ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

正義

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

善と幸運の関係

世界のほとんどの国では、災害が起こると秩序が崩壊し、商店の商品が強奪され、金持ちが食品その他の生活物資を買い占め、食品や生活物資を販売する業者は値段を引き上げ、女性がレイプされるといったことが当たり前に起こるが、日本では、それが非常に少ないことが、外国から驚かれたり、称賛されたりする。
これは、四季の変化が激しく、山が多い厳しい自然環境の中で協力し合わなければ生きていけない日本では、暴力的でなく大人しくて協調性があり、考え深い人間でないと生きていけず、そんな人間の遺伝子が受け継がれたためと考えられる。
だから、その悪い面である、集団に頑なに従う、また、従わせるという面がある。
だが、少なくとも見かけ上は善良である。

では、西洋の人間が邪悪であるかというと、そうではない。
むしろ、災害時に善意を守る日本人を称賛するということは、西洋人の中に善の魂があるからであり、集団の制裁を恐れることで見かけ上の善意を守っている場合も多い日本人が必ずしも上とは言えないかもしれない。

1940年代のアメリカで、特に少年達が熱狂した『ローン・レンジャー』という、ラジオ・テレビドラマがあった。
仮面をつけたヒーロー、ローン・レンジャーが愛馬シルバーを駆り、早撃ちの腕前で、人々を苦しめる悪を倒すというヒーローものである。
また、ローン・レンジャーはインディアンの青年とコンビを組んでいるのは、人種的偏見が大きかった当時のアメリカでは異例な設定であった。
このローン・レンジャーが、かつて、彼がこよなく敬愛した兄を殺した、邪悪の権化とも言える悪党と激しい戦いをするお話があった。
卑怯な手を駆使する悪党にピンチの連続のローン・レンジャーだが、悪党は誤って崖から転落して死ぬ。
その時、ローン・レンジャーとコンビを組むことになる善良なインディアンの青年が、
「こんなやつ、死んで当然さ」
と言う。
だが、ローン・レンジャーは苦しい顔をして、
「死んで当然のやつなんていない」
と言い、悪党の墓を作る。
アメリカにはアメリカの善があり、本来なら、災害時に略奪をしたりはしないが、何かがアメリカ人を邪悪にした・・・と言うより、アメリカ人のIQを叩き落したのだし、その何かは日本人のIQも落とし尽くし、今の日本人は、集団を恐れる心でなんとか善を保っているだけという部分が大きくなってきた。

だが、所詮、幸運とか、神助というのは、善である者にしか与えられない。
悪は栄えても、得た歓楽以上の苦痛を与えられて滅ぶし、栄えているように見える悪人は実は苦しい。
1980年代の日本に『スペースコブラ』という漫画・アニメが人気があった。
主人公の宇宙海賊コブラは、女好きで豪放なナイスガイで、一応は、高額の賞金がかけられたお尋ね者で、それが悪の魅力でもあった。
だが、コブラは、個人的な挑発を受けても笑って受け流す余裕があり、そして、自分を殺そうとした悪人でも、死にそうになっていれば助けた。
そんなコブラが危機一髪を切り抜ける場面は、どう見ても、ただの幸運という場合が多かった。
そして、それが自然に感じる。作者も、そう感じていたのだろう。
魂が善であるから幸運が味方するのではないだろうか?

伸びやかな天使
AIアート320
「伸びやかな天使」
Kay


だが、戦争や事業では、善意だけでは生きていけないと言われる。
リー・ヴァン・クリーフ、ジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニ・ウェスタン『怒りの荒野』では、ジェンマ演じる若いガンマン、マリー・スコットは、クリーフ演じる恩のある老ガンマン(と言っても渋い40代後半だが)のタルビーが命乞いをするのに撃ち殺す。
生かしておいたら、いつか自分が殺されるという意味で「傷を負わせたら殺せ」というのがガンマンの掟であるからだ。
だが、ローン・レンジャーなら殺さなかったかもしれない。
ところが、タルビーを撃ち殺した後、マリー・スコットは銃を投げ捨てる。
「こんなことは俺たちで終わりだ」と言いたげであった。
そもそもの発端は、町の人々が娼婦マリーの息子のスコット(マリー・スコット)を虐げたことだ。
そのようなことをしたのは、町の人々の道徳とか善意の問題ではない。
町の人々のIQが低かったからだ。
そして、何者かは分からないが、悪の勢力は、アメリカ、日本など、全ての国の人々のIQを引き落とし、低俗で邪悪な人間にしようとしている。
解決策は、思考を消し、本物のIQを上げることだが、洗脳された我々はそれを理解出来ない。
だから、呼吸法で脳波をアルファー波からシータ波近くまで下げ、余計な思考を消すことを、いつもお勧めするのである。








悪を過激に攻撃する人達

程度が低い人間に対して過敏・・・つまり、過度に感情的に反応してしまう人がいる。
そんな人は、自己中心的で自分さえ良ければ他人がどうなろうが構わないと思っている人間を、どうしても許せない。出来れば、その場で撃ち殺せたらどんなに良いだろうと思っているのかもしれない。
そんな人は、そのような精神性が低い人間に自分が苦しめられたり、あるいは、自分が愛する人が苦しめられるのをただ見ているしかなかった辛い経験があるのかもしれない。
特に、自分の親、教師、その他でも、自分に対する支配的な立場の人間が、そんなおぞましい人間であったという可能性もある。

悪に対して過敏で、正義感が異常に強くなり、不正を断じて許さないという立場を取る者は、無神経に人に迷惑をかける者(たとえば歩きタバコをする者)に対し、本当に正面から叱責したりすることもある。
だが、程度の低い人間に正論で挑んだって全く意味はないのだが、それを感じることで心を病むこともある。

知らない人も多いだろうが、矢吹健太郎氏の漫画『To Loveる(とらぶる)』に登場する古手川唯という超真面目な女子高生がまさにそれだ。
ただし、彼女の場合は、優秀だったり美少女だったりで、普通の人よりはずっと強い立場にあるが、それでも無力感に苦しむ。ましてや、我々のようにとりえのない人間の場合は、さらに苦しむことになるだろう。

力のない人間が、過度な正義感に囚われると、人格が歪む場合が多いと想う。
それで、自分も、他人にとって迷惑な人間になる。そして、やっぱり自分も苦しいのだ。

イエス・キリストは、自分を殺そうとする人達について、神に「彼らをお許し下さい。彼らは自分がやっていることが分からないのです」と言ったが、それを知って少し救われる気分になるが、やはり悪への憎しみは止まらない。

最近の、回転ずしチェーン「スシロー」で、醤油の注ぎ口を舐めたりの迷惑行為を行った男子高校生に対し、SNSでは、殺しても飽き足らないくらいに、その高校生を過激に非難する人達を多く見ることが出来るだろう。
あの高校生のような人間が存在し、そんな人間が楽しく生きていることをあまりに理不尽に感じ、許せないのだと思う。
きっと、可能なら、あの高校生を拷問にかけた上で処刑したいと思っている人も少なくないだろう。

程度が低い人間を攻撃的に非難する者も程度が低いのである・・・と言ったら、こっちが攻撃的に避難されそうだが、まあ、真実だ。
迷惑行為を肯定して良いはずがないのは当たり前だが、攻撃的な手段で問題が解決するわけがない。
それに、攻撃的に解決しようとしたがる者も、かなり程度が低く、自分も人に迷惑をかけていることに気付いていない場合が圧倒的だ。

イエスが言った「彼ら(程度が低い人間)は何も分かっていない」の意味をはっきりさせるために、1つの仮定を導入する。
それは、人間の脳(あるいは魂)に影響を与え、人間性を低下させる超科学テクノロジーで作られた装置が地球上に存在するということだ。
その装置は強力で、全人類に影響を与えている。
だから、本当は、あらゆる人間が自己中心的で、自分さえ気持ち良ければ、自分さえ気分が良ければ良いと思っているのである。
ローレンス・スペンサーの『エイリアンインタビュー』によれば、そんな装置は本当にあるが、その真偽はともかく、そう考えた方が、はるかにつじつまが合うし、解決策も見つけられるのである。
「その装置のせいで、人類全員の人間性が下げられている」と考えれば合点がいくのである。結果(人類全体のレベルが低い)がその通りなのだから。
何より、自分に関して「なるほど」と思うのである。
自分が、かくも卑しい理由が説明出来るのである。
それが分かれば、あのスシローで迷惑行為をした高校生を始め、ロクでもない人間達も、ただ精神をコントロールされているだけだと理解出来るのである。
その装置は、少なくとも数十万年前には設置・稼働している。
だが、釈迦や老子、あるいはイエスが代表であるが、その装置の影響を脱することに成功した者もおり、部分的に装置の影響を逃れた者なら、いつの時代も、いくらかはいる。
だが、程度の低い人間をただ攻撃するだけの者は、装置の完全な影響下にあると断言出来る。
そして、その装置の影響下にある者は力がなく弱い・・・これも事実である。
しかし、装置の影響から離れるほど力を得るのである。
このブログでは、その装置の影響を回避する方法(沢山ある)を無料で述べている。








戦後、日本人を騙し続け地を這う虫にし続けた言葉

戦後、日本人を洗脳し続けている呪文のような言葉がある。
それは「正義の味方」だ。
この言葉の阿呆さに気付かないといけないのに、誰も疑いすらしない。

「正義の味方」以前に、「正義」が、ロクでもない言葉だ。
正義は、英語でjustice(ジャスティス)だと思っている人は多いが、justiceは、まあ、「公平」だと思って良い。人や行為を公正に扱うことをjusticeと言うのだ。
ところが、正義の義とは、特定の集団の道理、つまり、教義という意味で、早い話が、偏見である。
だから、正義とは「誰かが正しいと思い込んでいる1つの狭い考え方」という程度の意味だ。
英語に正義に該当する言葉はないが、もしあるとすれば、「資本主義への賛同」であり、中国なら「共産主義の推進」といったものになると思う。
正義とは、その程度の意味なのだ。

ところが、正義を、「真理」とか「神の理念、あるいは、神そのもの」と思っている人が多い。
私もそうだった。
だが、それなら、「正義の味方」は変な言葉だと分かる。
なぜなら、真理や神は味方など必要ではないからだ。
だが、正義の実際の意味である「偏見」には味方が必要だ。
「味方あっての真理」などでは全くないが、「味方あっての偏見」であり、味方がいなくては偏見は成り立たない。

慣習的、あるいは、文学的な意味では、正義の味方は、英語では、「ヒーロー」、あるいは、「knight in shining armour(輝く甲冑の騎士)」であり、単に、「華々しい者」「やんやと持てはやされる者」という意味で、真理であるかどうかは全く関係ない。
ヒーローとはただ、特定のグループにとっての強い味方のことだ。

全く知らないが、「正義について語ろう」「正義の話をしよう」みたいな本があると思う。私は読んではいないが、中身は全くの偏見であることは分かる。
上にも述べた通り、正義そのものが偏見だからだ。

そりゃ、戦後70年以上、「正義」「正義の味方」は、日本を騙し続けた言葉なのだから、上のように、いきなり正体を暴露されたからって困るかもしれない。
ところで、我々が「正義」と思い違いしている「真理」「神の真理」の本当の意味は重要である。
だが、だがだ。
人間の頭では真理は分からないのだ。
もしかしたら、「愛」が真理なのかもしれないが、それなら、人間には愛は分からない。
これに関しては、アイルランドの詩人W.B.イェイツも「愛は神の領域であり、人間には分からない」と謙虚に認めている。
だが、イェイツも早計なことを言ってしまった。まあ、ある程度正しいし、「正義」「正義の味方」よりははるかにマシだが。
それは、「憎しみは人間の領域だから、人間は憎むのをやめれば良い」だ。
言っておく。
人間は、愛することは出来ないが、憎むのをやめることも出来ないのだ。
ただ、それらの否定形である、「愛さないこと」「憎むこと」は常時やっているのである。

面白いことに、イェイツは、上で述べた人間最高の心がけである「憎むのをやめる」ことをすれば、神の恩寵を得られる・・・つまり、分かり易く言えば、引き寄せが出来ると言っている。
それが正しいとしても、さっきも述べた通り、人間は、憎むことを止められない。

人間に出来る、唯一の正しいこと、それによって、引き寄せを起こせる方法は、思考を止めることだ。
これは、想念を消す、考えることを止めるなどとも言う。
また、「思考を止める」とは、「思考を消す」と同じ意味だ。
これはもう、今の社会で誰も賛成してくれないと思って良い。
だが、それは構わない。
とりあえず、分かる者だけが得をさせていただこうではないか。
いつも言うが、今を意識すれば、自然に思考は消える。
今を意識する方法などについては、いつも書いているので省くが、分からなければ、「今」の意味を思いながら、「今、今、今、・・・」と唱えても良い。
そうすれば、自ずと思考は消え、真理と一致し、真理があなたを守り、引き寄せの力が自然に備わる。
だがまず、ソクラテスのように、「私には知恵がない。よって、立派なことは考えられない」と謙虚に認めることが必要と思う。








本当の正義とは

もしかしたら、何度か書いたかもしれないが、私は「駄目なやつ」に大変に興味がある。
だからもちろん、私自身に興味があるはずだが(笑)、人間、自分のことはなかなか分からない。
そこで、自分以外の、特に駄目なやつに注意を引かれる。
ところが、とことん駄目なやつを見ると、怒りのような不可解な感情が湧く。
どういうことかというと、どうしようもなく駄目なやつというのは、何か道を誤っているのだ。
人間は、本来は駄目ではなく、非常に立派なものなのだ。

たしかに、ちゃらんぽらんで、依存心が強く、勇気がなくて駄目なやつは多い。
しかし、真面目に勉強し、真面目に働き、努力をするけど駄目なやつだっている。
私は、両方見ているのだが、最近、その両者に共通するものがあることが理解出来てきた。
彼らには「正義」がないのだ。
・・・などと言うと、そっぽを向かれるかもしれないが(笑)、それは重要なことだと思う。
そこそこ優秀であるのだが、いくら口で立派なことを言っても、どこか安っぽく、品がなく、欲深にしか見えない者がいる。
そうだ、そいつには「正義」がない。

ところで、正義の定義は難しいかもしれないようで、正義をテーマにした難しい本がある。
しかし、その本が難しい時点で、それには正義は書かれていない。
「道徳」には、伝統や慣習が影響する。つまり、時代や場所で、何が「道徳」かは変わる。
ある時代の、ある場所では道徳的であったことが、別の時代の別の場所では不道徳になる。無論、その逆もある。
しかし、「正義」には、時代も場所も関係がない。
もし、時代や場所で変わるなら、それは正義ではない。

では、時代や場所で変わらない・・・銀河系でもアンドロメダでも、ビッグバン時でも宇宙終焉の時でも変わらない正義とは何か?
だから、言葉で定義出来ないんだって(笑)。
だが、それでは話が進まないことも確かなので、あえて言えば、正義とは「欲張らない」ことだ。
例えば、こんな感じだ。
ケーキを買いに行ったとする。
お店に行くと、美味しそうなケーキがいっぱいあって目移りする。
「あ、これ美味しそう。でもこっちもいい。いや、もっといいのがあるかも・・・」
しかし、最初の「あ、これ美味しそう」と思った時に、それに決めるのが欲張らないことで、それが正義なのだ。
駄目なやつというのは、それが出来ないのだ。
間違ってはならないのは、「早計に決めろ」と言っているのではなく「欲張るな」と言ってるだけだ。
欲張らすに、いろんなケーキをじっくり見れば賢くもなる。

正義がなくても、つまり、欲張っても裕福になる者もいる。
実名を挙げられるが、それは控えよう(例えば、バ〇ク・オ〇マとか 笑)。
しかし、彼らは、我々が想像も出来ないほど惨めだし、さらに今後、どれほどの悲劇を迎える派目になるか分からない。
だが、かなりの巨悪であっても、欲張らなければ、そこそこの地獄で済むのである。
贅沢やプライドも結構だが、ちょっと見返してやれれば、それで良いのである。
そして、それは、確実に出来るのだ。
ところが、欲張らなければ、かつて自分を徹底的に馬鹿にした連中を震え上がらせる程度にはなれるのである。








悪霊と仲良くするのは辛いことだ

善、正義は失ってはいけないものだが、悪に染まった者が、悪しきに意図のために、善や正義を声高に、しかも、巧妙に語ることがよくある。
そもそも、善や正義は、黙って行うものであるというのが、本来、正しいのだろうが、あまりに善や正義が廃れてしまった。

やや昔のことだが、英会話学校のテレビCMで、こんなものがあった。
怪我をして倒れている西洋人の男性が、通りかかった若い女性に英語で助けを求めるが、その女性は彼を無表情に見た後、「英会話学校に行こう」と言って立ち去る。
私は衝撃を受けた。
もちろん、冗談のつもりだろうが、これがやって良い冗談だろうか?
そして、このようなテレビCMは他にも沢山ある。
私はコンピューターゲームをやらないが、聞くところによれば、死んだキャラクターが持っている装備を持って行くことが出来る場合が多いらしく、ある漫画家が「罪の意識は感じるが、必ず持って行く」と自虐的に(つまり、道徳的には問題があると自覚しつつ)、漫画で表現していたが、これも、慣れるのは恐いことと思う。
また、ゲームの中で、信じ難いような道徳に反する行為を選択出来る場合があると思うが、それが、年齢制限のない普通のゲームでもありふれているのではないかと思う。
アダルトゲームやアダルト漫画が、必ずしも悪いとは言えないかもしれないが、ナチス強制収容所の残虐な行為と本質で変わらないようなことを当たり前に行えるようなものもあると思う。
そして、規制にさえかからなければ、子供でも見ることが出来る映像や画像の中に、常軌を逸したものや、非道なことすら、ただ面白おかしく表現されていることがいくらでもあり、親がそれを非難しないので、子供が平気で受け取ることが多くなってきた。
それで今や、善悪の区別がつけられない人間が多く、ひょっとしたら、それが大勢かもしれない。
学校では、試験で良い点を取ることが善、点数が悪いことが悪と評価され、道徳的な善悪を軽視するし、そもそも、教師が道徳的な悪を平然と為すのを、私が学校時代にもよく見た。

だが、日本が世界の中では異例なほど安全で、極端な非道がまだ公然と行われないのは、今のところ、善や正義が、それなりに存在するからである。
だが、そのバランスが、今や危なくなっている。
政府、行政機関、教育機関、大企業、マスコミといった豊かなところが急速にそうなってきていて、日本は庶民の中に善が息づく国であったのに、それも失われつつあるように思える。

だが、悪は正義に勝てないし、いかに悪が栄えているように見えても、悪霊に利用され弄ばれているに過ぎないので、悪の誘惑に負けてしまった人間の悲惨さは言葉に出来ないほどだ。
巨悪になれば、頭で考えれば分かる方法で良い思いが出来るが、人間の本性は善なのであるから、心が安らぐことはない。
私は、引き寄せの法則の話も好んでするし、奇跡を起こすことだって出来るが、それは、あくまで正義の支配下にある場合で、言うなれば、引き寄せの法則は善意がなければ機能しない。
悪意があっても、引き寄せに成功するように見えることもあるし、私にもあったが、それはやはり、悪霊の助けを借りていたのかもしれず、大切なものを失ったかもしれない。
自分が善を選べば、そうでない者は去って行く。
また、善でない場所にはいられなくなる。
だが、パスカルが言ったように、「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」のだろう。
プリキュアシリーズの初代作品『ふたりはプリキュア』で、悪の女ポイズニーが、プリキュアの二人に言ったことが忘れられない。
「力のない正義は悪にも劣るのよ」
こんなことを言うポイズニーに、不思議と、ポイズニーの苦しさと隠された善意も感じたのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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