ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

武士道

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

偏見まみれの武士道を単純に言うと

『葉隠(はがくれ)』とは、江戸時代中期に佐賀藩の山本常朝(やまもとつねとも)が、(上級の)武士の心得を口述したものだ。
優れた武士の間で評価が高いだけでなく、三島由紀夫なども絶賛してきた。
武士の心構えと言うからには、さぞ厳格なことが書かれているというイメージがあるかもしれず、『葉隠』の中の最も有名な言葉の1つ、

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」

も、武士道に対するおかしな観念を一般の人に持たせてしまったと思う。
だが、『葉隠』を読むと、親切な世話好きなおじさんが言っているという雰囲気もあるほど、人間味がある内容で驚くかもしれない。

武士道の名著と言ったら、新渡戸稲造の『武士道』を思い浮かべるかもしれないが、こちらは、西洋人のために新渡戸稲造が英語で書いたものだ。そして、『武士道』の方が、よほどおどろおどろしい(厳しく恐ろしい)、つまり、人間味に欠ける。
『武士道』では、主君の息子を救うために自分の息子の首を刎(は)ねるも平然とした態度を見せる武士のことが書かれているが、『葉隠』には、罪人を裁く際には罪が軽くなることを願って審議せよなどとある。

だが、『葉隠』も『武士道』も、言っていることは同じに思える。
つまり、ただ「真の意味で正しくあれ」ということで、別に武士に限ったことではない。
だが、武士は模範となるべく正しい道を行かねばならない。
今では、「私は武士道精神でやっている」と言ったら、奇妙な偏見に凝り固まった頭のおかしな人間と思われかねないが、それは、一般大衆が、武士道に対し歪んだ観念を持っているからだ。
新渡戸稲造が、西洋人から、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と問われ、「日本には宗教がなくても武士道がある」として『武士道』を示したように、武士道とは単に、「真に正しくあること」である。
ただ、『武士道』は、西洋人はおろか、ほとんどの日本人にすら分からない。
いや、武士に対する奇妙な偏見が多い日本人の方が分かり難いかもしれない。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
この死ぬとは、自我が死ぬことで、普通の言葉で言えば、思考を消すことだ。
道元が言うには、仏教の神髄は「自己を忘れること」だが、これも、自我を葬ること、つまり、思考を消すことだ。
イエスは「死ななければ生きることは出来ない」と言ったが、この「死ぬ」も、自我の死で、やはり、思考を消すことだ。
引き寄せの鍵すら、自我が死ぬことで、思考を消すことだ。
自我の死と言っても、常に自我がないわけではない・・・つまり、常に思考が消えているわけではない。
ラメッシ・バルセカールは、聖者の中の聖者と言われるラマナ・マハルシにだって自我はあると言ったが、そりゃ、自我がなければ人間として活動出来ない。

思考偏重で、思考に最大の価値を置く現代人に武士道は理解出来ない。
思考が消えたところに英知があり、思考は英知の下僕として必要なところで使えばいいのに、下僕である思考を主君である英知より上に置いているのが現代人だ。
ハサミだの歯ブラシだのといった道具は、必要な時に使えば良い道具であるように、思考も必要な時に使えば良い道具だ。
『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いの女性ユーベルが言ったように、「ハサミって切るものなんだよ」という単純な真理を忘れ、どう切るかを考え過ぎると、切れるものも切れなくなる。
ユーベルが「皆、頭を使い過ぎるんだよ」と言ったのは、そういう意味だ。

1日5分でも10分でも、無思考になるよう(ただし目覚めている時)、ほんの少し努力すれば、引き寄せ万能・・・つまり、世界は思い通りであることに近付く。
やり方は、これまで沢山書いたが、ゆったりとした長く静かな呼吸をすることが、その良い方法の1つである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)葉隠 (知的生きかた文庫)
(2)葉隠入門(三島由紀夫)
(3)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院)
(4)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video

良い眠りを
AIアート1528
「良い眠りを」
Kay

女神ヘカテーに学ぶ重要なこと

引き寄せをやっている人は、貴族のようになりたいのではないか。
働かなくても、優雅に贅沢に暮らせる特権階級だ。
実際は、どこの国でも貴族の大半は貧乏貴族で、映画で見るような豊かな貴族は少ないらしい。
そのような、貴族の中でも一握りの恵まれた貴族のようになりたいと思うのは悪いことではない。
だが、それなら、貴族というものを理解しなくてはならない。世俗的学術的な意味ではなく、本質的な意味でだ。
日本は武士の国で、貴族があまり注目されなかったが、江戸時代の武士は、武士の本分である戦争をせずに税金で食べていたのだから、実質的に貴族である。
そして、江戸時代の武士に、貴族らしさが見えるのだ。
どういうことかというと、江戸時代の武士は、戦争がないにかかわらず、働かずに食べられることに後ろめたさを感じていたのだ。
無論、武士全員ではないが、そんな後ろめたさを感じていた武士が、本来の貴族らしい貴族に似てきた。
そんな武士は、「せめて立派な人間でいよう」と思ったのだ。
本来、貴族は高潔なものであるが、そうでない貴族が増えたので、貴族が廃れたのだ。

引き寄せのマスターとは、神によって豊かさと安全を保証される貴族だ。
それなら、江戸時代の武士以上に、立派な人間であろうとしなければならない。
ただし、世俗的、伝統的、形骸的な意味とは違う、本当の立派さ、高潔さだ。
そして、それが、思考が消えた人間なのである。

ところで、国王などの国のトップが変わった時、一気に没落する貴族もいれば、身分を守られる貴族もいる。
そして、トップが変わっても守られる貴族こそ、本物の貴族である。
一方、トップが変われば追い出される貴族は、トップが変わらなくてもいずれ落ちぶれる。
神がトップの貴族も、永遠の貴族のようでなくてはならない。
永遠の貴族のような者とは、ギリシャ神話のヘカテーのようである。
ヘカテーは、月の女神、冥界と女神と言われるが、実は強大な権力を持つ女神である。
そして、注目すべきは、ヘカテーは、ティターン族の神であるが、ゼウスがクロノスを頂点とするティターン族から世界の支配権を奪った後も、ゼウスはヘカテーの権力を取り上げなかった。
そのヘカテーに学べば良い。
ヘカテーは冥界という暗い世界に住み、また、同じ月の女神と言われるセレーネとアルテミスについて、セレーネが満月の女神、アルテミスが三日月の女神と呼ばれるのに対し、ヘカテーは新月の女神と言われる。やはり、ヘカテーは暗いのである。
このように、身を隠し、暗い所にいる者が最強で無敵で安全なのである。
これは、老子が言う、「最も低いところに行く水が最も強い」「私は3つの宝を持つ。それは、倹約と慈愛と人の前に立たないこと」というのと似ている。

こういったことが、無意識にでも分からないと、スピリットの王、引き寄せのマスターにはなれない。
これらに比べれば、引き寄せのメソッドや引き寄せの表面的な知識など、取るに足りないものだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)武士道(新渡戸稲造)
(2)神統記(ヘシオドス)
(3)老子 (岩波文庫)
(4)水の精 ~ウンディーネ~(フケー)
(5)アーサー王物語 (角川文庫)

春に咲く
AIアート1527
「春に咲く」
Kay

武士道で宇宙人に勝つとは

新渡戸稲造(1862~1933)が『武士道』を書いたきっかけは次のようだったと思う。
ある西洋人が、日本人は無宗教が普通だと知ると、新渡戸に、
「日本人は宗教なしに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」
と、驚きと非難を含む調子で言った。
それに対し、新渡戸が「宗教はないが、日本に武士道あり」ということで、武士道を西洋人に説明するために、英語で『武士道』を書いた。
だから、日本語の『武士道』は、実は翻訳である。

道徳を宗教で教える・・・西洋人には受け入れられている考え方である。
さらに、規律に関しては、宗教で間に合わない部分は軍隊式に厳しく躾ける。
これらが正しいかどうかと言うと、IQが低い者に関しては圧倒的に正しい。
IQが高ければ、道理を理解することで、道徳的に振る舞い、マナーを守る。
だが、IQが低い者には道理が理解出来ないので、宗教の分かり易い話を借りて善良な人間像を与えてそれに倣わせ、さらに、鞭を持って、マナーを身体に教えないといけない。
これは現実である。
そして、道徳哲学者のジェームズ・フリンが言うように、昔の人ほどIQが低いので、新渡戸の時代の、その西洋人の疑問は正しく、それどころか、今の時代でもかなり正しいかもしれない。

ところで、私は、武士道というか武士というものが好きではなかった。
武士階級は、農民が汗水たらして働いて作った米を、暴力的に奪い取り、農民が飢えていても、自分達は十分食べていたからだ。
理不尽もいいところだ。
農民が領主におさめる年貢は収穫の半分と言われ、今の非人道的な日本政府が国民に課す税金と同じ(笑)なのである。

だが、新渡戸が書いたのかどうか私にははっきりしないが、こんな話が記憶に残っている。
武士の平和で能天気な悩みである。
戦国時代であれば、建前上、国や農民を守るという大義名分が武士にあった(まあ、戦争は武士が起こすのだから、農民には迷惑なだけだが)。だから、一応は、年貢で納められた米を食うのも堂々とやれた。
だが、徳川の太平の世になると、戦争は起こらないので、武士はやることがなくなった。
それなのに、農民に年貢を納めさせることで食べている。
そこに武士は後ろめたさを感じていたのだ。
ただし、これは新渡戸も誰も言っていないが、そんなことを感じたのはIQが高い武士だけである。
ほとんどの武士は、当然のように飯を食っていた。
だが、後ろめたさを感じるIQが高い武士は、どうしたかというと、「せめて模範になれる立派な人間になろう」と思ったのだ。
いや、それなら働けよニート・・・と言いたいところだが(笑)、いずれにしろ、武士道はIQが高い人間によって集約された哲学であるから難しいが、西洋人の中のIQが高い人達に興味を持たれたのだった。
IQが低い西洋人にとっては、武士など、単なる主君に隷属する戦闘員であり、武士道は、野蛮な「ハラキリ」の掟を持つマフィア道である。

仮想現実の乙女
AIアート376
「仮想現実の乙女」
Kay


さっきも書いたが、私は、武士の「せめて立派な人間になろう」なんて、単に働くのが嫌だからそう言い訳する逃げの姿勢が大嫌いだったが、最近は、この考え方を見直すようになった。
武士だって、個人としては、無力なのである。
そこは、現代の我々も同じだ。
そんな時に「せめて立派な人間になろう」と思うのは良いことではないだろうか?
そして、結論から言えば、この「せめて立派な人間に」という指向性が、『エイリアン・インタビュー』に出てくる、「旧帝国」の宇宙人が地球に仕掛けたマインドコントロール装置の影響を免れる良い方法である。
ほとんどの人間は、良い人間でいようなどと思わないので、マインドコントロール装置の影響をモロに受け、魂は閉ざされ、能力を著しく制限されているのである。
この、「せめて良い人間になろう」は、些細なことで実践しても良いし、実際、些細なことでしか出来ない場合が多い。
例えば、「酒が大好きだが、1日2杯までにしよう」とか、「俺はロリコンだが、少女たちに邪なことをせず、むしろ大切に守ろう」とか(笑)だ。

これにより、マインドコントロール装置の影響を抑え、IQが上がり、魂の力を引き出して全知全能に近づき、引き寄せの力も強くなる。
呼吸法を熱心にやっても、心があまりに汚れていたら、魂の力が解放されない。
いや、実を言うと、心が汚れていたら、深呼吸すらうまく出来ないのである。
尚、新渡戸の『武士道』は、おそらく、『葉隠』を参考にしたはずだが、『葉隠』は名著であり、読むとIQが高まると思う。








腕振り運動で超能力が高まったと言う理由

私は、毎日、数千回(直近の5日では平均9860回)の腕振り運動をやって、驚愕というのではないが、意外で興味深く思ったのが、自分が本当は、全くの無信仰・・・つまり、いかなる宗教も少しも信じていないことだった。
それが、純粋にして明晰・・・この上なく、はっきりしたのだが、これは、本当に面白いことだ。
仏教も、キリスト教も、神道も、私は信じていない。
かと言って、別に宗教が嫌いなわけでもなく、また、法然や親鸞や黒住宗忠らは、非常に優れた、しかも、善意の人であったとは思っているのだ。

さて、信仰がないとなると、新渡戸稲造がキリスト教徒の婦人に言われたように、「宗教なしで道徳を持てない」というのが、少しは気になるところである。
新渡戸は、「それなら(日本に宗教がないなら)、日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書いたが、私は日本人とはいえ、明らかに武士道も持っていない。
新渡戸の言う武士道は、私は、映画(原作は小説)の『鉄道屋(ぽっぽや)』(1999)みたいなものと思う。
とはいえ、私は、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画を観てないし、小説も読んでいない。
だが、次の話だけで十分だ。
幌舞(ほろまい。北海道内)駅の駅長であった佐藤乙松(映画では高倉健が演じた)は、鉄道員一筋で、愚直に業務を行った。
乙松は、結婚後17年を経てようやく授かった生後2カ月の娘が死んだ日も、その直後に妻が死んだ日も、仕事から抜けられず、業務を全うし「異常なし」と言う。
なるほど、壮絶な話ではあるが、日本では、それほど特殊とは思えない(実際は世界でも)。
いかなる状況でも、冷静に責任を果たす・・・これが、新渡戸の言う武士道で、新渡戸は、『ぽっぽや』より、さらに数段、壮絶な話を事例にしている。だから、読むと疲れる(笑)。あんなもの、日本人の精神だと思われたら迷惑である(笑)。
ただ、新渡戸は、武士道は『葉隠』あたりから学んだと思うが、私は、『葉隠』は、もっと中庸な精神が描かれているのだと思う(私はあまり真面目に読んでいないが)。
しかし、三島由紀夫のような変人(笑)が『葉隠』の大ファンだったのだから、どこか変わったところがあるのかもしれない。

いずれにせよ、宗教も武士道も、良い面はあるが、悪い面もある。
アインシュタインは、自分が信仰する宗教(ユダヤ教)のために、量子力学が正しいことは分かっていながら、これを認めるわけにはいかなかったようなことを言っていたらしい。
それなら、彼は、極めて冷静で、宗教が自分に偏見を持たせたと理解しているところは凄い。しかし、それでも、その偏見を脱することは出来なかったのだ。
ところが、私は、日本人らしく、表向きは仏教(浄土真宗)、内的には神道を、少しは信仰していたはずだが、それがきれいさっぱり消えた。
アインシュタインも腕振り運動をすべきであった(笑)と、半分冗談だが、半分真面目にそう思う。
(いつも言うが、別に腕振り運動でなくても、延々反復するものなら何でも良い)

クリシュナムルティが「私は何も信じない」と言ったらしいが、彼は相当な宗教教育をされ、教団の教祖だったこともあったと思う。
では、彼も、宗教を信じなくなった出来事があったのだろうか?
少し興味はあるが、結果的にめでたく宗教から解放されたのなら、とりあえずそれで良いだろう(笑)。

とはいえ、私は、神は信じているが、もちろん、私が言う神は、いかなる宗教が言う神とも違う。
なぜ神を信じるのかというと、この世界が偶然で出来たと考えることには無理があり、何らかの強い意思の働きがあったことは確実だからだ。
スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルらは、神は存在しないと言ったが、彼らが間違っているとは思っておらず、むしろ、私は、考え方としては、少なくとも、宗教よりは彼らに近い。

私が昔から、『荘子』を「超能力養成書」だと言ってきたのは、『荘子』は何か信仰や信念のようなものを得るための書ではなく、信仰や信念という名の偏見を壊すための書であるからで、人間は偏見・・・つまり、固定観念をなくすほど、ある意味、超能力者になる。もちろん、この「超能力」は、世間的な偏見に満ちた「超能力」とは異なる。
私は何も信じないと言っても、物理法則がほぼ正確に事象の経過を推測出来ることは知っているし、科学的には不明でも、ミルトン・エリクソンが知っていた精神の法則のようなものがあることも確かと思う。
ただ、ガモフが言うように、我々が知る物理法則が成り立たない世界も存在するのかもしれない。

つまり、腕振り運動のおかげで超能力が高まってきたかもしれない(笑)。
昨日の私の腕振り運動の回数は1万回だった。








武士道が大切になってきた

私は、武士道というものが好きではなかった。
武士道と言えば、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』(原文は英語)と、江戸中期の書物『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名と思う。
新渡戸が『武士道』をニューヨークで出版したきっかけは、アメリカに留学していた時、アメリカ人の女性に、「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問われて困り、それなら、日本には宗教の代わりに武士道があるとして、この武士道を紹介するために英語で書いたのだったと思う。
しかし、そこに書かれているのは、日本人も知らない、高邁・難解な哲学や思想だった。

特に、新渡戸のというのではなく、『葉隠』も合わせ、武士道とは何だろう?
私は、最近まで、武士道とは、「武士の言い訳」程度に考えていた。
どういうことかというと、こういうことだ。
武士は特権階級で、働かなくても食べていける。
だが、戦争になった時には、領民を護るために命をかけて戦うのであるから、それも当然と言えた。
しかし、徳川の世になり、戦争など起こらなくなった。
だが、それでも、武士は働かず、のうのうと特権を謳歌している。
武士にも頭が付いている者がいたらしく、生まれながらの特権で遊んで暮らせることに後ろめたさを感じる者もいたようだ。
そこで、「せめて立派な、お手本になる人間になろう」と思って、「立派な人間とはこうである」という暇なことを考える人がいたが、その中にはなかなか頭の良い人もいて、そんな武士により、それなりに立派な武士道というものが出来上がったのだろう。その代表的なものが『葉隠』で、これは、佐賀藩士の山本常朝(やまもとつねとも)が口述したものである。

私は、「遊んで暮らせることが後ろめたいなら働けよ」と思い、あくまで特権を手放さない言い訳として考えられた武士道に批判的だった。
ところが、現代人には、武士のように、働かない者が増えてきた。
サラリーマンの多くは、毎日出勤していながら、大して働いていないし、中には、実質、ほとんど働いていない者もいる。
その代表が私だった。
確かに、良い会社とは、社員が働かなくても儲かる仕組みが出来た会社である。
しかし、その仕組みとは、賃金の安い工場労働者など、福沢諭吉の言う簡単な仕事とされる「力役(りきえき。肉体労働者)」に負っている。
さらに、ほとんど意識されないが、途上国の、子供を含めた貧しい人々の厳しい労働に、大いに依存しているのである。
我々が食べる美味しいチョコレートのために、貧しい国では、子供達が買われて親から離され、過酷な労働を強いられ、危険な仕事も多く、それで指を切断してしまっても、医者に診てもらえないなど普通である。
そういったことから考えると、特に、大手企業のサラリーマンや公務員等は、たまたま豊かな家に生まれたおかげで、良い大学を出て、楽に高い給料をもらっているのだから、武士と変わらない。
けれども、かつての武士のように、後ろめたさなどは持たず、もっと金や地位が欲しいという欲望だけで生きている。
だから、「立派な人間になろう」なんて考えは全くなく、そんなことを言ったら、「それ、何の役に立つの?」「コスパ、悪くね?」と言われることになるだろう。
たとえ、後ろめたさを感じても、自ら肉体労働者になることも出来ないのだから、せめて立派な人間になろうという、かつての一部の武士の心意気は良かったなあと思うのである。

自己啓発本を読むのは、かつての武士に匹敵するような身分の人が多いのだと思う。
ただし、立派な人になろうと思って自己啓発本を読むのではなく、引き寄せの法則などで、自分が豊かで幸せになるために読んでいる場合がほとんどと思う。
ところが、個人的な欲望のために自己啓発本を読んでも、成果が出ず、引き寄せも起こらない。
そして、気付くのである。
自己啓発本自体は、立派なものが多いが、それを読んで成果を出せるのは、「立派な人間」だけなのである。
それは事実である。
程度の低い人間が、いくら立派な自己啓発本や引き寄せの方法が書かれた本を読んでも、全く何も得られない。
もちろん、聖人君子になれと言うのではなく、どんな人間にも欠点はある。
しかし、自分に恥じないだけの立派な人間になろうと思わない限り、天や神や宇宙や潜在意識は味方をしてくれないことは確実である。
これには反発したい向きもあろうが、短期的にはともかく、その者の長期に渡る状況が示してくれているはずである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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