ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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気の簡単な集め方

昨日も書いたが、科学的に証明されているとは言えないかもしれないが、気という生命エネルギーが存在し、それが、人間の生命力だけでなく、能力や影響力、さらには、運にも大きな影響を与えると言われることがある。
そして、こういった考え方は世界中にあり、気は、インドではプラーナ、西洋でもブリルという呼び方で、ほとんど同じものがあると考えられ、おそらく、他の名前で呼ばれている場合も沢山あるだろう。
電波工学の世界的権威だった関英男博士は、気やプラーナと同じものを、科学的仮説を立て、詳しい内容は省くが、これをGTPと呼んだが、この仮説は世間で認められているわけではない。
気の効果は心理的作用であると言う者もおり、また、気についての怪しい説を唱える者も確かにおり悩ましいところだが、気のような科学的には未知であるエネルギーは確かに、何らかの意味で存在すると思う。

私も、気功で言う気は、多くの場合は、気というより血流として説明する方が合理的と思っていて、気について何でもかでも認めるわけではない。
しかし、スピリチュアル界で言われる気の中にも、わずかに真理はあり、そのわずかは重要であると思う。
それによって、医療で治らない病気が治り(場合によっては簡単に)、能力を高め(これも、場合によっては飛躍的に)、幸運に恵まれる。

それこそ「気のせい」でも良いが、結果として、健康になり、能力が上がり、運が良くなれば良いのである。
合氣道家の藤平光一氏は、「気」ではなく「氣」という字を使うことにこだわり、その意味も分からないではないが、それが人々の混乱の元になるのなら良いこととは思わない。
しかし、藤平氏は、「氣」に関して、高度に実証した人でもある。
また、藤平氏の「氣」に関する説は素晴らしいものであり、実用的でもある。
ただ、分かり難い。
藤平氏は、師の植芝盛平が説く「気」が分かり難いと批判することもあったが、藤平氏のも十分かり難い(笑)。
難しいと言うより、抽象的で曖昧なのだ。
とはいえ、藤平氏の説には、分かり易い部分もあるので、そこを利用させていただけば良いのである。
以下は、藤平氏には悪いが「氣」ではなく「気」で統一する。

気を集めることは良いことで、我々はこれを集めるべきである。
そこで、気を集める分かり易い方法として、藤平(光一)式と関(英男)式について述べる。

藤平氏の良いところは、「気を集める」という考え方が、そもそも間違いだと言ったことだ。
つまり、気は集めようとするのではなく、「出せば勝手に入ってくる」のである。
これは、イエスの「与える者は与えられる」にも通じると感じる。
だから、「どうすれば気を集められるか」ではなく「どうすれば気を出せるか」を考えれば良い。
そのためには、単に、「気が出ている」と思うだけで良い。
その「気」が抽象的で曖昧と感じるのだが、案外、この方法はうまくいく。
つまり、気と言う、神秘的なエネルギーが自分から発せられている様子をイメージするのである。
もちろん、気でも、プラーナでも、ブリルでも、GTPでも、あるいは、『スターウォーズ』でいう「フォース(力)」でも良い。
次に、藤平氏は、真理と言うか、当たり前、自然な意味の言葉を口にしても気は出ると言う。
藤平氏が好んで使ったのが「重みは下にある」という、当たり前の言葉だった。
当たり前、当然、自然ということであれば、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」が最上であるとし、実際、「私は在る」が最高のマントラ(真言)であると述べている。
ただ、私は最高のマントラは「生きている」だと思う。
しかし、各自、自分の好きな言葉を使うと良い。
それこそ、「ミクさん、マジ天使」でも良いのだと思う。

関英男博士の場合は、何と言っても腕振り運動だ。
関博士は、体内のGTP(気、プラーナ)の保有量は、生まれた時が最大で、後は減る一方と言う。
これは『老子』にも通じることである。
だから、赤ん坊の時の生命力が最大なのだ。
しかし、腕振り運動をすることだけは、体内のGTP保有量を増やし、生命エネルギーを高め、若返る。
関博士自身、腕振り運動で胃癌を治し、90歳を過ぎても、世界中から論文を取り寄せ、世界中を駆け回って研究活動を続けていた。
関博士は、GTP論を唱える前は、「幽子」という概念を提唱していたが、この幽子も気やGTPと同じものである。
そして、幽子は、常に呼吸と共に入ってくるが、普通はそのまま出て行ってしまう。
しかし、呼吸で取り入れた幽子は、息をゆっくり吐くことで、出て行かずに体内に残ると言う。
長く吐く呼吸が心身に良い影響を与えることはよく知られているので、関博士の説は、その原理として説得力を感じるかもしれない。
また、後にも、関博士は、「呼吸数が少ないことが進化の指標」と言っていたが、根拠となる詳細な論はいちいち書けないが、少なくとも一面の真理と思う。だから、ゆっくり呼吸し、呼吸数を減らすことは良いことである。

これら、分かり易く、実践し易い方法で気を多く得、健康、能力、運という「力」を得てはどうかと思う。








邪気の扱い方と氣(気)の取り入れ方

私の愛読書の1つ、盛鶴延さんの『気功革命』に、2種類の甩手(せいしゅ。腕振り運動)について書かれているが、その中で「甩手1」としている、前に振る(前に振る時に力を入れる)腕振り運動で、私には気になることがある。
それは、手を前に振った時に、指の先から邪気を出すというところだ。
3日前の17日に、大東流合気柔術式四股の動画でご紹介した、盛鶴延さんの系統の気功の先生でもある喜多原歓喜地さんも、甩手を教える動画である、
【気功】好転反応と甩手(セイシュ)
で、盛んに、邪気を手のひらや指先から出すことを強調しておられる。

私が気になることとは、出した邪気がどこに行くかということだ。
私から出た邪気が、そこらをさ迷って、誰かに迷惑をかけないか、ひょっとしたら、病気にしたり、悪いことを起こしはしないかと思うのである。
確かに、盛鶴延さんの本では、邪気について、「なるべく遠くに、できれば宇宙の彼方に飛んでいくようなイメージ」と述べておられ、それなら、地球上の人などには迷惑はかけないかもしれないが、いかに遠くても、そこで邪気が悪い作用を起こしはしないかと思う。
私は、これが気にし過ぎとは思わない。
そして、これに関し、神道家で春日大社の宮司であった葉室頼明さんが著書で、私の疑念を解消することを書かれていた。
昔読んだので、はっきりとは覚えていないが、だいたいのところで言うと、
「神道では、邪気を外に捨てるという考えはなく、浄化する」
と書かれていたと思う。
よって、私は、光り輝く波長の高い気が、身体の中の、悪いものを浄化するというイメージを持とうと思う。

気功の流派によっては、外部から気を吸収するという考え方があるようだ。
それで、大地の気とか、朝日の気とかを吸収するのなら、まだ良いと思うが、木や動物や、他の人から気を奪うようなことを言ったり、本に書く気功家もいる。
これに関しては、有名な合氣道家だった藤平光一さんが、そんなこと(他の人から気を奪う等)はとんでもないことだと批判し、
「氣(藤平さんは「気」は間違いで「氣」が正しいと言う)は出せば入って来るものである。だから、ただ出せば良い」
と著書に書いておられたが、私もこれに賛成である。
氣は、出ていると思えば出るのであり、そして、出せば、取り込もうなどと思わなくても勝手に入って来るのである。








この世界でのヒットポイントをMAXにする

Wikipediaというネット百科事典は誰でも更新出来るので、一時的に、おかしなことが書かれていることもある。
「ヒットポイント」というゲーム用語をご存じだろうか?
今、Wikipediaで見たら「攻撃として与えるダメージを数値化したデータ」と書かれていて、あまりに駄目な日本語にため息が出た。
せめて、「攻撃として与えることが可能なダメージ量を数値化したデータ」と書いて欲しい。
ニコニコ大百科は少しマシで「体力、またはそれに相当する」とあった。
要するに、保有するエネルギー量である。
私は、十年ほど前、『To Loveる(とらぶる)』という漫画の中で、この「ヒットポイント」という言葉を説明してくれているのを見て「ゲーム好きの人には常識的なことだろうに、親切だな」と感動したものだった。
(ちなみに私は『ToLoveる』では闇ちゃんのファンだ)

ところで、この「ヒットポイント」は、ゲーム内だけでなく、現実世界でも有用な概念と思う。
それは、(現実世界では)普通は、体力とか活力、気力といったことになるだろうが、もっと重要なヒットポイントがある。
ただ、それがどんなものか、世間の常識では表現し難いが、宇宙エネルギーとか、魔法力とでも言うべきもので、あなたを護り、願いを叶える神秘の力である。
気功や仙道では「気(氣)」、ヨガでは「プラーナ」と言うものと同じと思って良い。
多くの気功の流派では、気を、木や朝陽や、ひどいのになると、若い人の体内から吸い取るなどという考え方があるらしい。
そういったものは、合氣道家の藤平光一氏も批判しており、「氣は出せば入って来るのだ」と言うが、その通りだ。
だが、もっと大量に・・・というか、宇宙全体の気にアクセスする方法がある。
それが「私は存在する」と感じることである。
『アイアムザット』の翻訳書流には、「存在の感覚にしがみつく」ということだが、あまり良い表現とは思えない。
単に、静かに、「私は存在する」と「感じれば」良い。
難しければ、初めのうちは、心の中で、静かに、ゆっくり、丁寧に「私は存在する」と言って、その感じを掴み、そして、頭の中の言葉なしに、自分が存在すると感じることだ。
純粋な存在の感覚とは、朝、目覚めてから、思考が戻ってくるまでの間の感覚である。
その状態であれば、大いなる存在と共にある。
実を言えば、「存在の自覚」が神であり、「存在の感覚」を掴んでいれば、世界は自由自在だ。
聖書においては、モーセの前に現れた神は、「私は『私は在る』である」と言ったのである。
それは、モーセと別にあるのではなく、モーセの本質であり、あなたの本質でもある。
なぜなら、モーセは存在し、あなたも存在するからだ。
難しいことを理解しなくても、ただ「私は存在する」と感じれば、このゲーム世界でのあなたのヒットポイントはうなぎ上り、いや、打ち上げ花火のように向上し、しかも、決して落ちない。
この世界は、「シミュレーテッド・リアリティ」というゲーム世界のようなもので、そのヒットポイントをMAXにすればあなたは無敵である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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