ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

植芝盛平

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

一番強いのは「観察力」だ

どれほど強調しても足りないのが、観察力を磨くことの重要さである。
観察力を磨けば、内なる神と通じ、無限のエネルギーを引き出せる。

神懸りな力を持っていたと言われる合気道家の植芝盛平の弟子で、その師を上回るのではないかとも言われる塩田剛三(しおだごうぞう)は、7年もの間、ずっと金魚の動きを観察して動きのコツを掴んだという。
だが、人間と金魚では全く異なる。
これは、金魚の動きそのものに意味があるのではなく、その粘り強い観察によって精神を研ぎ澄ませたことが彼を超人にしたのだと思う。
この塩田に、「合気道で一番強い技は?」と問うと、彼は「自分を殺しにきた者と友達になること」と答えたという。
これは、万象一切に通じていないと言えないことだと思う。
彼は金魚を観察して、全てを知ったのだ。

ある武道家の本で読んだが、彼の父親が、何か馬鹿なことをして、家に毎日、大勢のヤクザが来るようになったという。
しかし、彼の母親は、ヤクザ達と平気で世間話をしていたという。
武道なんかやってなくても、この母親は内に宿る神と通じていたのだろう。
また、こんな話もある。
ある若い男がヤクザとモメてしまい、恐くて仕方がなかった。
それで、ちょっと頼りになりそうなおじさんに相談に行った。すると、そのおじさんは、「そうか」と言って出かけ、しばらくしたら、その若い男のところに電話をしてきて、「話はついたから心配するな。これから、こいつらと飲みに行くから遅くなる」と言う。
ちょっと武道ができるとか、腕力があるとかいうより、誰とでも仲良くなってしまえる力の方がはるかに大きいことは確かだ。
そんな力があれば、事業をやっても苦労は少ないだろうし、必ず成功するだろう。
もっとも、そんな力のある者は、無欲な人が多く、余計な金を持とうとはしないものらしい。
そして、こういった本当に強い力は、観察によって得られる。
先程の、「凄い母」を持つ武道家は、子供の頃から、喧嘩をしたら、その喧嘩一切・・・戦い振りから心の動きまで、詳細にノートに書いていたという。
詳細にノートに書くには、熱心に観察しなければならない。
喧嘩しながら、敵や自分の動き、そして、心までも観察したのだ。
それで強くならないはずがない。
身体だけではなく、特に心の力ということに関してだ。
彼のこの特異な行いは、その偉大な母の影響ではないかと思うのだ。
彼は観察を通して超人になったのだ。

あなたも、別に塩田の真似をして金魚を観察する必要はないが、何かお気に入りのものを観察すると良い。
観察が深まると、心が静まり、気の動きすら感じるようになり、一切が分かるようになる。
宮本武蔵に、闇の中でじっとしているという修行方法を教えた武道家がいたという話がある。
暗闇の中で静かに座っていると、目には見えなくても、あらゆるものから発せられている気を感じるようになるという。
これも、闇の中でただじっとしているのではなく、自分の身体や呼吸、心、あるいは、物音をじっと観察するということだ。
何も観察するものがないなら、手の平でも観察すると良い。
手の平でも・・・と言ったが、これほど観察し甲斐のあるものはない。
手相の大家にでもなったつもりで観察すると良い。
本物の手相家なんてのは、本当に何でも分かる。
あなたも、観察力を磨けば、知らぬうちに超人になっている。









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地球の平和は黄金バットに任せることだ

アントニオ猪木さんは、子供の頃、黄金バットというあだ名がついていたという話を、猪木さんの本で読んだ覚えがある。
黄金バットは戦前からあった紙芝居のお話、あるいは、その主人公だが、骸骨、コウモリ、高笑い・・・といった、どう考えても悪のイメージのあるものでも、正義のヒーローになれるのだというところが感慨深い。
私は、数年前に映画『黄金バット』(1966年公開作品)のDVDを購入している。
現在の特撮ものと比べると、正直、かなりプアと言うのも仕方がないが、ヤマトネ博士を演じた若き日の千葉真一さんが格好良いし、ヒロインのエミリー・ベアードを演じた、当時11歳の高見エミリーさん(現在は鳩山エミリー。鳩山邦夫さんの奥さん)の美少女振りは息を飲むほどで、この作品の煌く華だった。黄金バットが、「お前が呼べばいつでも現れる」と言い残して去ったのも当然と納得してしまう。

それはともかく、黄金バットの歌では、「地球の平和を頼んだぞ」と歌われているが、昔のヒーローものの主題歌では、そんなふうに、「守れ僕らの幸せを」(ウルトラセブンの歌)といった感じの、ヒーロー任せで、取り様によっては、怠惰、無責任と感じられるものが多かったと思う。
「強い人だからといって頼ってばかりではいけません。自分の平和、自分の幸福は自分の手で掴み取りなさい」というのが、まっとうな意見かもしれないが、それが、現代的、西洋的合理主義というものだろう。
しかし、そうだろうか?
敵が怪物や宇宙人なら、黄金バットに任せるしかなく、下手に「僕も戦います!」なんて言うと、黄金バットさんとしては、「気持ちは有り難いが・・・」で、足手まといと言うか、はっきり言って邪魔だろう。
そして、世間なんて怪物だらけなのだ。
ところが、手塚治虫さんの『ミクロイドS』では、人々がヒーロー達に加勢しないことで困難が起こるといったことが描かれていた。
だけど、どうだろう?
やっぱり、我々凡夫はヒーローに任せるしかないのだ。
ただ、ヒーローが「ただちに避難して下さい」と言ったら、四の五の言わずに従い、ヒーローが、「腹減った、何か食わせろ」と言ったら、普段、自分は五百円のステーキしか食べなくても、2千円のステーキを奮発して振舞えば良いのではないだろうか?
そして、何より大事なのは、「俺だってヒーローに負けないくらい戦えるが、ヒーローに任せているのだよ」などどいう見栄や狡猾を捨てて、ヒーローを褒め称えることではないだろうか?
このあたりの発想が、現代人には欠けているのだと思えるのである。
それが現代人の不幸の原因なのだろう。

因幡の源左(いなばのげんざ)という、1842年に生まれ、1930年に亡くなった人は、念仏の行者だった。
つまり、彼のヒーローは阿弥陀如来で、彼自身は阿弥陀如来を「親様」と呼んでいた。
ある日、彼の畑の芋が掘り返されて、盗まれていた。
すると、源左は、畑に鍬を置いておくようになった。
その理由は、「手で掘って怪我しちゃいけないから」というものだった。
町で作物を売り、金を持って帰る道をついて来る男がいる。
源左だって、彼が強盗だってことくらい分かったが、恐れずにその男に近付き、
「金が欲しいならやるけどね」
と言って話しかけ、家に連れ帰り、食事をさせて一晩泊め、さらに、いくらかの金を持たせて見送った。
一時が万事、こうだった。
それで幸せに生涯を全うしたが、それも、阿弥陀如来への信頼があったればこそだった。

親鸞は、流罪になり、赦免されてからも、流罪地と変わらないような場所を放浪し、念仏の教えを説いていた。
ところが、いかなる土地であっても、その土地の信仰が無いような場所は、まずない。
そして、そんな地元の信仰を取り仕切っている者が、そこの人々の信仰によって有力者の地位についているのも普通のことだろう。
親鸞は、人々と働き、人々と過ごしながら教えを説き、念仏の教えを広めていった。
だから、親鸞は非常に危険な立場だった。
ある時、親鸞は、地域宗教の支配者にひどく憎まれた。そして、彼が、自分を殺そうとしているということも分かっていた。
その者は荒くれ者で、人殺しも平気だった。
だが、その者がやってきても、親鸞は平然として話を始め、説得して念仏の信者にしてしまった。
これもまた、阿弥陀如来への信頼がなければできないことだろう。
合気道の創始者、植芝盛平の高弟の塩田剛三は全く不可思議としか言えないような超人的な力を持っていたと言われるが、彼に、「合気道の一番強い技は?」と尋ねると、「自分を殺しにきた相手と友達になること」と答えたという話がある。
それは、理屈の通ることではないが、美しいと感じるものである。
植芝盛平の本を読むと、植芝盛平は自分が発揮できた力は人間個人の力ではなく、やはり、神の力であると考えていたようで、それは塩田氏も同じなのだと思う。
親鸞、因幡の源左、植芝盛平、塩田剛三らには、個人としての自分に力があるのではなく、この世には至高の存在があり、それとつながることを知っていたのだと思える。
道元はそれを座禅でやり、親鸞は念仏でやったのだろう。
だが、現代人は神仏に任せる正しいやり方を知らない。
それで、自己本位になったり、怠惰になったりするのだ。
ニサルガダッタ・マハラジが、自分が全て神に任せて何もしていないと言うと、誰かが、「それでは楽過ぎないですか?」と尋ねた。すると、マハラジは「そうだ。楽なのだ」と答えた。
まずは、地球は黄金バットに任せ、黄金バットが本当に喜ぶように褒め讃える工夫をしてみることだ。









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呪文の働き方

戦前の話だが、太郎君という男の子は、小学校に入る前の頃、祖父に、「アジマリカン」という呪文を教わった。これを唱えれば、神が護ってくれて、無敵であるという。
ある時、その祖父がやくざ者達に絡まれ、胸倉を掴まれ、突き倒されたりと、手ひどい乱暴を受けるのを見た。太郎君は、祖父がそう命じているような気がして、離れたところから見ていた。ようやく解放された祖父のところに行き、「おじいちゃん、大丈夫か?」と聞いたら、祖父は、静かに笑って「大丈夫だ」としっかり言った。太郎は、「アジマリカン」を信じた。
ある日、今度は、太郎君がいじめっ子達の餌食になった。太郎君は、何度も「アジマリカン」を使ったが、散々な目に遭った。しかし、「アジマリカン」の力を疑う気はなかった。
太郎君が青年になった時、戦争が始まり、太郎君も二等兵(最下級の兵隊)として海外の戦地に派遣された。そして、行軍している時、敵の急襲を受け、すさまじい砲弾の攻撃を受けた。太郎は必死で「アジマリカン」を唱えた。すると、太郎の隊の十数名はほとんど無傷で済んでしまった。
太郎は、これまでだって、「アジマリカン」が、力を発揮しなかったと思ったことはなかったのだが、このことで、何か「アジマリカン」のコツというか、奥義とでもいうものを掴んだような気がした。

太郎は戦争が終って復員(兵役を解かれて帰省すること)した後、小さな事業を営むようになった。経営は苦しかったが、不思議と従業員の給料の支払いの遅延だけは起こさなかった。これも、「アジマリカン」の力に相違ないことは、太郎には分かっていた。
だが、ある時、ついに、振り出した手形(2~3ヶ月後といった約束した期日に換金できる有価証券)の支払期日が迫っていたが、入金ができずにいて、倒産の危機となった。しかし、あり得ないことだが、手形は換金されたという。銀行のミスと思われ、その後、銀行から督促を受けたが、なぜか半年近くも引き延ばしができているうちに、支払うことができた。
昔、倶胝(ぐてい)という禅僧がいたが、彼は、何を聞かれても、指を1本立てるだけだった。
彼が臨終の際、「私は天竜先生に教わった一本指の禅を生涯使ってきたが、使い尽くすことはできなかった」と言って、安らかに息を引き取った。
太郎は、自分が祖父に教わった「アジマリカン」も同じものだと思った。

今年(2013年)2月15日に亡くなられた佐々木の将人(ささきのまさんど)さんは、中村天風や植芝盛平といった我が国の偉人、神人達の直弟子で、彼自体、偉大な神道家で、超人的な合気道家だった。
その彼が、著書『数霊のメッセージ』で、「アジマリカン」を唱えれば、悪霊を祓い、幸福になれると断言されていた。必ずそうなのだから、理屈を言わずにただ使って、幸福になれば良いと述べられていた。だが、こんな簡単な幸福の道を逃す者が大半なのであろう。
法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」の念仏こそが、宇宙最強の誦文(呪文とほぼ同じ)であると自信を持って断言した。それを聞くと、現代のみならず、昔から笑う者は多かったが、ちょっと自分で調べながら直感を働かせれば、ごく当たり前のことなのである。









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レベルが高過ぎる人達をどう理解するか?

レベルが高過ぎて理解できないという人は私にはいくらでもいる。
別に有名人でなくても、身近にも一杯いる。
しかし、ある意味、どれほどの人物であっても、同じ人間であることも確かであり、理解できないと言っても、「さっぱり理解できない」ということはない。
だが、本当にさっぱり分からないという人もいる。
例えば、合気道の創始者である植芝盛平や、思想家の安岡正篤(やすおかまさひろ)なんて人はそうである。彼らに比べれば、現代の知恵者なんて吹けば飛ぶようなものではないかと思うのである。
イエス・キリストや法然のような人は、いかにレベルが高くても、愚民に合わせるよう大変な配慮をしたんだろうと思う。
植芝盛平や安岡正篤も、身近な人達は、彼らが気さくで優しい人だったと言うが、時代の状況からやむを得なかったのかもしれないが、彼らは高い位置から降りてくることはあまりなかったと思う。
私は、植芝盛平が書いた『武産合気(たけむすあいき)』を読もうとして、とにかくのっけから全く分からず、落胆したことがあった。しかし、この本でも、植芝盛平は、明治時代の志士といった高度な人向けではなく、もちろん、志ある者のためではあっても、戦後の人向けに、「ゆるく」書いたのだと思うのだ。
その後、私は、多くの種類の『古事記』を読み、いくらかの神道家の本を読み、大祓詞という祝詞を5千回唱えた後に、再び『武産合気』を読み、1%分かっただけでも、あまりに凄いので感動したのである。だが、99%はやはり分からないのだ。
植芝盛平や、やはり同時代の偉人である中村天風の両方の弟子であった佐々木の将人(まさんど)さんは、やはり戦時中の人であり、また、並外れた人とはいえ、今年(2013年)の2月まで生きておられたのであり、私が敬愛すべき関英男博士と共著で本を書いたりもしていたし、また、非常にくだけた人で理解し易いと感じたが、この佐々木の将人さんを通して知る植芝盛平は、やはり、神人であったとしか思えないのである。

安岡正篤は、積んだ学問だけでも、いかなる現代人とも全く違うのだろうと思う。彼は、歴代首相の指南役で、昭和天皇の信頼も厚かったと聞く。そして、昭和天皇が、太平洋戦争の終結をラジオを通じて国民に告げた詔書(しょうしょ。天皇が発する公文書)を最終的に完成させたとも言われる。あの詔書の表現的な部分だけでも、並の人間に書けるようなものではない。ごく簡単なことだけを言っても、国民の希望をできるだけ消さないと同時に、罪のある軍部の顔すら立てた。軍部に腐敗はあったが、高い志のある者がいることを深く理解し、彼らの心にすら深く配慮したのを感じるのである。
とにかく安岡正篤は大変な知者で、おそらく、あの人の本を直接読んでも、あまり理解できる人はいないと思う。
しかし、あの人が、一般聴衆のために、非常に分かり易く語ったことを、さらに優しく書にした『易経講座』を読んだだけで、とんでもない知識と知恵のある人だということは私でも感じることができたのである。

私は、有名な宗教家の五井昌久さんの本は、学生の頃からよく読んでいたが、難しくはないし、面白いと思っていた。
しかし、植芝盛平や安岡正篤らが五井さんを大変に敬い、先生とすら呼んでいたのを知って驚いたことがあった。つまり、五井さんがそれほど偉大な人であったことにちっとも気付かなかったのである。
だが、最近、五井さんの偉大さが少しは分かることができた。
私は、長年、『老子』を読んでいたが、あまりよく分かっていたと思えず、おそらく、さっぱり分かっていなかったのだろう。
英文学者で詩人、画家の加島祥造さんの本はいくらか読んでいたが、彼もまた、老子が分からなかったらしい。しかし、英文学者である彼は、英訳の老子を読んで理解できたという。だが、その加島さんが意訳した老子を読んでも、ちっとも分からない。
だが、ほんの少しだが、老子を理解できたのは、『抱朴子(ほうぼくし)』を読んだからだった。抱朴子は、老子や荘子や、あるいは、孔子ほどには知られていないと思う。
抱朴子は、葛洪(かつこう)が正式な名前で、彼は、仙人の存在を信じ、人は誰でも仙人になれることを信じて、その方法を探究していた。抱朴子は、老子を最高位の仙人の1人とし、深く崇拝し、老子の書いた『老子(道徳経)』はもちろんだが、老子に関するあらゆる資料を集め分析していた。
この『抱朴子』に書かれた老子の文章の解説や、抱朴子の『神仙伝』に見られる、老子の言葉や行いを見て、私には、不意に老子が少しだが明らかになったと思い、深い喜びを感じた。
そんな時に、五井昌久さんの『老子講義』を読んで、本当に驚いた。
『老子』が、五井さんが解説した以外のものではないことは明らかであるし、その解釈は、誰にも到底思い浮かばないような、恐ろしく深いものである。
『老子』の現代語訳や解説書も色々読んだし、どれも素晴らしかったと思うが、五井さんのは、老子そのものが直接語っているのである。
五井さんは、老子の霊体と融合していると述べているが、世間の人はそんなことを聞くと、「胡散くさい」「カルト教祖だ」と言うのであろうが、そんな世間の物言いはどうでもよく、五井さんと老子が一体化していることは、あまりに当然のことなのである。五井さんは老子を敬って、老子を自分より高く扱っているが、どちらが上とかいうのではないのだけれど、やはり、五井さんは老子に優るとも劣らない存在だろうし、多分、ずっと大きいのではないかと思う。
いずれにしろ、本当の偉人とは、なかなか分からないものであると思う。
だが、同時に、無心、無我、忘我になれれば、これほど分かり易い人達もないだろう。
イエスが、「いつもあなた達といる」と言ったように、黒住宗忠が「人は天照大神と一体だ」と言ったように、彼らは我々の中にいるからである。









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カツアゲの原理を逆に応用すればいじめっ子も手が出せない

「カツアゲ」とはおかしな言葉だと思う。なぜ、「カツサゲ」でないのだろう?
脅している相手を上げてどうするのだ?
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、ハルヒ(高1女子)は、キョン(高1男子)に言うことを聞かせるため、自分よりずっと背が高いキョンのネクタイを掴んで上に引っ張り上げ、
「協力しなさい!」
と命じる。
キョンは、「カツアゲされている気分だぜ」と思う。

カツアゲの時は、普通、襟首を掴んで上に引っ張り上げる。
なぜこんなことをするのか、考えたことがあるだろうか?
こうされると、やはり不安な気分になるのだ。つまり、上に引っ張られているのだから、「落ち着かない」のだ。なかなか論理的ではないか?
だが、おかしなことに、よく見たら、襟首を掴んでいる方も、まるで、見えない手に襟首を引っ張り上げられているかのごとく、アゴが上がっているのである。
なんとも間抜けな姿である。私は思わず笑ってしまう。

私が高校生の時、学校に非常に腹の据わった男子生徒がいた。彼は、大勢の不良にカツアゲされた時、襟首は掴まれているのだが、アゴを引き、胸を落としていた。
やがて、カツアゲしている方が動揺してきた。そして、不良共は、根を上げてしまい、捨てセリフを残して消えた。
その腹の据わった男子の家はお寺で、彼も修行をしていた。
本当の修行をしている者は、胸を出さない。肩をいからせ、胸とアゴを上げている不良が敵わないのは当たり前なのである。

ところが、日本の教育では、「胸を張り、腹を引け」である。これは脅しに弱い、落ち着かない人間を作る目的の教育である。
学校には決して従ってはならない。

日航社長や日銀副総裁だった柳田誠二郎氏が、心を病んでいた学生時代、岡田虎二郎の静坐の道場に行き、虎二郎の前に座った。
すると、虎二郎は、誠二郎の襟首を掴んだのだが、なんと、引っ張り下げた。カツアゲの反対である。
30分後、目を開けると、誠二郎の前には別世界があった。天国のような世界である。
カツアゲにも、一定の論理があることが分かる。では、その反対をやれば良いのだ。
アニメなどで、可愛い女の子が、自分より大きな男性(お兄さんのような人)に頭を撫でられて喜ぶ場面がよくある。
実際、そうしてもらうと落ち着くのだが、それは、好きな人に触れられる喜びと共に、頭を押さえることで、上がり過ぎた胸を下げるからなのだ。
誰だったか忘れたが、ある少女のアイドルが、寝る時は横向きになって、両手を股の間に挟んで寝ると言っていたのを覚えている。そうすると落ち着くからなのだが、これも、その姿勢をとれば、胸が腹に引き寄せられるからだ。

心というものは胸にあるように思える。
ラマナ・マハルシすら、ハート(この場合は、魂の座という意味)は胸にあり、そこから心が発生すると言った。
一方、魂は腹にある。
胸を張って胸を上に引っ張り上げると、心が魂から離れて、不安定になり、不安になるのだ。
反対に、胸と腹が近付くと、心が魂(神の分魂)に近付くのであり、神と一体化する。そうすれば、心が落ち着いて当たり前なのである。
心は神の中に溶け、そうなれば、何も恐れる必要はない。
合気道の達人、植芝盛平は、それが完全に出来ていたのだろう。
彼は神であり、宇宙であった。そして、全ては宇宙の中、神の中である。
だから、敵が植芝と争おうとした時、自分がその一部であるものと争うのであるから、最初から負けているのである。
だから、植芝は無敵である。猛獣すら、彼に挑むことは決してなかった。
ラマナ・マハルシも、虎が歩き回っている中で平然と瞑想し、どんな猛獣も彼を傷付けることはなかったという。

肩の力を抜き、背筋を伸ばし、自然に胸が腹に近付くような姿勢で立ち、座れば、自然に心が落ち着き、無限の力も出る。何もかもうまくいく。
ふんぞり返って座れば、腹と胸は完全に分断され、魂を見失ってしまう。電車の中では、そんな人だらけであることが分かる。
普段から、腹を意識することだ。
胸でハアハアとせわしく息をすれば、落ち着きをなくし、エネルギーを失う。
腹でゆったり呼吸すれば神とつながる。眠っている赤ん坊は腹で呼吸している。だから無敵である。
史上最強のプロレスラー、ルー・テーズが、彼の必殺技バックドロップを、「ヘソで投げる」と言っていたのが印象深い。
もちろん、物理的にヘソで投げるわけではないが、ヘソを中心に動くことが極意なのだろう。
ヘソは無敵であると言った偉大な霊覚者がいた。万能のヘソが開けば、何をやってもうまくいくし、事故に遭わず、病気にもならない。剥げ頭に毛も生えてくるという。
ヘソか丹田か、太陽神経叢(胃の裏側)か仙骨か尾骶骨かと人によって色々に言うが、いずれにしろ、胸の中の心を腹にある魂に近付けることである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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