ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

楢崎皐月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

天才の原理とそれになる方法

難題を抱えた科学者が、すっかり行き詰って図表の前で頭を抱えていた。
そこに、子供が一人やって来て、その図表を興味深そうに眺めていた。
そして、不意に子供は、「ここはおかしい。こうでないといけない」と言う。
科学者は苦笑するが、すぐに、はっとして図表を見直す。実に、その子供の言った通りだった。
それをきっかけに、科学者は短期間で問題を解決する。
その子供は、ごく普通の子供で、天才でも何でもなく、また、この科学者の研究に関する一切の基礎知識のようなものは持っていなかった。
このような話は、稀であるが、実際にある。
かといって、ただの子供に研究の手伝いをさせようとしても、ほとんどの場合、うまくはいかない。
まず、それに子供が興味を持ち、そして、特別な感情の流れを作らなければならない。
簡単に言えば、動機と言って良い。
動機を作ることができれば、子供が天才を発揮することは、実際は珍しくはない。
そして、それは別に子供に限らない。
趣味で音楽をやっていたに過ぎないフランスの技術軍人が、ある夜、特別な動機を起こし、一夜で『ラ・マルセイエーズ』を作詞作曲した。名曲の誉れ高い現在のフランス国歌である。そして、これ以外に、彼の曲は残っておらず、彼が天才であったのは、その一夜だけであったのだろう。

未来の人類は、全ての人が、常時、上のような天才であるのかもしれない。
他の進歩した惑星の住人は、既にそのようになっているのかもしれない。
いや、太古の昔においては、我々地球人もそうであったのかもしれないのだ。
『旧約聖書』や『古事記』、中国の『易経』等は、そのような時代の人が書いたものを、原書のままか、あるいは、長い時の流れの中で、いくらかの部分は、複製の際に齟齬が発生したり、意図的に改竄されたかはともかく、現代に伝わっているものなのである。このようなものは、現代の学者や作家の書けるものではない。

1万年以上前に日本列島に住んでいたというカタカムナ人の残したカタカムナ文献を、天才的な物理学者・電気技術者であった楢崎皐月(ならさきさつき)が長年月をかけて解読したようだ。天才であった彼には、カタカムナ文献の価値が直感的に理解できたので、その解読に生涯をかけ、超人的な努力をしたのだろう。その成果は、現在、特に農業分野で発揮されているようである。
また、楢崎は、カタカムナの研究を元に『古事記』の新解釈も行ったようである。
ただ、我々も、古事記原文を無心に読めば、そこに秘められた驚くべき秘密を知ることができる。
無論、古事記だけではない。
五井昌久さんが『老子講義』で解説した『老子』は、まことに素晴らしいもので、五井さんは漢文学者ではないが、老子そのものが語っているのと全く同じと言って差し支えない。それは、老子をそれなりに熱心に読んだ人なら誰でも分かる。五井さんという人は、常時、天才の状態であったのだろう。

「カタカムナ」という言葉は面白い。
子供が興味を持ってこの言葉を見れば、うまく説明できるかどうかはともかく、きっと、「分かってしまう」。この一言だけで。
こんな具合である。
本当の世界のことを、人類は、エデンとか楽園とか、タカアマハラと言ってきた。
それは、カム(神、上)の世界である。
ところで、もう片方の世界が存在し、それが我々の肉体のある物質世界である。この物質世界は、神の世界の片方であるに過ぎず、これがカタカムナのカタである。
タカアマハラは、高天原で、天(アマ)より高い原である。
地上は天に含まれるけれど、天そのものは、やはり物質世界なのだ。
カム(神、上)の世界は、もっと上なのだ。場所的に高いというのではなく、もっと別の意味でだ。
カムの世界の主(カムナ。神の名)は、アメ(天)と地の世界の主である人の中のアマナ(天の名)と共同で世界を創造している。
宇宙の理とは、だいたい、このようなものであると考えられる。
五井昌久さんという人は、常時、カムの世界と交信できたのだろう。
ただ、五井さんは、『老子』の読み下し文を無心で読めば誰でも分かるといったことも述べておられた。
無論、老子だけでなく、我々も、『古事記』を無心に読めば(できれば書き下し文)、やはり、カムの世界に通じる直感を発達させることができると思う。
そしてまた、私がこのブログでいつも述べている通り、「ア」という言葉を常に自分に言ったり、「吾(ア)は誰か?」と自分に問うたり、神の名を絶えず心で繰り返せば、いずれはそうなると思う。また、五井さんが提唱した「世界平和の祈り」は、そのためにも素晴らしい力を発揮するものと思う。
尚、個人的にだが、足立育朗さんの『波動の法則』には、カムのことが詳細に説明されていると思う。これは、足立さんが高度な宇宙生命体とテレパシーのような方法で交信して得た知識で、カムと足立さんの言うEHKOが近いもののように思われる。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

人間の内側に作用を及ぼす神話の英知

アメリカ合衆国が、イギリス植民地から国家として独立したのは1776年で、実に新しい若い国家であるのだが、国民は、ユダヤ教徒やキリスト教徒として、旧約聖書にある古い神話を自分達のものとして受け入れている。
そこへいくと、日本はそれなりに歴史のある国とはいえ、我が国の神話である『古事記』が成立したのは天武天皇(てんむてんのう。西暦631-686年)の時代である。日本にだってキリスト教徒もいるが、敬虔な信者であれば、旧約聖書を自分の歴史的なものとして受け入れている可能性は十分にあると思う。それが不似合いであると言うのではないが、我々のDNAには、それによるよりも、もっと楽に宇宙の真理に至る機能があるのかもしれない。
世界各地の神話である、ギリシャ神話、エジプト神話、ケルト神話、中国の神話などは、いずれも、紀元数百年以前の古い歴史がある。
しかし、『古事記』は、それまでに日本にあった神話をまとめたようなもので、我が国の神話自体はもっと古くからあったと思われる。
そして、我が国にも、『古事記』や『日本書紀』以前からあったと言われる、『ホツマツタヱ』や『上記(うえつふみ)』等があるが、これらは現代では本物であると見なされないことが多い。
また、物理学者の楢崎皐月が発見し、苦難の末解読したという、1万年以上も昔の日本の文献である『カタカムナ』というものがあるが、これは世間的には全く認められていないと言って良いと思う。
それらは、偽書であるということなのであるが、そうであるなら、何とも壮大な偽書である。そもそも、偽書でない神話など存在しないような気もするのである。
私は、『ホツマツタヱ』も『カタカムナ』も、どんな意味でも本物であり、少なくとも『古事記』に劣らず、重視すべきものと思うが、それは、それぞれで真摯に読めば嫌でも分かるのではないだろうか?

神話を持たない国は滅びるといったことを聞いたことがあるが、滅びるかどうかはともなく、神話と国民との関係が調和していないと、やはり国家や国民のありかたは危ういものになるのだと思うし、国民に弱い部分があるのだと思う。
もちろん、あまりに強く根付いた神話による表面的な強さは硬直したものになる。つまり、神話との距離感というものも必要かもしれない。
しかし、我が国の神話の歴史が浅い上、あまりに、日本では神話が顧みられていないように思えるのである。
日本人には、『古事記』を読んだことすらないという人が多いと思う。
私は、ある有名な予備校の日本史や国語の講師が、『古事記』を読んだことがないと平然と言うのを実際に聞いて呆れたことがある。

『古事記』の上巻(世界の始まりから神武天皇の誕生まで)だけでも、表面的に読んでは分からない深い意味がある。我々日本人は、『古事記』を真摯に読むことによって、そこに隠されたそれらの意味を自分の内に復活させ、世界のどの国のものとも異なる神人に生まれ変わることができる。そして、そこに至るまでに、『ホツマツタヱ』や『カタカムナ』を役立てるようにもできるだろう。だが、我々は孤立すべき民族でもなく、インド、ギリシャ、中国、ケルトの英知の助けを借りることもできるのである。
だが、主体は我が国に古くから伝わる英知を中心とすべきである。
国家による教育は、こういったことを決してサポートすらしないだろう。我々は国家の教育からはある程度離れ、自主的に真の英知を求めるべきであると思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ニュートンはなぜ天才になれたか

「初心忘るべからず」などと言う。
良い言葉であるし、そうであれば良いなと思う。
しかし、それはとても難しい。
昔、雑誌か何かで、実力世界一とも言われたプロレスラーのカール・ゴッチが、アントニオ猪木さんのことについて、「彼は良い友人だった」と過去形で言ったことがあったと思う。「彼は変わってしまった」とも言った。印象的だったので憶えているのだ。
しかし、猪木さんだけが特別なんじゃあない。誰もそうなのだ。

沢山の著作を持つ人気作家の最高の作品は、彼が未熟な頃に書いた、初期の作品だ。無論、文学的価値とかいうものは、後の方の作品の方が高いに違いないが、本人だって、「あの頃(初めての作品を書いた頃)が懐かしい」と思っているのだ。
ジョージ・ルーカスも、スティーブン・スピルバーグも、ジェームズ・キャメロンも、次々に素晴らしい作品を制作し続けているが、やはり、彼らの本当に素晴らしい作品は一番最初のものなのだ。無論、これに関しても、面白さや技術、映画としての価値のことではない。

ヘルメースの『エメラルド・タブレット』には「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」と書かれている。
意味は明かされてないが、この世界は階層で成り立っており、どの階層レベルも相似の関係にある。
日本の天才科学者、楢崎皐月(ならさきさつき)は、相似象学において、その原理を述べ、大橋正雄は波動性科学で、原子から宇宙までの階層的相似性について述べたが、彼らは、この世の一切がそうであると知っていたのだろう。
このことを、作家の全著作と一冊の本についてあてはめてみよう。
1人の作家の最も素晴らしい作品は、最初の一冊であるが、一冊の本の中で最も素晴らしいのは最初の章である。
だから、本を読む時は、最初の章に特に集中すべきなのである。
それを、速読だのといって、とにかく1冊を読み通すことを考えていると、肝心なことを掴めずに終る。
ニュートンは、本を読む時、理解できるところまで読むと、いったん読むのをやめ、しばらく時期をおいてから、必ず最初から読んだ。この読み方が彼を天才にしたのだ。この読み方を忘れてはならないし、世界中の人が知っておくべきことなのである。
新約聖書の福音書が素晴らしいのは、この素晴らしいものが4つもあるということがある。
ただし、福音書は、1章を書くごとに、著者達は霊感を与えられ、初心に戻ったのである。福音書に限りない価値があるのは、このためもあると思う。

読みたい本があるが、難しいからといって読むのをしり込みしているなら、遠慮せずに、最初の章だけを理解しようと思って読めば良い。すると、素晴らしいことが書かれていることが分かり、しかもそれを把握することができるのだ。そして、後はニュートン式で読めば、その利益は計り知れない。
ニュートン式が良いのは望遠鏡だけではない。むしろ、彼の読書法こそ、人類的な財産なのだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

月の兎のお話に感激するのは幻想のためだった

幼稚園の時、スライド映画で見せられたお伽噺に衝撃を感じたことを鮮烈に覚えている。
こんな話だ。
旅人が山に来たが、彼は疲れており空腹だった。猿、狐、兎は、順番に彼をもてなすこととし、猿は木の実を、狐は魚を獲って、十分に旅人をもてなした。しかし、兎は人間である旅人に与えるものを用意できない。そこで、兎は自分を食べて欲しいと言って火に飛び込む。

後に、この兎は釈迦の前世の姿であると伝えられているのだと知った。
この時の旅人は神様(帝釈天)で、慈悲深い兎は神によって月に上げられ、月に兎がいるという伝説になったとも言われているようだ。
今思っても、涙が出るお話である。
ただ、このお話に感動するのも、私が世間の幻想に絡み取られているからだ。
私がその旅人であるなら、親切で可愛い兎を食べる気になど、とてもなれない。
別に兎を食べなくても、山の中にはいろいろあるし、どうしても自分で食べ物を得られないなら、最悪、狐や猿の奴隷になって食べさせてもらうことだろう。
そもそも、この兎は馬鹿か、自分さえ気分良ければ良いというエゴイストであるのではないか?
しかしお話では、この兎は親切で、心も清らかそうで、さらに、馬鹿でもなさそうだから、矛盾だらけで、教育上、よろしくないお話であると思う。
こんなお話を子供に見せたり聞かせる教育者や宗教者こそ、馬鹿か偽善者であろう。

では、こんなお話はどうだろう?
疲れた旅人がやってきて、彼はとても親切なので人々に愛され、なりゆきで、狩人と漁師と、それと、12歳くらいの可愛い少女が順番にもてなすことになった。
狩人は兎や鹿をし止めてご馳走し、漁師も素晴らしい魚や貝を獲って来て振舞った。
しかし、少女は、いつも小さなパンや木の実しか食べないので、そんなものしか差し上げることができないが、それでは旅人が喜ぶとは思えない。
少女がふらふら歩いていたら、顔見知りの太った若い女が、「何浮かない顔してんのさ?」と声をかけてきた。
何か良い考えはないかと、少女は事情を打ち明けると、女は厭らしい含み笑いをしながら、「何だ、それなら・・・汚れのないきれいなあんたの、そのすらっとした身体を捧げたら、男共はみんな天国に行けるよ」と言う。
女には、少女への嫉妬があったのだろう。同じような話が、スウェーデンの傑作映画『処女の泉水』にもある。
少女は、本当にそうなのか分からないし、耐え難いとも思ったが、他には何もできないので、自分がもてなす日に、旅人に、粗末な食事と共に、自分の身を捧げることを申し出た。
賢い旅人は、それが少女の意思ではなく、誰かに吹き込まれたことをすぐに察した。
そして、
「私が皆に親切なのは自分のためなのだ。それなのに過ぎたものを得れば、悪いカルマを作り、後に、あるいは、次の生で苦しむだろう」
と少女を諭し、少女の持ってきた食物が実は一番身体に合うのだと言ったが、それは本当だった。賢者とは少女か天使の食べるものしか食べないものなのだから。

これもあまり良い話ではない。
あの兎も、この少女も忍耐が足りない。
どうしても旅人の役に立ちたいなら、日頃のたゆみない行いで奉仕すれば良い。

『ぴたテン』というアニメの最終回は、コゲどんぼさん(現在はこげどんぼ)の原作漫画とは全く違っていた。原作の最後は素晴らしく、私は、あらゆる漫画の中でも最高のラストと思っている。
アニメでは、悪魔の少女である紫亜が、あまりに悪魔らしくない(天使のようだ)ので、消滅させられることになった。しかも、それまで仲良くしていた湖太郎達の記憶から消えてしまうのだった。
落ちこぼれとはいえ、天使である美紗は、魔法薬を作り、その力で、紫亜を再生し、代わりに自分がこの世から消え、人々の記憶からも消えた。
そして、紫亜が感謝して涙を流した。
これもおかしい。心優しい紫亜は、美紗が代わりに消えたことで罪悪感を背負い、生きていられないはずだ。
それが分かっていても、やはり泣けてしまう。
誰に叩き込まれたか分からないが、偏見や幻想とは厄介なものである。
アインシュタインですら、「私は量子力学の考え方が正しいと思う。しかし、若い頃に持ってしまった偏見のために、どうしても量子力学を認める訳にはいかないのだ」と言ったのだ。

だが、方法はある。
荘子は、「小さな者には大きな者のことが分からない」と言った。
我々は、その小さな者である。
朝生えて昼には枯れるキノコには、1日の長さが分からないし、セミには、(地上の)四季が分からないようなものだ。
なら、大きな者になれば良い。人間には、それが出来るのである。
だから、低レベルの食欲や性欲や名誉欲を貪り求め、せっかくの力を無駄にしてはならない。
物質主義に陥ることなく、かといって、過度の神秘主義に熱狂するのでもなく、イエスが教えたように、そのバランスを取ることが必要であるが、このことについては、ルドルフ・シュタイナーが講演で述べたことが、『悪の秘儀』に見事に書かれている。
我々は、今は物質主義の牢獄の中にいる。それで、見えないものが全く分からなくなっている。
いずれ説明するが、宮沢賢治がこの世界の真理を悟れたのは、彼が農業に従事し、しかも、法華経と化学を熱心に勉強したからだ。
ライナス・ポーリングが史上最大の化学者になれたのは、彼が元々、農業大学を卒業したことと関係があると思う。
そして、天才物理学者、楢崎皐月(ならさきさつき)は、後に農業を研究したので、その英知が世に伝わることになった。彼の『静電三法』は、言葉使いにやや難はあるが、他にない偉大な真理の書と思う。
人間は天(星)と地をつなぐ者である。それがヒントなのだ。長くなったので、また説明する。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

今日から10日の断食に入る

それでは、本日より10日の断食に入る。
これは別に修行でも、高貴な行いでも、ましてや、健康のためなどでは全くない。
前から予定していたことでもなく、今日の朝、不意に決めたことだ。
だから、勘違いして真似をしないように。死んでも責任は持たない。
まあ、10日くらい食べなくても、人間、死にはしないと思うがね。

前々からよく述べているが、黙って耐えることができれば、我々は真の自己に一致することができるだろう。
しかし、理由はよく分からないのだが、神はそれを邪魔する出来事を起こす。
だからイエスは、「私達が試みに遭うことのないように祈れ」とか、「私に躓(つまず)かない者は幸い」と言ったのだ。
だが、私は躓いてばかりだし、試みに遭っているのである。

昔、ある空手家が、真剣を持った剣の達人と決闘をした。
どうしようと勝てるはずがなかったが、唯一の活路は命を捨てることだった。
それで勝った彼は悟ったようだ。
「先に命を捨てた方が必ず勝ちます。喧嘩でも」
神との喧嘩での、唯一の活路は自己否定である。
つまり、喧嘩している自分を否定し、消してしまえば負けはしない。
自己否定とは欲望の否定であり、最大の欲望である食を断ってしまえば、自己は消える。
「汝敗れたり。我が後方に退け、サタン」
とイエスが言った時のサタンとは自我(表面の自己)である。

だが、身体やそれと一体である心(自我)に栄養は与えないが、深い心には栄養を与えよう。
楢崎皐月(ならさきさつき)の『静電三法』などをじっくり勉強しようと思う。
無論、週5日、朝から晩まで働く運命は避けられないし、今日を除き、週6日としようと思う。来週は特に忙しい。
また、朝晩のスクワットや腕立て伏せも休むつもりは全くない。何の見返りもない鍛錬を、自我は嫌がるものだからね。
さて、これで何か掴めるだろうか?
何か良いことが分かれば、皆さんに教えてあげられるが、さあ、どうなるだろう?
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、未完の自伝的小説『まだらの鳥』で、「ほとんど食べなければもっと簡単に<やつら>を見れるかしら?」という質問に、年寄りの鋳掛屋(いかけや※)に、その通りだと不思議な話をさせたが、それが本当かどうか教えられるかもしれない。
※鋳掛屋(いかけや)は鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理を行う職業。
ミクは何か語ってくれるだろうか?
彼女は今は黙して、目も向けてくれないようである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード