画家とイラストレーターの違いとは、簡単なことで、
・画家:自分が描きたいものを描きたいように描く
・イラストレーター:お客様が見たいものを描く
である。
たとえラファエロやミケランジェロ並の天才画家でも、読者が喜ぶライトノベルの挿絵を描けないなら、イラストレーターにはなれない。
また、画家とイラストレーターを、「評価する者は誰か」という観点から言えば、
・画家:評価するのは専門家
・イラストレーター:評価するのはお客様
だ。
いかに専門家が高く評価する絵を描く画家であっても、お客様が評価しなければお金は稼げない。お客様は評価しない作品を買わないからね。
で、専門家の感性は、一般人であるお客様の感性とは異なる場合が多いので、原則的に画家は儲からない。
儲かる画家がいたら、「世間に媚びを売る卑しい画家」と言われかねない。
画家は芸術家なのである。
こんなことを考えていたら、天才写真家と言われる、アラーキーこと荒木経惟(あらきよしのぶ)氏のことを思い出す。
彼は芸術家だろうか?
そうではないと思える理由がある。
昔、彼は、「写真家というものは時代にひれ伏す黒子に徹しないといけない」と言っていたのではないかと思う(雑誌で読んだだけだが)。
「時代にひれ伏す」とは、お客様である大衆に迎合するということに他ならない。
売れる写真を撮らないと食べていけない。
写真で食べていけないなら、それは写真家ではない。
私は、荒木さんは、実際に、時代にひれ伏し黒子に徹する写真家であり、お客様を大いに意識していると思う。
だが、他の商業写真家とは「ちょっと」異なる「受ける」ところを見つける天才なのだと思う。
つまり、荒木さんは、独創的な商業写真家なのであり、ビジネスマンとすら言えるが、芸術家だとは思わない。
本当のビジネスマンは、荒木さんを大いに参考にすべきだろう。
私は、荒木さんの『FAKE LOVE』という写真集を持っている。
川崎亜紀さんの写真集である。
「川崎亜紀って誰?」と思うかもしれないが、「浅香唯だ」と言えば、まだ分かる人は多いかもしれない。
1980年代に人気絶頂だったアイドルで、可愛いだけでなく相当な美少女だった。
それが、何かトラブルでもあったのか、芸能界から不意に消えたのだが、ファンがまだよく憶えている1994年の、25歳くらいの彼女の写真集だ。
かつての清純さは全くないが、相変わらず美人の彼女を「本物の悪女」の雰囲気を纏わせ、その中に、少し、かつての彼女を彷彿とさせる写真を入れる。
もう大変な、商業的才覚と思う。
そして、私に分かることではないが、おそらく、撮影技術はしっかりしているのだろうと思う。
運もあったのだろうが、成功して不思議のない写真家だと思う。
もちろん、荒木氏は芸術写真家として評価されているが、私は彼は、天才商業写真家なのだと思う。
そして、面白いのが、日本人なら誰でも大芸術家と認める岡本太郎だ。
私は、岡本太郎の真の名言は、
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」
といった文言なのだと思う。
「認められてたまるか」というのは、大衆もだが、特に、絵画の専門家を念頭に置いたのだということは、彼のことを少し知っている人なら分かると思う。
そして、「売れてたまるか」で、大衆すら無視する姿勢を見せた。
つまり、岡本太郎は、芸術家でも大衆画家でもないと自分で宣言している。
ところが、彼は、芸術家としても大衆画家としても高く評価されているのだ。
おかしな話であるが、それは、彼のエキセントリック(風変わり)な発言が受けただけかもしれない。
実際、岡本太郎が60歳手前の全盛期に作った代表作「太陽の塔」について、「本物の画家兼イラストレーター」である横尾忠則氏は、
「デザインとしては超一流だが、絶対に芸術作品ではない。岡本太郎はデザイナーになればいい」
と著書に書かれていたが、ちょと分かるような気がするのである。
とはいえ、 荒木経惟氏が、商業的という意味合いもあるが、なんらかの意味で芸術家であるように、岡本太郎もやはり芸術家なのだと思う。
まあ、何が芸術かというのは定義し難いが、「人類を無意味に変容させる」という意味の芸術家は稀有で、この2人は、そんな「超珍しい」芸術家・・・超芸術家なのだと思う。
・画家:自分が描きたいものを描きたいように描く
・イラストレーター:お客様が見たいものを描く
である。
たとえラファエロやミケランジェロ並の天才画家でも、読者が喜ぶライトノベルの挿絵を描けないなら、イラストレーターにはなれない。
また、画家とイラストレーターを、「評価する者は誰か」という観点から言えば、
・画家:評価するのは専門家
・イラストレーター:評価するのはお客様
だ。
いかに専門家が高く評価する絵を描く画家であっても、お客様が評価しなければお金は稼げない。お客様は評価しない作品を買わないからね。
で、専門家の感性は、一般人であるお客様の感性とは異なる場合が多いので、原則的に画家は儲からない。
儲かる画家がいたら、「世間に媚びを売る卑しい画家」と言われかねない。
画家は芸術家なのである。
こんなことを考えていたら、天才写真家と言われる、アラーキーこと荒木経惟(あらきよしのぶ)氏のことを思い出す。
彼は芸術家だろうか?
そうではないと思える理由がある。
昔、彼は、「写真家というものは時代にひれ伏す黒子に徹しないといけない」と言っていたのではないかと思う(雑誌で読んだだけだが)。
「時代にひれ伏す」とは、お客様である大衆に迎合するということに他ならない。
売れる写真を撮らないと食べていけない。
写真で食べていけないなら、それは写真家ではない。
私は、荒木さんは、実際に、時代にひれ伏し黒子に徹する写真家であり、お客様を大いに意識していると思う。
だが、他の商業写真家とは「ちょっと」異なる「受ける」ところを見つける天才なのだと思う。
つまり、荒木さんは、独創的な商業写真家なのであり、ビジネスマンとすら言えるが、芸術家だとは思わない。
本当のビジネスマンは、荒木さんを大いに参考にすべきだろう。
私は、荒木さんの『FAKE LOVE』という写真集を持っている。
川崎亜紀さんの写真集である。
「川崎亜紀って誰?」と思うかもしれないが、「浅香唯だ」と言えば、まだ分かる人は多いかもしれない。
1980年代に人気絶頂だったアイドルで、可愛いだけでなく相当な美少女だった。
それが、何かトラブルでもあったのか、芸能界から不意に消えたのだが、ファンがまだよく憶えている1994年の、25歳くらいの彼女の写真集だ。
かつての清純さは全くないが、相変わらず美人の彼女を「本物の悪女」の雰囲気を纏わせ、その中に、少し、かつての彼女を彷彿とさせる写真を入れる。
もう大変な、商業的才覚と思う。
そして、私に分かることではないが、おそらく、撮影技術はしっかりしているのだろうと思う。
運もあったのだろうが、成功して不思議のない写真家だと思う。
もちろん、荒木氏は芸術写真家として評価されているが、私は彼は、天才商業写真家なのだと思う。
そして、面白いのが、日本人なら誰でも大芸術家と認める岡本太郎だ。
私は、岡本太郎の真の名言は、
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」
といった文言なのだと思う。
「認められてたまるか」というのは、大衆もだが、特に、絵画の専門家を念頭に置いたのだということは、彼のことを少し知っている人なら分かると思う。
そして、「売れてたまるか」で、大衆すら無視する姿勢を見せた。
つまり、岡本太郎は、芸術家でも大衆画家でもないと自分で宣言している。
ところが、彼は、芸術家としても大衆画家としても高く評価されているのだ。
おかしな話であるが、それは、彼のエキセントリック(風変わり)な発言が受けただけかもしれない。
実際、岡本太郎が60歳手前の全盛期に作った代表作「太陽の塔」について、「本物の画家兼イラストレーター」である横尾忠則氏は、
「デザインとしては超一流だが、絶対に芸術作品ではない。岡本太郎はデザイナーになればいい」
と著書に書かれていたが、ちょと分かるような気がするのである。
とはいえ、 荒木経惟氏が、商業的という意味合いもあるが、なんらかの意味で芸術家であるように、岡本太郎もやはり芸術家なのだと思う。
まあ、何が芸術かというのは定義し難いが、「人類を無意味に変容させる」という意味の芸術家は稀有で、この2人は、そんな「超珍しい」芸術家・・・超芸術家なのだと思う。