ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『アリとキリギリス』を超える法則

イソップの『アリとキリギリス』のお話で、愚か者扱いされるキリギリスだが、楽しく遊ぶ積極性があり、また、アリに対し、「君達も、楽しくやろうよ」と誘いかける外交性もある。
そもそも、キリギリスのように楽しく過ごすためには、衣食住が足りていなくてはならないはずだから、古代の話であることを考えると、やはりキリギリスは優秀な面もあるのだろう。

ところが、現代で言えば、アリは、真面目にお勤めをするサラリーマンで、キリギリスは実家住まいで、親に養われるニートのようなものだ。
そう考えると、『アリとキリギリス』のお話は、まさに今の日本のお話のようであると思う。
今の日本では、アリは、ちゃんと学校を卒業して就職し、真面目に働き続け、コツコツ貯金するような者だ。
キリギリスは、今の快楽を追いかけるだけで、たとえ働いていても、スキルを磨くこともなく、収入は増えず、蓄えも作らないし作れない。
『アリとキリギリス』のお話の終盤とは、定年頃の60~65歳のことで、アリは2000万円の貯金と月15万円の年金を確保し、一応老後の目途が立っているが、キリギリスは貯金がゼロか500万円以下で、年金は月10万円あるかどうかで、老後の不安がのしかかる。
そして、今述べたアリは、30年前の日本では負け組だが、今の日本では、これで勝ち組なのである。
今の日本では、定年時に、貯金ゼロどころか多額の借金を背負っている場合も多く、真面目に働いたのに年金が月に10万円以下という場合が珍しくはない。

若いうちは老後のことを考えないし、それはそれである意味健全なことであるが、そのまま老後になってしまうケースが多くなると思われる。
若いうちは、自分の将来はバラ色だと考える場合が多く、これもまた、一概に悪いことではない。
自分は成功すると思っている人も多いだろう。
だが、予期しないような成功が訪れるのは、全くの運であることは知っておくべきだろう。
それ以外の普通の成功・・・会社で出世して、それなりに豊かになるというようなものは、若いうちから計画的にやらないと得られない。
そして、今の資本主義社会では、計画的な成功が得られるのは、頭の良い者だけで、上位10パーセントにあたるIQ120以上の者だけだろう。

そこで引き寄せである。
『ザ・シークレット』や『エイブラハムの法則』や『マーフィーの成功法則』などで引き寄せを行う者は多くはなく、おそらく全体の2割もいないが、その中で、引き寄せで一応の成功が出来るのは多くて1割だ。
可哀そうなのは、真面目に引き寄せに50年取り組んで、全く成果がなかったというものだが、それは普通である。

ただ、上記のパターンに当てはまらない者が僅かにいるのである。
その極端な例が、アメリカ大統領だったジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーン、そして、偉大なSF作家H.G.ウェルズである。
実は、彼らは惨めな一生を終えるはずであった。実際、40歳くらいまでは、どうしようもないロクデナシだったのだ。だが、なぜか急上昇した。

自分が、どんなアリ、どんなキリギリスであろうと、なるべくしてそうなったと認識すれば、何かが起こるのである。
ワシントンやリンカーンやウェルズが、駄目な中年になったのは宿命であった。彼らは、それを認めたのである。
そして、宿命に逆らわないことにしたのだ。
親鸞の『歎異抄』には、そういったことも分かるようなことが書かれているのだと思う。個人的には、これ以上に理解し易い本はないと思う。
司馬遼太郎や西田幾太郎や三木清といった日本の最高の英知の持ち主達がナンバー1の本と言っただけのことはあると思う。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(3)ポリー氏の人生(H.G.ウェルズ)
(4)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(5)因果応報の法則(丹波哲郎)
(6)「原因」と「結果」の法則(ジェームズ・アレン)

ピンクの薔薇
AIアート1668
「ピンクの薔薇」
Kay

『歎異抄』のすすめ

念仏と言えば、葬式仏教臭いイメージが強く、あまり頭の良い人には縁がないと思う人が多いかもしれない。
念仏の教えが書かれた2大書物と言えば、法然の『選択本願念仏集』と、唯円が親鸞の教えを綴った『歎異抄』と言って良いと思う。
このうち、法然の『選択本願念仏集』は、やや長く、内容も読み難いが、『歎異抄』は短く、現代語訳は平易である。

『歎異抄』については、司馬遼太郎が、「無人島に1冊持っていくとしたら歎異抄」と言ったことが知られていると思う。
また、西田哲学という言葉が広く知られ、日本3大哲学者の1人と言われる哲学者の西田幾太郎(1870~1945)は、

哲学者の西田幾多郎は空襲の火災を前に、
ほかの書物が燃え尽くしても「歎異抄」だけ残ればいい
と言い切った。

と日経新聞の記事に書かれていたようだ(日本仏教学院サイトより)。
さらに、同じく日本3大哲学者と言われる三木清は、「出征(戦争に行くこと)の際、1冊だけ本を持っていくとしたらどの本」とのアンケートに『歎異抄』と解答したらしい。
そして、やはり日本3大哲学者の1人である田辺元も、『歎異抄』を絶賛し褒め称えている。

『歎異抄』ではないが、世界トップクラスの数学者であった岡潔は、山崎弁栄 (やまざきべんねい)という浄土宗の僧の影響と思うが、毎日念仏を唱えていたことが知られている。

私は、ひろさちやさんの『歎異抄の読み方』という古い本で『歎異抄』に出会った。
本分の内容はあまり憶えていないが、この本の巻末に『歎異抄』の現代語訳を付けてくれていたので、それを読んで衝撃を受けた・・・というほどではなかったが、非常に気に入ったのを憶えている。それほどの衝撃を受けなかったのは、私の理解力が足りなかったからだろう。
だが、『歎異抄』は、このように、本の巻末にちょろっと付けるほどの短いもので、美文と言われるが、現代語訳も難しくない平易な文章なのだと思う。

個人的には、『歎異抄』の他には、念仏を唱えるモチベーションになると思われるのは、
『選択本願念仏集』(法然)
『現世利益和讃』(親鸞)全15歌
『死者の書』(折口信夫)
で、また、中将姫の物語を読むと良いと思う(『死者の書』も実質は中将姫の物語である)。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)三帖和讃(現代語版) ※親鸞の『現世利益和讃』収録
(4)死者の書(折口信夫)
(5)仏教説話1: 中将姫 (温古堂文庫)

アウラ(地球のオーラ)
AIアート1665
「アウラ(地球のオーラ)」
Kay

迫る終末と始まり

個人的な不平不満、あるいは、ただの不況や政策の不備との区別は難しいかもしれないが、それでも、
「今の世界は相当おかしい」「世界は闇に飲まれつつある」
と、直観、あるいは、霊感で感じている人が増えているだろう。
人類全体で、どれほどの人々が、そう感じているのかは分からないが、日本においては、まだ、気付いていない人の方がずっと多いように思う。
だが、アメリカでは、昨年の大統領選挙によって、自由の国であるはずのアメリカが、既に共産主義化していることに多くの人が気付くことになった。
そして、新型コロナウイルスを巡る様々なことよって、世界中で、多くの人々が、「もう世界はハルマゲドンのような状態にあるのではないのか」と強い危機感を感じるようになった。
ハルマゲドンとは、新約聖書の『ヨハネ黙示録』として書かれた世界終末戦争の予言であるが、このハルマゲドンが近付くと、あちらこちらに、偽救世主が登場することも予言されている。
怪しげな者達が、自分が救世主であるかのように話し、本を出し、動画配信しているので、詐欺師に慣れていない者は気を付けなければならない。
本来、そんな偽の救世主は、「こいつは偽物だ」とすぐに分かるはずであるが、偽預言者は、一般民衆にかけられた洗脳や、権力に教育された思考パターンを利用することが巧みなので、普通の人には、なかなか見破れず、大衆の支持を得ることすら珍しくはない。その大成功者がヒトラーなのであるが。
だから、やたら受けが良い人気者・・・たとえば、インフルエンサーなどは頭から疑った方が良いのである。

だが、常に真言を唱えているなら、偽の救世主を見ても、偽物だと、ちゃんと感じるのである。
ところで、偽の救世主は敵のボスではなく、知識があったり、話がうまいなどの理由で利用され操られているだけの下っ端である。
ところが、その下っ端であるはずの偽救世主自身が、自分は選ばれた救世主であると強く妄想していることが多く、その本人の思い込みが伝わって来るし、元々、話がうまいので、本物っぽく感じる場合もあるので気をつけて欲しい。
偽の救世主は、自慢が好きでナルシストである。
イエスは、自分が、知恵においては、ソロモンよりはるかに優るとは言ったが、自分が偉いとか、自分が素晴らしいと言ったことはなかった。
イエスは、自分は、あくまで人々に仕える者であり、自分に出来ることは誰にでも出来ると言い、そして、全ての良い業は神の力によるものであると言ったのである。
そのようなことが書かれた福音書を読んでおくと、偽預言者に騙されないだろう。
そして、日本には『歎異抄』という素晴らしいものがある。これは、短くて素朴な、まるで備忘録のような書であるが、これを読むと、本物と偽物の違いが分かるようになる。しかも、これには、念仏を題材とした真言の究極の極意が書かれている。
あくまで象徴的な意味であるが、阿弥陀、観音、それに、弥勒を擁する光の側の力は圧倒的である。ただ、各自がどちらを選ぶかだけの問題なのである。
今は、闇に騙されてしまっているので、闇が良く思え、闇を選ぶ者が多いが、そんな者達は、日々、不安に怯え、ストレスに悩まされている。
光の存在を感じてはいても、光に確信が持てず、闇の誘惑に負けそうな者も、闇の世界に落ち込んでしまう危険が大きい。
しかし、真言をたゆまず唱えていれば、闇と手を切ることが出来るし、そのために、光は、真言を唱える者をこの上なく気遣い保護してくれるだろう。
もう、それほど長くは続かない。
いつ、いかなる時、場所でも、心の中で真言を唱えていれば、何も心配はないだろう。








一生浮かばれない運命なら

私が以前勤めていた職場に、私が「まるで駄目男」と呼んでいた、とにかく、駄目な30歳過ぎの男がいた。
こう言ったら、
「いるよね!駄目なやつ!」
みたいなことを言う人もいると思うが、そんなレベルの駄目ではない。非現実的に駄目なのだ。
ところが、やはり、こう言っても、
「いますよね。本当に徹底的に駄目なやつ」
と言う人がいると思うが、普通に想像出来る駄目とは全然違うのだ。
いや、実を言うと、私にも想像出来ない。
最も当を得た言い方をするなら、「まるで駄目男は人間ではない」とでも言うしかない。
こう言うと、
「えー!それはオーバーじゃないですか?」
と言いたい人もいるかもしれないが、少しもオーバーではないのだ。
人間が持っているはずの重要なものを持っていない。あるいは、それが壊れてしまっているのだ。
あまり言うと、差別主義者だと思われかねないが、まるで駄目男は本物の異常者で、ある意味、超珍品である。
ところが、一見すると、まともなのだ。
頭が悪いわけではない。むしろ、まるで駄目男は、頭は良い方だったと思う。
ところが、まるで駄目男は、理屈は理解出来るのに、彼の言動は全く理屈に合っていない。

いや、考えていたら、私がおかしくなってきた。
妖怪人間なら、まだ、妖怪が出たら退治出来るが(まあ、出ないだろうが)、まるで駄目男は何の役にも立たない。
どうやれば、ここまで異常なまでの駄目な人間が出来るのか・・・興味と言うより、恐怖を感じる。

ところが・・・
そんなまるで駄目男のことを、そこまで気にし、さらに、見ていてイライラするということは、何のことはない。
私がまるで駄目男なのである。
そして、最近気付いたが、あの時の職場にいた連中は、皆、まるで駄目男であった。
類は友を呼ぶ・・・もちろん、誰も、まるで駄目男を友とは思っていないだろうし、何より、自分がまるで駄目男と同じと思っていないだろうが、結局、皆、「おなじ穴のムジナ」だった。
ただ、まるで駄目男以外は、何か出来るように見えるだけである。
本当は、何も・・・とは言わないが、大したことは出来ない連中だった。

そろそろ本題に入らないとヤバい(笑)。
私は、まるで駄目男を、なんとかしてやろうと思った。
さっきも言ったが、彼は、頭は良いのだから、少々足りない部分があっても、特技があればカバー出来ると思ったのだ。
しかし、特技は決して身に付かないことが分かった。
まるで駄目男は、職業訓練校みたいなところで、ワードやエクセルは習得し、そういったものはちゃんと使えた。
けれども、出来るのは、ソフトを立ち上げ、「これを入力しろ」と言われて渡された紙の内容を、そのまま打ち込むことまでだった。
まあ、子供が書くような日記とか、簡単な調べものをして書くくらいは出来るだろうが、仕事というレベルのことは一切出来ない。

最終的に私は悟った。
これは絶対に本当なのだが、まるで駄目男は、一生、まるで駄目男で、生涯、何も出来ないし、どうやろうが、出来るようにならない。
いかに理不尽で、いかに不思議であろうが、それが事実だ。

さて、そんな人間を、あなたは救えるだろうか?
普通には、絶対に無理だ。
だが、今なら、まるで駄目男を救うことが出来ると分かる。
真言を唱えれば良いのである。
逆に言えば、真言を唱えることでしか救われない。
なぜ、そんなことが言えるのかというと、今では私は理屈で説明出来るが、書けば長いし、そんな理屈に関しては何度も書いたので、ここでは書かない。
そんな理屈より、真言を唱えると救われると言える最大の理由が、私がそうであったからだ。
私とまるで駄目男の違いは、私は真言を唱えるまるで駄目男で、彼は、真言を唱えないまるで駄目男だということだけだ。

私と彼以外に、世の中に、どれだけまるで駄目男がいるのかは分からない。
結構いるような気もするし、ひょっとしたら、全員がそうかもしれない。
そうでないように見える者というのは、単に、そうでないように見えるだけかもしれない。
しかし、それはどうでも良い。
重要なのは、まるで駄目男を救う唯一の方法が真言であるということだ。

まるで駄目男は、普通の道では一生浮かばれない。
これは、普通の人間として生きていくなら、何も良いことはないということだ。
それなら、超能力者、仙人、天狗になるしかない。
これを「諦め」と言うのかというとおかしい気もするが、とにかく、人間としての自分に見切りを付けるしかない。いや、元々人間でなかったと思うべきかもしれない。
つまり、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗・・・といった言い方に抵抗があれば、異次元生命体とでも言えば良いが、とにかく、普通の人間ではない何かになるしかない。
人間を諦めろ・・・この言い方が悪いなら、とにかく、当たり前の人間を諦めないといけない。

だが、あのまるで駄目男は、勧めても、おそらく真言を唱えまい。
そういったところは、妙に常識があるのだ。
「真言を唱えれば超人になる?そんなアホな!」
という、「まともさ」は持っているのである。
だが、それが彼の悲劇であろう。
「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えよと言っても、それを馬鹿にしてくる「世間的賢明さ」はあるのだ。
だが、私は、常識のない蒙昧無知であったから救われた。
しかし、それで言えば、法然や親鸞は、常識のない蒙昧無知であった。
特に親鸞は、「念仏以外には一切何もしなくて良い(これは法然も同じ)」「善いことをしなくて良い、むしろ、善いことをしてはならない」「いくら悪いことをしても構わない」と教えたのである。
なぜ『歎異抄(親鸞の教えを弟子の唯円が思い出して綴った書)』を読むとほっとするのかと言うと、「これなら出来る」、いや、「これしか出来ない」と、心の底では分かっているのだろう。
とにかく、私に関して言えば、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗、あるいは、異次元生命体を目指すしか道はないように思う。








全てを得るキーワード

全てに通じる汎用的な極意というものがあるとすれば、それは「自主性」だ。

学校では、暗記というものをさせられる。
この暗記が良いか悪いかという議論は絶えない。
学生時代からずっと超秀才で、東大、東大大学院と進み、28歳で学術学博士になった東浩紀さんという評論家・思想家がいる。
彼が、日本の受験制度を批判する脳科学者の茂木健一郎さん(彼も東大、東大大学院卒)に、暗記は必要と言ったという話をWebで見たことがある。
そして、昨日だが、上級の税理士である母親が中3の娘に暗記の重要性を力説するツイートを見た。
一方、アインシュタインは「私は光速(が秒速何mか)など知らない。調べればすぐ分かることを覚えたりしない」と言った話がある。実際、彼は暗記が苦手で、大学受験に失敗している(制度を利用して無試験で入学した)。

暗記が良いか悪いか?
答は決まっている。
「自主的な暗記なら良い。強制的な暗記なら悪い」
である。
「学校で暗記させられて覚えました」と言う者は愚か者である。
自主的に、繰り返し読み、その結果覚えた暗記なら良いのである。
「知識だけの人は駄目」とか言うが、それは、強制的に覚えさせられた(暗記させられた)人は駄目ということである。
自主的に覚えた物知りが「知識だけの人」であるはずがない。

暗記に限らない。
ある政治犯が、逮捕されて刑務所に入れられ、3年の間、発言が許されなかった。
この政治犯は釈放された時、
「私は3年のマウナ(沈黙の行)を成し遂げた」
と言った。
しかし、インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「強制された沈黙はマウナ(沈黙の行)ではない」
と否定した。
マハルシ自身、17歳くらいの時に、3年ほどの沈黙の行を行っていた。
もちろん、誰にも指図されず自主的に。

メジャーリーグの4割打者テッド・ウィリアムズやイチローは、誰よりも多く素振りをしたが、彼らは、自主的に素振りをしたから超人的バッターになれたのである。
「素振りをしろ」と強制的に素振りをやらされた選手が良い選手になるはずがない。

松下幸之助は、経営セミナーで、今後はダム経営(社内に「社内留保」に該当する現金を保有すること)が必要であると言った時、受講者が、
「どうすれば社会留保が得られますか?」
と質問した。
それに対し、松下は、
「社内留保を持ちたいと願うこと」
と答え、皆が笑ったが、若き日の稲森和夫は笑わず、それを真面目に受け入れた。
社内留保が必要だと追い立てられて持つのではなく、経営者が自主的にそれを持とうと願うことが必要なのである。

『パーマン』という漫画・アニメでは、パーマンのマントをつけると、時速91kmで飛べる。
ある時、パーマンからマントを奪って、そのマントをつけた男が、パーマンに「どうやったら飛べるんだ?」と尋ねた時、パーマンが「飛びたいなあって思うんだ」と言ったことが、非常に印象的だった。
強制的に飛ばされるのではない。
自主的に飛ぼうと思わなければならない。
パーマンのマントは、宇宙テクノロジーであるらしいが、漫画ながら、実に納得出来るのである。

『歎異抄』の中に、親鸞が語った念仏の極意があった。
これは誤解されることがあるが、親鸞は、
「念仏を唱えなくても良い。唱えようと思えば良い」
と言った。
これもまた、「唱えさせられる」念仏は駄目で、「自主的に唱える」念仏が良く、むしろ、強制的に唱えさせられるより、唱えなくても唱えようと思う自主性が大事だと言っているのに違いない。

空海は「真言は不思議だ」と、その威力を語ったが、自主的に唱える真言が不思議なのである。
念仏も真言の1つだが、例えば子供に、強制的に真言を唱えさせても駄目なのである。
だが、自主的に真言を唱えれば唱えるほど力を得、無敵になっていくのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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