ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

謙虚でなくても大丈夫

私は、社会人になって最初の仕事がセールスマンだったこともあり、世界的セールスマンで事業家であった夏目志郎氏の本をよく読んだが、それは、セールスだけでなく、その後のあらゆる仕事に役に立ったと思う。
私は、夏目氏を崇拝するとかいうのではないが、彼の考え方にはロマンを感じて好きだった。
彼の著書は全て廃版で、古書は大抵高価という理由で、あまりお勧め出来ず、残念である。
その夏目さんが、セールス業界で伸びる人とそうでない人について、印象深いことを書かれていたが、それは、プログラマーやシステムエンジニアでも、そして、おそらく、あらゆる職業、さらには、スピリチュアルなことに関してすらあてはまると思う。

ごく簡単に言えば、己惚れの強い者は駄目で、謙虚な者が良いということになるのだが、これは難しい問題である。
例えば、夏目氏が書かれていたことで、こんな話があった。
新しく入社したセールスマンで、既に別の会社でいくらかセールスの経験がある者は、新しい会社でのセールスの教育や、先輩から指導を受けると、「もっと良い方法がありますよ」と言う者がよくいて、そんな者は、あまり伸びないのである。
夏目氏ほどの実力者であってすら、会社を変わったら、新しい会社のやり方に完全に従うと言う。
実力者になる者というのは、そういう者なのである。

私も、会社でプログラマーの後輩を持った時、その後輩が、学校を卒業したばかりの新入社員でも、学生の頃、趣味や大学の授業等でかなりプログラミングをやっていたり、あるいは、他社でプログラミングの経験を積んでいる場合には、いかにも自信満々で、私の指導を真面目に受け入れない者が多かった。
まあ、確かに、プログラミングが出来る者には自信家の傾向があるのは確かだし、その自信満々な態度通りに実力を発揮してくれれば私も楽だったのだが、実際は、そういった者で、使いものになった者は1人もいなかった。
中には、プログラミングが好きで、かなりやってたと思わせる者もいたが、そんな者は、無駄にマニアックなことばかりして、それを仕事でやられては困るので、指導しようとしても、「なんで駄目なんですか?」という態度をされると、こっちも面倒になり、相手にしなくなった。
あるいは、一見、謙虚なのだが、肝心なところで、自分のやり方を押し通したがる者もいて、こういった者もやはり使いものにならなかった。
ところが、優良なIT企業の若いプログラマーを指導した時には、謙虚な者がたまにいたが、本当に優秀な者ほど身の程を知っているのかもしれない。

このブログでも、読者の方がコメントを書いて下さるのは有難いが、やはり、「私のやり方の方がいいですよ」とか「こうすれば上手くいきます」といったことを書く方がいるが、そんな人は、自分はあまり良い思いをしていないと思う。
これは、セミナーで自己開発の指導をした時も同じなのである。
少し有名な先生の弟子がセミナーに参加した時、その者が、セミナー中、講師に敬意を払って真面目に指導を受けているなら、その者は有望である。
しかし、セミナーの間中、憮然とした態度で、尊大さを見せてしまっている者というのは、もう下り坂なのであると思う。

とはいえ、考えてみれば、謙虚な人間は滅多におらず、幸いにしてそんな性質を持っていることは幸運なことなのだろう。
人間の自我とは己惚れを持つことを避けられない。
もし、自分が傲慢なことに悩むくらいなら、それで合格としなければならない。
だが、心配は無用だ。
いかに傲慢で己惚れていても、真言を数多く唱えさえすれば、能力も運も獲得出来、本当の自信を得た時に、上には上がいると知り、謙虚になるのである。
むしろ、聖人にでもなりたいという身の程を知らない下心で謙虚なフリをしている者よりは、「俺は傲慢だ」という自覚がある方が良い。
尚、己惚れ屋は『歎異抄』を読むと良いと思う。
つまり、全ての者に『歎異抄』をお勧めするのである。








『歎異抄』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むと良い理由

人間の能力は、固定観念を壊せば壊すほど大きくなる。
ある意味、純真無垢な子供のようであるほど、能力が高いのである。
子供は、知識と経験がなく、いわゆる「やり方」というものを知らないので出来ないことが多いが、ご存じのように、物覚えが速く、場合によっては、あっという間に大人と互角以上になる。
(だが、子供が高い学習能力を発揮するのは、あくまで興味がある場合で、学習を強要すると学習能力自体に障害をきたし、学べない子になる)

固定観念を壊すには、馴染んだものから離れる必要がある。
しかし、普通の大人は、馴染んだことばかり見たがり、聞きたがり、やりたがるので、一般に、歳を取るほど馬鹿になるのである。
だから、新しいことを始めないといけない。
固定観念を壊すために、いわゆる「ビックリ体験」をすることは良いことだが、金持ちの中には、金を出して、受け身のビックリ体験ばかりしたがる者も多いが、そんなものでは、単に面白いだけで、向上することはない。
新しい体験で自分を良い方向に変えるには、「自分が否定される」ことが必要だからだ。
だから、純粋に向上心のある一流・・・例えば、大経営者、トップのスポーツ選手や音楽家や画家などの芸術家は、自分を若い人に否定してもらいたいと本当に思っているが、やがて、口では「私を否定してくれる者を歓迎する」と格好の良いことを言いながら、今の自分を称賛してくれる崇拝者を求める。
つまり、崇められてニコニコするようになったら、もうすっかり下り坂なのである。

本を読む時も、心地良く感じるもの・・・つまり、自分の思想性に合ったものを読んでも仕方がない。
そんな本は、沢山読めば読むほど、自分の固定観念を強化するだけで、本人は、「私は沢山読んでいる。それで賢くなっている」とでも思っているのだろうが、単なる物知りの馬鹿になっているのである。
世間的常識に染まることを、悪い意味で「大人になった」と言う。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、涼宮ハルヒは美少女なので、中学生の時から、沢山の男子が彼女に交際を求めたが、ハルヒは、「ただの人間には興味ないの」と片っ端から振っていく。
つまり、普通の人間は、中学生にもなれば、世間的常識・・・つまり、固定観念が多くなってしまっていて、ハルヒに嫌われるのである。
キョン(高1男子)もハルヒに「普通になること」を求めたが、ハルヒはそのことについてはキョンを受け入れず、ハルヒはキョンの扱いに困って、精神を乱してしまうのである。
私は、そこそこ大きな会社の新しく社長になる人に『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むよう勧めた。面白いことに、その会社の若い女子社員の中にも、彼にこれを勧めた人がいたらしい。しかし、結局、彼は、「俺には無理」と読まないことに決めた。その会社は、彼が社長になってからも、どんどんつまらない会社になり、業績は低下していった。彼は早々に社長をやめたが、そんな者ばかり社長にするその会社は、そろそろ終わりかもしれない。
そんな訳で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を是非読みなさい。

固定観念を壊してくれる本には、中国の『荘子』がある。
大人の固定観念に馴染まない本なので、当然、『論語』に比べれば人気がなく、『荘子』を読んでいる大人は少ない。
固定観念の多い大人から見れば、『荘子』は、子供向けのおとぎ話のように感じるのである。
そして、『荘子』は、世間的常識に凝り固まった人間を笑うが、これを読んで一緒に笑えるのは、その世間的常識という固定観念を壊せた者だけである。
一方、最初から固定観念を持たない者にとっては、ちょっと面白いおとぎ話程度に感じるかもしれない。
そんな訳で、面白く感じるまで『荘子』を読みなさい。

おそらく・・・と言うより、確実に私も固定観念を強く持っていたのだが、そんな私に衝撃を与えてくれたのは『歎異抄』だった。
『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子だった唯円が、親鸞聖人の教えを思い出して綴ったものである。
短い本だが、どんどん私の「常識」を裏切り、そして、幸い、壊してくれたと思う。
ところが、『歎異抄』の解説本となると、これが、下らないものが多い。
『私の歎異抄』『歎異抄を読む』みたいなタイトルの本の大半がそうで、そんな本は、著者が一度は『歎異抄』で固定観念を壊された経験があるのだろうが、彼らは、今度は、『歎異抄』で作った固定観念をダラダラ書いているのである。
つまり、『荘子』も『歎異抄』も、永遠の聖典であってはくれない。
これらの本に、内容自体の解説は必要ない。
だから、解説本は読まない方が良い。そんな本を読んで、気持ち悪いと思ったら、まだ救いがある。
『荘子』や『歎異抄』で腐ってしまった人は、科学や数学の本を読んだり、コンピューターの勉強でもすると良いかもしれない。あくまで興味があればだが。

宮沢賢治が、『法華経』を読んで感動したのは、彼がまだ厚い固定観念を持っておらず、『法華経』で固定観念を壊せたからだろう。
そこらは、彼がおぼっちゃんで、あまり苦労をしていないことの、良い面だったかもしれない。
しかし、彼は、別の面の固定観念が強く、浄土仏教(法然や親鸞の教え)の方は、受付けなかった。
だから、彼の能力はどこか歪(いびつ)で、精神的、肉体的にも健康でなかった。
ここらは、秀才であったことの悪い面だったのだと思う。

『法華経』や『聖書』は、固定観念の強い大人から見れば、特に、大人になってから初めて読もうとしたら、とても読めたものではない。
子供騙しの馬鹿げたおとぎ話としか感じないだろう。
また、子供の時から、これらに馴染んでいたとしても、固定観念が増えてくると、読むのが苦痛になる。
よって、『法華経』や『聖書』を大人になってからも熱心に読める人には、天才が多い。
『聖書』全体は長くて大変だから、『福音書』を読んでみると良いと思う。普通の大人には、おそろしくつまらないだろうが。








真言はフリースタイルである

最近は、私は真言(マントラ)大絶賛であるが、少し前から、真言を割と久し振りに唱えてみたら、さすがに効果が高いのを実感すると、昔、社会人になり立てで苦労していた頃、これで大いに救われたことが思い出され、改めて良いと感じる。
私は長期間、ひきこもりのニートで、その軟弱な私が、いきなり、フルコミッション(完全歩合制)セールスという、完全にブラックな仕事に就いたが、真言の魔力のおかげで良い思い出(笑)が作れたのである。まさに青春であった(笑)。

ところでだが・・・
お坊様などの専門家で、真言を唱えることを教える人の中には、
「真言を唱えるとしても、信仰がなくては駄目じゃ」
「普段の行動や、清浄な生活をしていなければ効果はないぞよ」
と言う人が多い。
また、真言を唱えるには、正座、結跏趺坐、仏様の像や絵の前で、背筋を伸ばして合掌して、声に出して・・・などと注文を付ける人が多い。
もちろん、心構えとしては、それが正しく、文句を言う気はない。
しかし・・・それでは、普通の人は、続かないし、そもそも、やらない。
お坊様方だって、そんなに清浄なのかい・・・って、別に疑ってはおりませんが、信じてもいやしません(木枯らし紋次郎調で)。
だって、人間、そんなに清浄なもんじゃないでしょう?
そして、親鸞聖人の教えを唯円が書いたといわれる『歎異抄』には、こう書かれている。
「善いことをしなくても良い」
「むしろ、善いことをしてはならない」
「悪いことをしても構わない」
とにかく、念仏さえ唱えれば、後はどうでも良いというのが親鸞の教えだったことは間違いない。
また、親鸞の師の法然も、『選択本願念仏集』で、何をしていても、寝ていても、とにかく念仏を唱えよと書いているのである。

良い心でいよう、良い行いをしようなどと、余計なことを考える暇があれば、念仏を唱えれば良いのである。
そして、真言密教の偉大な僧は、念仏だって真言だと言っていたのである。

私は、どの真言(呪文や祝詞も含め)が上だとかいうのは絶対にないと思っている。
ある人は「アジマリカン」が一番だと言うし、別の人は「トホカミエミタメ」が圧倒的に一番だと言う。
「アジマリカン」が一番だと言う人は、わざわざ、「トホカミエミタメ」の欠点を解説する。
「トホカミエミタメ」を絶賛する人が、著書で、「南無阿弥陀仏」が劣る理由を述べている。
そういうのを見ていたら、「アジマリカン」や「トホカミエミタメ」って実は駄目・・・とは言わないが、大したものではないのだなと思うしかないのである。
実際は、そんなことはなく、「アジマリカン」も「トホカミエミタメ」も「全く等しく」素晴らしいもので、好きなら、安心して唱えると良いと思う。
もちろん、「南無阿弥陀仏」の価値に疑いがあろうはずはない。
真言を勧める方々は、こういったことに、もっとご注意いただきたい。
まあ、自分が勧めるものが一番でないと商売にならないと言うのなら、そう明言していただければ、そんなに悪くは思わないどころか、むしろ、潔くてファンなるかもしれない。

大切なことは、野球の素振りと同じで、とにかく「数」である。
野球の素振りをダラダラ数多くやっても駄目という考えもあろうが、実際は、毎日、長時間やるなら、真剣なはずである。
真言も同じである。
アファーメーションで「私は豊かだ」と唱え続けられる人は、心が強い人であり、そんな人は、アファーメーションをすれば良い。
だが、私のように根気のない者は、「この真言を唱えれば豊かになるに決まっている」という想いを心の片隅にでも置きながら、真言を唱えた方が、抵抗が生まれず、楽に唱えられて良いと思える。








立派な少年はどう育てられたのか

子供に幸せな人生を送らせたいなら、他人と仲良くやれるように育てないといけない。
それと同時に、立派な人間になって欲しかったら、正義を愛するように育てないといけない。
この2つの両立が難しい。
というのは、他人と仲良くしようとすると、多少の不正には目をつぶらないといけないことが多い。
また、正義を愛すると、正義に背く者を軽蔑したり、攻撃するようになってしまい勝ちだ。
つまり、この両方を両立させようと思ったら、正義を愛しつつ、他人に対しては大目に見ないといけないが、意識して大目に見ようとすると、どうしても上から目線になり、また、正義を守らない志の低い者たちに対して憤慨するのを我慢しないといけないので、ストレスがたまる。
だから、他人に対しては、「許容する」というのではなく、「受容する」ことが必要で、それには、広い心が必要になる。
それは、特に子供には難しいことだ。
ところが、正義の味方でありつつ、広い心を持った子供というのは確実に居る。
いったい、どうやって、そんな子供に育てたのかと思うと、畏敬の念すら感じる。
ところで、言うまでもなく、これは子供だけの問題ではなく、親や、あるいは、親でない大人も、自分がそうでないと、自分が楽しい人生を送ることが出来ない。
つまり、正義を愛しつつ、広い受容性のある心を持つことだ。
ジョージ・アダムスキーの本によれば、宇宙人は受容性の高い心を持つ人間を求めているらしいが、それはつまり、そんな人間は多くはなく、なるのは難しいということなのだと思う。

引き寄せというのも、所詮、心が狭いと上手くいかないことが多い。
あるいは、狭量であると、一部のことでは引き寄せが出来ても、大きな豊かさとか、友愛といった、一番欲しいものが得られないものだ。

ところで、私が小学4年生の時、クラスに、正義を愛しつつ、誰とでも仲良く出来る素晴らしい少年がいたのだが、ある時、彼の家が、ある有名な仏教系の宗教法人の信者であるという噂を聞いた。
しかし、本人は、それについては話したがらない。なかなか複雑なようだが、宗教の教えは、良い作用を果たしていることは間違いないように思えた。
新渡戸稲造は、西洋の女性に、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのですか?」と、半ば詰問されたらしいが、確かに、宗教には良い面もあるのだと思う。
けれども、宮沢賢治は、仏教というより法華経の大変な信者であったが、浄土系仏教の教えを強く非難するという狭量な面を持ち、彼自身、優れたところが多い人間であったのは確かだが、決して幸福だったとは言えず、個人の人生としては、あまり実り多いものではなく、37歳で亡くなっている。

私はいまだ、自分が、あの小学生の時のクラスメイトの素晴らしい少年のようであればと思う。
宗教というなら、最も受容性の高い宗教は、浄土系仏教で、概ねで、法然、親鸞の教えであり、分かり易く限定すれば、『歎異抄』がそれを簡明に言い表していると思える。
早い話が、『歎異抄』に語られる仏様である阿弥陀如来ほど甘々の仏様や神様は、そうはいない・・・というか、類を見ない。
イエスは、優しい点はあるが、心の歪んだ人間には厳しいし、イスラム教の神様は超厳しい。
法華経の主役である、お釈迦様や、観世音菩薩のような準主役達は、結構優しいが、なぜか、宮沢賢治のように、どこか狭量になってしまい勝ちと思う。
いや、実を言えば、『歎異抄』の愛読者にも、案外に心の狭い者は多いのである。
一方で、キリスト教やイスラム教の信者に、受容性の高い人はいくらでもいる。
だが、広い心とは強い心である。
辛い現実を堪え、「しゃんとする」しかない。
コリン・ウィルソンの教えで見るべきところは、所詮、そこであったと思う。
そうすれば、幸運も引き寄せられると思う。








意外な最強の引き寄せ書とは

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、罰する神で、悪いことをしたら罰が与えられる。
ただ、イエスは、「人を許せば、神もあなたを許して下さる」と教えている。

映画『パピヨン』で、パピヨンが裏切ったら、自分が窮地に立たされる可能性があったドガが、「パピヨンが裏切ったら彼を罰したいか?」と尋ねられ時、穏やかに笑い、「罰するのは神の仕事だ(私の仕事ではない)」と感動的なことを言う。
ドガは、パピヨンへの神の罰を望んでいる訳でもない。
つまり、たとえパピヨンが裏切っても(結果、自分が死ぬことになっても)、ドガは許すつもりだった。
そして、パピヨンは、ドガを裏切らなければ死ぬほどの苦しみがある中でも、決して裏切らなかった。
ドガは大詐欺師で、多くの人に苦しみを与えたが、神に許されたかもしれない。

引き寄せがうまく出来ない原因に、罪悪感・・・つまり、罪の意識がある。
罪悪感にもいろいろあるが、特に多いのが、「自分には罪があるので、願うものを受け取るに値しない」といったものだ。
そう思わせるものは、心の中にある、過去に自分が行った悪いことに対する後悔だ。
もちろん、罪悪感は悪いものではなく、悪いことをしたなら、後ろめたい気持ちを持つのは必要なことである。
しかし、自分を許せないと、そのように、自分には良いものを受け取る値打ちがないように思えてしまい、そうであれば、願いは叶わない。

キリスト教をベースにした引き寄せでは、人の罪を許すことの重要性を訴えているが、それは、引き寄せを行う上で必要なことなのだろう。
しかし、実際にはそれは難しい。
凡人には、恨みがある相手、憎い相手をなかなか許せない。
だから、自分も許せない。
ところが、浄土仏教の場合は、非常に簡単なのである。
法然や親鸞の教えなのであるが、いかなる罪を背負っていても、念仏を唱えれば、無条件でたちどころに許されるのだ。
いや、罪が消えてしまう。
ただ、いきなりそう言われても、良心を持った人間は、なかなか納得出来ない。
だが、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄(たんにしょう)』を読むと、念仏で罪が許されることを受け入れられるのである。
それを考えると、親鸞は、『現世利益和讃』で、念仏を唱えれば、あらゆる利益を得られる・・・つまり、引き寄せも自在であると述べていることが、確かであると思われるのである。
ひょっとしたら、『歎異抄』こそ、最強の引き寄せ書かもしれない・・・と言ったら、浄土系仏教信者に怒られるかもしれないが(笑)。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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