これも、今を意識するなんて難しいことを言わず「今、今、今・・・」と言っても同じである。そもそも、「今今メソッド」で有名な人も、実は、始まりは、「今、今、今・・・」と言ったことらしい。
理論に関しては、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』という本に書かれている・・・が、しかし、なんてややこしい日本語タイトルを付けるのだろう。原題はシンプルで『The Power of NOW』だ。
そのまま『今の力』でいいじゃないか?
そもそも、この元のタイトルこそ、本の中身を表しているというのに。
タイトルは出版社(徳間書店)がつけたのかもしれないが。








本物の聖者の教えは全て現実的で実用的

聖者や賢人達は、解脱(真の自分になることと考えて良い)のための方法を教えながらも、目的はあくまで解脱だけで、それによって現世利益が得られるとはほとんど言わず、むしろ、現世利益のような欲を捨てろと教えた。
イエスは、現世利益についても、かなり言っているはずだが、イエスの教えが宗教になると、それが隠された。
だが、親鸞は『現世利益和讃』により、念仏を唱えることで、あらゆる現世利益が得られると説いたし、親鸞の師の法然も、控え目ながら、『選択本願念仏集』の中で、念仏を唱える者は、仏の大きな加護が得られることを保証している。
(『現世利益和讃』は『三帖和讃』の『浄土和讃』の中にある)
親鸞や法然は正しく、念仏を唱えれば、現世利益は思いのままだ。
ただ、それは、念仏に神秘的な力があるからというのではなく、念仏を唱えれば、思考をする暇がないので、精神が引き寄せ状態になるからである。
実際、妙好人と呼ばれる、在家の、教養がない者が多い念仏者が、仏の加護としか思えないような幸運や奇跡に恵まれた記録は数多くある。
だが、法然が言うように、絶えず念仏を唱えるには、強い信仰が必要で、それは難しいことだ。
それで親鸞は、それほどの数は要求しないが、仏(阿弥陀如来)への感謝の気持ちを持つよう教え、これは、法然には気に入らなかったが、これでうまくいったのが妙好人である。とはいえ、やはり、成功率はそれほど高くはない。

だが、我々は、多くの聖人の教えの情報を得られ、解脱、および、それに準じる状態になることが難しくなくなった。
そして、解脱に近付けば、現世利益は容易く得られる。
解脱の技術をちゃんと使えば、無理に欲望を抑えなくても、自ずと、慎み深くなる。なぜなら、解脱の方が、物質的利益より圧倒的に楽しいからだ。
とはいえ、現世利益を楽しむことも重要なのである。

解脱の方法はいろいろあり、人によって、合う合わないがある。
アファーメーションは、念仏やマントラと同じで、思考を止めると共に、肯定的な思考の性質を育むが、とにかく、それなりの期間、数多く唱えないといけない。
だが、これが向いている者は確かにいる。

一方、万人向きで、間違いのない方法は「今、この瞬間」を意識することで、この方法は巷では「今今メソッド」と呼ばれている、
やり方は、取り立てて言うほどのことはなく、ただ今をしっかり意識するだけで、何かをしているなら、そのやっていることをしっかり意識しながらやるのである。
歩いているなら、歩いていることをしっかり意識し、食べているなら、食べていることをしっかり意識する。
だが、どうしても分からないなら、「今、今、今、・・・」と心の中で唱えれば良い。ただし、少しでも、今を意識しながらね。
詳しく学びたいなら、エックハルト・トールの本が、一番うまく書かれていると思う。








生きる目的

人生の目的なんて、自分がこれだと迷うことなく思ったものである。
そして、目的自体に優劣はない。
優劣があるとすれば、迷いがあるかどうかだけだ。

大島弓子さんの漫画『裏庭の柵をこえて』(1981)で、明石信(あかししん。男性)は、一流大学に現役合格するも、大学での目的が見い出せず、6月で退学した。
信の隣の家の小学3年生の少女、田森とみこは、夏休みが終わる8月31日が誕生日だったが、毎年、夏休みの宿題がその日までに終わらず、誕生日は辛い思い出ばかりになっていた。
ちなみに、作者の大島弓子さん自身が8月31日生まれであるが、作品との関連は分からない。
明石信は、とみこの夏休みの宿題をするためだけに生きるようになり、とみこが中学生になったら、家を出て行った。
こんな目的も、本人に迷いがなければ立派な目的であり、そうであるなら、他のことはなんとかなるものである。

法然は、念仏を唱えることだけが目的であったが、親鸞は念仏(あるいは阿弥陀仏)を信じることだけが目的だった。
ただ、親鸞の目的は、法然あってこそだった。
法然は、念仏だけを目的にしていれば、後は仏様が面倒を見てくれると言い、親鸞も、念仏以外のことはする必要がないと言った。
だが、親鸞には迷いがあった。
親鸞は好きな女性がいて結婚したかったが、当時、僧侶の結婚は禁止だった。
しかし、法然は、結婚した方が念仏を唱え易いなら(つまり、目的を果たし易いなら)結婚すればいいじゃんと言って、親鸞は結婚したのだ。
これは、私もよく分る。
私は、プログラミングが出来るようになることや働くことを目的にしたことはないが、真の目的を果たすためには、プログラミングをマスターしたり、働く方が便利だったので、そうしただけである。
このように、目的第一にしていれば、他のことは不思議にうまくいくのである。

目的自体は何でも良い。
誰もが尊敬する偉人の本当の目的が、実は、普通の人から見たら実にくっだらないことだったというのは、珍しいことではない。
ただ、迷いがなければ良いのである。
タバコくらいは吸えるようになるという目的だけで、大事業家になった人も実際にいる。
そもそも、自分の目的が素晴らしいか下らないかなんて、大きなお世話にである。
そして、人の目的を詮索するのは、迷いがある証拠というだけでなく、そんなことをする者はずっと迷うのだ。
だから、スケベ心は控えるべきである。
ああ・・・ちなみに、一生の目的なんかでなくていい。
今の目的があれば良いのである。

「次元、お前が泥棒をするのは何のためだ?」
「美味い酒を飲むためさ」
「俺もそうだが、それだけじゃない」
いや、それだけで良いのだよ、ルパン君。
※『ルパン三世 血の刻印~永遠のmermaid~ 』より(多分…^^;)

※『裏庭の柵をこえて』は、『夏のおわりのト短調』に収録。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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