「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎(1872~1920)は本当の本物で、仏陀やキリストのような存在であったと私は思う。
だが、岡田自身は、文字になると、自分の教えが誤解されると考えたのだと思うが、死の直前に書いたものを全部燃やしたそうだ。
けれども、弟子達が、どうしても伝えずにいられなかった岡田の語録や逸話は、どれも、ほんの一言を読む度に無意識の状態になってしまうほどだ。
しかし、岡田が49歳の若さで急死したことで、彼の門下に居た者達のほとんどが、彼の教えに見切りをつけた。
ところが、学生の時、本当に僅かの期間、岡田に師事した柳田誠二郎氏は、岡田式静坐法により、病的だった身体を頑健にし、日本航空社長や日銀副総裁などの要職を歴任しつつ、生涯に渡って静坐を続け、百歳過ぎまで健康に生きた。
どれかの本で見たが、私は、岡田虎二郎に関する、こんな話を、印象的に憶えている。
金に窮していることを訴える男に岡田がこう言ったそうだ。
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」
岡田式静坐では、腹に力を入れるが、岡田は、いついかなる時でも、腹から力を抜いてはいけないと言う。
それにより、腹に力がつくのである。
そうすれば、お金など、求めなくても入って来るようになるのだということである。
ところが、岡田も、柳田も、静坐だけが神人になる方法であるとは全く言っていない。
柳田は、講演会の中で、特に若い人々に、
「何でもいいから1つ、心を締める鍵を持ちなさい。私の場合は、それがたまたま静坐であった」
と言ったくらいである。
そして、岡田すら、法然の「ひたすら念仏を唱えよ」という教えを称賛し、
「念仏を唱えるだけで、それで一切の問題が解決し救われる」
と断言しているのである。
だが、念仏であれば、やはり、常に念仏を唱えなければならない。
仕事をしながら念仏するのではなく、念仏をしながら仕事をしなければならない。
生活しながら念仏をするのではなく、念仏をしながら生活をしなければならない。
実際は、静坐や、腹に常に力を込めるよりは、念仏を唱える方が易しい。
だが、何でも良いのである。
それなら、念仏にしろ呪文にしろ、何かを唱えることが一番簡単で、どんな人間にでも出来るということは、法然や親鸞が常々述べていた。
それなら、やはり、我々は、真言を唱えるべきである。
出来るだけ多く、心の中で、丁寧に真言を唱えれば、「一切の問題が解決し救われる」のである。
もちろん、念仏が好きなら念仏で良い。
私の場合は、単に葬式臭いという理由で、念仏に良いイメージを持たなくなっただけである。
それで、同じ阿弥陀如来の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と唱えているのである(「南無阿弥陀仏」の念仏も阿弥陀如来の真言と言える)。
観音様が好きなら「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えれば良い。
弥勒様なら、「オン、マイタレイヤ、ソワカ」、あるいは、「南無弥勒菩薩(あるいは「南無弥勒仏」)」だが、私は、個人的に「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」が気に入っている。
何でも良いし、複数好きなものがあれば、全部、唱えても良いと思う。
それで、「一切の問題が解決し救われる」と思う。
だが、岡田自身は、文字になると、自分の教えが誤解されると考えたのだと思うが、死の直前に書いたものを全部燃やしたそうだ。
けれども、弟子達が、どうしても伝えずにいられなかった岡田の語録や逸話は、どれも、ほんの一言を読む度に無意識の状態になってしまうほどだ。
しかし、岡田が49歳の若さで急死したことで、彼の門下に居た者達のほとんどが、彼の教えに見切りをつけた。
ところが、学生の時、本当に僅かの期間、岡田に師事した柳田誠二郎氏は、岡田式静坐法により、病的だった身体を頑健にし、日本航空社長や日銀副総裁などの要職を歴任しつつ、生涯に渡って静坐を続け、百歳過ぎまで健康に生きた。
どれかの本で見たが、私は、岡田虎二郎に関する、こんな話を、印象的に憶えている。
金に窮していることを訴える男に岡田がこう言ったそうだ。
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」
岡田式静坐では、腹に力を入れるが、岡田は、いついかなる時でも、腹から力を抜いてはいけないと言う。
それにより、腹に力がつくのである。
そうすれば、お金など、求めなくても入って来るようになるのだということである。
ところが、岡田も、柳田も、静坐だけが神人になる方法であるとは全く言っていない。
柳田は、講演会の中で、特に若い人々に、
「何でもいいから1つ、心を締める鍵を持ちなさい。私の場合は、それがたまたま静坐であった」
と言ったくらいである。
そして、岡田すら、法然の「ひたすら念仏を唱えよ」という教えを称賛し、
「念仏を唱えるだけで、それで一切の問題が解決し救われる」
と断言しているのである。
だが、念仏であれば、やはり、常に念仏を唱えなければならない。
仕事をしながら念仏するのではなく、念仏をしながら仕事をしなければならない。
生活しながら念仏をするのではなく、念仏をしながら生活をしなければならない。
実際は、静坐や、腹に常に力を込めるよりは、念仏を唱える方が易しい。
だが、何でも良いのである。
それなら、念仏にしろ呪文にしろ、何かを唱えることが一番簡単で、どんな人間にでも出来るということは、法然や親鸞が常々述べていた。
それなら、やはり、我々は、真言を唱えるべきである。
出来るだけ多く、心の中で、丁寧に真言を唱えれば、「一切の問題が解決し救われる」のである。
もちろん、念仏が好きなら念仏で良い。
私の場合は、単に葬式臭いという理由で、念仏に良いイメージを持たなくなっただけである。
それで、同じ阿弥陀如来の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と唱えているのである(「南無阿弥陀仏」の念仏も阿弥陀如来の真言と言える)。
観音様が好きなら「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えれば良い。
弥勒様なら、「オン、マイタレイヤ、ソワカ」、あるいは、「南無弥勒菩薩(あるいは「南無弥勒仏」)」だが、私は、個人的に「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」が気に入っている。
何でも良いし、複数好きなものがあれば、全部、唱えても良いと思う。
それで、「一切の問題が解決し救われる」と思う。