人間の「力」を計るバロメーター(本来は気圧計、晴雨計のことだが、現在の状態を示すものという意味)となるのは「決断力」である。
人間にとって、決断ほど重要なものはない。
決断力があれば、必ず成功する。
決断力とは、「断固として決め、それを必ず実行する」力と言って良い。

アニメなどでも、「ああ、このヒロインは力がある」と思わせるのは、彼女が決断する場面である。
『魔法騎士レイアース』で、マジックナイトになることを要請された3人の少女のうち、即座に「マジックナイトになる」と決断したのは獅堂光だった。
また、それから間もなく3人が殺されかけた時、獅堂光は、「約束したんだ。マジックナイトになるって。約束は守らなくちゃ駄目だ」と言って、危機に際しても諦めずに抗った。
『灼眼のシャナ』では、まだ人間の11歳くらいの少女だったシャナが、紅世の輩という怪物に殺されかけた時も、「決めた。私はフレイムヘイズになる」と言って、この絶体絶命のピンチでも決して諦めなかった。

決断力がある者は迷わない。
特に、些細なことであれば即決する。
ところが、飲食店で食事をする時の注文すら、ぐずぐずいつまでも迷っている者がいる。
挙句、店員に「これはどんな料理ですか?」「お薦めは何ですか?」と尋ねる始末だったりする。
そんなの、注文して食べれば分かるし、注文して食べない限り分からない。
決断力がない者は迷う。
迷う者は弱い。
弱い者は、他人の決定に従うことになる。

迷うことと、じっくり考えることは全く違う。
じっくり考える者というのは、決断のための指標や基準があり、その指標や基準による条件が成立すれば「やる」、しなければ「やめる」となる。
だが、迷っている者は、指標や基準がなく、誰かに決めてもらいたがる。

そして、迷うと弱くなる。
迷っている者にはスキがあり、悪霊が憑りつき易いのだ。
常に迷えば、沢山の悪霊がくっついてしまい、もうどうしようもない状態になる。
決断出来る基準を持たなければならない。
たとえば、ある優れた人物は、飲食店で注文する際は、メニューの1番上のものと決めているそうだ。
無論、1番上のものが明らかに不適切であれば2番にすれば良い。
しかし、1番で決定的な不都合がないのに、1番か2番で迷うことは決してない。

迷わない練習をすれば良い。
スーパーでお弁当を買う際、「これが美味しそうだけどあれも良さそう」と迷う人がいるし、いつまでも迷っている人もいる。
こんな時も、「基準は何か?」と考え、それをすぐに決める。
「500円以下」「野菜が多い」などだ。
そして、これは些細な選択なのだから、一番最初に見たものが条件に合っていそうなら、他を見ず、即座にそれに決めるのである。

昔、京セラの社長だった稲盛和夫氏が、ヤシカという会社を買収する時には、非常に迷ったそうだ。
この場合は、京セラの発展はもちろん、ヤシカの従業員にとって、この買収が悪いものにならないかと考えないといけないのだから、迷うのは当然である。
しかし、決断しなければならない。
この時、稲盛和夫氏は、後によく知られるようになった「私心なきか」と考えた。
そして、「私心なし」と分かれば、買収自体には、京セラにとってもヤシカにとってもメリットが大きいことは分かっていたので、即座に決断した。
「私心なきか?」という基準を稲盛和夫氏がどうやって持ったのかは知らないが、インドに伝わる壮大な物語である『ラーマーヤナ』の最後に、こんな話がある。
『ラーマーヤナ』とは、「ラーマの物語」という意味で、ビシュヌ神が転生したラーマという英雄が、魔王ラーバナの軍団と戦う物語である。
最後に勝利を得たラーマだが、美しい伝統に従い、敗れた魔王ラーバナにこうべを垂れ、教えを請うた。
その時、ラーバナがラーマに教えたのが、「私心があるならやってはならない。私心がなければすぐにやりなさい」だったのだ。

決断のための基準がないと、いつまでも決められず迷ったり、決めても早計ということになる。
だが、些細なことであれば、最初は早計に決めても、それで痛い目に遭って経験を積めば、自分の基準(確率などとも言う)を持てるだろう。
ある程度力がつけば、稲盛和夫氏のように、あるいは、ラーマのように、「私心なきか」を基準としても良いだろう。

尚、迷いの人生を送ってきて、沢山の悪霊に憑りつかれて駄目になっているなら、神社でお祓いとか、尊いお守りを持つとか、祝詞を唱えるとかすると良い。
私は最近、『お清めCDブック』という本に付いているCDの、テクノロジーと融合したボーカロイド祝詞が気に入っている。電子版を買っても、CDと同じ内容の音源をダウンロード出来る。